アナサ。
これは古い言葉で、“根無し草”を意味する。
一族の者が言うには、この世の森羅万象は移り変わるも、生老病死の四苦のみは変わることがない。ある種の拠り所を求めれば、ただ徒に己へ煩悩を増やすだけだ、とな。
だから私たちはあてもなく彷徨い、荒野と共に生きている。この広い大地の中でなら、水源と獲物ぐらいなら探せば見つかるものだ。そして己の命が尽きる時、自ずと土と化し、大地へ帰っていく。
しかし、いつしか天災は私たちの生きる土地を滅ぼし、一族は危うく逃げ惑う最中に命を落としてしまうほどの危機に陥った。
だが偶然にもそこへ、移動都市から通りかかった者が現れた。その者は私たちをほかの安住の地へと導いてくれたのだ。
彼女は私たちに武芸を教え、知恵を授け、移動都市の物語を語ってくれた。
そして彼女はこう言ったのだ。人であれば、“家”と称するに相応しい場所を持つべきだ、と。

――!

大人しく寝ていろ。

(古いサルカズ語)あなたは誰!?どうして私はここに?
(ガタイの良い男性が近寄ってくる)

何を言ってるかさっぱり分からねえ。まっ、別にどうだっていいか。

ここに入れたからには、安静にして、しっかり食うもんを食って、医者の言うことを聞いておくんだ。先生がいない場合は俺の言うことに従ってもらう。でないと、すぐコロッと逝っちまうぞ。

(たどたどしい炎国語)ここはどこ……?あなたは誰!?

ここは医館、要は診療所みたいなとこだ。お前は病人で、俺はここで働いてる。

私の剣はッ!?
少女は慌てふためきながら周りを探り、傍に置かれてあった剣に触れてやっと、ゆっくりと落ち着きを取り戻した。

よかった……まだあった……

昨日の夜、お前はここの入口で気絶していたんだ。死んでも離さないってな感じでその剣を懐に抱き締めながらな。お前、そいつを奪ったからケガを負ったのか?

……あなたには関係ない。

そんな目で俺を見るな。もし奪うつもりがあったら、お前が気絶してる間にとっくに奪い取っていた。

いわゆる絶世の神器のためなら命すらも投げ捨てるような連中はもう呆れるほど見てきた、下らねえよまったく。

お前らってのは本当に、そんな武器一本で力を増すことができて、倒せなかった人やモノを倒せると思っているのか?

俺は武器なんざ信用しちゃねえな、信じてるのはいつだって自分の拳だけだ。

武を習う者が、勝敗を余所に託してる時点でそいつは落ちぶれてんだよ。まったく度し難いぜ。

あなたに何が分かるの!

私は別に、この剣を武器として使うつもりなんかない……私はただ……恩返しをしたいだけだ。

生憎、剣が人を斬る以外の用途を知らなくてな。

師匠が言ってた、この剣は彼女にとって非常に意味があるものなんだって。

だから約束したんだ、私がこの剣を師匠のところに持ち帰るって。せめて、墓前に供えてあげることぐらいは……

その師匠、もういないのか?

うん……

恩義や恨みってもんには興味ねえ、あちこちに移ったりするだけで鬱陶しいだけだ。

剣を奪ったのは恩返しをするためだって言うのなら、そういうことにしといておこう。危うく命を棄てるところだったんだ、ウソをついてるとは思えねえ。

つまり、その剣は命よりも大事だというよりかは、その師匠の恩義を命よりも大事だと考えているってことだな。ならお前は情に厚い人間だ、そこは悪くねえ。

……どうして私を助けたの?

当たり前だろ、ここは医館だぞ?どうしても何もあるかよ。

でも私、お金ないよ?移動都市に住んでる人たちは、他人からのご恩を受けた際はお金で返すって聞いたから。

確かに借りを金で返すのは間違っちゃいねえ。だが金がなくても問題はない、その代わりに働いてもらえりゃいい。俺もそれでここにいる訳だしな。

だが俺はお前と違って、俺が返してるのは、俺がケガを負わせちまった人たちの医者代だ。

ここでの力仕事ならもう間に合ってる。その代わりにお前は薬草を干したり、梱包のほうをやればいい。俺よりもツケは少ないほうだから、二三か月もあれば払いきれるだろ。

それじゃあダメだ!

私を助けてくれたこのご恩なら、後で必ず返すよ。でも今は、急いでるんだ……

今すぐこの街から出なきゃならない。

動くんじゃねえ。

言ったはずだ、ここでしっかり安静にしておけ。

こんな重傷を負ってもまだ生きてるってことは運がいいほうだ。もしうちで死んじまったら、お前もここの医館もメンツが立たねえだろう。

ふむ……しかし、恩返しも大事っちゃ大事だな。ならお前が元気になってツケも払い終わった頃になったら、手伝ってやるかどうか考えといてやるよ。

……!
(ドアのノック音)

なんだ、また患者か?

ちょっと見てくる、お前は動くんじゃないぞ。
(ガタイの良い男性が扉を開ける)

門を叩いていたのはお前か?

失礼、こちらの医館の先生ですか?

先生はいま留守だ、俺はここで働いてるってだけだよ。診察なら先生が戻ってからにしてくれ、薬が欲しいなら今すぐにでも構わねえけど。

お邪魔して申し訳ありません。現在玉門軍のほうでとある犯人を追っていまして、こちら令状になります。いくつかお訊ねしてもよろしいですか?

それはこっちの機嫌次第だな。

昨晩から未明にかけて、こちらの医館で刀傷を負った重傷者は引き取りましたか?

引き取っちゃいねえし、見てもいねえよ。薬を買わないのならとっとと消えてくれ。

では少しだけ、建物内を見せてください。終わったらすぐに立ち去りますので、これ以上のご迷惑はかけません。

ダメだ、病人でもねえ上に薬を買うつもりもねえヤツは入っちゃいけねえ。

玉門において、迅速に患者らを救助しに奔走する医療関係者らはとても敬服されている存在ですから、こちらも無理に侵入するつもりは毛頭ありません。

しかし今回は玉門の安全に大きく関わる一件ですので、どうかここはご協力をお願い致します。

ゴチャゴチャとうるせえことを言ってるが、ダメなもんはダメだ。お前にはお前のルールがあるように、こっちにもこっちのルールがある。入っちゃいけねえつったら入ってくるな。

ならば致し方ありません、失礼をお許しください。
それはまるで森に住まう羽獣のように、ズオ・ラウはとても軽快な身のこなし方を見せた。
しかし医館の門をくぐろうとしたその瞬間、彼はとてつもない怪力に襟元を掴まれ、そのまま元のいた場所に放り投げられてしまった。
見ればその大男は相変わらず彼の前に立っており、一歩たりともその場から動いていないような様である。
左楽を軽快な羽獣に例えれば、彼はまるで果てしなく目に見えぬ大きな網にかかったかのようであった。

(この大男、すごい腕前だぞ!?)

小僧!入るなと再三言ってるだろ、死にてえのか?

……

公務執行妨害をすれば相応の罰則を受けることになりますよ、それが分からないのですか?

分からねえし分かりたくもねえな。

やれるもんならもう一回飛んでくるがいいさ、入れたらそっちのもんだ。

……ふざけないでください!
(物が割れる音)

ん……?

中に人がいるのですか!?

ん?クソ、あのガキどこに行きやがったんだ?
(ズオ・ラウが駆け寄ってくる)

これは……
部屋の中は乱雑で、包帯と綿球は机の上に放り投げられたまま、病床には微かに人の温もりが残っていた。
その上空気中にも、僅かではあるが血と薬草の匂いが漂っており、鼻をくすぐってくる。

……先ほど質問した際に、昨晩から未明にかけて重傷者を引き受けたことはないと仰っていましたね。

ではこの包帯と血痕はどう説明するのですか?

っだあもう、クソ!動くなって言ったのに、あのクソガキが!

うだ、確か都市を出るとか言ってたな。ならきっと城門のほうに向かったはずだ!

いけねえいけねえ、こりゃいけねえぞ。患者をあのままほったらかしにしちまったら、また先生にデカいツケを作ることになっちまう!

こら、待ちなさい!

お茶葉は如何ですか~?尚蜀の岩茶、勾呉の花茶、姜斉の白茶、それと大荒城の荒茶も……欲しい茶葉ならなんでも置いてますよ~!

龍門の緑茶、2カート分をお願い。

お客さん、茶葉をカートで買うなんてそりゃちょっと――

げッ……り、林のお嬢……

また会ったわね。

あなたに任せたこと、ちゃんとこなしてくれた?

この前しっかりと条件を出し合ったわよね?

な、なんのことだか……俺ちょっと分かんねえや……

今回玉門へ入ってきたキャラバン、その内のどれくらいが偽の通行証を持っていて、どこでそれを入手してきたのかを聞いてもらうようお願いしたんだけど。

もっと詳しい情報が欲しいわ。

お嬢、マジでもう勘弁してくださいよぉ!今度戻ったら絶対みかじめ料を払っておきますから!この前の分だって!だからもう関わらないでくれ!

今はあなたが昔やらかしたことについて聞いてるんじゃない。

いいから私の質問に答えなさい。

……

だ、誰かーッ!

強盗だーッ!

おいおい、こんな真昼間から強盗だぁ?

あの女だ、捕まえろ!
(慌ただしい売り子がコソコソとその場を立ち去る)

はぁ、時間の無駄。

おい、みんな見ろ!あっちに仲間みたいなヤツが逃げて行ったぞ!

あのー……

店長なら不在だ、俺は店番をしてるだけ。なんかご用?

いや~、ちょっとお聞きしたいことがありましてねぇ。

ここは鍛冶屋だ、武侠ものを聞きたいのなら宿屋に行きな。

いやでも、そういった世界のお話は、ここでしか聞けないって耳にしましたよ。

まあいいや、仕事がてらの雑談ってことで。聞きたいことがあったら言ってくれ。

お時間は取りませんよぉ、ご自分の商売が何よりですからねぇ。

で、鉄鍋を打ってもらいたいのか?それとも包丁か?

剣って言ったら、どうです?

申し訳ないけど、うちはそういうやってないんだ。ここは日用品しか作っちゃいないよ。

でも店頭の看板、“鋳剣坊”って書いてますけど?

今の玉門で“鋳剣坊”、要は刀鍛冶の看板を掲げてるとこはここぐらいでしょう。

そんなのただの店名だろ。店長の気分次第じゃ、“品茗苑”だったり、なんなら“迎賓館”って名前に変えることだってできるぞ。

そりゃごもっともで。

あのさ、お客さん外から来たんでしょ。

砂漠広がる玉門の景色に惹かれてやってきました。

はぁ、毎回龍門と接舷すればこれだよ。いつも武侠もののテレビドラマに影響された観光客が押し寄せてきやがって。少し考えれば分かるもんだろ、あんなの全部ウソっぱちだって。

一体こんな貧しい場所のどこが面白いんだか……

で、あんた剣を打ってほしいって言うけど、旅行の記念品にでもするつもりなのか?なら悪いこと言わないから、玉門特産の干し肉でも買って帰ったほうがまだマシだぞ。

その場所にはその場所の特色ってもんがあるんですから、多めに見て回っても損はしないでしょう。

ドラマでやってるものが本物かどうかは知りませんけどね、でもこの鍛冶屋に歴史はないって一万回言われても、おれは信じませんよ。

信じるか信じないかはお客さんの勝手でしょうが。

あんまりこう言いたくはないんですけど、さっき外の市場からこちらに向かう最中、どこの店も客でごった返していたんですが、ここの鍛冶屋だけは、その……寂れてると思いまして。

でも長い歴史もない商売あがったりな店が、こんな繁華街で店を構えてるとは思えないんですよねぇ。

あと、仮に本当に商売あがったりな鍛冶屋だったとしても、こんなにたくさんの炉に火をつけて、鉄塊を置いてるはずもないでしょうよ。

……チッ、これだから勘のいいヤツとは話したくないんだ。

お褒めにあずかり光栄です。

で、何が聞きたいの?

本当なら武術界隈のことについてちょいとお訊ねしたかったんですけど……さっき仰ってくれたことにも、少しだけ興味が湧いてしまいましてね。

ですので先に、この“鋳剣坊”がいかにしてただの“鍛冶屋”になってしまったのか、それを教えてくれませんか?
人が必死になっている時の逃げ足というものは、いつにも増して速いものだ。
今にも背後を追う人を振り撒けそうな勢いであったのだが、何もないところから突如と縄が出現したかのように、逃げ惑う売り子を躓かせる。そんな彼が起き上がって振り向いた時、そこにはサラサラとした細かな砂しか残っていなかった。

もう満足かしら?

(激しい息切れ)

そっ、じゃあ話の続きをするわね。

あなた、一体何をそんなに恐れているわけ?

お、お嬢……今回は、マジで相手が……悪いって……

そんなの知ってるわよ。

もし俺が口に出したら、あいつら……絶対見逃さ……ないっすよ……

お嬢……俺にも家族がいるです……みんな俺一人にかかってるんですから、もう見逃してくださいよ……

あら、自分の家族のことは憶えているのね。ならその家族が今……龍門にいることも忘れちゃいないでしょうね?

なッ――!

リンさんよ、あんたと鼠王のやり方については分かっちゃいるが……

でもだからと言って、うちの家族に手を出すなんてそんな……

それを決めるのはあなた次第よ。

それとも、私はそこまでお人よしじゃないってことを、あなたが証明してくれるのかしら?

俺は……

さあ、知ってることを全部教えなさい。

……毎回龍門と玉門がドッキングする際、いつも決まって同じ密輸者連中が入り込んでくるんです。あいつらは安定した通行証の入手ルートと、ブツの出処と販売経路を持ってまして。

けど今回、急に見たことねえ連中が現れたんすよ。ベテランの密輸者も知らねえような連中が。そんでそいつらにちょっかいをかけた人間がいたんだが……みんな消えちまいました。

消えた?

はい、ちょっかいをかけた側が……

他には?

……

さっさと言って。

ほかには、あいつらがブツを隠してる場所とか、売り捌いてる場所とか……

市場のほうは片付けてくれた?

騒ぎを引き立てて、それからお詫びをするだけの流れですから、慣れたもんですよ。

そう、ご苦労様。

で、この人はどうするんです……?

とりあえず軍営に連れて行くわ。玉門での仕事が終わったら、近衛局へ連れて行きましょう。

ちょっ、お嬢!もう知ってることは全部教えてやったじゃないすか!なんでこんな――

あなたを安全な場所に連れていって匿ってあげるのよ。

あの人、ここへ来て見失ってしまいましたか……
いつもの玉門の市場は、これほどまでに賑わっているわけではない。
大通りを歩けば肩をぶつけてしまうことは当たり前で、子供連れの大人は、なおさら子供の手をしっかりと取ってやらねばならないほどだ。
そのような人混みの中で、特定の人物を探すことは容易ではない。

お客さん、あんた買い物をしに来たのかそうでないのかどっちなんだい!?

ほら、どいたどいた!買わないってんならどいてくれ、商売の邪魔だ!

す、すみません……
店員の売り声、遠くから聞こえてくる争いの声、そして値切りのやり取りといった雑音が絶え間なく鼓膜を震わせてくる。こういった環境の中で、仮に命を狙う危険な音が鳴ったとしても、必ずしも耳に届くとは限らない。

誰だ!?
その剣の一刺しは、背後からやってきた。
無音のその剣筋に、ズオ・ラウはほぼ本能に従って前へと躱していく。
剣先はマントを突き破っていたが、あと少しのところで、左楽はその背中に一生不自由な身体になってしまうほどの傷を負うことになっていただろう。

何者だ、出てこい!
後ろに振り向くズオ・ラウではあるが、そこに見えるのは今も騒々しい市場の光景だけである。

(まさか、さっきの人はボクを誘い込むためにここへ?)

(しかし、ここで騒ぎを起こすわけには……)

(一体どこに隠れたんだ……)

……!

今日の市場は本当に賑やかですねぇ。

リーさん?

ズオ公子、どうやら不埒な輩が紛れ込んでるみたいですよ、お気を付けください。

それは分かっていますが、もしかしてリーさんも……

これはほんの少し目くらましができる技でしかありませんので、あんまり期待しないように。

ここは危険ですから、ひとまず逃げましょう。

そうするしかなさそうですね。
(リー達が気配を消す)

……

本当はおれも人探しをしていただけなんですけどね、まさか網にかかってしまったのがおれたちのほうだったなんて……

まずはここを出ましょう、一般人を巻き込むわけにはいきません。





