
……

あのウェリントンが予備役も含めて、ほぼすべての戦艦を投入してきただと?

はっ。

ウェリントン公はかの飛空船を……何としてでも手に入れようとしているのでしょう。

となれば、彼らの先鋒部隊はすでにサルカズと交戦し始めているはずです。

チッ、それにカスターも現れたのだろう?

一度も自分の防衛管轄区域から出てこなかったあの女まで、居ても立っても居られなくなったとは……

あの空飛ぶ小船には、人をここまで派手に動かせるほどの魅力があるというのだろうか?

……恐れながら、閣下。閣下の参謀らも可能な限り、あの飛空船の技術は入手すべきだと仰っております。

サルカズと対抗することに留まらず、この先……対峙するであろうほかの相手に対しても、あの前代未聞の兵器はより我々を優勢に立たせてくれます。

なら参謀らを黙らせろ。何が対峙するであろう相手だ、私に国家を分裂させろと言うのか?

私がここに来た理由はただ一つ。ダフネを迎えるためだ。

しかしノーポート区の現状は芳しくないと、参謀らが……

ダフネなら平気だ、私の娘だぞ?
(ヴィクトリアの兵士が駆け寄ってくる)

か、閣下……

おい、私の言葉を忘れたのか?みだりに艦内を走り回るんじゃない。

違うんです!あれを、移動都市の影を見てください……!

なんだか様子が変で……
副官から渡された望遠鏡を受け取るウィンダミア公爵。
朝日によって長く引き伸ばされた都市区画の影を見れば、それはノーポート区の相貌を投影したものではなかった。
建築物が遮ってああなっているのだろうか?確かに様子がおかしい、まるで塔のようにも見えると、ウィンダミア公は不思議に思った。
待て、塔?
いや、それともビルといったところか?

……あれは……ザ・シャードの影?

バカな?これも一種の自然現象だというのか?それとも……

おい、カスターとウェリントンの部隊があとどのくらいでこの付近に到着すると言った?

遅くとも二時間以内には到着するかと。

まさか三名の公爵様の軍が一堂にこの区画で会することがあるとは。めったにお目にかかれない情景です。

参謀らの報告によれば、ほかの大公爵たちも次第に動き出しているとのことです。ほかの公爵の戦艦がここに現れても、なんらおかしくはないでしょう。

これまで長年軍人として務めてきた私も、そんなことは初めて目にしますが。

――!

停止!今すぐ全部隊を停止させろ!

はやくあの区画の付近から撤退させるんだ!

赤の信号弾を発射!友軍にもそう伝えろ!

急げ!さっさとするんだ!

電報も送れ!周囲にいるヴィクトリアの全部隊に知らせろ!

ここはザ・シャードの攻撃地点になっているかもしれん!

りょ、了解しました!

本艦そのまま!急いでノーポートに向かえ!

嵐が形成される前に、ダフネを見つける!
赤色の信号弾は雲の下で次々と炸裂し、捻じ曲がった都市区画の影も原形に戻ろうとしている。

お前は本当に優秀だな、イネス。

だが、所詮はただの試験射撃だ。目標となる地点なら、まだほかに幾らでもある。

とはいえ、少しだけ残念に思えてしまうことがあるのも事実だがな。

しかし軍事委員会の計画目標は、一度だって一つに留まったことはないぞ。

ナハツェーラーの王にお伝えしろ、進軍のご用意だ。

嵐が王のために道を切り拓いてくれるだろう。
死も道具になり得る。イネスは常々そう口にしてきた。
ヘドリーに向かって、自分はきっと死んだ者としての身分に慣れ切ってしまったのだろうと自嘲することもある。
だが、いざ本当に死が直面してきた時、想像よりもはるかに穏やかなものではないかと、イネスはそれに気付くのであった。
やがて彼女は目を閉じる。
猛然と、炎の明かりと熱が襲いかかってくる。強烈な衝撃波と共に。
これはとある炸薬の匂いだ、イネスはよく覚えている。
そんな彼女は、思わずニヤリと口角を上げた。
爆発から生じた塵煙が押し寄せ、余燼にはまだ炎の温もりが残っている。
そうした余燼は一つに集まり、ヒラヒラと舞いながらあるものを織り成す。
サルカズの歴史もこうした余燼によって織り成したものだ。だが時折、他のものが生まれることもある。
たとえば……
ふかふかな塵煙。イネスはその中に沈み込んでいった。
余燼が形成した巨大な網が彼女を受け止めてくれたのだ。

あの二人ならいいアイデアを思いついてくれる……なんて期待するんじゃなかったわね。

ハロ~、イネス。もしかして死んじゃった?

こういった爆発は色々とやり方が難しいから、死んじゃってもなんらおかしくはないわ。

まあいっか。ささ、とっとと埋めてあげちゃいましょう、ヘドリー。

……残念だけど、まだ生きてるわよ。

ちぇっ、つまんないの。

でも、あたしが用意した花火は気に入ってくれた?

あんたの服の中にモノを縫い込んで仕込んでおいたんだけど、気付いてた?

じゃじゃ~ん!なんと発信機でした~!

……この私が気付いてないと思ってるわけ?

そこだけ縫い目が雑。ホント、あなたの裁縫の腕は最悪よ。

あら、本当はマジモンの“サプライズ”を用意してあげたと思ってたんだけど。まあ、そういうことなら仕方がないわね。

それとこれ――

戦場で服をキレイに保つのがどれだけ大変か、あなたたち分かってるの?

よくもまあ私をあんな灰の中に放り込んでくれたものね。

……前なら、まだ俺のアーツを余燼と形容してくれていただろ。

今そんな気分じゃないの。

ひどい怪我をしているな。

死ぬよりはマシでしょ?

なにヘドリー?あんたアーツが使えたの!?てっきり刀で人をぶった斬ることしかできないと思ってたー!

ていうか余燼ですって?なるほどね、どうりで毎回爆弾をあんたの顔めがけて投げ込んでも傷一つ付かなかったわけ。

それじゃあ大砲の類も効かないってこと?

さすがにそういうのは効く。

じゃあさ、人の顔に灰をぶっかけてやることは?

それもできない。

でもあんた、いっつも灰を被ったようなしょげた顔をしてるじゃない。それってもしかしてアーツによる副作用とか~?

黙ってろ。

……フッ。

イネス、あんたがここまでボロボロになった姿を見たのは久しぶりだわ。いつぶりかしら?

安心してちょうだい、もう金輪際見ることはないから。

あんまり自分の運に自信を持っちゃダメよ~?もしかしたら帰りの道にブラッドブルードの大君がお散歩してたりして~?

……

W、その例えは変えたほうがいい。

何よ、マンフレッドの傍で長く居座ったせいで、王庭にいるバケモノどもに感情でも芽生えちゃった?

あたしに感謝するべきね!もし帰り道であっちこっち走り回ってるあんたを見かけなかったら、またどっかの古い知り合いに取っ捕まえられていたかもしれないんだから~!

……本当にうるさいヤツだ。これなら牢屋に戻ったほうがまだ静かに暮らせてたよ。

それならお好きにどーぞ。こっちもテレシスにチクってやってもいいのよ?

それで、私たちは今どこに向かっているの?

Wのセーフハウスだ。

そう、辛うじて“ただいま”ってところかしらね。

それと――

……ありがとう。

……俺は戻るぜ。

ったく、あいつ今日なんでこんなおせーんだよ?足でも怪我しちまったのか?

さっさとあいつを助けてやんねーと。そんで助けたやった恩があるだろって煽ってやれば、何本かいい酒を奢ってくれるかもしれねえぜ?

ほらお前ら、なにぼさっとしてるんだよ!はやく行くぞ!

いい加減にしなさいよ、ハンナ!ノーポート区は今もう火の海なのよ!

ベアードだってバカじゃねえ、あいつならきっとどっかで火事を避けてるはずだ。

……あいつはもう死んだのよ。

……

テメェ、言っていい冗談と悪い冗談ってもんが――

冗談で言うつもりがあるか!ベアードは死んだのよ!

あの折り畳みナイフが見えなかったの!?あの血の付いたナイフが!

ベアードは片時もあれを手放すことはなかった。だから間違いないよ……

今そのナイフは他人が持ってる。ってことはつまり、もう……

……

ただの見間違いだろ。もしかしたらうっかりナイフを落としちまったとか。

あいつだって粗相しちまう時があるだろ?一度も物を落とさなかったことなんてねーんだし。

俺たちが買ってきた卵をどっかに落としちまったことだって昔あっただろ、憶えてねーのか?本当なら朝食に卵焼きが出るはずだったのに。

あいつだってたまには油断しちまうさ、だからどうってことは……

ハンナ……マクラーレンが彼女のナイフを持っていたんだ。

ベアードが最後に探しに行ったのが彼だった。

彼は両耳が聞こえなくなってしまっている。だからもしかしたら……

……

……

ハッ、ベアードとマクラーレンだぞ?何年の付き合いだと思ってるんだ?また俺を脅かしてるつもりか、お前ら?

大方ベアードがあいつにナイフを貸してやっただけだろ。別に大したことねーって。

だから俺は……

……

あいつに……ちょっと話を聞きに行ってもいいだろ。もしかしたら単なる誤解だって、あいつから言ってくれるかもしれねえんだし……

ハンナ。

あいつは今どこにいるんだ?俺たちと一緒にノーポートから脱出したんだろ?だったらきっとあの人混みの中に混じってるはずだよな?

ちょっと話を聞くだけだ。それで誤解も解かれるはずだって……

マクラーレン!どこにいるんだー?

マクラ……

……もうよせハンナ、あいつは耳が聞こえないんだ。

……

あん――

あんニャローぶっ殺してやるッ!!!あのクソッタレがァァ!!!あいつを見つけ出して、骨を一本ずつぶっこ抜いてやらァァ!!!

よせハンナ!落ち着くんだ……!

シージ、テメェ!最初から分かっていたんだろ!?ならなんであいつを――

あいつの脳天を砕いてベアードの仇を取るつもりがないとでも思っているのか!?私にそんなつもりは微塵もないとでも!?

微塵も!

私がそうしないのは、殺してもなんの意味もないからだ!耳の聞こえない、頭が狂ってしまったヤツを殺ったところでなんの意味もない!

私だってうんざりだ、何もかも!私は救いようのない愚か者だ、とんだ大ばか者だ!

アラデルも、ベアードも……

もし私がこんなことをしていなければ、あの二人も死なずに済んだのではないかとすら……

……私は一体なんのために戻ってきたんだ!?

なんのために!?
これは最初から……偽りの責任感から生じてしまったミスだったのではないだろうか?
私は彼女たちを、ともに死線を潜り抜け、苦難を共有してきた友人たちをどう思っているのだろうか?
もしかしたら……この私が何よりも大切にしている“友情”とやらは、単に私自身を騙るための道具に過ぎなかったのではないか?
もしかしたら私自身でさえ、次第に自分のことを王として見始めてしまっているのではないだろうか?
慈悲を賜り、仁義を振り撒き、そして……人々から希望と敬仰を刈り取る。
私は一体……何になろうとしているのだろうか?
私は一体、どんな私に期待しているのだろうか?

……吾輩らがここに戻ってきたのは、もうこれ以上見て見ぬフリをすることに耐えられなかったからだよ、ヴィーナ。

ここは吾輩らの街、吾輩らの区画、吾輩らの国なんだから。

あんたはいつだって誰よりも前を歩いてきたけど、これはあんたの責任じゃないよ。

吾輩らがあんたの後ろについて来てるのも、吾輩らが期待してるあんたになって欲しいからってわけじゃない。

あんたは吾輩らのヴィーナだ、いつだってそうなんでしょ?

……

……無論だ。

私はただのヴィーナだ、誓ってそう言おう。

これからノーポート区の人たちをどこに連れて行きましょうか?ずっと荒野で放っておくわけにもいきませんし。

何より、ここは戦場のど真ん中ですから。

……もしみんながいいって言うのなら、私の母親の領地に住まわせてやってもいいよ。

母親がロンディニウムの近くに移動都市を移してきたんだ。小型の要塞都市だけど、この人数を収容するには問題ないと思う。

カドール、それでもいい?

ケッ……

ダフネ、お前気付いてねえのか?自分の正体を隠さなくなった時から、お前の口ぶりはすっかり変わっちまったよ。

ベアードのことで悲しんでいるのは……私もよく分かるよ。

みんなだってそうだ。でもそんな時に、周りの雰囲気をさらに悪化させないでもらえると助かる。

私はただ……

やれやれ、ようやく見つけたよ。
(変形者たちが近寄ってくる)

すまないね、水を少しもらってもいいかな?

あのドラコにちょっと焼かれちゃって……あいつの火は好きじゃないんだ、いざ身体に燃え移ってもちっとも消えない。

……変形者。

やあアスカロン、久しぶりなんじゃないかな?

何しにここへ来た?

水を飲みに来たのさ。

ついでに、そちらの小さな魔王にご挨拶しようと思ってね。

あのバンシー、結構君のことを褒めてたよ?

アーミヤ、下がっていなさい。

平気です、ドクター。こちらの方の今の姿にはまったく見覚えがありませんが……それでもよく分かります。彼らは何度も、歴史に現れた存在なんですから。

けど彼らはいつも王庭の外を彷徨い続けているんです。それに自分自身以外のことには……さほど興味を持たない。

変形者の分身よ、なぜ私たちの前に現れたのですか?

どうやら魔王なのは本当みたいだね、子ウサギちゃん。

そのせいで色々と苦しめられてきたんじゃないのかな?サルカズでもないのに、その小さな頭の中にあれだけ多くのモノを詰め込むなんてすごいね。

ボクたちが一番大事にしているのは記憶なんだけどね、時折それはボクたちにとって劇薬にもなってしまうんだ。

どうかな?お互い共通の話題があるから仲良くなれると思うんだけど。

あなたも……私は魔王の“冠”を戴くには相応しくないと思っているのですか?

どうやらあの口うるさい魂たちにこっぴどく言われちゃったみたいだね。

気にすることはないさ、あいつらはいつだって嫌われ者だから。

あなたはサルカズの中でもひと際古い存在。なら教えていただけませんか……魔王は何をするべきなのでしょうか?

ふんふん、いい質問だ。ボクたちはなったことがないし、気にしたこともなかったけど……

でも、少なくとも強くあるべきなんじゃないかな?

迷いも戸惑いもすべてなくなってしまっていいほどに。

ただ一つだけ確かなのは、ボクたちにそんなことを聞くべきじゃないよ、魔王ちゃん。

……

君はまだまだ長い道のりを歩かなきゃならないんだ。そのロドスって組織を率いてドンパチやったり、サルカズの魂たちを導いたりしてね。

あっ、ごめんね、忘れてた。サルカズの魂たちが君を受け入れてくれることはないかな、ボクたちを受け入れなかったのと同じだよ。

ボクたちは異質な存在なんだからさ。

でもね――

君もいつか分かるよ、時間って存在だけに勝つことはできないって。ボクたちの記憶じゃ、どの時代の魔王も最後は同じ道を歩んでしまったから。

……私はそうなるつもりはありませんよ。

私は――その道を拒み続けます。

まあまあ、そう急いで否定しないでやってよ。ボクたちも幼い魔王ならサプライズしてくれると思ってたけど、君たちの運命も変えられそうにないね。

それでも期待はしているよ、サルカズではない魔王って存在に……

成長し続け、自らの血脈を疑い続けてる幼き魔王に……

これまでに存在し得なかった魔王に……

……なんのつもりだ?

誤解しないでくれよ……敵意はない。

ボクたちは君よりも聡明だ、なんて自惚れたことは言わないよ、魔王。ボクたちじゃ君には何一つ教えられることはないからね。

ただ、お願いがあるんだ。この“たった一つ”という概念を……これを機に深く理解しておきたい。

アスカロン、君もボクたちみたいに長生きすることになったら、分かってくるはずだよ。

目の前に見たこともないものが現れたら、触れずにはいられないだろ?

だから魔王様、どうかボクたちの干乾びてしまった命に、サプライズという潤いを与えてやってくれ。