なあおい、その帳簿はもう仕舞っておけって。数日経ったらまた自分のあの荷車で商売ができるってまだ考えてんのかよ?
そんなことは……ないよ、はぁ。
でも悪いことをしてしまったんだ、だからせめて自分の心に留めておかなきゃならないだろ?
あの医者は賢い人間だ、どんな傷を受けたのかなんて一目見ただけで分かっちまう。そんな人があんたをとやかく言っていなかったってことなら、許されたってことだよ。
でもあの人、自分は医者じゃなくて、薬を売ってる会社に所属してるだけって言ってたじゃないか。応急処置の知識を少し習っただけだから、ああやって傷口を処理することぐらいならできるって……
それが本当だとは限らないだろ?
俺からすりゃ、あの女はただの医者じゃねえし、薬売りならもっとねえ。あんだけ医薬品が揃えられてんのに荒野に現れるなんざ、どう考えてもおかしい。
それとあの女が持ってるトランク、中身見たか?あんたは商売人なんだろ、中にどれだけ金目の物が入ってるか、少しぐらいは分かるんじゃねえの?
そこまで詳しくは見てなかったかな。
……ってまさか、命の恩人の荷物まで奪うつもりじゃないだろうな?
まあまあ、適当に聞いてみただけだよ。
はぁ、そう……なあ、そっちパンまだ残っていないか?
もうほとんど残ってねえな。
……じゃあ少しだけでいいから分けてくれないか、頼むよ。
あの、先生。
あっいや、先生って呼ばれるのは好きじゃなかったんだったな……その、パン食べるか?
大丈夫、ありがとう。
何を読んでるんだ?
これは、古いターラーの詩集だよ。
おお、ターラー語か……まあ私、そこまで知ってるわけでもないから、文字として書かれたターラー語についてはチンプンカンプンでね、あはは。
……ここに座りたかったらいいよ、私のことは気にしないで。
あっ、うん……実はその、昨日の夜のことで礼を言いたかったんだ。
私、薬を少し分けただけだよ。
……傷口を洗って、包帯を巻くことぐらいなら、やって当然。でも、まだ下手だった。
気にしないでくれ、ああいいった傷は私ならロクに触れなかったから。見てるだけでもおっかないよ。
……それもあるけど、もしあの時君があそこで火を放ってくれなければ、私たちはきっとあのまま連行されていたはずだったよ、助かった。
火……?
……いや、火は放っていないよ。あの時私はただ、通りかかっただけ。
そうか、君がそう言うのなら、本当にたまたまだったんだろうな。
はぁ、何がダブリンだよ、あの兵隊らは言うこと聞かない人たちをみんなダブリンって呼ぶんだ。私たちならともかく、君みたいないい人までそんな謂れのない罪を背負う必要はないのに。
……キミはダブリンが憎いの?
私は……分からない。
君って都市からやって来たんだろ、なら少しだけアドバイスをしてあげるよ。実はこの間、そのダブリンの人たちもここに来ていたんだ。
聞いた話じゃヴィクトリアの部隊とばったりかち合ったみたいなんだけど、相手は一人も生きて帰らなかったらしい。
そのせいで街の偉い人たちはカンカンでね。それでトロント郡からわざわざ兵を調達して、ハイストーン平原で無差別に人を捕まえたり、村を幾つも燃やしていったんだ。
……正直言って、本当に私たちを助けるべきじゃなかったよ、そこまでする価値なんてない。
……
もし私が人の命を顧みなければ、ロドスとの約束を果たせることなんて……
ん?今なんか言ったか?言いづらいんだけどその、やっぱりちょっと声が小っちゃくてさ……
いや、なんでもない……キミが今言ってたことなら私も少しは把握してる、道中気を付けるよ。
あっ、もう行っちゃうのか?
うん、空が明けてきたからね。私の案内も必要はないだろう。
そっか、分かった。まあ分かるよ、君みたいな標準なヴィクトリア語を話すターラー人でさえも、私たちと話なんてしたくないはずだもんな。
(セルモンが近寄ってくる)
なあお前ら、ケリーは見なかったか?こんぐらいの背丈の女で、歩いてる時いつも尻尾を振ってる癖があるんだが。
ない?じゃあこの辺りで少し探してみてはくれねえか、先生?もう一晩帰ってきてねえんだ。
セルモン、急に態度が変わったけどどうかし――
ヴィーン、お前はこっちを手伝え。
……
あれ、こっちに信号がある?じゃあもしかして、ウチらまた方向を間違えたとか?
そうみたいだな。この近くにある通信設備が破壊されていないということは、連中はこっちに向かわなかったってことになる。
う~ん……ロドスからは何か言われなかったべか?
ニュースで言ってる事とさして変わらん。昨晩ダブリンの部隊がレッドスパイン町で放火し、軍が駐在してる家屋が燃やされた。
だがその部隊、どうやらまだここの荒野には逃げていないみたいでな。
ほかに入手した情報ならすべてデマの類だ。ここ一か月、偶然にもこの荒野に接近した移動都市はなかった上、外勤オペレーターたちからも異常は報告されていない。
戦闘の痕跡ならこちらで少しは確認できたのだが……あの程度の痕跡では戦闘の規模は測りかねん。
ただ双方の実力に大きな差が開いていたことだけは見て取れる。ヴィクトリアの部隊なら、きっと短時間で壊滅させられたのだろう。
……っておい、聞いてるのか?
はえ?
パーツの向きが間違ってるぞ、またボーっとしていたな?
おおすごいね、チェンちゃん!破城矛の構造も把握しちゃってるなんて!こっちはあの頃必死こいてやっとメンテナンスの方法を覚えたっていうのに。
……構造なら完全には把握していない。
さっきまでね、なんでヒュースさんは手紙じゃまるで人が変わったみたいに口調が変わっちゃったのかなって気になってて。まあ、別にそんな大したことじゃないとは思うけど……
いや、お前の直感はいつも当たるほうだ。
相手はもしかしたら言いたくても口に出せない状況にあると、そう考えているのか?
……私たちがこの前彼に会った時も、まるで誰かに監視されていたような振る舞いだったしな。
そうそう、そんな感じ!
なら、私たちが今向かってる方向は間違ってはいなかったということになる。ヒュースが私たちにくれた情報も、敵が警戒してしまうほどに精確だったことを意味する。
進軍ルートは隠蔽できても、戦備関連物資等々の流れは情報が漏れてしまったといったところだな。過去数か月以内に、私たちがマークしていたダブリンの部隊ならみんなここら一帯を通っていったはずだ。
トロント郡の外にある……無人の区域を?
……
どうしたのチェンちゃん?急にそんな警戒……
三時の方向だ。
――
あれはヒロック郡の時と同じ格好の……亡霊の連中だべ!
はやく追いかけ――
待てバグパイプ……あいつら、なんだか様子がおかしい。
あっ、ホントだべ。何人か荒野に突っ立ってるだけで、なんだか見張りをしてるみたい……もしかして誘われてる?
いや、おそらくは違う。あいつらを見てると……龍門で起こったことを思い出す。
油断はするな、ゆっくり近づくぞ。