
(一地域全員の命と引き換えだと?なんて女だ、狂ってる!)

(そんなことを引き起こすものなら、自分も当局から逃れられないのが分からないのか!)

(もしあのまま彼女に従っていたら、真っ先に犯人として突き出されるのはこの私だ!)

(今はもう彼女の計画から抜けたことで当初の予定は全部なくなってしまったが、この先決してチャンスがないわけではない……必ず掴んでやる!)

(……着いたな、ヴィシェハイム出入境登録所……)
まさに登録所のドアを開けようとしたエーベンホルツだが、激烈な頭痛で危うく倒れてしまうところであった。

よりによって肝要な時に逃げ出すとは、この懦夫め……

黙れ!貴様の指図などは受けんぞ!

ウルティカの地で死んだとしても、貴様のような殺人鬼に成り果ててやるものか!

ほう貴様……恐れているな……恐怖しているな!

たかが恐怖なんぞに恐れていては……再び自由をこの手に掴むことなど断じる叶うはずもないさ!

黙れ!

浅はか、なんたる浅はかなものか、この愚か者めが……

知ったことか、どうとでも呼ぶがいいさ……

だがな、あの女が貴様をみすみす逃がすとでも思うたか?

!?

(よし、人はいないな……今のうちに……)

(慎重に進もう、人に見られたら面倒なことになる……)

……

(この先だ、ここを抜ければ移動都市の縁にある無人地帯に……)

(深呼吸)

移動都市の城郭から飛び降りるおつもりですか?

!?
(ゲルトルートが近寄ってくる)

それならすぐヴィシェハイムから抜け出すことは可能でしょうが、あまりオススメはできませんよ。

お前が私をそうさせたんだぞ。

どうか落ち着てください、穏便に話をしましょう。

なら私を行かせろ、それと即刻私の目の前から消えるんだ。

そういう貴方様はどこへ行かれるおつもりなのですか?

コンサート期間中、ヴィシェハイムはずっと移動してるのですよ?なのにどこへ行こうと言うのです?

命を賭してまで飛び降りようとも、下は無人の荒野ですよ。

荒野か……

フッ、それも悪くはない。一秒でもヴィシェハイムに……

一秒でもヴィシェハイムに留まるぐらいなら、荒野で死んだほうがマシ、ですか?

ああそうだ。

心中お気持ちをお察しします、しかしどうか冷静に。こちらの話を最後まで聞いて頂けないでしょうか?

これ以上なにを話す必要があるんだ?

すべてを知りたくはないのですか、ウルティカ伯?

ウルティカ伯……

その肩書きで私を呼ぶな、お前の言いたいことなら分かっている。

まず、これだけは必ず約束致します。今ある条件下なら、必ず私たちの計画は実現することでしょう。

私たちのではなく、お前一人の計画だろ。

そう仰るのなら。

クライデのヴェルトリッヒ・メロディエンは暴走状態にあって、ロドスはそれが起こす副作用を発見した、だったな。

なら暴走状態にあるメロディエンがもう片方のメロディエンの除去することなんて、本当にできるのか?できたとして、あのロドスが動かないわけがないだろ。

クライデ殿のメロディエンについてはご心配なく、彼のメロディエンも共鳴を起こすことは可能でございます。

ロドスについても同じように……ここをどこだかお忘れですか?

ここはヴィシェハイム、私の領地ではありませんか。

フラウ・ハイビスカスと呼ばれる方も感染者でございましょう?彼女にリターニアの地を踏ませてあげただけでも、ロドスのメンツを持たせてやったというものです。ヴィシェハイム以外の場所には行かせませんとも。

何より、彼女が知ってるのは貴方様とクライデ殿が事態を深刻化させてしまうことだけです、なぜ、という箇所についてはまだ把握されておりません。証拠を掴んでおられませんからね。

……

ええ、ええ、分かりますとも……無関係な感染者に危害を加えたくない、そう思ってらっしゃるのですね?

しかし、あの者たちに憐憫をかける必要はありませんよ。もし憐れみを抱かれるのなら、なおさら計画に従うべきです。

計画に従って、あの感染者たちを殺せと?

……計画の残りの内容をお教えしましょう。

メロディエンを除去するために、貴方様とクライデ殿には予定通りコンサートで演奏させて頂きます、ここまでは以前お伝えした通りです。

そこでコンサートがある程度進んだところで、私が会場に混乱を引き起こしておきますので、その隙にお逃げください。貴方様の死亡を偽装するために、こちらがクライデ殿を殺害して、彼の死体を――

なんだと!?今なんと言った!?

彼はこのアーベントロート区で起こっている現象の元凶なのです、大変残念には思いますが、生かしておくわけにはいきません。

生かしておくわけにはいかないって――ふざけるな!アーベントロートでの一番の元凶はお前じゃないか!

前にもお伝えしましたが、アーベントロート区内で起こってる災いのすべてはクライデ殿の内に宿しているメロディエンが原因でございます。

メロディエンを共鳴してしまえば、たちまちエネルギーの漏洩も増加してしまう、こればかりは避けては通れることです。

ですので、貴方様がいくら移動都市から飛び降りようとも、クライデ殿のメロディエンを一週間前の状態に戻すことは絶対にできません。

何より、クライデ殿はただ周りの人たちに危害を加えているだけでなく、自分すらも傷つけられているのです。

共鳴を起こした際は、彼が最大の被害者になってしまいましょう。

近頃は健康状態に戻りつつあるようにも見えますが、あれもただ病が身体の内に潜んでいるだけでございます。

彼も本来ならメロディエンに適応してるはずだったのですが、急激にエネルギーが漏洩してしまったことで制御が利かなくなってしまい、危険な暴走状態へと変わってしまいました。

もって二週間の命です。潜伏期間を終えてしまえば、きっと今回の事態で最も鉱石病の急性発作に悶え苦しむ感染者に成り果ててしまうでしょう。

ですので、コンサートを終えた後には必ず彼を仕留めなければなりません、コンサートを終えてあげることがせめてもの救いでしょうか……

これは貴方様のためにも、私のためにも、アーベントロート区や彼のためでもあるのですよ。

私はウルティカ伯の復活という強力な手札を、アーベントロートは平穏を、クライデ殿は安らぎを。

そして貴方様は……待ち望んだ自由がようやく手に入るのです。

どうかご理解をば、ウルティカ伯、リターニアの正統なる継承者……

我らが巫王陛下、その最後の血脈よ。
(回想)
自由。
物心がついた時から、私は自由を知らなかった。

哀れな子だ。

礼も世辞も結構よ、ただ妾の言葉に耳を傾くがよい。

甚だ巫王に近しい血筋の生まれとは言えぬが、その最後の血脈であることに変わりはない。

卿に憐れみ、ここでは卿を煩わせることはしないでおこう。

しかし喜ぶべきことだぞ?卿はいずれ自身の一族から代々伝わる封領を得られるのだからな。

いずれはウルティカの領主になろう。

己が領民のために責を負いことにもなろう。

そして悪名高き卿の一族とはまた違う道を、卿は辿るのだ――

妾の期待を裏切るのではないぞ?必ずやその道を辿っておくれ。
これが私の最初の記憶だった。
おおよそ五か六歳の頃、それより以前のことはまったく記憶にはないが、ただ自分はどうやら危うく殺されかけたらしい。かの“ヴェルトリッヒ・・メロディエン”なる奇怪なものと関わっていたために、まあその記憶も今では曖昧ではあるが。
目の前にある豪華絢爛なドレスに睨みを利かせながら、自分はこれから名もなき小貴族になるのだと、そう当時は思い込んでいた。
時折メロディエンがもたらす頭痛と幻聴に我慢しなければならないことを除けば、きっと生涯、波風も立たないような穏やかな暮らしが待っているのだと、そう思った。

ウルティカ様、どうか慎みなされよ。勝手ながらに塔から出ることは許されません。

すべては女帝陛下の恩赦があってこそ、貴方様はこうして生きておられるのですから。

そうでございますよ、ウルティカ様、もしやお忘れでして?

お食事の際は、必ずその前に女帝陛下の御名を賛美しなければなりません。

さあさあ、ウルティカ様、今日は新しい曲を一緒に習いましょう。

この曲は貴族たちが女帝陛下へ感恩載徳する際の気持ちを表現した曲でございます、ぜひとも一緒に憶えていきましょう。

素晴らしい、ウルティカ様!アーツの扱い方も見事に冴えておりますな!

えっ、もっと繊細な操り方を、ですか?ははは、そんなことをする必要はございませんよ、どうぞもっとご自分を労わってやってくださいな。
周りにいる人たちはいつも私から自由を奪い取り、このまだ小さな脳に双子の女帝への忠誠心を注ぎ込もうとしていた。
これが平穏な暮らしの対価だというのであれば、私も甘んじてそれらを受け止めよう。
だがそんなことはないかった、私はもううんざりだったのだ。

単刀直入に申し上げます、ウルティカ様、貴方様こそがこのリターニアの真の主なのです。

すでに長年、貴方様の塔へ潜伏しておりますので、私のことはきっと憶えておいででしょう。

いえ、仰らずとも結構です。ただ私の言葉に耳を傾けて頂ければと。

貴方様は今、今ある暮らしすらも失ってしまうのではないかと、恐れておらるのですね。しかしどうかこれだけは憶えておいてくださいませ、周りの人間が貴方様をどう見ているのかを、何をしようとしているのかを。

あの僭主が無理やり貴方様のお傍につけさせた代理人が今、下で宴会を設けていることはご存じですね?私がそこへお連れ致しますので、何卒その目で真実を見定めてくださいませ。
そう言って目の前にいる人が、地面に座り込む私を引っ張った。
あの時の私の手は、汗でびっしょりだった。

うむ、いい酒だ!

いや~、まさか地下室にこんないい酒が置いていたとはな。

恐縮でございます。

ウルティカは辺鄙な貧しい場所ではございますが、醸造職人はそれなりに数がございましてねぇ。

あのガキが大人になるまでたらふく飲んでやらんとな!ヤツには勿体ないわい!

ははは、お気持ちは分かりますが、ほどほどにお願い致します。

あの小僧はここで何年も軟禁されておりますが、いつかは彼に酒の飲み方を教えてやらなければなりません。だからその際は彼にもたらふく飲ませて差し上げましょう。徹頭徹尾、酒に酔うだけの廃人になるまで。
頭がクラクラした。
「いずれはウルティカの領主になろう。」

ワハハハ、そんな手を隠しておったのか!

ならあのガキが酒に酔って、ついでくたばってくれれば、陛下の憂いもまた一つは――

シーッ!言葉を謹んでくださいませ!

ああそうだった、これはとんだ不敬を働いてしまったわい!どれ、罰としてもう一杯……
「己が領民のために責を負いことにもなろう。」

ここでの話は多言無用でお願い致します。

特にあの小僧にだけは聞かれてはなりません。私も上からそう伝えられておりますので。

薬師を探して毒でもなんでも盛って殺せばいいだろ?なぜそんな回りくどいことを……

私も考えましたが、それでは証拠が残ってしまいますので……自ら堕落してやっと、私のこの任務も完遂できるというものです!

いやはや、まだまだ前途多難だな!さあ、もっと飲もう!
「そして悪名高き卿の一族とはまた違う道を、卿は辿るのだ。」

もし私が無事あの小僧を送り出すことができれば、ウルティカは我々のものですぞ。

おお!ならばそれに期待を込めて一つ乾杯でもしようじゃないか!では、乾杯!

乾杯!

ククク……フハハハハハハハハ!

聞こえたか小僧?

これが貴様の求めた波風立たぬ平穏な暮らしだというのか!フハハハハハハハハ!
(回想終了)

エーベンホルツ様、どうなさいましたか?エーベンホルツ様?

……

急にばたりと倒れるものですから心配しましたよ、そのまま病院へ連れて行くところでした。

具合のほうは……?

……ッ……

構うな、平気だ。

では計画の続きのほうは……

今は聞きたくない。

ここで失礼させてもらう。

どうぞ、お気に召すままに。しかしヴィシェハイムから出ることは……

もう金輪際、私に構うな。

そればかりは承知できかねます。

……
(エーベンホルツが立ち去る)

お帰りエーベン――どうしたの、顔色が悪いよ?もしかして病気?

……なんでもない。

なんでもないわけないよ、そんな様子じゃ。はやくベッドで横になって、お湯を持ってくるから。

いや、必要は……

遠慮しないで、お爺ちゃんが病気になった時もこうして世話をしていたから慣れっこだよ。とりあえず横になってて、全部ボクに任せていいから。

これで良くならなかったら、ハイビスカスさんのところに連れていくからね。

じゃ、お湯を持ってくるよ。
(クライデが立ち去る)
激烈な頭痛に耐えながらも、ウルティカ伯は見ずぼらしいベッドに横たわる。
そして徐々に意識が朧気になってきた。

下賤なウジムシめ。

!?

自ら高貴なる血を絶やすとは……

黙れ……

うッ!

自惚れるな!自ら堕落に甘んじた役立たずめ!

……
(無伴奏チェロ組曲 第1番 プレリュードの一節が流れる)
遠いところからチェロの音色が聞こえてくる。
……空は青く澄み渡り♪……

それで頭痛が和らぐことはなかったが、脳裏に響く声はチェロの音色によって掻き消された。
こんなに安らいだのはいつぶりだろうか。
……風が優しく囀りゆく♪……
なんだか懐かしい曲だ。
頭痛で集中して聞くことはできないが、それでもどこか聞き覚えがあると、ウルティカ伯は思った。
……流れる河は淀みなく♪……
聞いたことがある……
一体どこで?
……吾が心に――

……

やあ、大丈夫?

クライデ……

安静にしててね、さっきハイビスカスさんが少しだけ採血したから。身体に問題はないけど、たぶんストレスから来る精神疲労なんじゃないかって言ってたよ。

(ストレス……フッ……)

さっきのチェロの曲は……貴殿が弾いていたのか?

そうだよ。

どこでそれを……習ったんだ?

どこだろ……多分小さい頃に誰かが鼻歌で歌ってたから、それで知ったのかな……

ボクもあんまり憶えてないや。

小さい頃……

小さい頃――

そうか!!!

まさか貴殿は――あの時の――

あの時の?
弱ったウルティカ伯は幾度ばかりか藻掻くも、ついぞベッドから起き上がることはできなかった。
チカチカと目の前を過り始めたのだった。チェロの音色に呼び覚まされ、脳内の奥底に封じ込められていた記憶の数々が。










