思ってた以上に、人がついて来てるね。
全員が全員、お前らについて行けば生き残れると考えてるわけじゃねえけどな。
それは承知している。
私を信頼してくれているからこそ、私の後ろについて来てるわけではないことくらい。だが彼らは……みんなもう後がないんだ。
やっぱり、足音には説得力があったね。私たちに加わる人たちが増えれば増えるほど、ほかの人たちの戸惑いは薄くなる。あとは私たちが……
俺たちの敬愛すべき陛下がバリケードのところに到着した時、大勢の人たちがテメェのための肉の盾になってくれるだろうよ。
いいや、その時は私が先頭を行く。
ケッ、そうかよ……ってちょっと待て、お前ら空を見ろ。ありゃなんだ?
あれは、サルカズの飛空船……とうとう離陸したんだ!
今がチャンスだよ!
違う!あれは――
騒然とした人混みは突如と静まり返り、みな一同にして自分たちを上から覆い被さっている飛空船を見上げた。
見上げた人たち全員の瞳には妖しく紫色に輝く炎が映り込んでおり、今ゆっくりと上空から落ちてきている。
そして冷酷な紫炎は地上に落ち、飛散した火花はまるで生物かのように、逃げ惑う人たちの身体に燃え移っていく。
炎は一瞬にして周囲に広がっていった、誰にも止められる勢いではない。消えることのない紫の炎は瞬くまに慌ただしく逃げ惑う人たちを呑み込んでいったのだ。
その人たちはやがて悲鳴を上げながら炎の中に倒れ込んでいく。
だがしばらくして、亡骸たちはたちまち炎の中から立ち上がり、その眼窩にはメラメラと渇望の紫炎が燃えていた。
静寂なる死への渇望が。
この場に居合わせた人たち全員が、そんな“奇跡”を目の当たりにした。
あ、あれは……あれも魔族たちの術なのか?
一思いに死なせてもくれねえのかよ……
頭上から降り注いでくる紫色をした火の雨は、今や死神のように地上へゆっくりと近づいて来る。
恐怖が瞬時に人混みへ拡散していき、静まり返っていた人たちが再びパニックを引き起こした。
あの炎に近づくな!急げ!はやくそこから脱出するんだ!
……クソッ、家屋があたり一面燃やされてしまっている。
シージ……あれを見た?
何をだ?
あの紫色の炎……あれはサルカズたちの仕業じゃない。
死者を蘇らせる伝承を聞いたことがあるんだけど……その主役は一人のドラコだ。
つまりダブリンの指導者にして、貪婪なる赤き龍……その人が現れたんだよ。そして今、その人の炎が私たちの頭上から降り注いでいる。
もう自分の野心を隠さなくなったのさ、シージ。
……その人が何者であろうと、今の私には知ったことではない。
ここから脱出する、それだけのことだ。
待って、危ない!
(辺り一面に紫の炎が広がる)
どうやらその長寿はお前に“我慢する”ということを教えてくれはしなかったようだな。
そこまで切羽詰まって私と戦いたいというのであれば、なぜ私の炎を恐れる必要があるのだ?
もしやあの摂政王に仕えてから、お前は自らが誇りに思っていた知恵すら捨ててしまったのか?
面白い能力を持っているね、ドラコの小娘。君の炎は……実に興味深い。
君はボクたちの存在を知っている。となればここにいるボクは、無数個存在しているボクたちのうちの一人でしかないことくらい分かっているはずだ。
こうして現れたのは、ついでに君にもちょっとだけ警告してあげようとしただけだよ。君はボクたちの眼中にすらないってことをね。
君の魂は実に浅はかで貧弱だ。権力を追い求めようとする炎すらも、君は隠すことをしなくなった。
くだらない人だよ、君。今ほかのボクたちと話をしている若いバンシーと比べて、君には疑問を呈するほどの興味すら生まれない。
着飾ることなど、私には必要ないからな。私の炎はいつだって私のためにすべてを燃やし尽くしてくれる、今みたいに。
あぁ、だが少し楽しみになってきたぞ。お前たちがいずれ私の炎に焼かれ、この私に平伏する時が。
それじゃ君、足元から伝わってくる悲鳴も聞こえているはずだよね?
当然だ。彼らが私を讃える限り、私は彼らをも導いてやろう。
それが私の責任だからな。お前にそんなことが分かるはずもない、徘徊するだけの老いぼれめ。
……大昔、この国がまだ今みたいな滑稽な姿に変わり果てていなかった頃、ボクたちはヴィクトリアの南でとあるドラコと出会った。あの時の彼も、今の君みたいに幼かったよ。
そんな彼も、戦場で死んでいく前には君と同じことを言っていたさ。“俺があいつらを導く、あいつらが俺を讃える限り”ってね。
けど残念ながら、彼の子孫は結局この帝国の虚栄に平伏してしまったよ。あの時アスランと酒を酌み交わしていた和睦の使者だろうと、君だろうとね。
そういう君はどう思っているのかな?自分と戦に奔走してきたご先祖たちと比べて。
お前如きに、我ら一族が受けてきた苦難を推し量る資格はない。
とはいえ、それは私も同じこと。あのターラーの歴史を創り上げた赤き龍を評する資格など、私にはない。
だがお前が言っていたその素晴らしい記憶は、とうの昔にターラー人たちの記憶から消え去ってしまった。それが今ある現実なのだ。
ドラコの先王たちなら、私以上に気高い存在であったとは限らないさ。いずれにしろ我々が求めているのは“公平であること”だからな。彼は彼の選択をし、私は私の選択をしたまでだ。
それに比べて、お前は自らの命の長さと博識を吹聴しひけらかしていただけに過ぎない。
……
だがお前が誇りに思っているそれら財産は、何一つお前の人生に変化をもたらしてはくれなかったではないか。そういうお前も、なんと哀れな生物であるか。
“観察”し、そして“探し求める”、たったそれだけ……それがお前の冗長な人生のすべてだ。違うか?
やれやれ、お互い相手のことを客人としてもてなすつもりがないのであれば、さっさとこの下らない論争を終わりにしたらどうなんだ?
……
感謝するよ、小娘。君のおかげで、この面倒な仕事から少しだけ楽しみを見出すことができた。
これで私もお前の記憶に留まることができたのではないかな、変形者?
お前のその冗長で入り混じりな記憶の中に、私だけの章節ができたのだから。
……
外で火が……
ぼさっとしないで、さっさと荷物を片して合流しないと……って、モーガン?
どうしたの?もしかして、さっきヴィーナに言ったことで後悔してるとか?
吾輩もよく分からないの。急にわっと言葉が溢れて、それで……本当はちっとも彼女を責めるつもりなんてなかったのよ。
あんまりにも自分に言い聞かせたかったの。もう悪夢は終わった、全部よくなるって。それを教えてくれたのはいつだってヴィーナだったわ。
……このビデオ、まだ憶えてる?マクラーレンのところで大金はたいて買ったやつ。
あいつ……“こいつはもう絶版だからコレクションする価値はある”って言ってたっけ。
まあ、間違ってはいなかったよ。あんたがこれを買ってきてから、ヴィーナとソファに寝転がりながら何回見たっけ?十回?それとも二十回?
だからこうしよっか。あたしたちがここから逃げ出して、新しいアジトを作ったら、二十一回目をみんなで見るんだ。文句言うくらいならこうしたほうがいいと思うよ。
……ヴィーナはちっとも変わっちゃいないさ、そうだよね?
変わってしまったのは……ノーポートだけ。
……このビデオで思い出したんだけど、まだ一人避難のことを教えていなかったんだった。
あんたは先に行ってて、すぐに追いつくから。ヴィーナにもそう伝えて。
ノーポートの街路灯を見れば、今や一つも明かりがついているものはない。街の中では紫色の炎が広がっているだけで、ベアードが進む道を照らしている。
周囲を見渡せば、あちらこちらで燃える人たちが空を見上げていては、静かに“指導者”の召喚に耳を傾けていた。
だが黒夜は空中に浮かぶ飛空船を覆い隠してしまう。天を衝かんとするばかりの紫炎でさえ、その姿を暴露させることはできない。
こ、こいつら……一体何も見ているの?
そんなことより、やはくマクラーレンを探してヴィーナと合流しないと。ここはもう危険だ。あいつの家は確かあっちに……
クソッ、あたりが暗すぎる。懐中電灯を持ってこればよかった。
あいつの店だったら、一晩中ネオンでピカピカ光っていたってのに。
……それにあの燃えてる“モノ”、ホラー作品に出てくるバケモノよろしく、急に襲いかかってこなきゃいいんだけど。
左から三軒目、左から三軒目だから……一、二、三……ここだ!
マクラーレン!おい、マクラーレン!
あんたの隣の家が燃えちゃってるよ!はやく逃げて!
暗闇から返事はない。ベアードの耳には木材がパチパチと燃える音だけが伝わってくる。
そこでベアードはハラハラとしながらも耳を隙間にピタリとくっ付けてみれば、広い屋内から微かに歯が震える音と呼吸音が聞こえた。
マクラーレン!よかった、まだ生きてたんだね!
あっ、そうだ……耳が聞こえなくなったんだって、モーガンが言ってたっけ。
どこかペンは……そうだ、ポッケに万年筆を入れてたんだった!
“ここはもう危険だ、はやく逃げて!”っと……
“あたしはベアードだよ、木の板を外すからね”……
マクラーレン、メモを見て!*ヴィクトリアスラング*、見えてるんだったらなんか反応してよ!
クソッ、もう時間がない。ここは直接中に入るしか……
大丈夫だからね、マクラーレン!あぁもう、釘……打ち込み過ぎて窓が開けられない!こんの……!
ベアードは持っている折り畳みナイフを使って木の板の隙間をこじ開けながら、持ち手で壊れかけている木の板を外そうとする。
もうすぐだ、もうすぐだからね!
(小声)……るな……
もしかしていま何か喋った?ごめん、よく聞こえなかった!こいつはすぐに外れそうだ……もう少しだからね!
(小声)……るな……こっちに……
なんだって!?クソッ、火がこっちに燃え移っちゃう!
急がなきゃ!はやく……
あと二枚だ!マクラーレン、あたしが見える!?
“はやくそこから出てこい!”火が燃え移ってきた、はやくして!
こっちを見ろっての!見えるようにデカく書いてるでしょうが!
(小声)来るな……来るな……!
そこどいて!最後の木の板を蹴り破るやら!
俺の傍に近寄るなあああああーッ!!!
咄嗟に銀色の光の筋が過り、ベアードは後退る。そして自分の頬に触れてみれば、ぬめっとした液体がそこから滲み出ている。
な、何……?
マクラーレン……
見慣れたはずのビデオホールのオーナーはすぐドアの後ろに立っていた。
彼の首には耳の穴から流れ出た血痕が固まっており、耳介にある源石もすでにある程度の大きさまで成長してしまった。モーガンの言う通り、彼は完璧に耳が聞こえなくなってしまったのだ。
先ほどまで彼はきっと周りで起こっているに気付くこともなく、そこで灯されている唯一の光を見つめながらブツブツと呟いていたのだろう。
さもなければドアの外に立っていたのが彼女であった場合、手に持っていた刃物を振り回すほど極度に恐れることもなかったはずだ。
だがしかし、そうとも限らないのかもしれない。
たとえドアをこじ開けた人が誰であれ、彼はきっとこうしたのだろう。
外で巻き起こった災禍は彼の両耳とほぼすべての財産を奪い取ってしまった。残り僅かの食料を守るため、彼は止むを得ず壊れかけの木の板の奥に隠れ、刃物を手にするしかなかったのだ。
これは俺のだ……これ以外にもう何もないんだよォ……
マクラーレン……
俺はただ生きたいんだ、頼むからよォ……他はもう全部やる、だから……
なんで、なんでまだ俺に突っかかってくるんだよ……?
(小声)これは俺のだ……
よく見て、マクラーレン。あたしだよ、ベアードだよ。あんたを助けに来たんだ。
ほら、そのナイフをゆっくりと下ろして。そして手を伸ばして。
“ナイフを下ろして”。ね、見える?
もう火がこっちにまで回ってきたんだ、本当に時間がないんだよ。
……そう!そのまま!あたしがゆっくりそっちに向かうから、心配しないで!
ようやくあの見慣れたビデオホールのオーナーの全身がくっきりと見えるようになった。
そこでベアードは気付いてしまう。部屋を照らしていたのはライトではなく、彼女たちと数々の日々を共にしてくれた小さな映写機であったのだ。
さあ、手を掴んであげるから。ほら、立って。
(小声)生き残ってやる……
そうだね、みんなで生き残るんだ。
しかしベアードの手はこの衰弱しきった腕の、その柔らかな筋肉の下に隠れた源石の結晶に触れて、彼女は思わずドキッとした。
……大丈夫、大丈夫だから。みんな生き残るし、あんただってまた新しいビデオホールを開くことができる。あたしも新しいジムだって。
(小声)死んでたまるか……
そうだね、だから今は落ち着いて……もう安全だから、ナイフはあたしが預かるよ。こんなものもう必要ない。
ありがとう……ありがとう……
そうして彼女はゆっくりとマクラーレンが胸に抱いていたナイフに腕を伸ばす。彼の懐には膨れ上がった箇所があり、おそらくは残り僅かの食料をそこに隠しているのだろう。
やがてベアードがナイフを取り上げれば、この全身震えが止まらない男の強張った筋肉はこの日ようやく初めて緊張からほぐれることができた。
驚きと恐怖を除いて、男の混濁とした目からはそれらとは異なる感情が浮かび上がった。ベアードが考えるに、きっと自分を認識してくれたのだろう。
彼のほうもようやく懐に隠し持っていたものを手放した。落としたそれは空っぽな缶詰であり、中身に入っていたであろう食料はとっくに空になっていた。
ようやく、だね……さあ、行こう。
(小声)あれは、俺のものだ……
ベアードもうようやくほっと一息つくことができ、マクラーレンに代わって空っぽの缶詰を拾う。
これが欲しいの?でもこの缶詰、もう空っぽ――
突如、ベアードの腰に痛みが走る。見れば先ほど取り上げたナイフが自分の身体に刺さっている。そしてナイフを所持している彼女の腕をマクラーレンが掴んでいた。
言ったはずだろうがァァ!それは俺ンもんだ!俺ンもんだァァァァ!
これは……俺のォ……!
(ブツブツ)俺は生き残ってやる……この食料を俺に残してやるって約束したのはお前らだろうが……!
なん、で……うぐッ……
彼はゆらゆらとベアードへぶつかり、なんの価値もない空っぽの缶詰を奪い取る。
(ブツブツ)生き残ってやる……自分の身は自分で……
マクラーレンが握っていたナイフは今やベアードの身体に深く刺さっている。彼は急いで新しく武器になり得るものを探さなければならない。
やがて男はベアードが持っている折り畳みナイフを見定めた。冷たく光るナイフには彼の狂気に満ちたまなじりが映り込んでいる。
その折り畳みナイフは長い間ずっとベアードに付き添ってきた品物だ。
何年も前、グラスゴーにいた彼女らがまだ年端もいかない子供だった頃、ベアードがリサイクルショップで買い取った安価なそれは、一度も肌身離さず持ち歩いてきたものだった。
数々の戦いと喜びをベアードと一緒に経てきたそのナイフは、決して珍しいものでもなく、ベアードもとりわけ大事にしてきたわけではなかったが、単なる習慣として常に持ち歩いてきた。
それを奪おうとするマクラーレンだが、彼の力はとてもひ弱だった。おそらく先ほどの一刺しでほとんどの力を費やしてしまったのだろう。
だがしかし、なぜだかは分からないが、自分に反撃する力はほとんど残されていないことをベアードはこの時気付く。
やがてマクラーレンは何度か大きく肩で息を吸って吐いては、何度も何度も力を込めてナイフを奪おうとしたせいで、寸でのところでナイフが彼の首に突き刺すところであった。
危ない……!気を……付けて……
ベアードのほうは、もうほとんど腕を上げる力もなくなり、ナイフを握りしめていた手の力を緩めた。
そしてそのナイフを奪い取った男は空っぽの缶詰をまた懐に抱え、ふらふらと外で揺らめいている陽炎の奥へと消えていった。
……
は、はは……
いッ……たい……ハンナに、手当してもらわないと……ここを離れていった間に、少しは手当の仕方が優しくなっているといいんだけど……
ゲッ……ゲホッ……
クソッ、もう……足に力が……
マクラーレン、あんたも、酷いよ……チケット代を、一度もパクったことなんてなかったはずなのに……
……多分、ないはず。
そんなことよりも……はやくあいつらと合流しなきゃ……ヴィーナ、心配性だから……
私たちについて来る人たち、これで最後かな。
それよりも見て!火がどんどん大きくなってるよ!
私たちも間に合ったようだな、ドクター。
アーミヤ、走れそうか?
……はい、私なら平気です。
ドクターたち、間に合ってくれたか。よし、では今のうちにはやくここから出るぞ。
どうやら飛空船が離陸したせいで、大公爵たちは居ても立っても居られなくなったみたいだね。
ところであそこに見えるのはウィンダミア公の軍なのか、ダフネ?
さあね、もう確認する暇もないよ。
ほらシージ、はやく行こう!
公爵とサルカズの決着がつく頃まで待ってちゃもう間に合わ――
ダメだ、ベアードのやつがまだ来てねえ!
もう少し、あと二分、いや一分だけでいい!あいつは昔っから足だけははえーヤツなんだ!
街中でゾロゾロと動き回ってる死体が見えないの!?運よく砲撃と大火事から逃げられたとしても、あいつらが襲ってこない保証なんてないんだよ!
もう時間がない、シージ!
モーガン、ベアードがどこに向かったか分かるか?
マクラーレンを探しに行くって言ってたから、ちょうどこの反対の方向に……
おい、テメェの臣民とギャングメンバー、一体どっちが大事なんだ?
……いずれその答えがテメェに迫ってくるだろうよ。迷ってる暇はねえぜ殿下?
待てカドール、どこに行くつもりだ?
俺は所詮ギャングのチンピラに過ぎねえからな、テメェみたいにあれこれ考え込む必要はねえんだよ。
ベアードは俺の仲間だ。だったら当然、そいつを優先するに決まってる。
テメェは最後までここにいる連中のためを思っておけばいいさ、俺に約束したように。それをきちんと最後まで守れるか、楽しみになってきたぜ。
……せいぜい頑張んな。
そう言い捨てて、カドールは静まり返った群衆を押しのけながら、封鎖されたエリアの奥へと踵を返した。
モーガン、俺を止めるんじゃねえ!おいヴィーナ、お前もなんとか言えよ!
……
ハンナ、見ろ!あれマクラーレンじゃないか?列の最後尾に並んでいる人……あいつ間に合ったんだよ!
それを聞いて、カドールは足を止めた。
群衆の奥で、あの少しばかり口うるさかった男はキョロキョロと周りを見渡しながら、すぐに群衆の中へと姿を消していった。
マクラーレン……
間違いない、あれはマクラーレンだ!となれば、ベアードも間に合ったに違いない!
おい、あいつが持っているアレって――
それだったらベアードも近くにいるはずよ、もしかして一緒じゃないの……?ちょっと待って、あの折り畳みナイフ……なんであいつがベアードのものを持ってるのよ?
ふと、モーガンは悪い予想を思いついてしまった。
マクラーレンが手に持っている折り畳みナイフに付着した血痕は彼女に事の経緯を物がってくれている。そして振り向く前に見えたヴィーナ眼差しも、この恐ろしい予測は間違いではないことを示唆していた。
わっと涙が湧き出てくるが、モーガンはそれを拭うことはできない。今はどうにかして人混みに突っ切ることをしようとするインドラを止めなければならない。
モーガン、なんでそこまで俺を止めようとしていやがるんだテメェ!さっさと離さねえとぶっ飛ばすぞこの野郎!
……
(複数の爆発音)
(小声)ヴィーナ、あんたも見えただろ……?
(小声)ベアードは……
力だ。ヴィーナはこれまで生きてきた中で、これほどまでに力を望んだことはない。
か弱い力だろうと。強大な力だろうと。怒りからの力だろうと。悲しみからの力だろうと。
力であればなんだっていい。
目の前で起こっているすべてを打ち砕き、取り戻すことができる力であれば。
ほんの僅かな力さえあれば――
たとえ今、群衆を掻き分け、未だにしっかりと昔話に花を咲かせることができなかった旧友を探しに行けるだけの力であったとしても。
たとえそれだけの力さえあれば……
だがいくら願っても、諸王の息吹は相変わらず振り動かすには重いままであった。
力などない。私にはなんの力もない。
王女様……進まないのですか?
王女様が私たちをここから連れ出してくださるのでしょう?
……
……
王女様なんて、呼ばないでくれ。私は貴様らの王女では……
私はただの……いや、今そんなことはどうでもいい。
インドラ!持ち場に戻れェ!
今すぐバリケードを排除してここを出るッ!
なんだとヴィーナァ……?まさかテメェもベアードを見捨てる気か?俺たちは、すでに一回あいつを見捨てたんだぞッ!?
重々承知の上で言っている。
あいつもきっと、これ以上私たちと離ればなれになりたくないと思っているはずだ。
そう選択できる状況にいれば……の話だがな。
それは私たちも同じだ。私たちも、もう選択肢は残されていない。
だったらよォ!俺たちはなんのためにノーポートへ戻ってきたんだ!?俺たちはなんのために……!
我々が故郷の地に再び足を踏み入れたその時から、きっと我々がここに戻ってきた意味も変わってしまったのだろう。我が家に帰るだけの意味ではなくなった……
モーガン、ハンナを放してやれ。同じギャングの一員だ、少しは信頼してやれ。
我らグラスゴーに、腰抜けは存在しない。
売られた喧嘩の捌き方はまだ憶えているな?
ヴィーナ……
グ、グラスゴーのために!
これは弔いだ、グラスゴーのために!
……
テメェら、このクソッタレどもが……ベアードが待ってるって言うのに……!
グラスゴーの、ために!!
ノーポート住民たちの行く手を阻んでいるバリケードはすぐそこにある。だがいつもと違うのは、もうサルカズたちがボウガンや火砲を彼らに向けてくることはない。
自由はすぐ目と鼻の先だ。虐げられてきた人々はもはや我慢が効かず、必死に両腕を上げながら前へ前へと押し込みかける。
シージもそれに呼応してか、再び諸王の息吹を掲げる。しかし、このなまくらは相変わらず光を放つことはない。
やがて目の前に立ちふさがっていたバリケードの壁が倒された。シージが剣を振り動かしたからそうなったのかは彼女自身ですら定かではなかったが、きっと大勢の手が一斉に壁を押し倒した結果なのだろう。