月が見える夜、その白い霜のような光が降り注いでる桐のテーブルに、とある夫婦が座っていた。女は落ち着きもなく、うたた寝する夫に話しかけようとして手をさすっている。
彼女はひと口唾を呑み込んだ後、もごもごと口を開いた。

ねえあなた、今日厨房で……変な音が聞こえたのよ。カタカタカタって、すごく不気味な音が。

古くなった家なんてどこだってそうだろ、どこもかしこもギシギシ悲鳴を上げるもんだ。お前は引っ越してきたばかりだから聞き慣れていないだけだよ。

違うのよ。そ、それが……なんだか壁から聞こえてくるみたいで。

毎日家事も炊事もしないで、そんなことばっかり考えやがってよ。こっちは朝から晩まで汗水垂らしながら仕事してんだぞ、暖かいご飯ぐらい用意しやがれてんだ。

そ、そんなことは……でも厨房に入ったらいつも寒気がするのよ、なんかずっと……見られてる気がして。

うるせえ、そんなのサボってる言い訳にしか聞こえねえんだよ!こうなりゃテメェが動くまで痛めつけてやる!

いや、許して!この前の傷だってまだ治ってないのよ!

ならさっさと厨房に行って酒ぐらい温めたりつまみの用意をしてきやがれ!

でも本当に入れないのよ……あそこ本当に嫌な気配がするの。

やっぱり分からせねえと気が済まねえみてえだなァ!

いや!許して!許して!

今日という日はテメェを――

あなた聞いて!ほらあの音よ!
カタ、カタ、カタ。

ウソじゃないわ、本当にあの音が聞こえてくるのよ。
カタ、カタ、カタ。

いいだろう、俺が厨房の様子を見に行ってやる。だが何もなかった際は覚悟しておけよ。

う、うぅ――
窓の外は黒い雲が月を覆い隠していた、雨が降る兆しだろう。

あなた、あなた?

何か見つかった?
……
いくら待てども、厨房から返事は返ってこない。辺りは静寂に包まれており、厨房から微かにかすれた声が聞こえてくるだけだった。
妻は息を止め、耳を澄ませる。そしたらあの音が聞こえてきたのだ。
カタ、カタ、カタ。
その瞬間、妻はサアッと顔色を変え、目をかっ開いては豆粒ほどの大きな冷や汗を額から滲せる。躓きながらお隣さんへ助けを求めに行ったその時、夫の声が聞こえていた。

こっちにおいで。

あなた、大丈夫なの?

大丈夫だ。
妻は蝋燭を手に取り、ゆっくりと厨房のほうへ向ける。厨房へのドアに鍵はかかっておらず、妻はそれを押しのけて中に入るも、真っ暗で何も見えない。
そこへ蝋燭を照らした先には、壁に寄りかかっている夫を見つけ、ホッと一息をついた。

あなた、何かあったの?

大丈夫だ、こっちにおいで。

さっきからそればっかりよ?

こっちにおいで、大丈夫だ。
仄暗い蝋燭の光は夫の顔をチラチラと照らすが、その際に妻は気付いたのだ。夫の表情はまるで魂が抜かれてしまったかのように虚ろなものであり、先ほどからひたすらに同じ言葉を繰り返すばかりである。
こっちにおいで、大丈夫だ。
そこへ突如、窓の外で雷が落ち、白い稲妻の光が一瞬だけ厨房を照らし出した。
そして妻は気付いたのだ。なんと夫は壁に寄りかかっているのではなく、身体が丸ほど壁にのめり込んでしまって、蒼白で虚ろな顔だけを露にしていた。
そしてそこへ、再びあの聞き慣れた音が聞こえてきた。
カタ、カタ、カタ。
ついに妻は堪らなく大きな悲鳴を叫び出したのだ。

いやあああああああああ!もうやめてええええええ!

イヤイヤイヤイヤアアアアア!もうやめてよクロワッサン!これ以上はもうイヤだ!うぅ……

なんや、まだ終わってへんで?あの妻が最後にどうなったんか気にならへんの?

(耳を塞ぐ)いい!気にならない!もう黙ってて!

クックック、ほんならボクくんはどうなんや?最後まで聞くか?

いいよ、ボクは平気だから。

またまた~、そないな落ち着いたフリしちゃって~。ホンマは怖いんやろ?

いや……本当に全然怖くないってば。


ありがとう、でも本当に平気だよ。抱き締めるんだったらあっちのお姉ちゃんを抱きしめてやりなよ。

(振り向く)

(むせび泣く)

もうイヤぁ……うぅ、ヒドイよクロワッサン!こんな怖いな話をして!

いや~……堪忍や、あはは。本当はこっちのボクくんをちょいと脅かすつもりやったんやけど、大人のほうを怖がらせてしもうたとは。

うぅ、それってあたしその子よりビビりだって言いたいの?

ちゃうちゃう、そんなことないわな。ああもう、ウチが悪かったから、もう泣かんといて~。

それにしてもボクくん、ホンマにこれっぽっちも怖くなかったんか?

]うん。

あっさり答えるな~。

ほな最後の結末は知りとうないか?

妻をイジメてたヤツが罰を受けたんでしょ、それで十分じゃん。

確かに、ずーっと自分をイジメとった夫がいなくなって妻も清々したやろうな。

せやったら妖精がボクくんの足に噛みついてきても怖くないっちゅうことやな?ガブガブーって!

(ボクも妖精なんだけどなぁ……)

実は、こういった出来事は昔っから結構経験してきたことがあるんだ……

あんなのを見たことがあったの!?じゃあまさか今話したことも……全部ホント!?

ヒッ、ねえクロワッサン……あたしもう、ダメかも……

ウチがさっき話したもんは嘘っぱちや、そないなモンあらへんて!っておい!もう目が泳ぎ始めとる!

えーっと……

(どうしよう、ボクたちの世界じゃあれは一般的に空間能力系の人が暴走してできたことだって、どう伝えればいいかな……)

(なんか話したら、ここにいるみんなから変な目で見られそうだし。)
(エンペラーが近寄ってくる)

テメェらリーの人を連れってって来いつったのに、全然来ねえじゃねえか!いちいちこっちが言わなきゃ動けねえのかテメェらは?

ボス~、こっちもずっと30分待ってもまったくリーはんの連れは来なかったんやで?その代わりこのカワイイ子が入ってきたからずっとお喋りしとったわ。

あと怪談話も……

あっ、お前がエンペラーさんか?

おう、オレだ。

ボクはシャオヘイ、リーさんから店内の異音解決を頼まれて来た人だよ、よろしくね。

あはは……サプライズやでボス!

くだらねえ30分間だったなお前ら。でも安心しろ、週末はたっぷりと楽しい時間にしといてやる。

えぇ~、そんな遠回しな表現せんでもええやろ……

(ちょいボクくん、なんで最初から言ってくれんかったん!?)

(ボクが言おうとする前にすぐお姉ちゃんが怖い話をし始めたからじゃん。)

あー、それはー……

リーから詳細は聞いてるか?

大体は。

おいフェイ、こっちに来てシャオヘイに事情を説明してやんな。

大体三か月前からかな、時々キッチンと倉庫からカタカタとした音が聞こえてくるようになったんだ。特に深夜のほうがはっきりと聞こえきて。

最近キッチンや倉庫から食料がなくなってるってことは、おそらく壁の内側に小動物が住み込んだのかもしれないな。あと何より――

何よりオレが一番大事にしてきた限定品のレコードをかじりやがったんだッ!見とけよクソッタレ、オレのベイビーたちを傷つけて無事ここから逃げられると思うなよ。

(ねえクロワッサン……さっきの話の元ネタってあれだったの?)

(あはは、ウチもちょいとボスに倣って即興のインスピレーションを得ただけやて……)

だったらもっと専門的に処理してくれる業者さんを頼めばよかったんじゃないの?

それは考えたさ、だがあの連中は壁に穴を開けなきゃ駆除は無理だとかほざきやがたんだ。

このバーは龍門一センスを求められる場所だ、品もセンスもねえヤツが好き勝手弄っていいもんじゃねえ。

(どこも金ピカで目が眩しい……ロウクンのところのほうがよっぽどいいよ。)

だがリーの野郎はお前ならもっと上手くやってくれるって言った。失望させんじゃねえぞ?さもないとデカいツケが付いてくるからな。

フンッ――

(リーさんに頼まれなかったら、こんな場所なんか来るもんか。)

リーさんに頼まれた以上はしっかりとやるよ。

よしいいだろう、ならその腕っぷしを拝見してもらおうじゃねえか、坊主。

(羽?腕?を伸ばしてシャオヘイの頭をポンポン叩く)

耳だけは触らないでよね。

(うわ~、かっこええ子やな~、ボスに怖気づくこともないなんて。)

(あれじゃあボスに覚えられちゃうよ……心配だなぁ……)

(面白れぇガキだ、気に入ったぜ。いっそのことリーのところから攫っちまうか?)

誰もついてきていないよね……

ならよし。

通気口は……おっ、あった、この上だね。

頼んだよ、ヘイショ。

(通気口に潜り込む)

いた。

お前、深いところに隠れてるんだな。

出て来てくれないのか?なら仕方ない、こっちでどうにかするしかないかな。
ふと、シャオヘイの袖に括りつけられている金属の輪っかが解き、空中を何回か回った後、大小様々な球体へと変化した。
シャオヘイが通気口の入口を指さすと、金属の球体は続々とその奥へと入り込む。絶え間なく跳ねてはぶつかり、耳をつんざくような甲高い音を出しながら、中にいる小動物をもう一方の通気口へと追いやった。
カタカタとした音が聞こえ、シャオヘイは通気口にある鉄網を開けると、そこには小さく縮こまりながらブルブルと震える小動物がいた。

キュー。

大丈夫だよ、こっちにおいで。

ごめんね、脅かすつもりはなかったんだ。

(シャオヘイの掌によじ登ろうとする)

お前、ビジューよりもちっこいね。

キュー……

別の場所に引っ越すことをオススメするよ、ここの人がもうこれ以上いてほしくはないんだってさ。

キュー?

ここにいちゃ危ないからだよ。

あの怪しいペンギンが言ってたんだ。オレのものをかじったらからにはタダじゃ済まさねえって。

キュー!!

大丈夫、お前をあいつに渡したりはしないよ。

行こ、こっそり逃がしてあげる。

ここがバーの裏口だよ、ほら行って。

キュー。

お礼ならいいよ、ばいばい。
(鳥雲獣が姿を現す)

あれ、なんでお前がここに?

お前……なんか咥えてる?

みゃう……

放せ!はやく口から放すんだ!

ほらはやく口を開けろ!じゃないと死んじゃうよ!

ペッ――

キュー……

(倒れ込む)

おまっ、傷ついてる!?

(逃げる)

待て!逃げるな!

(瞬く間に逃げ失せる)

待て!棚に気を付けろ!
ゴツン――

みぃ……

(ばたり)
ギシギシ――

やっば!
烏雲獣がぶつかったせいで棚ははげしく横に揺れ、上に置かれている物が落っこちてくるも、シャオヘイは気に留めず真っすぐ烏雲獣と小動物を救い上げた。
しかし彼が立ち上がったその時、背後にあった棚は大きな音を出しながら倒れ込んでしまった。

なんや!?何事や!?

ギャーッ!あれってボスがこの前買ったお酒なんじゃ……

おい坊主、どういうことなのか説明してもらおうか?

えっと……

(左手にある小動物を見せる)

壁の中でこのちっこいのを見つけた!

棚は……

(右手に持ってる烏雲獣を見せる)

こいつが倒した!

みぃ……?

目が覚めたか?

みゃう……

お前のせいでこっちはひどい目に遭ったよ。なんでこっそりついて来たのさ?

(顔を下げる)

言っただろ、探すのを手伝ってやるって。でも今日は忙しいんだ。

(寝転がる)

……もういいや、お前に怒っても仕方ない。

なあボクくん、そこの烏雲獣とボソボソ何を話しとん?はよこっちきい、ボスは怒ってもまだ60%に留まっとるから大丈夫や、生きて帰れるで。

ちょっと、これ以上その子を怖がらせないでよ。

壊しちゃった物は、なんとか弁償するよ。

フンッ、あの箱に積まれてあったのはな、その年のボリバルで一番甘いサトウキビを使って作られた最上級のラム酒だったんだよ。

だが今はお前に構ってるヒマはねえ。物よりもオレの限定品のアルバムをかじりやがった不届き者のほうが先だ。

そいつを……どうするつもりなの?

フェイ、籠を持ってこい!

はいよボス。

キューキュー!!

なんや、鼷(ケイ)獣やないの。

結構かわいいかも!

鼷獣って?

サルゴンに生息しとる野生動物や、見た目が愛くるしいからよくキャラバンが移動都市に持ってきてペットとして売られてんねん。

ペットなのになんであんな通気口の中にいたの?

この動物は夜行性で、警戒心も強いからやで。まあ大方このちっこいのは棄てられたんやろ、夜中にうるさいか飽きたかで。

ああいった管ん中は涼しいし隠れられるしで、こいつらの穴に住む特性には最適なんや。せやから中で数を増やしてまうねん。

この子たちを捨てた無責任な飼い主たちに罰則とかないの?

今んとこ龍門にそないなルールはない。あったとしてもほぼ無理や。

ソラさんは優しすぎるんすよ、こいつらのせいで街の設備がどれだけ壊されたことか。

こいつらって歯の生えるスピードがすごい早いから、とりあえず目に入ったものを毎日かじって歯を磨かなきゃらないんすよね。

去年第十三区で起こった大停電も、こいつらが地下で電線を食い破ったから起こったじゃないすか。

確か去年も、こいつらを駆除するために大がかりな財政支出を捻り出したらしいな。

(眉をひそめる)……でも、こいつらは好きでこんな場所に来たわけじゃない。

俺たちだって好き好んで壊れされたものに金をつぎ込んじゃいねえよ。

捕まえてそのまま野生に戻してあげることはできないの?

(首を振る)コストが高すぎる。それに龍門の航路周辺やて適した野外環境があるわけやない、適当に戻したらそれこそ余計な被害を生み出してしまうんよ。

じゃあペットだったら、引き取ってくれる人はいるんじゃないの?店の外で広告を貼って里親を募集してみようよ。

数年前ならまだしも、今じゃこいつらの悪いニュースしか出てこないし、政府も飼育禁止の条例を出すとか言い出してるから、このタイミングで引き取ってくれる人なんかいませんって。

フンッ、じゃあ結局どうしたいのかハッキリと言えばいいじゃないの!

じゃあ……樽に水を張って溺死させときます。ウチの実家はよくそうやって害獣を処分してましたから。

(歯ぎしり)なんでそんな惨いことができるんだ!

ハッ、お前みたいに可愛いから可哀そうと思うようなガキはイヤってほど見てきたよ。でもこいつが気持ち悪い見た目をしてたら、すぐお前だって態度を変えるさ。

そんなことない!

なんだよ睨みつけやがって?こいつは俺たちの店で見つけたもんだ、ならこいつをどうするかは俺たちで決めるってのが道理だろ。

こいつらは好き好んでここに来たわけじゃない!勝手にこいつらをここに持ち込んで、いらなくなったらポイって、そんなの無責任だ!

弱肉強食がこの大地の理だ!何をどうするかは強い側の人間が決めることなんだよ!

最ッ低!

お前こそ、ガキがしゃしゃり出るんじゃねえ!

うるせえぞテメェら!耳にタコができちまうだろうが!

もう黙ってろ、こいつをどうするかはオレが決める!
弾を込めスライドを引き、エンペラーは閉じ込められてる鼷獣に銃を向ける。この鼷獣に血まみれの運命が迫っていることに、その場にいる誰もが息を呑む。
だがエンペラーがトリガーを引くその瞬間、小さな手が銃身を抑え込んだ。

殺しちゃダメだ!

お前ごときがオレを止めるのか、ガキンチョ?そこそこの腕っぷしはあるみてぇだが、手を出す前にちゃんと考えたほうが身のためだぜ?

お前はリーの代わりにここへやってきたんだ、リーの看板に泥を塗るつもりか?

お前――

……ボクは……

本当にそれしか方法はないの?

誰だって……住まいから引き離され、知らない場所に置いていかれたくはないはずだ。

もう少しだけ考え直したくれない?

ずっと追いやられるのは、すごいツラいことなんだよ……

こいつらだってただ静かに暮らしたい場所が欲しいだけなんだ!

お喋りはおしまいか?

(銃を向ける)

ボス、なんならあたしがその子を引き取って――

シッ、あんたは黙っとき。

ボクがこいつを連れ出す!だから殺すな!

どいつもこいつも何ビビってやがんだ?オレぁただ葉巻に火をつけようとしてるだけだぞ。

……

それ……ライターだったの?

じゃなきゃ何なんだよ?エッチング弾は高ぇんだ、こんなヤツには勿体ねえ。

そんでお前、今言ったのは本心なんだろうな?悪くない、感心したぜ。

(頬を染める)

フンッ、ガキならもっとあからさまに表情をコロコロと変えたほうがお似合いだぜ。いつも顔をしかめて大人のフリをしてちゃ面白くもねえ。

じゃあボス、こいつはどうすれば……

残す、んでオレが飼う。

じゃあ……最初から殺すつもりはなかったの?

オレの偉大な思考を決めつけるんじゃねえよ、このバカタレが。

……

(お前が何を考えてるのか分かるわけないだろ!)

でももうすぐ飼育禁止になるんじゃ――

オレがウェイの野郎に後退るタマに見えんのか?

分かりました、ボスがそう言うのなら、もう何も言うことはないっす……

おいガキンチョ、ボケっとしてねえで籠を持ってオレについて来い。

何しに行くの?

いいからついて来い。

ふふ~ん、やっぱウチの予想通りやったな。

ボスは最初からあの鼷獣を殺すつもりはないのを知ってたからあたしを止めたのね?

もちのろんやんか~!それにあのじゅ、あいや、あのライターはウチがボスに勧めたヤツなんやで?

じゃあわざとあたしに、あの子とボスがいがみ合ってる場面を見せたってわけ?

でもソラはんかて、あのカワイイ子がクワッてした顔が見たかったんとちゃう?

ホント意地悪な人!
(テキサスが近寄ってくる)

さっき店で何かあったのか?フェイが嫌な顔をしながら出ていったぞ?

ハッハ~、それはボスとボクくんに言い負かされたからやで。

そうだテキサスさん、さっきようやく壁に潜んでた動物が見つかりましたよ、鼷獣でした。

まあそうだろうな。で、ボスはそれをどうしたんだ?

飼い始めるつもりですよ。フェイはずっと殺処分しようとしてましたけど。

鼷獣なら……そうするだろうな。

おや~?なんか知ってそうな言い回しやな?

ボスも昔はああいったちっこいのを飼ってたことがあったんだ、何年前だったか……

それ初耳なんですけど?

まあ……恥ずかしいから、なのかな?

ほんでほんで?その後はないん?

ほんでも後もない。鼷獣の平均寿命は二年しかないんだ、その後はすぐに寿命が尽きて死んでしまったよ。

だからあの頃のボスはずっと酔い潰れるまで酒を飲んで、一人部屋に籠ってブルーな曲を聴いとったんか……?

そうかもな。

……どうしよう、なんかまた泣きそうになってきた。

それはもう堪忍な!

……

おい、ずっとムスッと黙ってねえで、なんかオレに言うことがあるんじゃねえのか?

……ありがとう、エンペラーさん。

お前の感謝はオレにとっちゃ一文の価値すらねえよガキンチョ、んなもんはいらねえ。

じゃあもう言うことはない。

んなわけねえだろ、ずっと腹ん中に色んなものを貯め込んでるくせに。

じゃあ……

なんでそいつを引き取ろうとしたの?気に入ったから……?

じゃなきゃ何なんだよ?

じゃあ気に入ってなかったら……あいつの言うようにしてたの?そんな勝手気ままにこいつを殺すつもりだったの?

もしそうしてたら?

その場でお前を止める。

ならいい、それでいいんだ。

……どういう意味?

何を言おうが自分の意志を曲げないつもりでいるのなら、意味もクソもねえだろ?

でも――

そうと決めたのならこれ以上女々しくすんじゃねえ、お前はお前の意志を貫きゃいいんだ。だが貫く前によく考え抜いたほうがいい、さもないと一生後悔することになるかもしれねえからな。

よし、着いたぞ。

ここは……

知ってるのか?

うん、リーさんから教えてくれた。ここはスラム街、あの石の病気を貰った人たちが集まる場所だって。

ほかにもなんか言ったか?

なるべく近づくなって。

そうだな、ここはお前みたいなガキが来ていい場所じゃねえ。

じゃあなんで……

誰も近づきたがらねえってことは、人に見つけられたくねえ連中からすればむしろ安全な場所なのさ。

おぉ、エンペラーさんじゃないか、今日はどういう風の吹き回しで?

このちっこいの二匹を診てもらいたくてな。

またなんか変な動物を持ってきたんだね?

ほらガキンチョ、診せてやりな。

こいつら。

鼷獣?おっ、しかも烏雲獣じゃないか。

エンペラーさん、この人は?

医者だ、獣と人の両方のな。

ハッハッハ、私んとこに持ってきてくれたのなら、人でも獣でも治してみせるよ。

そんなにすごい人なら、どうしてこんな場所に隠れてるの?

本人に聞け。

それはね、私は悪い人だからだよ。

お医者さんが悪い人なわけないでしょ?

医者ってのはいつも一番直球で、しかも残酷な方法でその人に自分が抱えてる苦痛と向き合わせる人なのさ。医者が伝えてくれるのはいつも悪いニュースばかりだからね。

それは悪い人じゃない、誠実な人だよ。

はは、誠実な人ってのは残忍な人なのさ。

一体なにが言いたいの?

いい質問だ、そのまま疑い続けなさい。当たり前なことを当たり前と思うな。

一番確信してるモノというのは、いつか必ず裏切りってくるからね。

もうちょっと分かりやすく話してくれないかな……?

哲学の話はもうそこまでにしてくれねえか?んでその鼷獣の様子はどうなんだよ?

いや~、つい口数が。

さあてカワイ子ちゃん、私に見せてごらん……大したことはなさそうだね。痩せて毛並みの色も悪いが、ただの栄養失調だ。それにしては元気がないね、どうしたんだろう?

病気か?

もしかしてビックリしちゃったのかな?さっきその烏雲獣に咥えられてたんだ。

(手を舐める)みゃう……

だからか。なら、このちっこいのは食べられるんじゃないかってビクビクしてるのさ。

にしてもその烏雲獣、なんか見覚えがあるような……

(烏雲獣を抱える)

さっ、君も見せてごらん。おっ、やっぱりそうか、この足に残ってる縫い針の痕は私のものだ。実に美しく、優雅でパーフェクトだ。

ボク今こいつのご主人を探してるんだけど知らない?

うーん……三年前にこいつを私のところに見せに来た人かな?確か鉱石病の感染者だったか。でもあの頃はすでにもう長くはなかった感じがするね。

まあ可哀そうなもんだから、タダでペットを治してあげたんだけど、この子を引き取ってくれってお願いされたんだ。

でも引き取らなかったんだね。

当然さ、私は医者であって慈善団体じゃないからね。

飼う金がなかったんだろ。

ほら、さっきも言っただろ?誠実な人というのは残忍な人だって。

……あっ、うん。

じゃあ……その人がどこに住んでるか知ってる?

あんな末期症状じゃもう亡くなってるかもしれないね。でもスラム街の外側の空き地に、感染者たちの遺物を供養してくれてる場所があるんだ、そこに行ってみるといいよ。

言って思い出したよ、その人全身隈なくお金を探して私にこの子を引き取らせようとしていたんだが、可哀そうに。

そんな昔のことも憶えてるの?

まあ……記憶力はいいほうだからね。ついでに言うと、その人が最後にいくら出したかまで憶えているよ。

いくらだったの?

六十七、ちょうど六十七龍門ドルだったよ。







