とても形容し難い感覚だ。
額から伝わってくるのはこれまでにないむず痒さ。そして頭上にあるヘイローも不安定に点滅している。
眼前に見えるすべても、次第に薄暗くなっていく。
そんなフォルトゥーナの目には年老いた主教の信じ難いと向けられた双眼が映っており、耳には周囲の喧騒な野次の声が伝わってきている。
だが彼女がいつものように、目の前にいる老人の想いを汲み取ろうとするも、相手の心情はもはや彼女の心に流れ込んでくることはなく、僅かであっても――
ほかのサンクタを感じ取ることができなくなってしまった。
彼女はもう、彼らの一員ではなくなったのだ。
堕天……?
それは一体どういう意味で……フォルトゥーナはどうなるんだ?か、彼女は病気にでもなってしまったのか?
それについては後でまた説明する、それよりも今は――
ステファノお爺さん……!
フィーヌを助けてッ!お願い!は、はやく彼女を……ッ!
慌てるでない、フォルトゥーナ。落ち着いて……一体何があったのだ?
ふぃ、フィーヌ、たくさん血を流してて、私じゃどうにもできなくて……周りには誰もいなかったから……
私たちただちょっと、ほんのちょっとケンカしただけなの!フィーヌは私の銃を欲しがってた、あの時渡すべきだったんだわ!どうして私は渡さなかったの……!?
全部私のせいだわ……!
落ち着いて、落ち着くんだ。大丈夫。
今の状況から判断するに、これは傷害を与えるという主観的な意図が含まれない偶発的な事故だと思います。
口を慎め、執行人ッ!
そなたはこの子が……自身の同胞をあえて傷つけたと言いたいのか!?
よくもそんな心ないことを……!
……最も合理的な推測をしたまでです。
戒律がもたらす排斥は克服できないものではありません。意図しない同士討ちの事故も、よく起こりえるものですので。
……何をばかばかしいことを!
違うの……彼の言う通り……わ、私がトリガーを引いてしまった!
フォルトゥーナ!しかしそなたは……
……ステファノお爺さん、これはすべて私のやってしまったこと。だから私を罰して……どんな罰だって受け入れるから!
その前にフィーヌを……怪我をしているの!はやくフィーヌを助けてあげて!
分かった、今すぐそこへ――
私が向かうよ。
応急処置は得意分野だから。場所、はやく教えて。
ば、場所は私の部屋……
部屋は私が案内しよう!
……
頼んだぞ、クレマン。
無駄話はいいから、はやく。
こっちだ、ついて来てくれ!
着いた、ここだ!
ドアは……閉まっていないようだね。
ち、血だらけだ……
はッ!?デルフィーヌッ!
静かにしなさい!ここで起こったことを全員に広めるつもり!?
どいて、私が診るから!
……ダメだ。傷が深すぎるし、血も止まらない。
それにこの子の傷……
……
ど、どうすればいいんだ?
そうだ、花……!確か聖堂に咲いてる花は薬にもなるって、主教様が言ってた!そうだ、花を持ってこれば……!
今すぐ採ってくるよ!
ううん、行かなくていい。
止めないでくれ!いますぐ、いますぐ採って戻ってこれば、まだ間にあ――
行ってもムダだよ!血を止めたってもう遅いんだ!
どういう意味だ?行ってもムダってそんなことあるわけ……
ムダだよ。
至近距離で銃弾を受けて、大量出血してる。それに呼吸ももうない。
私も全力で救助を試みたけど、効果はなかった……心臓は、動かなかったよ。
呼吸も……心臓も……
おそらく即死だったんだろうね。
残念だけど……この子はもう死んでしまった。
扉を閉めさせてもらったよ。近くにほかの人たちはいなかったから、たぶん目撃者はそうそういないはずだ。
で、このことについてはどうするんだ?
スプリアのほうの結果を待ちます。
堕天使のヘイローが変色し始めているため、とてもはやいスピードで堕天が進行しているのでしょう。
ここは修道院内部で騒動を引き起こさないため、直ちにミサを中止し、対内的にこの事故の情報を隠匿したほうがよろしいかと。
……
そのほかに一つ提案があります。
不必要な衝突を避けるために、これからしばらくの間は、私と私の同僚らがここの巡回任務を引き受けます。
その際は住民たちも可能な限りそれぞれの部屋へ戻って、明日の決定を待っていただくように。
そうすれば、二次的ないし三次的な事故の発生を最大限留めることが可能です。
……執行人殿よ、ここはまだラテラーノの領土にはなっておらんぞ。この修道院の帰属はまだ決定していないはずだ!
それはこちらも承知しております。
……修道院内部の問題は我々が解決する。ラテラーノからいらした客人らの手は煩わせんよ。
執行人殿も、これは事故と仰ったではないか。デルフィーヌの状態がまだ定かではない中、単なる杞憂に終わる可能性も……
事故であったとしても、彼女はすでに堕天しております。
堕天使関連の問題は、必ず教皇聖下とその枢機卿団が自ら判断し処置すべきものです。
……あの子を連れて行かねばならんということか?しかしラテラーノで角の生えた者が街中を歩いているところなど、これまで一度も見たことはない、一度も!
それで儂はどうやって、執行人殿が仰るその処置とやらを信用してやればいいのだ?
ちょっといいですか……おいフェデリコ、聖下からもあまり揉め事を起こすなって注意されただろ?忘れたのか?
揉め事にしているつもりはまったくありませんが?
いや、そのつまりだな……もう少しその、もっと穏便に対応してもらいたいっていうか……
……あなたの言っている意図が分かりません。
が、提案には感謝いたします。
提案って……はぁ、もういいや。
とりあえず……ここで言い争っても埒が明きません。俺たちもしばらくここにいますので、まずは場所を探して……フォルトゥーナさんを休ませてやってはどうです?
具体的な解決方法は、状況を把握して、みんな少し落ち着きを取り戻した頃にまた話し合いましょう。
主教様もそこまでラテラーノを疑う必要はありませんよ。確かにこれと似た事件はこれまでもありましたが、意図的に戒律を違反してなければ、きつい罰を受けることはないので。
そうだよな、フェデリコ?
はい。しかし、それは今のあなたの権限から吐露していい情報ではありません、リケーレ。
特殊な場合ってやつだよ、特殊な場合。
……
お二人とも考えていただけませんか?
異論はありません。
しかし……
……お爺さん、もういいの……
すべては私の責任だわ……どんな罰でも、私受けるから……
しかしフォルトゥーナ……
あなたたちについて行くから、ラテラーノに……
じゃあそうしよう。
それじゃあ俺はフォルトゥーナさんを休ませておくから、お二人ともしばらく頭を冷やしておいてくださいね。
ここの部屋なら良さそうだな。そのー……広々としている。
あんま心配するな、今回の事故は比較的特殊なものだし、聖下が直々に対処してくださる。意図的に傷害を起こしたわけじゃないのなら、そこまで問題はない。
……
……フィーヌは……
フィーヌ、というのは……負傷者のほうのサンクタのことか?
今のところ状態は分からないが、うちの同僚が対処してくれている。そう悪い方向に考えなくていい、きっと大したことはないはずだって。
……
この角……
ん?
どうして私に……
サルカズと同じ角が生えたの?
それは、実を言うと俺もよく分からないんだ……とにかく、ラテラーノに行ったら教えてくれるさ。
だから今は、しばらくここで休んでおきな。
……うん。
じゃあ俺は外で待機してるから、何かあったら呼んでくれ。
はぁ……フェデリコのほうはどう対応してくれることやら。
……
知ってるか、こう見えて俺は結構勘がいいほうなんだ。誰かがコソコソ俺の背後に隠れられると、たまらず冷や汗をかいちまう。
隠れてないでさっさと出てきな、オレン。
……
一つ聞いていいか?なんで俺の存在に気付けた?
カマかけてやっただけだ。まさか本当に出てくるとはな。
……そんなことを俺が信じるとでも?
なんで信じやしないんだ?まあ、どっちでもいいが。
そこまでにしておけよ、リケーレ。このウソ吐き野郎が。
そう言うなよ、少なくとも俺はスプリアよりは誠実だぜ?
スプリアはそっち側の人間なんだろ?彼女、ウソを言ってるからな。
いや……ウソとまではいかないか。単に全部話してくれていないだけだな。
おいおい、どっからその話が出てきたんだ?
以前あんたについて話した時があったんだが、その時彼女は「あんたに構ってる暇はない」以外なにも言わなかった。
つまりフェデリコからの質問を避けていたってことさ。
……それだけの判断材料であいつがウソをついてるって?普通の人じゃそんな考えには至らないはずだが?
それはきっと、俺もそっち方面が得意だからだろ。それにここの状況を見ろ。あんたがどう動くのかなんて簡単に推測できるし、フェデリコも察してるはずだ。
ケッ、面倒くせえヤツだぜ。
やっぱどうにかして時間を作って、あいつを飲みに誘っておかなきゃならねえな。
そんなことしても、教皇庁に連れ戻されるだけだろ?
この修道院にいる客人はお前が想像するよりも大物なんだ。そん時になりゃ、フェデリコだって俺を取っ捕まえる考えがあるとは限らねえぜ?
……やっぱりここでの面倒事はそれなりに多いようだな、それを聞く限りだと。
まあいい、話を戻そう。それでだ、オレン、あんたとスプリアは一体なにを企んでいるんだ?
教えたらお前は手を貸してくれるのか?
そいつは……どうだろうな。そうとは限らない。
まずはあんたたちの計画を聞いてから判断する。
(無線音)
フェデリコ、一つ悪い知らせができた。
あっ、ちょっと待って……今そっち周りにほかの人はいない?
リケーレならここにはいません。
そいつのことじゃないってば!
私が聞きたいのは……そのフォルトゥーナって子はまだ近くにいるのかいないのかってこと。
彼女ならいません、リケーレが住居エリアに送ったので。
もし何か発見があったのなら、教えてください。攻撃を受けてしまったラテラーノ公民の安否を確認する必要があるので。
……そう、なら包み隠さずに言うけど――私たちが駆けつけた頃にはもう遅かった。
死亡を確認したということですか?
そう、銃撃による致命傷。奇跡ってものがなければ、生き返ることはできないくらいにね。
そうだ、私と一緒に来たクレマンって男だけど。彼、花を採ってくるって言ってたから、そのまま行かせたよ。
すごく気が動転していたけど……
花?
資料に書いてあった、この修道院の特産だよ。今はもうほとんど残っていないっぽいから、そんな大したものじゃない。
今回の銃撃は確かに単なる事故だったよ、あの子はウソをついてない。銃が暴発したんだ。今回は事故……だからきっとそんな深刻な問題には……
それについては教皇聖下がご判断なされます。
分かった……あのモスティマだって無事でいられたんだし、私たちの教皇聖下ならいつものようにご寛大な処置を下してくれるでしょうね。
あとでリケーレには自由行動させるように連絡を入れておくよ。あの子は私が見ておく、あっちこっちには行かせないよ。
で、レミュアンとオレンのほうなんだけど……
オレン・アギオラスはあなたと連絡が繋がっているのではないのですか?
……私を疑ってるの?
私が判断する以上は。
オレンの行動は制限がかけられておらず、また自主的に教皇庁と連絡を取らないようにしています。
今回の任務がサルカズと関連する以上、彼がこのままここから出ていくことは考えづらい。もし彼が行動を起こしたい場合は、必ず協力者を必要とするはずです。
そこで疑惑を私に向けてきたってわけ……でもリケーレは?あいつは疑わないの?
リケーレはあなた以上に単独行動する時間的余裕はありませんでした。ですので、彼の疑惑のレベルはあなたよりも下です。
あははは、やっぱ賢いねー、フェデリコは。
その真偽についての回答が欲しいっていうのなら、回答を拒否するよ。今言ったことは全部あなたの当てずっぽう、私はまだ何も言ってないからね?
そういうことだから。じゃ、またあとで連絡入れるよ。
あっ、そうそう。あの主教様はまだいる?
はい。
あー……じゃあさっきの報告、もう一回彼に言ったほうがいい?
必要ありません。
もうすでに隣で聞いておりますので。
(無線が切れる)
……デルフィーヌが……
儂が、儂自らが確認しに行かねば。儂が……あの子の様子を見に……
主教様に行動の制限はかけられておりません。
しかし、スプリアの判断に誤りはありません。ですので、余分な時間を確認のために消耗することはオススメできかねます。
現時点で推測するに、オレン・アギオラスは今もこの場所に滞在しており、企てを謀っています。
これから彼が失踪するまでの、修道院内にいた頃のすべての行動と、近頃この修道院内の人員の往来状況を詳細に把握する必要が出てきたので、ご協力を願います。
……
執行人殿、そなたにとって、必要とはなんだ?そなたは如何にして必要であるか否かを区別する?
そなたには同胞の慟哭が聞こえぬのか?そなたにとって、感情はこうも無価値なものなのか?
……それについては否定しません。
ならば、そなたは楽園の先駆者には相応しくない。
もしそなたがラテラーノを代表する者であるのなら……
ラテラーノは、儂が信仰するに値しない場所だ。
……
こちらの質問への回答を願います。オレンは修道院内で異様な行動をしていましたか?近頃は修道院の住民でない者がこの修道院に滞在したことは?
……もうそなたと話をするつもりはない。
調査を進めたいのであればご随意に、執行人殿。
……
ふぅ、結局全部読んじゃった……
こんなぶ厚い手記、よく最後の一ページまで使い切れたわね。
レミュアンはほっと一息をつき、古臭い素色の手記を閉じた。
彼女が指で表紙の上をなぞったところには、どれも一つ一つ綴られた物語のこすり削られてきた痕が隠されている。
もしあの頃……
……いやね、私ったら何を考えてるのかしら。
さて、これからは……うん、私もそろそろ動かなくっちゃね。
スプリアたちも来たことだし、これ以上モタモタするわけにはいかないわ。
(何かが擦れるような物音)
ん?
誰か外にいるの?もし私に用事があるのなら、そのまま入ってきても構わないわよ?
……
……おやまあ、まさかこんなお客人が来ていたなんて。
でもごめんなさいね、そちらのお方。折が悪くって――まだお茶すらご用意できていないの。