リンさんの容態はどうなった?
大事はないって、お医者さんが。
以前負ったケガそのままであれだけ一生懸命アーツをぶっ放していたものだったから、過労って診断されたわ。
まあ、もうお歳だから。
言われてみれば、リンさんもあれだけ長い間、龍門に尽くしてくれたことだしな……
父さんはウェイ長官とは違うわよ。ウェイ長官は龍門の象徴として、いついかなる時も大衆の前で顔を出さなければならないでしょ。
でも父さんは違う。龍門の住民らがいつまでもダウンタウンに居座る鼠王のことばかり気に掛けてちゃ、龍門にとってもいいことはないわ。
色々と聞いたぞ。今回の厄介事、ウェイ・イェンウーに巻き込まれてしまったらしいな?
あれは自分が引き受けたの。だから巻き込まれたも何もないでしょ。
それに誰かさんのおかげで、私はこうして無事でいられたんだし。
フンッ。
それに今回このような機会を得られたおかげで、色々とハッキリしたわ。
やはりヴィクトリアに向かうのか?なら同伴してやってもいいぞ。
いや、ヴィクトリアには行かないわ。
私は龍門に戻る。
“戻る”というのは……?
そこに残るって意味よ。
“重荷を下ろした”なんて、そんなのただのキレイごと。誰かが下ろしたのなら、ほかの誰かがそれを拾い上げなきゃならないの。
出て行こうがそこに残ろうが、それは個々人の自由。でもね、そうだったとしても誰かしら龍門のことを見てあげなきゃならないでしょ。
そう、だな……
今のは自分に言い聞かせたつもりだったのだけれど、もし自分が批判されたと思っているのなら、それはそれでこちらも喜んでそう扱わせてもらうわよ?
それだけ皮肉を言えるだけの元気があるのなら、こちらも心配する必要はなさそうだ。
鼠王の娘は、必ずしも鼠王である必要はないけど、鼠王になることはできる。
だとしたら、それはまた別の、今のとは異なる“鼠王”になるかもしれないわね。
だからこれは、私自らが選んだ道なの。
今は龍門にスラム街が存在するけど、存在してはならないものだわ。それを実現するのは困難なことだけれど、でもどれだけ時間が経とうが、誰かしらそれを続けていく必要がある。
時代は止まってはくれないけど、それで誰かが置いてけぼりにされるべきではないと私は思うわ。
ああ、そうだな。
ところでなんだが……
言いたいことがあるのならハッキリ言いなさいよ。なんであなたまでゴニョゴニョしてきたわけ?
この数日の間に、ウェイ・イェンウーは見かけなかったか……?
もう行ってしまわれるのかな、宗帥?
ええ。
引き継ぎを終えたものだから、今から発つつもりだ。
ところでなんだが、私からウェイ殿に一つ感謝を申し上げなければならないことがある。
改まってどうしたのだ?
ウェイ殿は確かに、玉門を一度信用してくださった。
そして私の友人たちのことも、信じてくださった。
なに、事件はもうすでに終わったのだ。
少しばかり損害は生じてしまったが、少なくとも事態を収束させることができた。それだけでも不幸中の幸いと言えることだろう。
だが何よりも、どれだけの月日が経とうが、ここの者たちは未だに一心に団結することを忘れないでくれていた。私にとってはそれが何よりも大事で、喜ばしいことだ。
玉門は未だあの玉門のままであったのだ。“人の定めし天に勝る道”、この言葉が虚言でなかったことを改めて確かめることができた。
となれば、私も心置きなくここから立ち去ることができよう。
……
今度こそ、いつ再会できるか分からなくなってしまうな。
この先の道もきっと険しいものだろう、達者でな。
朝廷内も何やら雲行きが怪しくなっている、ウェイ殿も気を付けられよ。
ああ、気を張っておこう。
……ふと思い出したのだが。宗帥は昨日、チェンの剣術を評価してくださったではないか。
“これ以上にないほど熟達しているが、極みには至っていない”という評価だ。
あぁ、確かにそう言っていたな。
確かに、チェンは剣術においては類まれな才能を有している。だが赤霄を修め始めてから、まだまだ日にちは浅いと言えるだろう。
ゆえに赤霄剣の神髄、彼女はまだその要領を得てはいないのだよ。
ということは別れの餞別に、ウェイ殿から一手見せていただけるということかな?
以前、宗帥に伝えた雲裂の剣なんだが、あれが赤霄剣における最後の技というわけではない。
そう言ってウェイ・イェンウーは指を剣刃に見立てて、ひょいと軽く指を弾いた。
殺気を帯び、人を切り刻まんとするばかりの剣気はそこに存在せず、ただ微かな風が起こり、湯飲みの茶水に僅かな漣を生じさせた。
赤霄の最後の技、その名は即ち天瞠(てんどう)なり。
如何様な剣意か?
天瞠の剣、絶に当たりて即ち絶たん。
その心得は?
破らずして立つことあらず、破る後に立っせんとす。この剣技で雲を裂けば、たちまち蒼穹の怒目を目にすることができるだろう。
心の迷いを断たなければ、剣意を習得することは叶わんがな。
その剣技の難関は如何様なものか?
剣は心によって突き動かされるものであるがゆえに、重要なのはその技を繰り出した際に悔やまないことだ。
もし一瞬でも顧みれば、剣はその鋭さを失い、却って自身を害することになる。
では、またいつの日か。
(ウェイが立ち去る)
ウェイ・イェンウーは席を離れたが、その小さな風は未だに漂っていた。
男はそんな風によって揺れ動かされている湯飲みの水面をしばらく見つめた後、ようやく笑みを見せるのであった。
なんと、この世にはまだ如何様な剣技があったとはな。
入りたまえ。
太傅様にご挨拶を申し上げます。
許可もなく玉門へ進入してきた時点で、お主らには重大な背反の嫌疑がかけられることになるのだぞ。それぐらいは分かっているのだろうな?
重々承知しております。
しかし、ウェイ様が暗殺に遭い、玉門の内に閉じ込められ、その玉門もまた今や京城へと向かわれているとなると……
こちらとしては、どうしてもウェイ様の安否を案じてしまうものです。突発的な事態であったため、得失を考慮する余裕もございません。
ウェイ殿から知遇してくださった御恩、今はただ私共の命を以てそれに報いるのみでございます。
もし三日以内に龍門へ戻らなければ玉門へ来て探しに来いと、ウェイ・イェンウーからそう指示されていたのだな?
仰る通りでございます。
ならウェイ・イェンウーの暗殺も、此度玉門が遭った危機も事なきを終えて無事に治まった。お主らもこれ以上心配することはない。
はっ、こちらもすでに把握しております。
して、天災が発生した時、お主らは一体どこにおったのだ?
水面下で市内にいる軍民らの逆賊討伐に、僅かながら助力をさせていただきました。しかしご心配なく、その際は誰にも気付かれてはおりません。
そうか、少しは役に立ってくれたわけだな。
ならもう構わん、下がってよろしい。
……私共に、処罰をお与えくださるおもつりはないのですか?
禁軍の名簿において、お主らはすでに死人扱いとなっている。
ならば今も、お主らとは会っていないこと同然だ。
はっ。寛大なお心に感謝いたします。
太傅はすでに知っておられたのですね。
最初からな。
お主も最初から私に隠すつもりはなかったようではないか。
これは出過ぎた真似をしたと叱責を受けなければならないのだろうか?
此度は幸運にも、事態は想定内に収まった。これはお主が龍門から連れてきたあの若い特使のおかげでもあるだろう。
今回玉門で起こったこの動乱、さしずめ太尉のほうもすぐに把握されると思われます。
“即刻”ではないことが何よりも口惜しいがな。
……それもあって、私は玉門へやって来たのですよ。
歳への態度の最適解として、強硬に転じるか和睦に転じるかは今も定まってはおりません。誰もが大局の内に身を置けば、全体像を掴むことは困難になります。
ただ一部の人間が、すでにその正しい答えを探ること以外に気を向けているのではないのかと、それだけが懸念になります。
お主がわざわざ平祟侯に手を貸して逆賊の討伐に取り掛かってくれたのは、炎国を守護するという責任を負っているからだ。
それを忘れていないのであれば、私から改めてお主に教えてやる必要もないだろう。
かつて太傅が教えていただいた教誨なら、私は一時も忘れてはおりませんよ。
そうだな、お主はあの時から実は優秀な学生だったよ。
確かお主とお主の弟が共に私のところへ来て師事していた頃、いつも先に習得していったのはお主のほうであったからな。
……
怪我をしたのか?
少しだけ、ですが問題はありません。
何人かの土木天師から聞いたぞ。お前がいたから砂渠を守れたようじゃないか。
ですが、例の者は逃してしまいました。
そうでした、ここへ来たのはあなたに別れを告げるためでした。
……そうか。
もうこの先もあなたの後をいつまでもついて行く必要はなくなりました。私もこの剣を発揮してやれる場を探さなければ。
お前ならそう難しいことではないだろう。
私はもうあなたに恨みを抱いてはいませんが、あなたを超えてやるという執念までをも下ろしたつもりはありません。
私の剣が形になった時、またあなたを探しに行きますので。
ああ、今までと同じだ。用意ができたのなら、いつでも私のところへ来るといい。
では、また。
(チュウバイが立ち去る)
少しは残念に思わないのかい?
何をだ?
万が一にもヤツが夢から覚め、私も兄さんも虚無へ帰してしまうことを言ってるのさ。ああして独り残してやったら、目標を失って彷徨ってしまうだけじゃないか。
彼女はあの歳で“憎悪”という執念を下ろすことができたのだ。ならいずれ私が消えていなくなったとしても、私との思い出や記憶と一緒に、私への執念もきっと下ろせるようになってくれる。
そうすれば、彼女の武を習う道はどこまでも続いて行くようになるとは思わないか?
武功の伝授に関してなら、兄さんはその“師”だ。私からは何も言えないよ。
ところで、リィンは今回独りで甕城に立って天災を退いたようじゃないか。それだけ神采であったのなら、また一つ伝説を残すことになるな。
あんまり憶えてはいないかな。あの頃はただ単に酔っ払っていただけだったからね。
酔いが醒めれば、また壺を引っ下げてこの世の移り変わりを詩に書き連ねるだけさ。さて、今回も一件落着といったところだ。これから兄さんはどこか行く予定でもあるのかな?
ニェンとシーが世話になっているという場所へ行ってみるとしよう。
なあおい、あっちにいるあの人、今日の昼間っから午後までずーっと一人で囲碁をやっているぞ。静かに黙ったままで、誰も誘おうとせずにさ。
駒の打ち込み方は確かに巧妙なんだが、何を考えてるのかさっぱり分からん。ところどころ見ていると、こっちまで困惑してしまうよ。
もしかしたら名の知れぬ名人とかか?にしたって、なんで玉門みたいなところに……
おや……?
街角に構えている棋館の門外、そこには独りで盤面と睨み合っている男がいた。棋譜を打っているわけでもない彼は、一手打ち込みごとに長い長い熟考の時間を要する。まるで自分自身を相対しているかのように。
粗造な木製の棋盤には、白と黒の石が縦横に交錯しており、所々で互いに終わりのない戦いを繰り広げて、観戦者らを困惑させていた。
そちらのお方、囲碁は打てるかな?
少しは。
では今あるこちらの終盤なんだが、どちらが優勢に立っていると思われるか?
三か所はすでに戦いがひと段落しているが、勝敗は五分五分といったところか。
だが全体を見れば、白は中央を広い範囲で獲得していて、孤立してしまっている石は見当たらない。このままいけば、次の一手で黒の敗北は避けて通れないだろうな……
もう少し先を読んでみてくれ。
以前もお前に教えてやったはずだ。
そこの角で劫(こう)が発生している。
……万年劫だな。
白が優勢であれば、棋士の憂いも多くなってしまうもの……私の劫も、また数を増やすことになってしまう。
だが、この一局はまだ終わってはいない。
お前なら諦めはしないだろうな。この一局、何があろうとも決着をつけようとしている。
対局の勝負に興味はない。決着をつけるべき相手はこの私だけだ。
色々と学ばせてもらったよ、お前のその剣から。見返りとして、この終盤戦をお前にくれてやろう。
大方分予想はできていたさ。私の傍にも、きっとお前が一手仕込んでいるかもしれないとな。
しかし、まさかあの時からすでに、お前が人間に対して希望を失っていたとは思いもしなかった。
所詮ヒトはヒト、獣は獣だ。
お前は自らを剣に封じ込め、その代わりとしてヒトの身体を得た。それからお前はヒトとして生きてきたが、何か得られたものはあったか?
旧友は散り、お前自身もこうして独りで立ち去るハメになった。誰にも信用されることなく、誰にも理解されることもなく。
……
お前は人間と共に過ごしてきたおかげで、人の心というものを理解し過ぎた。幾百幾千年もの間、誰よりも人間たちと接触し続けてきたのはお前だからな、理解していないはずがない。
だが、その測り難い人心を知ったために、人間たちの輪についぞ溶け込むことはできなかった。結局のところ、やはりお前は人間たちとは“違う存在”だったのさ。
頡(ジエ)が消えたあと、お前も話し相手が欲しかったからこそ、これまで様々なことをしでかしてきたのだろ。
我々はもうすでに長らく寂しい思いをしてきた。話し相手が欲しくなるのは当然の道理だ。
こうも長らく相争ってきて、お互いの最大の理解者がよもやそのお互いであったとは、なんとも皮肉な話だ。
私の敵対者なら、最初からお前ではないさ。
未だかつてお前を敵として見なしてきたことはない……たとえあの時、私を止めたのがお前であったとしてもな。
もしお前がその盤面にこれからも多くの者たちを巻き込もうとしているのであれば、またお前を止めに入らせてもらうがな。
ああ、好きにするといい。だが、それはお前がこの局面の全体像を見渡せていればの話だ。
また会おう。
達者でな、兄者よ。
……
重岳は一枚の白石を碁笥から取り出し、盤面に打ち込んだ。
パチン。
それは真っ当な、急所を衝く一手であった。
左宣遼将軍、これを……
この本は……
二十年前から、師はこの『武典』を書き上げるという考えを抱いておりました。ただ玉門での防衛任務が多忙であったため、長らく手を付けられずにいましたが。
しかし五年前から、師の口述をボクが一から書き記し、それらを編纂させていただきました。そして昨日、ようやくその作業を終えることができたのです。
この中には、天下に存在する武学への師の観察と所感が書かれており、長年に渡る武術の変化やその源流もすべて、記されております。
師からぜひこの一冊をズオ将軍へ、ということでしたので、お渡しした次第でございます。
この『武典』は、正編のほかにも健康法が一通り記されておりまして。本に従って身体を十分に動かせば、将軍のお身体のためにもなるかもしれないと、師がそう仰っておりました。
……
本人は?
一時間前に、すでに玉門を出発されました。
“例の客人はすでに送り出した”ため、将軍は安心して被災の事後処理にあたってくれ、と一言残しております。
そのため、別れの挨拶はございません。
……
それもよかろう。
ところで、なぜ君は彼に随伴しなかったのだ?
十歳だったあの頃、ボクは師によってあの襲撃事件から救われた後、お傍に仕えて師の代わりに武功を記録し、師と共に各種の英雄英傑たちを見てきました。
そのさい師は、もし武学を習う志があるのなら、ここ十数年もの間に記録し、悟ってきたものを糧にし、鍛錬を続けていれば、それなりの技を身に着けることができると。
だがもしその志がないのであれば、この『武典』が完成した際は、自分の好きなことをすればいいと仰ってくれました。
“人生の道はまだまだ長い”と。
……
まったく、奴は昔からああだったよ。
気ままな出会いが多くなれば、それだけ未練もまた多くなる。
人は器を重んじ、獣は情を憫れむ。
ズオ将軍、指示通り、災害救助の工程が開始されました。
よろしい。
……ふむ、そろそろ日没か。
そうだ、望烽節は……
昨日が最後の一日だったのですが、天災に備えなければならなかったため、太鼓打ちの儀式は一時中止に致しました。
続けられますか?
当然だ。
両の髭が斑に白く染まった将軍は都市の外を眺めれば、そこには茫々たる大砂漠が広がっているだけであった。
……最後の一日ぐらいは、私自ら大太鼓を叩こう。
しかし、城壁で一日中監督に勤しんでおられたのですから、将軍は休まれたほうがいいでしょう。太鼓打ちなら、我々にお任せください。
いいや、道は遠く険しいものだ。奴のためにも、誰かが見送ってやれねばなるまい。
幾ばくの行は尽く帰塞すれども、ただ念(おも)う爾は独り何(いづ)くにか之(おもむ)く?
征鼓の音が響き渡ってきた。
重く、されど明晰に、そして遠く。
十七もの征鼓の音は、この一年で玉門が経てきた大小様々な苦難を表している。
天災とその嵐は過ぎ去ったばかりで、空にあったはずの雑色は尽く巻き取られていった。
雲霞は落日によって紅く燃え上がり、空に錦を織り成す。
男はそのまま去っていくが、足跡は少しづつ風砂によって埋もれていく。巨大な玉門の都市も、彼の後ろで少しづつその姿を縮めていく。
ドン――
十八回目の征鼓の音だ。
彼は不意に足を止めるも、振り返ることはしなかった。
その十八回目の大太鼓の音は、つい先ほど玉門がまた無事一つ天災を凌いだことを表している。
そしてその独りの男に向けられた……
さらばだ。
雲は万象の姿を織り成すも、
煙はただ一筋に揺蕩う。
天上の星々よ、汝らを汲み取るも伶仃(れいてい)するのみ。
ふぅ、やっと脱出できたか。
助かったよ、お前が事前に巡防営の活動パターンを調べてくれたおかげで。さもなきゃ俺たちも掴まっていたはずだ。
先ほど諦獣から伝言が入った、頭目らはすでに次の任務地点に向かっているとのことだ。我々もはやく向こうと合流するぞ。
(悔しそうに歯を食いしばる)
玉門め、次こそは……
おい、ちょっと待て。向こうにいるあの女、あいつって何回も俺たちを邪魔立てしてきたヤツなんじゃ……
貴様、まさか私たちを尾行していたのか?
尾行?私は玉門を出て、ここで少し足を休めていただけ。
だがまたこうして貴様らと顔を合わせることになるとは。何かしらの縁があるのだろう。
……
……
まあちょうどいい、ここで貴様達を見送ってやろう。
それから出発しても遅くはない。