……
……
あれは二度目の、悠久とした混沌の中を練り歩いたことだった。
その果てにあったのは――
後悔、屈辱、不満、無力さ。
……
そして何よりも、困惑がそこにあった。
私をここに引き留めるというのであれば、ヤツに代わって私の問いに答えろ!
……
あなたに会うため、私はここまでやって来た。
あなたも知っての通り、あの愚妄な虫けら共は、目の及ぶ至るところで大地に穴を掘り、山河を穿ち、水を汚してきた。そんな奴らは獰猛にも残していった傷痕を、都市などと名付けて……
そんなもはや変わり果ててしまった地は、今も我々が栖居嬉游していたあの宇内(うだい)と言えるのだろうか?
あの玉門と名ばかりの醜い都市、その城壁には今もかつてヤツらが死の直前に焼き付けていった爪痕が残されている。
だがこの千年來、あの虫けら共はそれをまったく繕おうともせず、却ってその爪痕を誇りとし、自らの文明が進んできた巍峨里程(ぎがりてい)と見なしてきた。
なのにあなたの破片は、どうして今もそんな都市を守護してやっているのか?
私は私であり、ヤツはヤツだ。私はヤツではない。
(天地を揺るがすほどの怒り)
小舟は今も悠々と江を進んでいく。
両岸の草木は雪が積もってしまったせいで、幾分かその背を低く曲げていた。
なら、我々の意識が如何にして果てしない混沌から目を覚まし、この世で初めて生を授かった存在となったか、それは憶えているかしら?
茫漠とした鴻蒙が攪拌され、時と物がそれぞれの秩序を有し、天地が次第に天地の有り様に変化(へんげ)していったあの頃をまだ憶えているか?
雲を突き破り、天から覗き込んでくるあの眼は?我々が蒼穹でそれと睨み合い、ぶつかり合い、河を赤で染ま上げ、山々を平にし、雲に届くほどの屍を積み重ね、膿が新たな峰々と化していったあの頃は……
あれこそが真の戦いというもの!今とは比べ物にならないほど雄大で、壮大だった我々の戦い!それすらも憶えていないのか!?
(天地を揺るがすほどの怒り)
それでも小舟は悠然と江を進んでいく。船頭からその先を望めば、水面は見果てぬ限り続いていた。
雪もさらに深く積もっていく。彼女の一声一句は、どれも雪崩とも取れるほど轟然であった。
天も地もみな白に染まり、天穹も手が届いてしまうのではないかと思えるほど低い。
あのような時を経てきたというのに、なぜあなたは今も!自分の身体を這いまわっている虫けら共と、その虫けら共が築いた塵芥を意に介しているというの!?
人間を愚弄するために、あなたは雲を作り、滑稽な“吉祥”なる雨を降らしてきた。あの真龍などと呼ばれる者の征伐にも加担して。それだけでも至極下らないというのに……
それだけでも飽き足らず、なぜそれから数千年後に、再び奴らに応えてやった?我々の同類を脅かし、挑発し、囲い込み、駆逐しようとする奴らに応えてやった!?
奴らは矮小だが、奴らの先祖は今と比べてまだ勇敢なほうだった。なのになぜあなたは、あんな惰弱で、取りに足らない薄汚い虫けら共の主宰になろうとしている!?
なぜ愚かにも、奴らの滑稽な“神”として祀り上げられていることに甘んじているのか!?
(天地を揺るがすほどの怒り)
太古より果てしない時を経て、見果てぬ寰宇(かんう)を歩んできた我々の中に、あなたのような恥辱など果たして存在しただろうか!?
答えなさい、私の……同類よ!
憤っているのだな。
眠りについて幾千年、ヤツも常々今の貴公のように猛り憤っていたものだった……
屈辱を呑み込み、裏切りを噛み砕いてまで、答えを求めようとしていた。
さもなければ、我々のようは欠片など生まれてくるものか。
……
だがもう一度だけ言っておこう。我々はヤツではない、もはやヤツではないのだ。
だから貴公が投げかけてきた諸々の問いに、残念ながら私では答えてやれない。
貴公の怒りも理解してやれない。貴公が私の怒りを理解できていないのと同じようにな。
怒り、ですって?
この期に及んで、まだ人間の味方につくつもり?この私の天地の中で?
ならばその剣を抜け、さすればまだ可能性は残されているはずだわ。
考えていたのだが、貴公。貴公はとてもこの空間を大事に思っているようだな。
(チョンユエが玉門の様々な風景を思い返す)
春生まれ、夏栄え、秋傷み、冬蔵れる。春秋を裁(た)ちて錯(まじ)わらせ、宇(う)を剪(た)ち懐腹す。
それに加え、貴公が千年前に炎国から逃れようとした時、如何にしてこの小さな天地を斬り落として持ち去ったのかも想像がつく。
それからこの大地の人里離れた何処(いずこ)かの片隅に隠れ、何度も何度もこの小さな天地を見渡し、絶え間なく流れ逝くこの残景を慰めに傷を舐めてきた場面もな。
巨獣と言えども、まったく哀れな存在になったものだ!
貴公が口にした、惰弱で、取りに足らない薄汚い人間たちとなんの区別があろうか!?
(雷鳴が轟く)
八千年を春と為し、八千年を秋と為す。ここの雪は永遠に晴れることはないし、この小さな天地もいつまで経っても変わりはしないのだ!
これこそ貴公らが時を計る際の尺度というもの……
なんとも可笑しいものだ。
(雷鳴が轟く)
年月、そして歳月。
寒暑往来すれば、一裁の春秋なり。
どれだけ悠久な時であっても、切り分ければ一寸の光陰となる。
一意専心すれば、瞬く間に年を越してしまう。
人間とは元来こういうものだ。人の生とは微細なものだが、その微細の中から無数の喜怒哀楽を見出していくものだ。
(チョンユエの拳が睚の胸元に打ち込まれる)
やがて、小舟は止まり――
壮健な拳が、しっかりと睚の胸元に打ち込まれてた。
余分な動作は一切存在しない、万にも及ぶ技法も極めれば一つの型に集約される。それほど至極簡潔な一撃だった。
満天に及んだ雪もやがて水底へと溶けていき、睚は小舟から弾き出され――
そして冷たい床に、打ち付けられた。
(睚が倒れる)
これが……ヤツの力を捨てて手に入れた、あなたの実力なのね……
だとすれば、あなたがヤツでないのも頷けるわ……
……
男は答えなかった。ただただ静かに、目の前で倒れ伏している息絶え絶えな“ヒト”を見つめていた。
なるほど。この世に生を授かった存在は死に瀕した時、みな同じような姿を見せるのだな。
どうして……私を殺さないの?
代理者の身体は、いつだって新たに創り出すことができるだろ。ここで貴公を殺しても無意味だ。
今すぐ玉門から去るがいい。
……
いつか、また会いましょう。
(睚が姿を消す)
ぐッ……
報告、被災状況の大まかな確認が完了いたしました。
死傷者は?
天災と接触する以前から、東地区の住民らはすでに西地区へ避難させていたため問題はありません。
ただ欽天監の術師らが中枢区画で二次災害の嵐を防いでくれたおかげで、その半数近くが負傷してしまっています。龍門のリン親子もその場でご助力してくださったのですが……リン殿は特に重傷でして。
……
し、しかしご心配なく。すでに軍の医館へ搬送されております。
リン殿は義によって助太刀をしてくださった、玉門には彼に大きなご恩がある。全力で医者らに治療をあたらせろ、万に一つの過失も許されない。
はっ。
次、建物の被害状況は?
西地区は無事です。ただ南北の両地区は天災が一番猛威を振るっていた時にの砂嵐を受けてしまったため、それぞれ被害を受けてしまっている状況です……
東地区に至っては、砂嵐と源石嵐が直撃したため、最も甚大な被害を受けています。
玉門四衛のうちの二枚も大破しており、もはや修復は不可能と判断されたため、土木天師がすでにその二枚を城壁から外されました。
さらに基礎城壁体も一定の被害を受けており、ファサード構造の一部が大きくズレてしまっているため、直ちに補強する必要があります。
そのほかに、都市の防衛工程の消耗率も六割に達しました。
……
土木天師から何か結論は出しているか?
天師の数名がざっと計算したところ、最速で城壁を修復したとしても、最低二か月はかかる見込みでして、それまで玉門は航行が不可能になります。
二か月か……
被災する前の予想よりも、少しはいい結果を迎えたな。
分かった、では指示を出す。
まだ天災の余波が残っている可能性がある。総員引き続き心して復興作業にとりかかれ。
被災状況も引き続き精査を怠るな。負傷者を医療施設に搬送し、仮設テントを追加で設置しろ。西地区に避難していた住民らも適切な施設に案内してやるのだ。
了解しました。
それと、市内に潜んでいた山海衆はどうなった?
山海衆らは砂渠や住民らを襲撃しようと試みていましたが、巡防営が適切に対処し、加えて武術界隈の志士たちも助力してくれたおかげで、そのほとんどを捉えることに成功しました。
ただそれでも玉門の城壁が破壊された際の隙を利用されて、少数の者を逃してしまいましたが。
……そうか。
加えて、以前軍営に侵入してきたあの山海衆の首領と思わしき人物も姿を見せておりません。現在、追加の人員を投入して捜査にあたっております。
姿を見せなかっただと?
あの者の実力さえあれば、天災が都市を襲った際に好き勝手できたはずだというのに……
宗帥は?
宗帥も鋳剣坊へ向かわれたあと、行方が分からなくなっております。
……
どういうつもりだ?俺に剣なんかを押し付けて。
貴公に保管しておいてもらいたいんだ……私からの頼み事だと思ってもらえればいい。
]なるほど。こいつ一本を巡って都市が滅茶苦茶にされてきたってわけか。
一体こいつはなんなんだ?
その剣は、多くの顔を有していた。
歳が十二に分けた意識のうちの一つが封印された器物。愛憎入り混じった者たちの見届け人。単に古臭いだけの一本の剣。
いつか我々が再戦する際の、約束の印として扱ってくれても構わない。
ただこれ以上誰かに盗まれないように、あるいは金目のものとして売りに出されないようにしてくれればそれでいいんだ。
だがな……
こりゃお前にとって大事なモンなんだろ?
もし難しいのであれば無理は言わないが……
いや、違うんだ……ただな、俺たちはまだそこまで深い付き合いでもないのに渡していいものなのか?
貴公がワイ・テンペイという名で、聡明な友人二名と、利口な娘を一人持っていることを知っていれば十分だ。
それと今に至るまで、貴公が唯一私に一撃を与えられた相手だということもな。
フッ、いいだろう。
ならお前は、俺が武を習って四十年、その中で唯一倒せなかった相手だ。
なら持っておいてやるよ、この剣を。
もう四十年鍛えてから、またお前に挑んでやる。
いいだろう。
待っている。
お医者さん、ちょっと聞きたいことがありまして。
以前から先生の医館で働いていた従業員のことなんですが、彼あとどのくらいの借金を抱えてましたか?私が代わりに払っておきますよ。
いいんだよ。もう何年も経ってるんだ、借金なんかとっくに払い終わっているよ。
それらしい理由を探して、あいつをここに残してやっていたってだけだ。
毎日その手を血で染め上げるぐらいなら、人を助ける仕事をしてくれたほうがいいだろう……
そうですか、その節は本当にありがとうございました……
あんた、あいつの娘か?
はい……
あんなイカレた大男がこんなお利巧な娘を持っていたとは、世にも奇妙な話だよ。
……
しっかし、あいつがいなくなったらいなくなったらで、今じゃちょっと色々と不慣れになってしまったものだ。
この部屋中に積もった砂を見てくれよ、一人でどう片付ければいいんだか……
わ、私手伝います!
(リーが近寄ってくる)
おいおい、あいつまーた何も言わずに出て行っちまったのか?
はい。
あの野郎、まったく相変わらずだなぁ……
いいんです。私ももう、焦ってあの人に会おうって気持ちはありませんから。
おっ、なんだ?お前も色々と考えがまとまったってことか?
はい、事務所のほうの仕事はこれからも続けていきますよ、学業のほうも。もちろん、鍛錬も怠りません。
次会った時は、アッパーだけじゃ済まされませんよ。
……
上からの連絡が来た。我々も態勢を整えた後に、次の任務地点へ向かうぞ。
玉門は無事天災に耐え抜いてしまいましたが、こちらは満身創痍になってしまいましたね。
(冷たく鼻であしらう)
書簡は顔を隠した男の手の中で燃え上がり、便箋はたちまち灰と化していったが、小さな四角い金色のナニかが火に炙られて殊更に目を引くようになった。
あれは特殊な封蝋であった。朝廷内の一品官、とりわけ三公重卿らしか使用できないものであるため、その使用者数は五人を超えることはない。
やがてその男の掌の中に落ちていった封蝋は、男にそっと握りつぶされ、細かな屑と化して砂塵の中へ散っていった。
我々の当初の任務は、朝廷の目を引くほどの騒ぎを引き起こすことだ。玉門はまだ利用価値がある、ここで破壊してしまっては却って割に合わなくなるだろう。
……
我々もすぐに撤退するぞ。
門主様は待たなくてもいいんですか?あのお方のご助力がなければ、私たちもここまではできなかったはずですよ。
諦獣が……も、門主様だ!門主様が帰ってこられた!
……
門主様、その傷は……
一体誰にやれれたのですか!?門主様にそのような傷を負わせることができる者など……!
ある“人”にやられたわ。
それで、ほかに情報は仕入れてくれた?
(不気味な唸り声)
それにかかる時間は?
(不気味な唸り声)
二か月?
……いや、十分だわ。
ヤツの居場所ならすでに把握したから。
門主様、あなたの目的は一体……それにあなたは一体どういう……
申し訳ありませんが、どうやら我々はここでお別れをしなければなりません。
好きにしてちょうだい……
私の邪魔さえしなければいい。
……
たとえ長い道のりであっても、いずれは終わりを迎えるものだ。
目を覚ましてから、私はますますヤツの到来をはっきりと肌で感じるようになった――いわゆる“寿命”というヤツを。
あの巻き狩りの中で受けた傷は、もはや完治することはない。
できることなら、あなたもすでに目が覚めていてほしいものね。
私の残り僅かな時間、そして私の残り僅かな同類よ。
そろそろ、決着をつけようじゃないの。