く、来るな……来るなァ!
この痩せた男は突如なにかを取り出して振り回してきたと思えば、それは一本の万年筆であった。暗くても、その上に施された豪華な装飾が目に入る。
この“次なる王立科学アカデミーの次期首席研究員”を自称する紋章学者は、きっとこの万年筆で数多くの見事な考察を書き上げたことだろう。
だが今、そんなものはただ哀れで、取るに足らない武器となってしまい、震える手の中に握りしめられている。
そして“カラン”と缶詰が一つ、男のコートの中から滑り落ちてきた。男は慌てて腰を曲げて拾い上げ、再びコートの中へ隠す。
……それ、最後の肉の缶詰なんだけど。
……
すまない……
本当にすまない……が、もう持ちこたえられそうにない、狂ってしまいそうなんだ!この閉鎖された場所に!空気中に漂う死体の灰と匂い!何もかもに!
どうしてなのだ……どうして私がこんな目に遭わなければならない!
私は……それなりの身分ある人になるはずだった!羽獣がさえずる朝に目を覚まし、寝覚めのコーヒーを一杯啜りながら、手稿を手掛ける生活が送れるはずだった!
……君たちには本当に申し訳なく思っている。君たちにはとても助けられたよ、しかし……
どうか許してほしい……こんなことをすべきではないのは分かっている。私も以前まで使用人をよく扱い、外食する際もいつもチップを倍にして弾ませていた……
その道徳心を何よりも誇りに思っていたのだが……
もう……耐えられない!こんなのもうまっぴらゴメンだ!どうしてだ……どうしてこんなことに……!
だったら今持ってるその缶詰を置いて、ここから出て行ってもらえないかな。
……ぶ、物々交換だったら応える!サルゴンの宝石や、サンクタの守護銃なら……
そんなもの役に立たないよ。
頼む……!どうか……どうか……!
男の震えはますます激しさを増し、やがて両膝を床につけ跪く形になる。おそらくこれまで一度も他人に懇願することはなかったのだろう。その姿はとても滑稽に見えた。
コートを抱き締め、その中に隠れた缶詰がぽっこり膨れ上がった様相は、さながら身体にできあがった悲しい肉腫、あるいは愛情籠った胎児のようであった。
……
……もういいよ、行って。正門は閉じてるから、ベランダからね。行き方は分かるはずだよね?
ベアード……!
いいの、行かせてあげて!その肉の缶詰を持って、とっととここから出ていけばいい!
もう……疲れちゃった……こんなのもう見たくないよ。
本当に……もう何も見たくない。
怯えた男は慌ただしく立ち上がり、よろめきながら戸惑いを見せる。まるでこのジムを経営しているギャングたちがこうもあっさりと自分を逃してくれることが信じられないといったように。
ダフネに睨みつけられた男は顔を逸らすも、無意識に身体中を模索する。今の男は何も持っていない。小切手も硬貨も、今のノーポートにはなんの役にも立たないのだから。
しばらくして、男は歯を食いしばりながら、あの豪華な装飾が施された万年筆を床に置き、そしてそのまま闇の中へと逃げていった。
……行っちゃった。
その万年筆をベアードは拾い上げ、無造作にポケットの中へ仕舞い込む。
……ダフネ。
一緒に、ちょっとだけ寝よっか。
あの頃、一緒にビデオホールで寝てたようにさ。
……
小っこいの、お前新しくここに送られてきた傭兵なんだってな?
う……うっす。
なら運がいいこった!ここでの任務は楽なもんだからよ。
あのヴィクトリア人どもが封鎖線を越えないように見張っておくのが仕事だ。もし越えてくるヤツがいれば、殺しゃいい。
そ、そうなんすね!
ヘッ、あの傲慢なヴィクトリア人どもにもツラい日々を送ってもらう時が来たんだ!なんだったら斧をやりたいくらいだぜ、勝手に殺し合いしはじめてくれるからな!
そ……それは規則に違反するんじゃ……?
……お前ってばつまんねーヤツだな。俺たちはサルカズだぞ?あいつらが生きようが死のうが、俺たちにはなんの関係もねえだろ。
そんなことよりも楽しまなくちゃ損だぜ。
で……でも……
まあいい、俺ァちょっくら一眠りしてくるわ。ちゃんと見張っておけよ。もしヘマでもしたら、その小っこい首を斬り落としてやっても構わねえんだぜ?
(サルカズの兵士が立ち去る)
……
もう行ったすよ。
助かったよ、お嬢さん。
ごめん、今回はあんまりたくさん持ってこれなかったっす。えーっと食料と、あとは薬も少々……
十分だ。本当にありがとう……
それにしても、お爺さんサルカズっすよね?だったら助けてやってもまったく問題ないんじゃ……
ウチら同族なんだし……
そうだ、なんだったら上の人に一声かけてみよっか?ヴィクトリア人と一緒に、こんな場所に閉じ込められなくて済むようにさ。
いや、いいさ。わたくしは生まれも育ちもここでね、ここが我が家なのだよ。
ロンディニウムで生まれ育ったんすか?
サルカズなんてどこにだっている人たちじゃないか。これでもあなたたちがロンディニウムへやって来てから、わたくしはホテルのマネージャーになれたのだぞ?
彼らが言うカズデルなんて、わたくしは行ったことないね。お嬢さんはそこから来たのかい?
ううん、ウチも行ったことないっす。
では、お家はどこに?
お家っすか?うーん……あんまりよく分かんないけど、クルビアかな?そこで生まれたんだし。でも……昔隊長だった人が、カズデルこそが俺たちの故郷だって言ってたっす。
そこに行ったこともないのに?
ウチも……よく分かんないっす。でもみんなそう言ってるだから……
ふふっ、わたくしはあの兵士たちが謳ってるものには興味ないね。彼らと一緒に殺しをするくらいなら、ホテルのシャンデリアを直してやったほうがマシさ。
どんな貴婦人の首飾りも見劣りしてしまうほどのシャンデリアでね。絶対一度は見ておいたほうがいい。
なんだったらわたくしが若い頃は、毎日必死こいてあのシャンデリアをキレイに拭いてきたものだからね。
……お爺さんって、ホントに変ったサルカズなんすね。
人殺しよりもシャンデリアが好きなのがそんなにおかしいのかい?ならすまないね、傭兵の人とはあまり交流したことがないものだから……
けど傭兵の中にも、あなたのような物資を持ってきてくれる優しい子がいると知れて、わたくしは嬉しく思うよ。
ではまた会おう、お嬢さん。ここでの長居は無用だ。もし機会があれば、ぜひホテルに来ておいで。
ここがまだ賑やかだった三四十年前なら、サンセット大通りにあるホテルはロンディニウム一のホテルだったからね。
うす……機会があれば。
多分……この戦争が終わったら、かな?
ふふっ、そうだね。その時はうちで扱ってる最高のデザートをこっそりご馳走してあげるよ。
砕け。
(Logosがアーツを放つ)
そんな呪術をボクたちに放っても意味ないよ?ここんとこずっと試して分かったことじゃないか。
時間の無駄だね、君はまだボクたちのことをきちんと理解できていないんだ。
君が持っている知識はすべて学習から得たものなんだろ?つまり、経験というものが極端に少ないことが言える。
しばらくその骨筆は置いたら?ボクたちは君と少し散歩がしたいだけなんだ。
今はこの街を観光するにはいい時期みたいだよ?昔ボクたちが化けてきた人たちのうちに子爵だった人がそう言ってた。
まあゆっくり歩こうよ。中央の大通りに植えられた木々はロンディニウムの誇りって言われてるみたいだし。
……うぬは一体、己にいかなる形の運命を選ぼうとしておるのだ?
多くの姿と身体を持つうぬは……当然のごとく死から逃れられると思っているのか?
ならばうぬらの挽歌を奏でてやろうぞ。一人残らず、すべてのうぬの為に。
脅しのつもりだったら意味はないよ。君がどんな手段を持ってるかは分かりきってるんだから。
ボクたちからすれば、一個体の死は終わりを意味しない。一本の街道が除かれたからって、都市そのものが変質することがないのと同じように。一行の文字が消えたところで、文明は崩壊しないのと同じようにね。
だがそれにつれ、文明は落ちぶれていくであろう。
だから生まれ変わることを、経験を重視しているのさ。ボクらはね。
君のご先祖様たちなんだけど、ほとんど会ったことがあるよ。彼らも若かりし頃は、みんな君と同じように情熱と大きな希望を抱いていた。
もしかしたら、彼らが奏でた挽歌から変革というものが生まれてくるはずだったのかもね。
けど結局、彼らはみんな等しく土に還ってしまった。彼らとて後ろから迫ってくる死からは逃れられなかったんだよ。
ならうぬの経験とやらは、相も変わらずうぬ自身を滅びの炎に引き寄せるものだというのか?
いいや、違うさ。
ボクたちはずっと、今でも探し続けているんだよ。色んな姿で、色んな場所で。
……バンシー、君は本当に立派な呪術師だ。
もしよければ、ボクたちの長い記憶のためにちょっとだけ景色を演出してくれないかな?
ボクたち……いや、私はかつて、サルゴンの砂漠で百年間過ごしたことがあったわ。あれは王の中の王が、つい遠征を終えた時だった。
偉業がまだ伝説として語り継がれていない時だからこそ、いつだってその偉業に名を残したいと思えてしまうのが人の性なのさ。
さあバンシー、幻でもいいから、少し砂嵐を演出してくれないかしら?
大丈夫、あまり時間はとらせないから。一緒に私が今まで歩んできた道を振り返ってみましょう。
道を辿りながら、一緒に歩くの。それでもしかしたら君は私を理解してくれるかもしれないし、私も君を認めるかもしれないわよ?
さあ、私に見せてちょうだいな。
……
道を辿った先に、結論があることを願っておるぞ。
幕よ。
(周囲の風景がサルゴンの街に変わる)
もちろんよ。それにしても、ちょっと私が記憶してる景色とは違っているかな。まあ、仕方ないわね。風が吹けば、砂にできた足跡は消えてしまうものからね。
それじゃ話を戻して……私ね、昔ここの人たちのために家を建てたことがあったの。まだ移動都市もなかった時代よ。
でもね、石で積み上げた家というのはいずれ砂嵐に削られてなくなってしまうの。家を建ててはなくなって、その繰り返し……
ほとんどの人はその繰り返しに疲れてしまったけど、私は楽しんでいたわよ。
己を文明と同格に並べておきながら、これがうぬの言う“生まれ変わる”というものなのか?
いやいや、そういう意味じゃないわ。
あれは単なる比喩表現よ。文明だって始まりがあれば、終わりもあるでしょ?
けど私にそれはないの。いくら欲しいと願っていようとね。
つまり、うぬは石ではなく、その石を削り取ってしまう砂嵐のほうということか。
……砂嵐、か。
そうかもね。
始まりを見届けることもなく、終わりをもたらすだけの存在。
うぬも満足できていなかったことだろう。
……首長の姿に扮し、当時その王の中の王へ謁見することもあったわ。あの人は“過去と未来の王”と自称していて、万物の答えは彼の黄金の宝物庫にあるとされていた。
そこで私は陛下に訊ねたの。我々の傍にあるものすべての意味と、陛下が我々を導いてくれる行末を。
あの人は高々と顔を上げ、こう答えたわ。朕の思考こそが意味であると。
なんとも傲慢で、妄想に耽った人だったんでしょうね。燦爛とした日の光に照らされて、自分こそが文明の主宰者だと信じて疑わなかったわ。
でもね、なんと彼、思わず自身が着ていたローブの端を踏んですっ転んでしまったの。
それから冷めてしまったわ。つまらない男だって感じてしまったものだから、ここを出ることにしたの。
随分と印象深い手段を持っているのね、公爵たちは。
今ここにいる私たちの部隊はそこそこ規模があるのに……あなたたちったら、すんなりとここに侵入することができるのね。まるで我が家の裏庭にでも入っていくように。
どうりでサルカズたちの厳重に監視を敷いたとしても、情報網を構築することができるわけだわ。その高速牽引装置と、小型の幻術発生ユニットのおかげなのね。
なんだったら、ロンディニウムとこの切り離された区画すらも簡単に行き来することができる。
ヴィクトリアはこの大地において最強の国家。そして私が仕えている公爵もまたヴィクトリアで最も有能と称するに相応しい人物です。
となれば、私たちが最高の技術と手段を備えているのも自然のことではないかと。
その手段とやらをこちらに向けて使われないといいのだがな。
ご安心を。いつだって友人には友好的に接するのがカスター公のお考えですので。
では話を戻して。飛空船はこの区画のどこかに隠されております。こちらの推測によれば、この区画の地下にはドッグがあるのではないかと。
……それだけ?もっと具体的な情報はないの?
それについては皆様の努力次第になりますね。
ウェリントン公とナハツェーラーが腕試しと言わんばかりに争い出す前に、まだまだあなた方の時間が残されています……が、そこまで多くはないでしょう。
とはいえ、満足いく結果を出してくださると信じておりますよ。
これは取引です、そのことを努々お忘れなく。アレキサンリアナ王女殿下、そしてロドスのドクター。