チッ、尻尾が濡れてしまった。
ここはまったく変わっていないな。薄汚い街も、この鬱陶しい雨も。
なぜだか知らないが、ウルサスの雪は人を凍死させるほどのものなのに、ここの雨はそれ以上に不快だ。
師匠の家にドライヤーがあるといいんだが……
師匠の家はこの路地を突き抜けた先にある。あの頃、自分に覆いかぶさる曇雲に復讐することができるほど自分は強くなったことを証明するために、クラウンスレイヤーは怒りを胸にしながらここを出て行った。
しかし今、彼女はリュドミラとしてまたここへ帰って来たのである。自身の努力がこの重苦しい曇天に僅かな隙間をも生じさせることができたのかどうかは、今の彼女にはまだ分からない。
もしかすれば何も変わっていないのかもしれない。あるいは彼女は、さらなる災いに手を貸してしまったのかもしれない。
いずれにしろ、リュドミラはここに戻った。であれば師がきっと、この先自分はどうすればいいのかを教えてくれるはずだろうと、この時彼女はそう思った。
しかし突如と、彼女は得も言われぬ悪寒に襲われる。
これは師との再会による緊張なのだと、そうリュドミラは考えていた。
だがすぐに、それは間違っていたことに気付いてしまう。
彼女は震えが止まらなくなった。
師匠ッ!!
そこには拭いきれないほどの、濃ゆい血の匂いが立ち込めていた。
リュドミラの師匠は仰向けながら地面に倒れており、艶やかな血液が身体から流れ出ている。
その傍には、一本の小さなナイフが落とされていた。
リュドミラはすぐさま師匠のもとに駆けつけ、血が流れ出ている傷口を抑えつけようとしたが、そこから一歩も動くことも、さらには視線を動かすことすらもできないことに彼女は気付いてしまう。
嗅ぎ慣れてはいるが、それ以上に恐ろしい気配が部屋の影からぬらりと浮かび上がってきたのだ。
紅いフードを被った、灰色のオオカミがそこに現れた。
真狼は死んだ。レッド、オバアサンの言うこと聞いた。
……貴様。
貴様……一体何をした……
レッドは狼を狩る人。レッド、オバアサンの言うこと、従っただけ。
真狼は死んだ。でも、抵抗しなかった。
貴様ァァァ!!
(リュドミラがレッドに襲い掛かる)
殺してやる!ぶっ殺してやるッ!
うーん……レッド、ケルシー先生と約束した。狼だけを殺す。お前、狼じゃない。
あっ、この人、お前のケルシー先生だった?どうりで、狼の匂いがする。
ハァ……ハァ……師匠はな、もう戦えないんだぞ!なのになぜッ!?
レッド、オバアサンから聞いた。これがゲームのルール。
だから今の彼女、もうゲームオーバー。
じゃあ、レッドもう行く。ほかの狼も探さなきゃならない、みんな近くにいる。
(くんくん)
でも、もう一匹アウトになった狼いる。ほかの誰かが、レッドに代わってやってくれた?
待てェ!
紅いフードを被ったオオカミは、リュドミラの呼び止めにはまったく応じなかった。彼女は途切れ途切れの鼻歌を歌い、軽やかなステップを踏みながらリュドミラを横切っていく。
リュドミラは彼女に手を伸ばすも思いとどまった。
ふと、師匠から言われたことを思い出したからである。
「リュドミラ、私の下に付くことがどういう意味なのか、分かっているのかね?」
「私はもうこのザマで、ロクに動けない。それでも私の弟子に、私の道具になるつもりなのかい?」
「お互い後悔することになるよ、リュドミラ。」
そしてリュドミラは地面に膝をついてしまう。
「死した者の苦難を呑み込みたまえ」……
さすがはカタリナ嬢がずっと温めておいた作品だけはあるな。
劇中でのチェッリーニアは完璧なシラクーザ人であったが、まさかそこに住まう人たち全員で作り出した幻が正体だったとは驚きを隠せないよ。
しかし、彼女が人々の間で語り継がれた完璧の存在であるのなら、集団幻覚としての解釈も合理的と言えば合理的だ。
彼女は実は存在していなかったという終幕のあのシーンも、まったく度肝を抜かれてしまったね。
いやぁ、実に意味深な終わり方だったよ。
この前のラジオの事件と言いその後の混乱と言い、てっきりヴォルシーニはもう駄目かと思っていたんだが。
まだまだこんな優れた作品が見れるからまあ、今の世の中も捨てたもんじゃないね。
まったくその通りだ。
いやぁしかし、あの時はこの世も終わりかと思いましたぞ。
それがまさかあんな結末を迎えるだなんて。
ところで、新しい都市のほうへ引っ越す予定は?
それは状況次第だな。まあもしもなんだが、そこでもカタリナ嬢の作品を見ることができるのであれば、一考の余地はある。
なんせ……ファミリーいない都市だからな。そんなもの、こんな歳になっても考えたことがない。
なら……これは知っているかな?
そのカタリナ嬢なんだが、何やらまた新作を作っているとの噂だ。
新作?
そう、新作。きっと題名を聞いたら興味が湧いてくるはずだぞ。
題名は――『イル・シラクザーノ』だ。
(雨音とシャベルで地面を掘る音)
土を掘る音だ。
墓地の中、レオントゥッツォはせっせと墓穴を掘り続けていた。
その傍には棺が置かれており、中には彼の父――ベルナルドが安置されている。
今日はベッローネファミリーのかつてのドン、ベルナルド・ベッローネの葬儀である。
十二ファミリーが一つのドンの葬儀であるからには、本来ならこの霊園も参列者でひしめき合うはずであった。
しかし、ファミリーを裏切り、街を裏切り、時代を裏切った者の葬儀に参列してくれる人などいるはずもない。
ラヴィニアらも参列を申し入れはしていただが、レオントゥッツォによって謝絶されてしまった。
これは彼にとって、父との最後の別れを告げる場であったのだ。
なあ親父、後世だと親父はどう評価されるんだろうな。
新しい時代を切り開いた先駆者か、あるいは旧時代の裏切者か。
まあ、それもこの先の俺次第だろうな、ふふ。
まったくドデカい難題を残してくれたものだよ。
しかしまあ、さすがは親父の息子といったところか。そうでなきゃ受け止めきれなかったはずだ。
レオントゥッツォは土を掘りながら、まるで父親がまだ生きているかのように、軽快にベルナルドへ話しかける。
しかしそれ以外に、彼は何を話せばいいのか分からないでいた。
そうだ、俺からの要求ならスィニョーラが呑んでくれたよ。
この先ファミリーが新しい移動都市に漬け込んでくることはない。
親父の夢も一部は叶ったということになるな。
スィニョーラと話し合った後、俺もようやく少しは理解したよ。
死んだ後、シラクーザを墓場に持って行くことになっても、あのご夫人はまったく意に介していなかった。
自分が生きている間でしか、シラクーザは平和を享受することができない。だからシラクーザに、未来は必要ないと思っているんだろうな。
そうだなぁ……スィニョーラは統治者というよりも、旧時代を見守る者と言ったほうが妥当だろうか。
そんなご夫人は、俺にチャンスを与えてくれた。それもただ、俺がやってみてもいいと思わせるぐらいの答えを出したからってだけに過ぎないけどな。
まあともかく、実におっかないご夫人だったよ。
……ふぅ、一日中掘り続けなきゃならないと思っていたんだが、思っていたよりも進んだな。
墓穴の大きさはもう十分だ。あとは、棺をこの中に納めるだけ。
レオントゥッツォは棺の前へ立ち、少し迷いはしたが、ついには棺に手を伸ばした。
棺はとても重い、彼一人では推すこともままならない。
しかし“これは骨が折れるな”と彼が思ったその時、隣で誰かが一緒に推してくれていることにレオントゥッツォは気付く。
その方向に顔を向けると、そこにはディミトリーがいた。
ディミトリー、お前……
ディミトリーは何も答えなかった。彼はただ自分の外套のポケットから、仄かに銀が光る何かを墓穴に投げ入れた。
それは懐中時計だった。
これはドンが……むかし俺にくれた懐中時計だ。
今、元の持ち主に返しておいてやる。
……
あんたからはもう謝ってもらったさ、レオントゥッツォ。
だが、たとえ俺があんたを許してやったとしても、この騒動で死んでいった兄弟たちが許してくれるとは限らない。
ベッローネファミリーが消えたとしても、あいつらのことは忘れないよ。
聞いたぞ、新しいファミリーを作るらしいな。
ああ。生き残った連中のほとんどは抜けていっちまったが、残ってくれた者たちのためにも居場所が必要だ。
あんたから見れば、落ちぶれたファミリーに見えるかもしれないが。
……それも悪くはない。
これからは茨の道になるぞ。
分かっている。
その時になれば、俺はまたあんたの障害になるかもしれない。
それも承知の上だ。
それまでに勝手に死ぬんじゃないぞ。
雨粒がうるさく叩きつける中であったが、それでも最後にディミトリーが掻き消えるほど小さく言い残した「レオン」を、本人であるレオントゥッツォは聞き逃さなかった。
お前もな、ディミトリー。
やがて彼は顔を仰ぎ、雨粒に顔を打ち付けられるがままでいた。
……
この家具、もうほとんど使わなくなってしまいましたね。
まあ、ベッローネファミリーはもうないからな。
ファミリーだった面々のほとんども、ここを出て行ってしまった。みんな……受け止められなかったんだろうな、自分らのドンに裏切られた事実に。
ベルナルドはファミリーの統治において模範とも言えるぐらいの人だったけど、それが本人によってファミリーの存在が否定されてしまいましたからね。
俺たちが大事にしていたものも含めてな。
栄誉も、信頼も、忠誠も、ファミリーへの奉仕も……
どれも全部、親父からみんなに遵守するよう厳しく躾けられてきたものだったが、結局のところ、まさかの当の本人がまったく守ってこなかったってオチになるのか?
……どうでしょうね。
でもここしばらく、ずっと考えていたんです。私が今まで接してきたあの人は本当にベルナルド・ベッローネだったのかって。
劇団のディレクターは仮初め、ベッローネファミリーの遠謀深慮なドンも仮初め……
なら、あの時私に笑顔を見せ、両目を光らせながら理想を語ってくれた彼も、ただの仮初めの姿だったのかしら?
でもまあ、それは今ではどうでもいいことね。
だってレオンが、レオンと彼が、あの新しい都市に生まれる機会を与えてくれたのですから。
そうなのかもな。
……
引っ越しの車ならもうすぐだぞ。
……分かってる。
ねえレオン、私たちがしてきたことはすべて無駄ではありませんでしたよ。
ああ。
これから新しい区画で……いや、新しい都市で、一緒に新しいモノを作り上げていこう。
未だかつてシラクーザに現れなかった、まったく真新しい――
誰もが有する、秩序というものを。
ラヴィニアに向けられたレオントゥッツォの目には、とても輝かしい決意が煌めいていた。
文明という名の決意が煌めいていた。
生を受けてからこの方、狼であれば誰しも、自分の存在は荒野の象徴であることを理解してきた。
長い長い月日を経て、数えきれない殺し合いを経て、この者たちはとうとう今のようなゲームの形を取り、群れを率いる狼を選出することにした。
ザーロにとって、今回の惨敗は紛れもなく恥辱以外の何物にもならないだろう。
だがこの者たちに滅びという概念はない。
次のゲームが始まれば、彼は再び舞い戻ることができるのだ。
そのため彼はすでに、次なる候補者を物色し始めていた。
そこですぐさま、ヴォルシーニを離れ、荒野を彷徨っているラップランドを彼は見つけたのである。
そして――
ゼェ……ハァ……
もう、休憩は十分かな、ザーロ?
……
ザーロとラップランドは荒野で三か月も戦い続けた。
それまでの間、ザーロは何度もこの狂人の喉元を食い千切ることができていた。
ラップランドでは決してこの者に勝つ事はできない。
だがザーロは徐々に、勝てないのは自分であることに気付いてしまったのであった。
この狂人の血肉ではいかなる思想を潤すことはできない。この狂人の頭蓋を食い千切ってもなお、いかなる勝鬨を上げることもできず、ましてやこの狂人を殺したところでなんの意味もなさないからだ。
この者はただの空っぽな抜け殻であるがために。
まさかこいつも荒野なのだろうか?
いや違う、こいつはただ荒唐無稽なだけだ。
その一瞬、仮にベルナルドの裏切りが想定外の情緒によるものであったとすれば、今目の前のいる存在もまた、自分の理解が及ばない者であることをザーロは理解する。
いや、こういった人間はかつて見たことがある。決してこの者だけが唯一無二の存在というわけではない。
だがこの者は、この唯一無二と言えるほどのタイミングでザーロの前に現れた人物であることに違いはない。
その時にある種の予感を。
ある種の呼びかけをザーロは感じた。
そこで幾千年來、荒野の化身としてきた彼は、最初で最後になるかもしれないが、初めて人間に平伏したのである。
彼は未知なる存在に対して、自らの尊厳を降ろしたであった。
なんだい、これでおしまいかい?
俺たちの戦いなら、この先永遠に続いて行くだろうさ。
だから勝敗がつくまでの間、お前について行ってやる。
ハッ、勝手にしな。
力が抜け落ち、武器を落とすラップランド。彼女の身体はとっくに感覚を失っていた。
だが彼女が倒れてしまう前に、ザーロは傍へと近づき、さも当然であるかのように自分の身体で彼女を受け止めた。
テキサス、ボクたちはそれぞれ違う形でシラクーザを滅ぼす道を選んでしまったね。
また会えるのを楽しみにしているよ。
そう言い終えて彼女は目を閉じ、ぐっすりと眠りについた。
この時ばかりの茫々とした荒野にはまるで、天と地の間には一人と一匹の狼しかいないと思わせるほど、周りには何もいなく……
とても荒涼としていた。