……スパイ“アルモニ”の存在はすでに確認済みです。ただ彼女が送り込んだ諜報員なら全員、早々に撤退していってしまいました。
あの感染者も、もう一人のドラコで間違いありません。彼女の動向ならすでに我々の監視下に置かれているので、命令さえ頂ければ、引き続き私の部隊が追跡して参ります。
……それと一つだけお訊ねしたいことが。失礼ですが、屏風の後ろで報告を聞いていらっしゃる方は、私のボス、それとも……公爵様でおられますか?
勘がいいわね。最後にそれを指摘できた子はもう何年前になるのかしら。
ごめんなさいね、ちょっとこの紅茶を味わいたかっただけなの。こっちへおいで、腰かけてちょうだいな。
……
いえ、私は感染者ですので、このままで結構です。
ここに来る際、街角に小さな劇場が見えるはずなんだけど、あなたはご存じで?
はい……開場はしておらず、付近にも怪しい人物は見つかっておりません。
あれはターラー人の芸術家を自称する人たちが建てた劇場でね、毎晩そこでターラー文化に基づいた演目が上演されるの。
……調べて参りましょうか?
いいえ、結構よ。そこの人たちは結構気に入ってるから。
あのドラコの追跡任務ならもう結構よ、ほかの者に任せるつもりだから。有益な情報を持ち帰ってくれたことも感謝するわ。あなたがこんな仕上げ作業の任務に才能と時間を費やす必要はない。
その代わりとして、とある場所でウェリントン公の行動を監視してもらうわ。
……承知いたしました、ご評価をくださり感謝致します。
やあトランスポーターさん、どこまで手紙を送れるかちょっと聞いてもいいか?え、どこにだって届けてくれるって?
じゃあさ、ちょいと代わりに手紙も書いちゃくれねえか?
ほんのちょっとだけでいいんだ、家のモンに俺はまだ生きてるぞって伝えたいだけだからよ……
さっきの農家さんが言ってくれたこと、みんなも聞いたね?ここは定期的にキャラバンが通るそうだ、30分後には次のキャラバンが来てくれる。
だからそのキャラバンについて行くといいよ、車両の中に隠れさせてもらえるのならそれが一番いい。オーク郡近辺の地区はウェリントン公直属の領地のはずだから、襲われる心配はないよ。
もしこのチャンスを逃せば、また危険な目に遭うかもしれない。捜査隊が近くの移動都市からここへ来る場合なら、最速でも一時間はかからないはずだから。
……けどここから逃げ出せれば、その後の暮らしについてはもう心配はいらない。あの人たちの目当てはこの私だ、一度キミたちを見失えばもう追ってくることはないよ。
ちょ、ちょっと待ってくれ……つまり、バグパイプが言っていたダブリンのリーダーってことは、本当だったってことなのかい?
うん、もしまだ私と一緒にダブリンとして戦うつもりがあるのなら、このまま私について来てもらっても構わない。
でも、ダブリンだからといってキミたちを守ってやれることはできない。この先もきっと今みたいに……色んなところから監視されて、追い掛け回されるはずだから。
(負傷した流民が近寄ってくる)
よっ、戻ったぜ。
あのトランスポーターに伝えておいたぜ、俺は村から逃げ出した連中と一緒にここで定住した人間だって。ついでにハイストーン平原じゃない地名をでっち上げてやったよ。
……にしてもあの女、結構いい人に見えるけどなぁ。もし彼女が俺たちを追跡してるヤツじゃなくてマジのトランスポーターだったら、無駄に走らせるようにしちまってなんか申し訳ねえよ。
……私はほとんど、こうして隠れながら過ごしてきたから分かるよ。彼女みたいにトランスポーターを装った追跡者なら、たくさん見てきたから。
はぁ、そっか、なら仕方ねえ。これからもこうやって過ごすしかねえか。
ため息してる暇はねえぞ、はやいとここの物資を分けちまおうぜ。
それにあんた、そんな傷をもらっちまったんだから、もう無理してリードについていくことたぁねえよ。ターラー人のための戦争なら、俺たちに任せろ。
はは、じゃあ俺は、前もってターラー人のために戦ったってことになるのかな……
……リード、ちょっと来てくれ。
話したいことがあるんだ。
(リードがヴィーンに近寄る)
遺書に書いたことなんだけどね。はぁ、でもほら、生き残っちゃったものだから。
うん、どうかしたの?
……
……こうして逃げ回るハメになったのは、全部私のせいなんだ。私があの時、鍬で兵士を殺したせいで。
あの日の夜、兵士の一人が一般人を襲ってるところを見かけたんだ、トゥリーン家の娘さんを。だから私は、よその家に置いてあった鍬を借りて、それで……
私、今ガタガタと震えちゃってるんじゃないかな?ご、ごめんよ……もう随分と前のことだってのに、今もよくあの場面が夢に出てきてしまうんだ。
娘さんはまだ十四歳でね、こっちも怯えてしまうぐらいすごい泣き叫んでたよ。
あの時は夜だったし、周りもまったく明かりがついていなかったから、頭から血が流れてたとしても、どれだけ悲惨な様子だったとしても、私は多分見えていなかったんだと思う。
でも本当に……こんなにみんなを巻き込むことになるなんて思ってもいなかったんだ。
だからその償いとして、彼らについていって、みんなを落ち着かせてから離れるつもりだったんだけど……
結局、道半ばでまた死人を出すことになってしまった。
……キミのその証拠不十分な罪状は、すべて自分にでっち上げたものだったの?
本当に、ごめんよ。
本当なら私は別に指名手配されてたわけじゃなかったんだ。でも彼らに疑われては困るからね、だからフェガールたちと一緒に薬屋を強盗しにいって……その結果、君までをも巻き込んでしまった。
そんなことはないよ、ヴィーン。私はいつか、私のこの身分に追いつかれる運命にあったのだから。
……ターラー人たちもみんな、ターラー人の悲しみに追いつかれる運命にあるのだから。
……そうか、わかった。
ねえモニ、君はどう……
どうしたの、ヴィーン?
……いや、なんでもない。縄を渡してくれ、私が荷物を縛るよ。そのまま手で持ってても疲れるだけだろ。
ふふ、そういえばあなたはこの道のエキスパートだったものね。
ところで、君もリードについて行くのか?
ええ。私は力持ちだって、セルモンが言ってくれたからね。だから色々と力になれるんじゃないかって。
……でも暗い場所だと目が見えないんだろ、不便じゃないか。
それに君が向かっているのは戦争だぞ。相手はきっと私たちがあの夜に見た人たちよりも数は多いはずだし、何より厄介だ。
大砲の弾だってそこら中に飛び交ってる、斬って血を流せば済む話じゃないし、演劇でやられたヒーローがまた立ち上がるようなものでもない。簡単に人が死ぬ場所なんだぞ、惨たらしく……
……でも、私はこの道を選んだから。
ここまで生きてきた中で、せっかくのチャンスだったから。
みんな、キャラバンが見えてきたよ。
分かった、ケガ人も連れてってもらえないか、ちょっと交渉してくるよ。
……
……
ねえリード……私はもういいのかな?
今の私はもう、ここでお別れしてもいいのかな?
これで、すべての準備は整ったはずだ。
残すは……私の妹だけ。今も外を彷徨っているようだが、きっとあの子なりの正しい選択をしてくれるはずだ。
“ガストレル”号、高速戦艦の甲板上
かつて大いなる移動都市から引き抜いた一本の骸骨は、ヴィクトリアの軍事技術の結晶を乗せ、多くの者たちはこの高速戦艦を誇りそのものと見なしていた。
テラ全土を見渡しても、この戦艦に匹敵する兵器は存在しないだろうな。
ふふふ、さもなくばドラコの配下としておられた伝説の将軍の名を冠することもありますまい。
多くの者たちはずっとこの戦艦の動向に逐一目を光らせ、公爵閣下のお立場を推し量ろうとしてきたが……
七年にも渡る巡航も今日をもって終わる、ようやく岸につくべき日がやってきたな。
我々が進路を変更した後に動き出したトランスポーターはどのくらいだ?
カスター公を除いて、公爵各位は引き続きこちらに目を光らせてはおります。ただその公爵らの軍がこちらへ干渉しにくる時間的な余裕は、もうないかと。
オーク郡のほうも現在、接舷体勢に移行しています。七年を経て、本艦は初めて移動都市へ接舷することになっていますが、停泊中における物資の補給とメンテナンスもあまり必要はないかと。
それと伯爵のほうから、接舷が完了した際は自ら公爵閣下をお迎えに上がると仰っていました。
優柔不断なアスランの下僕どもめ、この船が真っすぐオーク郡へと向かわなければ、あの都市が誰に属するものであるのかすら分からないみたいだな。
そしてここで再びどのような炎が舞い上がるのか、それもヤツらは分からないままでいるようだな。
ダブリンの軍、そして不公平からの脱却を願うターラーの民たちはすでに、ヴィクトリアの各地から集ってくれた。
私の謀臣は……中々よくやってくれたよ。
して、私の都市は予定通りのポイントで停止しているか?
はい。地形と安全面を考慮して、現在閣下の都市は廃城の遺跡の付近で停止しております。
如何致しますかな、アイブラーナ様?ここへ来られるまでの間に訪れられた、あの遺跡のことですぞ。
そのままにしておけ。ターラー文化の復興を願い者たちがいくらゲール王の城に願いを託そうが、そこは所詮朽ち果てたただの廃墟に過ぎん。
野原の朝霧を通して、かつて丘に聳え立った城が天災によって滅ぼされたという事実を、あのロマンチストの夢想家たちに向けさせてやればそれでいい。
ターラー朝が没し、ドラコの一族が逃げ出してから天災によって打ち壊されるまで、そしてターラーの人々に忘れ去られるまで、アスランたちはかの城を放置し続けてきたようですな。
あの古の王朝に築かれた残滓は……元からつまらんものに過ぎないさ。
ヴィクトリア王からゲール王へ封ぜられた尊号は、所詮臣下を意味する美称に過ぎん。その王冠と玉座が残っていたのであれば、一挙に燃やし尽くしてやろうと思っていた。
だがあそこは、それすらも残ってはいなかった。
そのためあのウォーラックは、ゲール王の伝説からターラーの歴史を取り戻そうとしていたのですな。悪いことではありますまい。
それはあの“懐古主義者”のワーウィック、“北方前線”のワーウィックのことを言っているのか?なんだ……彼のことは公爵閣下も知っておられたのか?
以前彼の宴会に使者を送ったことがありましてな。この戦艦の巡航も、ちょうどその頃に始まったものです。
なるほど、閣下は誠に先行きに明るいお方だ。
私からすれば、待ちくたびれるほど先のことでもありますまい。
して、オーク郡……そこへ行かれるおつもりですかな?
当然だ。あの大火事の後にあそこがどう変わったのか、とても気になるものでな。
なんせあそこは、私の故郷だった場所だ。
私は姉さんの長槍を手にしながら、しばらく廊下の外で待っていた。
屋敷の中にいる人たちはみんな黙りながら顔を下げ、わざとらしく多忙なフリをしつつ、私を見かけるなりに目線を逸らしていく。
吹雪いていたにも関わらずパーティ会場を抜け出したその日の夜から、先生は体調を崩されたままだ、今だって自分の部屋に引き籠もって出てこないでいる。医者のダリーさんが先生に甘いお酒を用意してくれたが、いつまで経っても空になったであろうグラスを取りに戻ってきてはくれない。
ドアの隙間から僅かではあるが、薪が破裂する音が聞こえてくる。雪の降る夜の暖炉はとても暖かいものではあるが、そんな静かに燃える炎の音は、この時ばかり歯をガタガタと震わせてしまうほど、私を酷く怯えさせるものであった。
そして私は我慢できず、部屋のドアを開けてしまったのだ。
……君はすでに、私を裏切らせるよう全員を説き伏せたのだろう……ならこの一杯の酒ぐらい、飲まないわけにはいかないじゃないか?
先生は自分のどこに落ち度があったのかが知りたかったからこそ、使用人たちが私を頼ってきたのかと思っていましたよ。
ゴホッゴホッ……そこはいいんだ、アイブラーナ……
重要なのはだね、君はそんな彼らの信頼をいつまで維持し続けることだ。君にそれができるかね?
当然です。
なぜ私が彼らの要求に応えたのかは聞かないのですね。
ゴホッ……私が死んだ後、この都市がどうなるのかは知っているね?
貴族同士のパワーバランスは崩れ、議会におけるフィリップ伯の発言に反対する者は現れなくなる。そしてスタンフォード公に気に入られるよう、あの二人の若い男爵も暗躍し始める。
それと同時に、名を取り戻したばかりのターラー人たちは、自分たちの指導者と庇護者を失うことになる。
そして厳格な法令と貴族らによって……耐えがたいほどに翻弄され、蹂躙されることになる。
しかしそういった流血沙汰や暴力沙汰、そして動乱といった事態は、先生が生きていたとしても遅かれ早かれ引き起こされてしまうもの。
こんなところでしょうか、先生?
ふふ、やはり君は優秀だな……ではその時が訪れた場合、君はどう動くのかね?
私は……そんな者たちを灰燼から救い出してやりたいんです。
……
血色を失った先生の顔には、なぜだか安心しきったかのような笑みが浮かび上がっていた。
貪欲なドラコ、燃え尽きぬ野心を抱くドラコ……ふふ、私が半生もの間探し求めていたものは、やはり間違ってはいなかったか……はぁ……
それを言い終えた先生はメガネを取り外し、必死ながらもゆっくりと、大雪が吹きすさぶ窓の外に顔を向けた。
十年前の冬の夜、伝承ものの小説を読み終え、本の背になぞられた金色のターラー文字を指で優しく撫でた時も、あのような恋しくも期待に満ちた眼差しをしていた。
見えるぞ……ターラーの新時代は……すぐ目の前だ。
しかしだ……
ラフシニーよ、ラフシニー……
一歩も動けなかった私は、ドアのところで立つことしかできなかった。ガラス窓には、冷たい炎に照らされた私の顔が映り込んでいる。
あの憐れむ顔と瓜二つの、酷く怯えた私の顔が。
……ラフシニーよ。君は一体、誰に学んでいくのだろうね?