
おい押すな押すな!荷物が落っこちちまったじゃねえか!

時間はまだ十分ある!みな慌てずに順序よく避難されよ!落ち着いて、転倒しないように!

お母ちゃん……

うぅ、怖いよぉ。

大丈夫、ママの手をしっかりと掴まってるのよ。はぐれないようにね。

これからどこに行くの?

私たちが住んでるところって、毎年何度も嵐に見舞われるでしょ?今回もそれと同じよ。

吹き飛ばされたくなかったら、こうして大人しく避難しなきゃならないの。
地響きにも似たくぐもった音を響かせながら、巨大で四角い陰影が玉門の城壁を上っていき、次第に街半分もの日差しを遮った――
“玉門四衛”。通称“屏風衛”とも呼ばれる、外壁に取り付けられた四枚の巨大な防御壁のことである。土木天師らが設計し、軍の冶造司らが製造に携わった巨大な人工物だ。
数百年來、玉門は炎国の障壁として、辺境を守護する要塞の役目を担ってきた。そしてこれら四枚の屏風衛はその玉門の障壁として、砂漠から吹き付けてくる砂塵や冬風、さらには源石嵐をも防いできてくれた。
四衛が傾かない限り、どんな風だろうと通すことはない。

ひょえぇ、こりゃ高っけぇなぁ……

玉門に来てもう三年は経ちますけど、屏風衛らが上るところを見たのはこれが初めてですよ。

別段驚くことでもないだろ。

玉門の防護壁は元からあれぐらいの高さだ、加えて城壁全体には源石の防御工程が施されている。一般的な規模の天災じゃ、屏風衛を稼働させるまでもない。まあないわけではないが。

しかし、都市半分の人口を避難させることなら、こっちも軍に入ってからこれが初めてだ……

ここまで大袈裟に避難しなければならないなんて、一体今回はどんな規模の天災なんですか?屏風衛でも凌げないヤツなんですか?
兵士らが対話しているうちに、屏風衛はすでに固定を完了させ、分厚い鋼鉄の板はまったくの隙間も生じさせないほどぴったりとくっついており、風すら通さない。
その巨大な陰影が落ちる中、長蛇の列をなしていた市民らは城壁の真反対の方向へと進んでいく。重厚で堅牢な屏風衛からくる安心感なのか、しばらく混乱が続いていた人混みは、次第に秩序を取り戻す。
長らく塞外を彷徨ってきた胡楊の木は、とうに砂塵など慣れたものなのである。

なんだ、お前怯えているのか?

……

バカなことを考えてる暇があるのなら、避難誘導しに行け。

それと目も光らせておけよ、山海衆の連中はまだ市内に潜んでいるんだ。今は人も密集している、一番事件が起こりやすいタイミングだからな。

しっかり市民らを守るんだぞ。

親父さん、まだ避難してなかったのか?

市内放送でもう何回も言ってるだろ、もうすぐここは天災と衝突するって。東地区の住民らは今日の午前中にも西地区まで避難しなきゃならねえんだぞ。

聞こえてるって、そう焦るな。天災つってもまだ見えてねえじゃねえか、それに今ものを探しててよ……

おっ、あったあった。

店そのものが消えちまうのは別にどうだっていいんだが、このレシピ本だけはなくすわけにはいかねえ。命よりも大事なもんだぜ。

なあ親父さん、もしこの店が吹き飛ばされちまうようなことが起こったら、俺と一緒に龍門にでも来ねえか?

何言ってやがんだい!

わ、悪ィ悪ィ……余計なことを言っちまったな。

でもここ数日間、ずっと親父さんの世話になってたからさ。親父さんの腕さえありゃ、龍門で店を開いてもきっと人気が出ると思うぜ?

そういうワケにもいかねえのさ。

もし俺がここを離れちまえば、ここにいる人たちはもうウチの秘伝のタレで作られた獣肉料理が食べられねえじゃねえか。

親父さん、玉門で生まれ育ったのか?

そうでもねえ。

生まれは中原だ、本当なら龍門で商売をするつもりだったんだけどな。ただもっと北のほうに行ってみたいと思っていたから、都市同士が停泊してる間に玉門へ来たってわけだ。

あの頃ちょうど財布をなくしちまってな、仕方なくこの店で働くようになったんだが、それがいつの間にか自分がこの店の番頭になっちまって。

この店の建物自体、惜しいとは思っちゃいねえさ……人が生きてりゃ、店もそこにあるって思ってるからな。

まあ、それはそうだけどさ。

はぁ、仕方ねえな。ほら、俺も荷造り手伝ってやるよ。
この時、風は起こっていない。
しかし、たとえ未だ遠くの距離に位置していても、暗く不気味な雲が地平線の空を覆い尽くしているところが目で捉えれる。
天災雲はまるで移動していないように見えるが、空気はなぜだかますます乾燥してきた。
まるでここに風が吹けば、たちまち暗雲が玉門へ襲い掛かるかのように。

ふぅ……

おや、ズオ将軍も兄さんの武闘を見に来られたのかな?

避難誘導は滞りなく進んでいるからな。宗帥も天災がやって来るまでの間に、その人が果たして預けるに相応しい人物かを見定めようとしてるのだ、私もここで見届けないわけにはいくまい。

しかしそのような方法で剣を預けることなら、今も変わらず荒唐無稽に思っているがな。

貴君と兄さんは、もう数十年も戦場で生死を共にしてきた付き合いなのだろう?友人としてでも、兄さんの選択には同意しかねるのかな?

……友人か。

うん。

我らは共に戦場へ赴いてきたが、生死を共にしたなど言えるはずもない。重火器ですら傷一つつけることができない諸君らに、どうしてヒトと生死を分かち合えることができようか。

諸君らは結局、蚊帳の外からでしか我々を見てはいないのだよ。

……

“蚊帳の外”、だって?

私は今までどんなことでも他人事のように、悠悠自適に過ごしてきたものだから、そういう風に言われるのは構わないけど。兄さんに対してだけ言うのはちょっと違うんじゃないのかな?

人は人、獣は獣だ。そこに変わりはない。

リィン殿も、朝廷の諸君らに対する態度は理解しているのだろう?

仮に諸君らと頡頏することがあれば、我々は諸君らを助力として見なそう。だがもし力関係の均衡を保つことができなければ、我ら自らの力を行使してでも諸君らを用いることはしない。

私は彼ほど人を信じられんのでな、だから私はそう易々と彼を信じてやれんのだ。

まさかズオ将軍がこうもあっさりと自分を打ち明けてくれるとはね。

しかし、それはあまりにも自分を軽んじてるというものだよ……
だが言葉を返すこともなく、ズオ・シュエンリャンは静かに目線を市外に広がる砂漠へと向けられた。市内に見える人影はすでに疎らだ、まるで蒼茫とした絵巻の中に飛び散った墨点であるかのように見えた。
天も地も、粛々としつつある。

あの頃の日々、今もまだ昨日に思えるよ。

戦へ赴くその合間、私たちもかつては四方を漫遊し、酒をかっ食らっては歌を謡ったさ。玉門も相変わらずなのに、なぜよりによって貴君が、こうも白髪を増やしてしまうほどに憂愁してしまっているんだい?

あの二人を見て、もしかしたら貴君もあの波乱に富んだ日々を思い出したんじゃないのかな?

人は人、獣は獣と言うけどね、見てご覧よ。よりによってそんな時に、そういったヒトと獣の溝に挑もうとする人が現れたじゃないか。とても澎湃な挑みだとは思わないかい?

……

まあまあ、眉を顰めるのも程々にね。

一杯どう?私たちは私たちで、少しだけ賭けをしてみない?

いい、実にいい。

ようやく俺と戦ってくれるようになったか。

長らく待たせてしまってすまなかったな。

たったの三年だ、そう長くはない。もし他にもまだやることが残っているのなら、まだまだ待ってやってもいいぞ。
三年前

ストップ。やめだやめだ。

……

まだ始まったばかりじゃないか。

いいや、もう十分だ。

今ので、俺たちは互いに三発を撃ち込んだ。お前と俺が本気を出せば、もうすでにどちらかがケガを負っていたことだろうよ。

だがお前は手加減をしていた。そのせいでこっちも本気を出せずにいる。

まったくつまらねえ、痛快さってモンがねえ。

武を競い合う以上、攻撃が相手に触れさえすればそれでいいのでは……

誰がお前と武を競うつった?誰が触れさえすればいいつった?やるなら全力でやれってんだ!

天下にある武芸は、どれも殺しから生じた技だ。生死を経て変化してこなかった型などどこにある?玉門の武闘ランキング一位に君臨しているヤツの言うようなセリフとは思えないぞ。

それもそうなのだが、しかしだな……

まあいい、お前も立場と責務ってもんがあるんだろ。本気で手を出したら、それらが危ぶまれる。

ならいつ頃その任が解かれるんだ?それまで持ち越しだ。

何時になるかは、まだ分からないな。

凡そだけでもいい。

……短ければ三から五年、長ければ十数年はかかる。

いいだろう、ならそれで待っておく。

どうせお前はこの都市にいるんだ、こっそり逃げ出すとも思えねえ。

先へ延ばしたところで、いずれはまた訪れてくるものだな。我々が持ち越したこの一戦をこの地でやり遂げるのも、それはそれでまた一興なり。

そこで一つ、こちらの私情を少々、君にお願いしたいと思っているのだが。

なんだ?

過去に軍が出征に赴けば、その先鋒は兵士らへ演武を披露し、士気を高めるという伝統がある。

今や玉門は天災という敵を迎え撃とうとしている。そこでその前陣で披露される我らのこの一戦を、市内にいる将兵と子民らへの景気づけにしてやっても構わないか?

俺は構わねえさ。だが市内連中らが見てる中で俺に倒された際、そっちのメンツがなくなっても悪く思わないでくれよな。

フッ……

しかし、もう随分と私へ挑んで来ようとする、君みたいな人とは出会っていないものだ。

こっちこそ、もう随分とお前みたいな挑み甲斐のあるヤツとは出会っちゃいねえ。

さあ、手加減はなしだぞ?

無論、本気を出させてもらう。

なら、勝敗は己にあり。

生死は天命にあり。

ふぃ~!どうどうどう?間に合った?

まだケガが完治していないのに、もうベッドから降りちゃっていいんですか?

冗談言わないで。これでも何年かは武術を習ってきた身なんだから、そこまでナヨってちゃいないわよ。

それに、ケガなんて後でいくらでも治せるでしょ!それよりもあの二人の武闘よ!あんなのを見逃したら、どこに行って探せばいいのさ!

別に大したことには思えませんけどね……

あのフェリーンのおっちゃんが、いつもあんたが口にしてるクソ親父さん?

さすがは親子ってところね、結構似てるところがあるじゃないの。

どこがですか?

おっ始める前の雰囲気とか。

見てよ、あんたの親父さん。ありゃもう人を取って食いそうな雰囲気を纏ってるわね。

フンッ……

にしても、例の宗帥の武芸はすでに常人の域を超えているとは言え、最近はめっぽう手を出さなくなったって聞くわね。大げさに言っちゃうと、この世にある大半の武術はあの人が発明したものだとか。

あんたの親父さんも、昨日あのクソ女を撃退したらしいじゃない?

ねねね、それでどっちが勝つと思う?

ワイフー]……

まあ聞くまでもないか、当然自分の親父に勝ってもらいたいんでしょ?

あの人が勝とうが負けようがどうだっていいです、私には関係ありませんから。

ただ、あの人と私はまだどれぐらいの差が開いているのか、それをこの目で確かめておきたいんです。

おや、リャン様……

まさかリャン様も観戦しに来られるとはねぇ、あんな殺気立った殴り合いに。

友人である以上、見に行かないわけにはな。

“天下に名を轟かせる”……彼も、今やその目標を果たしているのかどうか。

この武闘に、どれだけの人間が目を向けているのか見てご覧なさいよ。どっちが勝つか負けるかはともかく、こりゃまた武術界隈に逸話を残すことになるなぁ。

痴人が一人、よそに己を知らしめる前に、まずは自分とケリを付けなきゃならないってことかな。

ケリを付けなければならないのは、私たちとて同じだろう。

リー、君は近頃……

いやね、本当ならこっちもワイ・テンペイを探すことに集中しておきたかったんだが、ま~たなんか厄介事が舞い降りちゃって。

んで一時だけ探偵仕事に戻って、色々と調べてみたんだ。そしたらおおよそ、お前さんの考えもついでに知っちゃってねぇ。

そんなに厄に見舞われるのなら、もしかすれば君自身に問題があるのかもしれないな。

兄貴をやる以上、兄弟らに気を配らんわけにもいかんでしょうよ。

それで、何か分かったのか?

あの宗帥はリィンさんのお兄さんだということと、今回起った一連の事件は玉門の中じゃあまり知られていないということ。というより、むしろあえて秘密にしてるんじゃないのか?

そうだな……

宗帥がなくした例の剣を取り戻すことが、向こうからすれば急務ではあるが、厄介なのはその後だ。剣をどう処置すればいいのかが未だに不明。

リャン様からしてみれば、その剣を玉門へ残すわけにはいかないだろう。司歳台の意思か、はたまた玉門参知としてなのかは置いといて。よりにもよってあの平祟侯が剣を手放そうとしてくれない。

だからお前は、その剣を所持する資格があって、かつ両方を納得してやれる人を探し回っていた。

んで、そういう人はちょうどこの都市にいた。武芸が達者な、お前の義兄弟が。

ワイ・テンペイと今回の事件を結びつくために、剣を盗んでいったあの女の子をあいつのいる医館へ引き寄せたのも、考えてみれば必然だったってことだろうな。

……

尚蜀から玉門まで、毎度毎度自分のお願いに腐れ縁のおれらを使うってのは、ちょいとばかりズル過ぎやしないか?

友人はさほど多くないからな、こればかりは致し方ない。

そんであと一つ疑問がある。

今回もそうなんだが、お前はいつからワイ・テンペイを巻き込もうと企んでいたんだ?

……

まあいいさ、話したくないのなら。

はぁ、やれやれ……

お前がいくらおつむを動かしたところで、最強の武人に挑み、のし上がろうとするのはあいつの悲願だ。事が済んだら最後に、実は全部お前が仕向けていたことだって分かったとしても、むしろ感謝されるかもしれないな。

たとえ思い通りにいかなくとも、私たちはみなそれぞれ自分の為すべきことを為しているだけだ。

そうは言うが、これまでずっと初志貫徹できていたのはあいつだけだ。

“生涯為すことは唯一つ”って、よくもまあ簡単に言ってくれるよ、ったく……

あのワイさんって方、まさか怪我を負っていながらも師に挑もうとするとは……

ああいう人というのは、怪我どころか、たとえ最後の一息を振り絞ってでも挑もうとする。それで死ぬことになっても本望なのでしょう。

師と一戦を交えるために、ワイさんが玉門へ来られたことなら僕も把握していますよ。師も時折話題にしていたものですから、槐さんに負けず劣らずとも期待していたはずです。

武を修める者の中に、対戦相手を望まぬ者などいるはずもないですから。

これもきっと一種の執念なのでしょう、理解は出来ませんが。あなたが理解できなかったとしても無理はない事です。

姐さんが師のお傍にずっとおられるもの、そういうものなのでは?

まったく、あなたは呆けているのやら、それとも勘がいいのやら……時折分からなくなってしまいますね。

……

では姐さん、僕は先に行かせてもらいますよ。

ええ。あの二人はどれも常軌を逸している超人たち、おそらくあなたが記してきた記録の大半を塗り替えるような戦いを繰り広げるでしょう。

だからこそです、可能か限り詳細に記録しておきますよ。

……あまり近づくないように、巻き込まれる危険性がありますので。

分かってますよ、姐さん。では。
半日前

今日、ここでです

……

もう準備はいいのか?

先ほど老兵たちから聞いたのですが、今まで玉門は幾度となく、百回は下らない災難に見舞われ対処してきたが、これほど大掛かりなものは見たことがないと。

今回はたして玉門はどうなってしまうのか、あなたでさえ把握しきれていないのでしょう?

ああ、目に見えている以上に情勢は複雑だ。
姜斉から玉門まで、私は今までどれだけ危機に瀕し、またどれだけ命からがら生き延びてきたのだろうか?
荒野で野垂れ死ぬこともなく、山海衆のような悪党に成り下がることもついぞなかった。
一体何が、これまで私を支え続けてきたのだろうか?

この都市に居座り、長らくの間ここにいる人たちの世話になった以上、私も加勢しなければと。

だがその前に、私は私自身のためにケリをつけておかなければなりません。

あなたも言ったはず。もしこちらが手を出すのであれば、いつでも相手になると。

ああ、みなまで言う必要もないだろう。

さあ、準備が整ったのであれば、剣を抜くといい。

……
その女剣客は一歩後ろへと退き、精神を集中させ、剣を構えた。
だがしかし、自分が繰り出す一挙手一投足は、目の前の男にとって掌(たなごころ)を指すように明かりからであることを、彼女はよく分かっていた。
周りの者たちが言うには、この世は須らく仇を以て仇を報いようとするものらしい。
決して覆せぬ道理と呼ぶよりも、むしろ一種の結果と呼ぶほうが正しいだろう。
あの頃も、一体どれだけの者たちが村へやって来るまで、河底に身を葬られたのだろうか?その者たちの家族らも、父へ仇を討つべきだったのではないだろうか?
私は仇を討つために、目の前にいるこの男を殺すために生きてきた。だが剣を向ければ、いずれまたどれだけの者たちが私へ仇を向けてくるのだろうか?
仇には仇を、血は血を以て償いを。いつの世も、殺し殺されに終わりはない。
今まで私を支えてきたのは、そういった憎しみなのだろうか?
その問いに、私はどれだけ悩んできた?この男の傍に立ち、こいつが見たものを共に見てきたこの五年間もか?
いや、それよりもずっと昔からなのだろう。
姜斉から玉門へ来るまで間、手中にある剣はとっくに血に染まっていたんだ。あの亡魂たちのためにも、私はどうやって是非善悪を判断すればいいのだろうか?
そうだ、だからこそ私は玉門へやって来たのだ。仇を討つために、そしてこの剣を問うために。
討つべき仇を討ち、解くべき迷いを解くために。
振り下ろされることなく、その一太刀は不意に収まった。
剣は手の中から滑り、近場にあった溝渠へと落ちてしまった。それにより羽獣たちが驚きのあまり飛び立ち、暫くしてからその響き渡る鳴き声もやがて収まった。
剣の鍛錬、ないし敵を迎え撃つ時のように瀟洒でもなく、あまつさえ力を引っ込める際の慣性で危うく自分すらも怪我を負う羽目になるほどの醜態ではあったが。
それでも女剣客の表情は、釈然としていた。

これでいい。

剣はすでに振り下ろされていた。それに、剣如きであなたを殺せるわけもない。

……ああ。

だが、あなたを殺せないからといって、仇を忘れるつもりもありません。

ただその“仇”は、もはや私に剣を抜くほどの価値がなくなっただけ。
私はいつから、この答えを得ていたのだろうか?

ワイ殿の足取りを見たところ、この三年間、さしずめ更に武功が精進したようだな。

私たちはこれまで……

お互い、色々と喋り過ぎなんじゃないのか?

いや、私はただ……
チョンユエは、言いかけた言葉を呑み込んだ。
相手は未だ傷を負っている身だ。ここで少し余談に興じれば、その間に彼は少しばかり息を整えることができる。
だがそんな気遣いなど、相手からすればただの侮辱にしかならないことを、重岳は察した。
この世において、絶対的に公平な戦いなど存在しないのだから。
雑念を振り払い、ひたすらに勝利を望み、渾身の力を振り絞る。それこそが何よりもの“公平”なのである。

では、始めるとしようか。
拳を握りしめる槐天裴。その掌に彫られている溝がくっきりと見て取れる。
あれは鍛錬を重ねてきた際に残された痕であり、四十年もの歳月をかけて武を追い求めてきた素地にして、彼の豪気の表れである。
男はこの一戦のために三年も待ち続けてきた。だがこの一戦のために積み重ねてきた諸々の備えと鍛錬は、武を修め始めたあの最初の一日から数えなければならないだろう。
武者 高みへ攀じ登れば、当に絶頂を凌ぐ。
万籟 声は無く、風は停(とど)まり雲は遏(た)つ。






