羽獣が上げた空しいその鳴き声が、新たな一日の到来を告げる。
太陽もまた一日ごとにその顔色を変化させていった。昨日はカンカン照りであったにも関わらずに、今日となればまるで元気がない。分厚い雲から漏れ出した幾つもの筋の日差しが、村の空き地を殊更に灰白色に染め上げる。
そこでいつまでもじっと目の前にある倉庫を睨みつけている、車椅子に座ったご老体がいた。
中から少しでも声が出れば、あるいは誰かが逃げ出した場合には、大声を出して知らせてくれと、村の者に嘱託されていたのだ。
その老人はすっかりと歳を取ってしまっていた。歩く際は誰かに支えてもらわなければならず、彼自身にできることももはや少ない。
近頃自分たちの村に大仕事が舞い込んだから、それさえ成し遂げれば、みんなこれからは豊かな暮らしを過ごすことができると、老人は村の者たちからそう聞かされている。
それを無事に成し遂げるためには、絶対倉庫にいる人を逃してはならないとも。
彼はすっかり年老いてしまったが、少なくともまだ村の役には立つはずだろう。
ふと朝風が吹き、彼の肩にかけられていた毛布が背後一メートルあたりの場所へと飛ばされてしまった。
誰かに取ってもらおうと人を呼ぼうとしたが、重要な任務をこうして与えられた以上、こんなことで騒ぎを起こすのも申し訳ないと老人は思ってしまった。
だがそこへ誰かが地面に落ちてしまった毛布を拾い上げ、ついてしまった埃を払って、再び老人の肩へとかけてくれた。
ありがとさんよぉ……
おめぇさん、どこの家の子だい?
お気になさらず。
ところで、お役所さんはこちらにいらしたんかいな?いつ倉庫にいる人を連れてっていくんだい?その“デカい仕事”はもう終わったのかのう?
一つお訊ねしますが、この中に誰が閉じ込められているのかはご存じですか?村のみんながやろうとしてる“デカい仕事”もなんなのか、それもご存じで?
はぇ?なんだってぇ?耳がよくねぇから、もっと大きな声で頼むよ――
……
分かっちょる分かっちょる。ちゃんとここで守っとくさね、どこにも行かんさ。
ほらほら、こんなジジイのことなんか放っておきゃええ。おめぇさんら若いモンには若いモンの仕事があるんだから、はようそっちのほうに手を回してやりな……
心配ねぇさ、ここでちゃ~んと見とっとるから、中の人は逃げ出さねぇさ。
わしは苦い人生を送ってきたが、おめぇさんら若いモンにも同じ日々を過してもらうわけにはいかんさね。ここはわしに任せな、しっかりとやり遂げるから。
……
やがて剣客の女は老人がひなたぼっこしてやれるようにと思い、車椅子を少しだけ前へと押してやった後、こっそりとその場から立ち去ったのであった。
ここからもう少し西へ向かうはずなんですけど、私間違ってはいないはずですよね……
えっと、さっきの急カーブの道をそのまま進んで、三番目の分かれ道を左に行って……
にしてもこの道、一体どこから分かれ道になってるんでしょうか……
あっ、ようやく人に会えました!よかった~!
こんにちは……あの、この付近の村に住んでらっしゃる方ですか?
えっとぉ、おめぇさんは?
災害救助隊の者です。この前ここで土砂崩れが発生したと聞きつけたものですから、調査のためにやって来たんですけど、なんだか持ってる地図に誤差があるみたいでそれで……
そこでお伺いしたいのですが、この付近で土砂崩れの影響を受けてしまった村はありますか?
この深山ん道なら、みんなそれぞれ自分で道を憶えてんだから、地図なんか役に立たねぇさ。
その村ってのはきっと謀善村のことだろ、俺ァそこのモンだ。
つい二日前に降った連日の暴雨のせいで、一部の馳道が崩れちまったことはあったけど……村自体は無事だ。
よかったです、どうやら道は間違っていなかったみたいですね!
それでその、その謀善村にはどうやって行けばいいでしょうか?
この道をこのまま真っすぐ行けば分かれ道があるから、そこを北に向かいな。そっからは大体半日少々ぐらいかかるだろうよ。
ありがとうございます!
(マルベリーが走り去る)
族長に言われた通り、横んとこにある罠を仕掛けておいたぞ……できることなら使いたくはないが。
なんせ彼女にはいつも村がお世話になっているからな、できることなら傷つけたくはない。村の外に引き留めておきゃそれでいい。
どうせ俺ァ力仕事しかできねぇんだ、仕事を任されたからにゃそれに従うよ。
はぁ、にしてもなんでこんなタイミングがいいのやら。本当なら俺たちしか知らないことだってのに、よりによってあの頑固な信使とばったりだなんて。
そうだ、ところさっき話してた女の子は誰なんだ?何しに来たんだ?
あぁ、なんかの救助隊のモンで、土砂崩れを調べに来たんだとよ。
おまっ、そのままそいつを通してやったのか!?
族長からはここで信使を止めろと言われただけだろ、救助隊になんの関係があんだ?
このバカ!よそから来た者を足止めしろという意味で、俺たちに信使を止めさせるように言ってきたんだろうが!
政府からのお役人ってんなら、それこそさっきの救助隊のモンがそうだろ!
向こうが予定よりはやく来ちまったせいで、村はまだ準備が整ってない状況だ。これでやらかしたらどうしてくれんだ?
俺、そこまで考えてなかったからよぉ……で、どうすりゃいいんだ?
どうもこうもあるかよ、さっさと近道で村に戻って族長に報告しろ!
急いでシャオシーを隠して、絶対にバレないようにしろってな!
だぁもういい!お前はここで見張ってろ、俺が報告しに行く!
(村人Bが走り去る)
おい、ちょっ――
そう急いで帰るなよ!こっちはまだ仕込んだ罠の使い方を教わっていねぇぞ!
中々それっぽい罠だから、一目でどこに隠れてるのか分かったもんじゃねぇし――
これは、一体どういうことなんです……?
そこのあなた……手伝いが必要ですか?
族長ォ!大変です!お役所さんが予定よりもはやく来ちまいました!
なに!?どういうことだ!?事前に聞いた約束の時間と違うぞ!
具体的なことは俺も知らねぇんです。
村の入口で信使を止めていたんですが、あの大福(ダーフー)のどアホがお役所の人を見かけると、そのまま道案内してやっちまったんです。俺は急いで近道を通って報告しにこうして戻って来たんですよ!
まったく、次から次へと……
もういい、来てしまったからには仕方がない。少なくとも遅れてやって来るよりかはマシだ。
お前たちも慌てるでないぞ、言われた通りのことをやればいい。わしは準備してくるから、村の入口で待っておれ。
でも族長、族長一人で相手してやれるんですか?
何を話せばいいかは、もうすでに大方決まっておる。
お前たちはしっかりとシャオシーを見張っておけ、騒ぎを起こさせるんじゃないぞ。お役所のほうなら、マタギのところにも訪ねに行くかもしれんからな。
分かりました、もしあいつが騒ぎを起こそうものなら、そん時は村の外に連れておきます。
あとマタギんところも、準備を急ぐように言っておきますんで。
もうすでに何日も任せてやってるんですから、いい加減墓標を立たせておかないと。
……
分かった、そうしよう。
ご先祖様やご先祖様、どうかわしらを守ってやってください……
あの、こんにちは……
どうもどうも!わしがここ謀善村の族長を務めている者です、お越しいただきありがとうございます。
お代官様にわざわざこんな辺鄙なところまでお越しいただて、申し訳ない気持ちもありますがな。
お代、官……?
初めまして族長さん……ここで数日前に土砂崩れが発生したと聞きつけたものですから、少し状況を理解しておきたいと思いまして……
もちろんもちろん、当然でしょうな!あんな大事が起ったのであれば、しっかりと見ておかねばならないのが筋というもの……こちらもすでに準備はできております。
今すぐこちらが案内いたしましょうか?
準備……?
えっと……はい!よろしくお願いいたします!
(おかしい、なぜ役所はこんな若い娘を寄越してきたんだ?)
(それにこの子が背負ってるリュック……百万以上の金額を納めるにしてはあまりにも小さすぎる。)
ほら方小石、行くぞ。
なにすんだよ!?
黙ってろ、いいから大人しく俺たちについて来るんだ。
へっ、こうしてそそっかしくおれんとこに来たってことは、村によその人がやって来たってことなんだな?
いいぜ、今すぐこっから出て行って、お前らがどんな悪事を企ててるのか知らしめてやらァ!
大人しくしてろと言ってるだろ!余計なことをするんじゃないぞ!
(シャオシーが村人に頭突きを食らわせる)
いてッ!この野郎、頭突きしてきやがったな!?
みんな、こいつを縄で縛り上げろ!
マタギ、そろそろだ。
今からその墓標を立てに行くぞ。それさえ終われば、すべて上手くいく。
いきなりそんな急かしてきてどうしたんだ?お役所なら明日に来るはずだろ……
どういう訳か、今日来ちまったんだ。
だからこっちも全部前倒しで計画を進めなければならない。
でも墓標の文字はまだ彫り終わっていないぞ。この“墓”って文字も、あと少しなんだ。
いくらニセだからって厳かな行事なんだろ、そんな適当に済ませるわけには……
いいや、もう間に合わないんだ!もとを言えばただの芝居だろ、そんなの知ったことか!
わ、分かったよ……
お前らについて行けばいいんだろ。
数日前の夜、土砂崩れが発生した時、この子がちょうど馳道の工事現場に居合わせていまして。
シャオシーはこの村で生まれて、わしらみんなでその成長を見届けてきたものですから、みんな分かっていたんです。この子は優しい子だと。
あの山道の修復がどれだけ大変なものなのか、今回の公共事業が村にとってどれだけ重要なものだったのか、この子はしっかりと理解してくれていました。
おそらくは暴雨に流されないよう、資材を取りに行ったんだと思います。でものれがまさかこんな結果になるだなんて……
本当に痛ましい限りです。まさか今回の災害でこのような事件が起こってしまっていただなんて……
災いというのは無情なものですが、それでもそんなものが起こってる場所でも、いつまでもこうして互いに助け合って生きている人たちがいるのですね……
さすがはお代官様、誠に心に染みるお言葉です……
しかし、シャオシーの犠牲は無駄にはしません。この子がこの村のために亡くなってしまった事実を、わしらはいつまでも心に刻んでおくつもりです。
つきましてはひと段落した後に、この御廟にこの子の名前を刻んで残しておこうと考えております。
それとあの子の父親のことも。彼はあの子唯一の親族なものですから、村でできる限り世話をしてやるつもりでいます……
族長さんは本当に心優しいお方ですね。
いえ……皆から“族長”と呼んでくれている以上、こちらもできる限りそれに報いてやらねばならないのが道理というものです。
して、お代官様……そろそろ本題のほうに参りましょうか……
本題、と言いますと……?
話途中に唐突かと思われるかもしれませんが、それでも先に聞いておきたくて。その、確認をし終えた後の、補償金はいつ配っていただけるのでしょうか……?
補償金?
お代官様や、そうとぼけないでくださいな……
シャオシーの死はいわば作業中における労災のようなもの。通常であれば、補償金が降りるはずです。
なにも金にしか目がないわけではありませんが、それでもわしらにとっては何かと大事な金でして……
その、何か誤解しておられませんか?
公共事業で発生した労災の賠償のことなら、私はよく知りません。それについては、きっと政府のほうで専門の方が担当されるはずですよ。
私はあくまで“春乾(しゅんけん)”と言う名の災害救助組織の一員として、今回の土砂崩れが発生した原因を調査しに来ただけです。
発生してしまった悲劇は痛ましいですし、今さら時間を戻すこともできません。けど今後再びそのような災害が発生しないように、私たちもめげずに頑張っていきましょう。
なっ……なっ……
(悲痛な悶える声)
動かないでくださいね、私が診てみますから……
よかった、骨は無事みたいです。
どうですか、歩けそうですか?
助かるよ……
それにしてもどういうことなんです?どうしてこんな山道に狩猟用の罠が?
それは……その……
今って春に入った時期だろ?そんでつい二日ぐらい前に獣が村に入り込んじまって、その対策に……
だとしても人が歩くような道に設置してはならないでしょう、危なすぎます……それにほら、獣にやられるどころか、かえって自分が落っこちてしまったではありませんか。
やれやれ、ではブツを届けた後に手伝ってあげましょう。獣を追いやることなら、私もそれなりにできますから。
それではまだ届け物がありますので、私はこれで。
ちょ、ちょっと待ってくれ!
まだ何か?
あんた、謀善村に向かうのか?
そうですけど、それが?
村……村には入っちゃいけねえんだ。
どうしてです?
それは……
そ、そうだ!あんたまだ知らねえんだろ?つい二日前にここで土砂崩れが起こって、それで道が崩れちまったんだ!
道が崩れてしまったのなら、あなたはどうやって村から出てきたのですか?
あなたが出て来られるのなら、私も入っていけるということでしょう。たかが少し山を登る程度なのですから、そう大したことではありませんよ。
待ってくれ!
……まだ何かあるんです?
その……あぁもう!
だからウソはつけねえって言ったのに、よりによってこんなことをさせられちまうだなんて。
もういい、この際ありのまま言ってやる。俺がここにいるのは、あんたを止めるためだったんだ。
騙そうが説得させようが、あるいは力づくだっていい、とにかくあんたを村に入れさせるわけにはいかねえ。
やはりそうでしたか……
最初から何かが怪しいと思っていたんです。
一体なにを企んでいるんです?
まったく……わしも歳のせいでぼけてしまったものだ。
はぁ……土砂崩れのことなら、そこまで深刻なものでもありませんよ……
発生した場所は村の人が住んでる場所からそこそこ距離がありますから、影響はそこまで被ってはおりません。
わざわざこんなところまでお越しくださって申し訳ないのですが、村は本当に何も問題はないのです。ですから、大して調査する必要性も……
待ってください族長さん。問題がないにしても、ほかに一つ確認したいことがあります……
今の時期に地滑りが起るのは、そう珍しいことではありませんが……
しかし通常であればそういった災害対策のために、山道を越える馳道を開通させる前には必ずその両側に山体を固定させる防止対策工事を行うはずです。
仮にそのほかの要因がなければ、そう簡単に土砂崩れが起こるはずがないんです……
……
もしここら一帯の対策工事に問題があったのなら、それはきっとその工事の質に問題があるということになります。
となると次に馳道を崩すような土砂崩れが発生すれば、村にも被害が及ぶ可能性が生じてしまいます……
だから一体どこに問題点があるのかを調べるために、山に入らなければならないんです。
山に、ですか……?
そこで族長さん、その、よろしければ山まで案内していただけないでしょうか?
それは……
正直に言って、お嬢さんに協力したくないわけではないんです。ただ今の時期はちょうど農繁期でして、どこも畑仕事で必死なんです。それで一人を道案内に割いてしまえば、畑仕事をしてくれる人手も一人減ってしまう計算になります……
もしどうしてお時間がないと言うのでしたら、大まかな方向を指し示してくだされば構いません。私一人で現場まで向かいますので。
ここの山道はどこも複雑で歩きにくい上、分かれ道も多い。お一人では現場に向かわれるのは……
心配はご無用だ、拙僧がそちらの方の案内人を担おう。
あなたは――
サガ殿、どうしてまだこちらに……
(サガが近づいてくる)
ここへ辿りついた数日もの間、拙僧は幾度となく村の方々の世話になった。
畑仕事はあまり上手ではないゆえ、皆のために働くことはできないが、道案内となれば拙僧にも力及ぶところがある。
しかしサガ殿、何もこのタイミングに向かわれる必要は――
族長さん、少し聞いてもいいですか?
なんだがどうして山には入ってほしくないような気がするのですが……
……
先ほどまではひっきりなしに、今回の災害で村は甚大な被害を受けたと言っていましたよね……
にも関わらず、どうしてその災害が再発する可能性のリスクには目もくれないのでしょうか……
族長、マタギのほうが……
(ひそひそ)族長……どうしましょう……
分かった、わしも見に行こう……
本日をもって、シャオシーは正式に埋葬されることとなる。
この場におられるみんなには、それをどうか見届けてやってもらいたい。
白髪の者が黒髪の者を送り出すということはとても辛く、悲しいことだ。しかし命ある者には必ず生死が付き纏ってくる。我々はそれに素直に従うしかあるまい。
……この子は村のために亡くなった、少なくとも最後には村のためにいいことをしてくれたと言えるだろう。来世はできる限りいいところに生まれ落ちてくれたまえ、こんな山奥の貧しいところではなくてな。
今日をもって、方小石は死者として扱おう。
……
さあマタギ、お前はこの子の父親だ。最後は父親のお前が息子のために墓標を立ててやってくれ。
その前に一つ、聞きたいことがある……
お前たちが言うには、シャオシーは村のために死んで、村に埋めてくれるとのことだ……
だが結局のところ、お前たちは一度だってシャオシーのことを同じ村人として見てくれたことはあったのか?
たとえ今回の出来事が終わったとしても、お前たちは本当に、この子がいつまでも村に居続けることを許してくれるのか?
何が言いたい?
言っておくがな、すぐこの近くに役所の者が来てるのかもしれないんだぞ!余計なマネをすんじゃない!
余計なマネだなんて、できるはずもないさ……お前らも知っての通り、俺はもう衰えてしまったよ。自分に土をかけてやれることもままならない……
俺のことはどうだっていいんだ。ただシャオシーが……俺の息子がいつまでも穏やかに暮らしてほしいことだけが、唯一の心残りだ。
前にも言ったはずだ、今回の芝居さえ演じきってくれれば、この先は村の総員を上げてお前たち親子を養ってやると。族長ですら御廟でそれの誓いを立ててくれたんだ、それでも満足していないのか?
いいからさっさと墓標を立てるんだ、マタギ!一体何を恐れている!?
俺が恐れているのはな……
今はこうして俺たち親子にお願いしてくれちゃいるが、いざ金が手に入ったら、また俺たちにどういう仕打ちをしてくるのかが分からない。それが怖いんだ……
思い返せば、昨日ある人からこんなことを言われた。
”人の欲望に底はない”ってな。
そう言ってマタギが手放したために地面へと落ちてしまった木碑が土埃を舞い上がらせた。
マタギィ!貴様ァ――!
金も土地も手に入ったのなら、これ以上貴様に危害を加えるつもりなどあるわけがないだろ!族長の誓いだけでは飽き足らず、村の全員がご先祖の前で地面に額を叩きながら誓いを立たない限り気が済まないとでも言うのか!
そういう意味じゃ……
こっちはもう時間がないんだ!貴様がやらないというのなら、こっちが勝手にやらせてもらうぞ!
村人たちはわっと押し寄せ、男の腕を掴み取り、乱暴に墳墓のほうへと連れいく。
ある者は地面に落ちてしまった木碑を拾い上げ、男の手の中に詰め込んだ。
そんな男は人混みの中央でその木碑を抱きながら、しかしまるでとっくに飼い慣らされてしまった駄獣のように、ぐったりと首を垂れ下げていた。
やがてその中途半端に刻み終えてしまった木碑は衆人らの手によって、少しずつ土の中へと埋められていく。
だがそこへ剣筋が一閃し、木碑は一刀両断してしまった。
流寇も、匪賊も、はたまた戦場に居残り続けてきた国の将や千載一遇の武の達人も……殺し合いにしろ単なる腕試しにしろ、その女は幾度となく人に剣を向け、その剣筋はたった今の一筋よりも殊更に瀟洒なものであった。
まったくもって力加減は弁えておらず、それにより木屑は飛び散り、木碑の断面も実に荒々しく仕上がってしまった、そんな剣筋。
玉門を出る前に、その女はある者にこう言った。“この剣が役に立つ場所を探してやる”と。
しかし手ぶらで武器一つも持っていないような村人たちの前で剣を抜くことなど、はたして仁義に相応しいことと言えるのだろうか?
彼女はここで剣を抜くべきなのだろうか?この者たちの企てに手を挟む資格など、はたしてあるのだろうか?
だが、不平を目にしても知らぬふりをするのであれば……
一体なんのためにこの剣はあると言うのだろうか?
この木碑を立てれば、二つの命を汚すことになるぞ。
チュウ殿……
おまっ……まだ出て行ってなかったのか!?
この茶番劇がもしや収拾のつかない事態にまで発展するのではないかと危惧したものでな。
……よもそれがまんまと叶ってしまうとは。
お前、全部知ったのか……?
はっきりとな。
なら、俺たちの活路はもうこれしかないことぐらい分かって――
それはもう聞き飽きた、この二日もの間にな。
一人の屍、一つの名前、そしてひと袋の金。貴様らの活路というものは、ただ他者の尊厳を踏みにじってやらねば敷くことすらできないというのか?
女の口調はそれほど激昂したものではなかったが、それでもその場に居合わせていた村人たちはみな思わず退いてしまっていた。女は周りを見渡せば、誰もが戦々兢々と女を――女が握っている剣を見つめていた。
女にとって、そのような目線はあまりにも馴染み深いものであったのだ。
もしかすればこの者たちは単に剣を恐れているだけではないのかもしれない。なにせこの者たちの運命を翻弄せしめるものなど、この世に多々存在するのだから。
あるいはこの者たちはそんな単なる剣のみを恐れているのかもしれない。荒野に生える草芥は風霜を除いて、そのほかの何に触れることができるというのだろうか?
だがやがて剣光はたちまちに収斂していき、もはやその場にいる誰ひとりとて狙うこともなく、女は剣を鞘に納めた。
お嬢さん……いや、武侠殿……
この一件はお前とはなんら関係はないはずだ……世の武侠たちがみんな義に厚いことは知っているし、お前だってきっとそうなのだろう。でもな、俺たちはただ……お前に何が分かるっていうんだ!?
私とお前たちの間に、違いなどはないさ。
母さん、父さんの……父さんのふろしきから政府の通告書が見つかったんだ。
“姜斉一帯、水賊は跋扈し、百姓これに苦しむこと言葉するに能わず……よって近日に水賊組織を殲滅せしめんとするが、加害者もしこれに能く自首すれば、刑罰の情状酌量の余地あり……”って。
母さん、父さんを止めてあげてよ!
娘のことを思う気持ちなら、今からでも遅くはないだろうさ……
だが言うのは簡単だが、俺たちが官人に下ったところで、その後はどうなる?
とはいえ、江(かわ)を行き来する行商たちや、糧食を運ぶ脚夫たちも……あいつらになんの過ちがあっただろうか?
俺も仕方がなかったんだ。責めるのなら、この山がほかと違って高く、水もほかと違って起伏に富んでいたことを責めるほかない。
まあ何が言いたいのかと言うと……
しっかりと娘の面倒を見てやれよ。
最初から富豪の家に生まれ、家柄は貴権に富み、五穀に困ることがない者がいれば、根無し草や獣となんら変わりがないような居場所を失った者や、次の日の食事を考えてる場合もなく、今ある僅かな糧食を口にかきこむ者もいる。
天災が見下ろしている中、この大地を回り尽くして目に及んだものといえば、いつだってそういった情景ばかりだった。
この世に真っ当な義など存在するはずもないのに、なぜ河辺に生えている浮草や、荒野に転がっている石礫にそれを遵守し、守り通さなければならないと言えるのだろうか?
だがそれは、我々はその不公平の一環に過ぎないことを平然と受け入れていいことを意味するわけではないはずだ……
姜斉から玉門まで、五年とまた五年が過ぎていき、私も何度もこういった辺境を彷徨ってきたことがある。一つの信念と一陣の血気さえ欠落していたら、私も山海衆のような連中に落ちぶれていたのかもしれないな……
そう、私の父のように。
お前たちの多難については理解できる。が、それがお前たちの不義を働く理由には断じてならない。
断じてな。
江はいずれ必ず我々を呑み込んでいくのだから。
私もできることなら最後まで手は挟みたくなかった……
なのに貴様らは、一体どこまで手を及ぼせば気が済むというのだ!?
じゃあシャオシーはどうするのよ……
……
シャオシーがどうした?
たぶん周四と周六らが、そいつを裏山に連れて行ったはずだ……
山に?
あいつがまた騒ぎを起こすかもしれねえから、とりあえず遠くに連れいってやったほうがいいと思ってな。俺たちは別にそいつに余計な危害を加えるつもりは……
……
ならまだ間に合うはずだ。
まるで突如と雪が降り、そしてまた突如と融けていなくなったかのように、剣客の女はすでにその場から姿を消し去った。
マタギは少しだけ呆然した後、せっせと足を動かしてその後を追う。
両断された木碑と、その木屑、そして分かったようで分からなかった話を残して……
一方衆人らはその粗悪な墳墓を囲みながら、互いに顔を見合わせるばかりでいた。この者たちはきっと何かを思いつき、またあるいは何かを忘れてしまったのだろう。
おしまいだ……何もかもがおしまいだ……
サガさんはこの近くで僧侶をやられているのですか?ここら一帯をよくご存じでいるようですので。
拙僧はひたすらに雲遊し、つい数日この近くに立ち寄ってたまたまあの事故を目撃してしまっただけでござるよ。
しかしなるほど、マルベリー殿は災害救助の専門家であられたか。地滑りの状況を詳らかに理解しており、この先あの村での災害の再発をも防止してやれるとは、実に良いことであるな。
その、こ、ここまで案内してくれて本当にありがとうございます、サガさん。もし村の方たちからずっとああして止められていたら、私もどうすればよかったか。
それについてなのだが、なぜあの者たちがしきりにマルベリー殿を止めようとしていたかはご存じであろうか?
えっ、もしかしてあの事故には何か人に言えないようなことでもあるのでしょうか……?
人力にはついぞ限りがあるもの。森羅万象を目にすれど、それもたかが管の中から獣を覗き込んでいるようなものに過ぎぬ。天災人災に隠し事があるかどうかは、拙僧如きが妄言する資格はござらん。
こうしてマルベリー殿を山へ案内してるのは、マルベリー殿にはまだ判然としていないことがあると思ったからでござるよ。
目で見たものこそ真なり。その場所に着いた後、その目で直に見てやれば、自ずとマルベリー殿も分かってくるでござるよ。
は、はい……
ここが地滑りの発生源ですね……
マルベリーは崖の縁へと近づき、何も考えずにそのまましゃがみ込んでしまったため、土砂によって彼女のスカートは汚されてしまった。
その崖から遠く下のほうを覗き込んでみれば、事件の発生現場に堆積した土砂はまるでいい加減に放り投げて広がった扇の面のように広がっており、あのくっきりと敷かれた生命線も土砂によって絶たれ、辺り一面は狼藉と化していた。
どうだマルベリー殿?何か発見はあっただろうか?
……
むむ、なんだか少し険しい表情をしているでござるな……
……
少し、考えてしまったんです……以前発生した地滑りは、本当に単なる偶然によるものだったのかって。
この地ではついこの間まで、連日暴雨が降り続いてきたでござるからな。拙僧は雨宿りのためにこの村にやって来たでござるよ。
炎国の北西は山がたくさんあって、よく干ばつも起るのですが、ここ二年は特にそれがひどくて。数少ない雨も春と夏に集中して降るんです。以前発生した付近の天災のせいもあって、なおのこと気候に変動をもたらしました。
おまけにここら一帯の山は植生も少なくて、植えるのも大変なんです。そのせいで大多数は荒山になってしまい、山肌が剥き出しになって、土もどんどん柔らかくなってしまって、そこに短時間で集中的な降雨が加えれば、地滑りの発生はそう珍しいことでもありません。
それでも……あちらを見てください……
ん?
あちらです、崩れていないところ。
あれは……防止対策の工事だろうか?
炎国の国内には無数もの馳道が敷かれていて、基本的に天災が頻発する地域や山間にも通っていまして。頻繁に修復や再建を行う必要があるからこそ、建設当初はいつも以上に労力がかけられるんです。
そこの地形が複雑であればあるほど、工事が及ぶ範囲も広くなっていくものですから。
道路以外にも、建設部隊は馳道の安全を確保するために、その馳道が走る両側の山にも擁壁を築いて、立体防止工程を施すんです。
なるほど、道そのものよりも、道の両側に構えている山を固定しておく必要があるのだな。
はい、何より重要なのは……
見つけてしまったんです……火薬の残留物を。
火薬……
それは馳道の建設部隊がこの山に防止工事を施すために、発破作業を行う際に残していったものである可能性は?
う~ん……
“春乾”で実習を受けていた時、何度もその建設部隊と実地調査と試験的な建設、また救援任務にあたったことがあるんです。
そんな馳道建設部隊は施工時には“精密に制御管理すること”を強く求めてくるんです。彼らが発破作業する際に使用してる爆薬は、すべて工部の冶造坊が研究開発した制式のものですので。
ただ私が今発見した残留物を調べると、とても粗造な爆薬らしくて……
手製のものと言っても差し支えないような……
手製の炸薬……拙僧がここに来るまで間、狩人たちがその手製の炸薬を用いて砂地獣の巣穴を埋めるところを見かけたことがあったでござるよ。
しかしこんな何もないような山頂で、一体誰が炸薬を埋めたのだろうな?
そう言ってその客僧は、知らず知らずのうちに石を蹴った。
石は坂を遠くまで転げ落ちて下っていき、最後には形が整った窪みに嵌っていった。
そこで彼女は薙刀で周囲の草を払い除けてみれば、すでに風や砂に吹かれて久しい、くねくねとした痕跡を見つけた。
……
サガさん、どうかしましたか?
それは歩行車によってなぞられた轍であったのだ。
その老人は疲弊した足取りを引きずっては、ふらふらと村の外へ赴いた。
日はすでに西へと傾いていて、それによって焼かれた雲はとても美しく見える。一日の最後に見えるこういった日差しというのは、熱くもなければ寒くもなく、ぽかぽかと身体を暖めてくれるちょうどいい日差しと言えるだろう。
いつもなら、老人はつい一日の仕事を終えたばかりでいるか、あるいは村に残っている様々な庶務を終えたばかりであったはずだ。
農繁期の今の時期は、いつだって時間は足りないものである。しかし今の彼にとって、今日は今までないほど長い一日であった。
そうして老人は宛てもなく村の中を歩く気力がなくなるまで彷徨いながら、呆然とその場に座り込んだ。
族長さん……?
お前は……どうやって入ってきたんだ?
それになぜ……
お金を届けに来たんですよ、族長さん。
なん……だと……?
くたくたに疲れ果てたそのトランスポーターは金袋を地面に置けば、重苦しそう音が聞こえ、巻き起こされた土埃がほぼ老人の顔にかかりかけた。
お忘れですか?二年前、あなたは政府に申請を出したんですよ。
あなたがずっと待ち望んでいたあの手当が、ようやくね……
町でその報せを受け取った次第、私がこうして届けに参ったということですよ。
そうだ、今年の春分の種蒔きが終わった後、村もようやく一番いい灌漑設備を使うことができますよ。村人たち一人ひとりにも、新しいものと差し替えることが可能性です。
政府なら謀善村のことを忘れてはいませんよ……ただ天災の影響で、少々遅れてしまっただけでして……
族長さん……?
老人は動かなかった。彼はただ口を開いたまま何か言おうとするも、何も言葉を発せなかった。
金が入った袋は重く地面に置かれている。老人は目の前がぼやけ、まるで千年前にご先祖が除けてくれたあの大きな山が再び返ってきて、重く彼の心に圧し掛かってきたかのように思えた。
はやく……
はやく小石を出してやらねば……
族長……
方小石が……山から飛び降りました……