フンッ、今さらだけど、後悔してきてしまったわ。
ここに潜り込むの……やっぱりいいアイデアなんかじゃなかった。
高いところに行けば行くほど、それだけ完璧で大きな影を見つけることができるのだけれど……
それにしてはここ……ちょっと高すぎやしないかしら?
……なんでもいいけど、もうウチを放してくれないっすか?
それは無理ね、お嬢さん。
余計なマネをして困るのは自分のほうよ?
この船は大きすぎるからね。もし可愛らしい女の子が私と一緒にどこかの廊下から急に現れてくる兵士の見張りをしてくれるのなら、こっちも嬉しいのだけれど。
……
あんたも自分をヴィクトリア人と思ってるサルカズなんすか?
いいえ、カズデルのサルカズだって思っているわ。
カズデルのサルカズだって思ってるのなら、なんでこんなこと……
マンフレッド将軍や軍事委員会のために戦わないんすか?
私は自分のために戦うだけよ。
それで、この船は今どこに向かっているのかしら?
……
子供に痛い目を遭わせたくはないの。教えてちょうだい
それは……ウチじゃ分かんないす……
ほ、ホントっすよ!
……あなた、この船ではどういう役割?
えっと……傭兵?
フッ、人を殺したこともない傭兵ね……
ものを奪われた時でさえ、どうやって静かに武器を出すのかすら分からないような。
マンフレッドはここで何をしてるの?幼稚園でもオープンしたわけ?
あいつ、戦争のなんたるかを学ぶべきだって、ウチに言ってた。
それであなたは学べたの?
……他人が他人を殺すだけのことなら。
いいわね、少なくとも考えは私と一緒ってこと。
……それにしてもこの船、かなり高いところまで飛んだわね。
この船は死した魂の依り代だって、将軍が言ってたっす。
チッ、“死した魂”……なるほど、道理で。
あの時アスカロンがあれだけ苦しんでいたのはそいつが原因だったのね。ほかの人たちが気を引いてくれたからよかったけど。
……この船、まだ高度を上げ続けているわ。
向かう先は……戦場じゃなさそうね。ロンディニウムに戻っているのかしら?
ロンディニウムから出発して、公爵の戦艦に一発お見舞いしてあげて、それからノーポートに数日停泊した。
それで公爵たちの戦艦がもうすぐ来ると知って、さっさととんぼ返りしたってわけ……
どうやらマンフレッドの印象を改めなくちゃならなくなったわ。子供連れに興じてるだけでなく、ピクニックにまでハマってしまったのかしら?
ウチは……
もう結構よ、あなた何も知らないんでしょ?
というか、まだ名前を聞いていなかったわね?
パプリカっす。
あなたがあのパプリカだったのね、報告書であなたの名前を見たわよ。十一番軍工場の労働者たちを解放してやったせいで、マンフレッドに捕まえられたらしいじゃない?
……
それ、サルカズの傭兵にとってはあんまり……誉れ高いことじゃないっすよね?
サルカズの傭兵からすれば、誉れなんて最高の恥よ。
そうなんだ……
あんた、カズデルに行ったことあるんすよね?あそこってどういう場所なの?
昔ウチの隊長が言うには、あそこがサルカズたちの我が家なんだって。
あなた、生まれは?
クルビア。
なるほどね。
どうりであそこをスイートホームと思っているわけだわ。カズデルに行ったことがないサルカズはみんなそうよ。
残念だけどそれ、あなたたちが勝手にそう思っているだけだから。
これまで知った言葉の中で一番汚くて気持ち悪くて、惨めなやつを百倍に拡大解釈してやって当てはめれば、カズデルのでき上がりよ。
……それを聞く限りだと、好きになれそうな場所じゃないっすね。
それじゃあなんで……多くのサルカズはそこを家って呼んでるんすか?
みんな家を必要としているからよ。
家さえ持てばすべてが良くなる。差別も迫害も瞬く間に消え去り、また堂々と生きることができるって、みんなそう思っているからよ。
フンッ、本当にバカバカしくて甘っちょろい考えだわ。
それは……あんたがサルカズじゃないからそう思ってるんじゃない?
……
なかなかものを聞いてくるじゃないの、お嬢さん。いい習慣だけど、戦いの場じゃやめたほうがいいわよ。
て、適当に思っただけっすよ!マジにならないでってば!
……本当にちょっと気になっただけだって。
ここ、誰も話し相手になってくれる人がいなくてさ。マンフレッドも忙しいし。
みんなすごく興奮してるんすよ、自分は偉大な出来事に加わっているんだって……でもウチ、それが分かんないんだ。なんでだろう?
ウチが知ってるのは、古い顔なじみがどんどん死んでいって、その代わりとして新しいやつがどんどん入ってくるだけ。でもその新しい人もまた顔なじみになった時は……
同じことが繰り返されるだけっす。
いつもよく思うんだ、ここはウチがいていい場所じゃないって。
……
サルカズかそうじゃないかなんて、それってそんなに大事なことかしら?
もし周り全員からサルカズだって思われているのなら、自分の角を削って、サルカズのフリをして過ごすことをおすすめするわ。
だってその人はもう、サルカズとして生きるしかないのだから。
生きていくことに、自分がどうこう思っていることなんて重要じゃないのよ。
だからあんたは、このサルカズの戦争に参加したんすか?
……どうやらもう少しマンフレッドの傍で色々と学ぶべきね、あなた。まだ戦争における一番大事な知識を教えられていないのがこれで分かったから。
でもこの前、マンフレッドが『サルカズ戦史』って本をウチに貸してくれたっすよ?
……
その本の作者は知ってるわ。ヘドリーっていう大バカ者よ。
やれ“サルカズの戦争”だの、“ヴィクトリアの戦争”や“公爵の戦争”だの、はたまた“王庭の戦争”だの。そういうことを言う連中はみんなどうしようもないバカよ。
これは自分のための戦争だって、そんなことを言うほど自惚れてるやつが存在すると思う?少なくとも私はそんなこと言わないわ。
戦争は戦争なの、それ以上でもそれ以下でもないわ。
この戦争がウチらサルカズを救ってくれるって信じていないのなら……あんたは何を信じて戦ってるんすか?
腹が減ればお腹が空く。喉が乾いたら水を欲しがる。腕を振り続ければいずれは疲れるし、ここから飛び降りれば死ぬってことを信じて戦ってるだけ。
余計な意味や解釈が付け加えられないものしか私は信じていないの。
苦しみっていうのは、そうやって意味や解釈を下手にいじるから生まれてくるのよ。
(マンフレッドが近寄ってくる)
それに加えて、利益は人を突き動かし、恐怖は人を駆り立て、燃え盛る炎と成熟した争いはそう易々と消え去ることができないと、私は信じているがね。
イネス、ここへ来たのならせめて私に一言挨拶をしてくれないか?
久しぶりね、マンフレッド。
あぁ、久しぶりだな。
お前ならここに残ってくれても構わないんだぞ?私と一緒にここで見届けようじゃないか。
もうじき嵐がやってくるぞ?
イネスとマンフレッドが一同に窓の外へ視線を向ける。
遠くでは土煙が舞い上がり、高速戦艦の艦隊が幾つもこちらに向かってきている。
この高く空を飛んでいる飛空船はとっくのとうに、周囲に展開していた大公爵の部隊の注意を引いてしまっていたのだ。
この飛空船の影の下で、まるで昆虫のようにこちらを追いかけて来ている小さな戦艦たちを見て、イネスはふと思った。
……あなたたちが欲しがっているのは火種だったのね。
いや、火種ならすでに燃え上がった。となれば、あなたたちはこの飛空船を……もっと大きく燃やすための薪にしようとしている。
カスターにウェリントン、そしてウィンダミア。もしかしたらノーマンディーもそこに入っているかもしれないけど……
そういった貪欲な大公爵たちの代弁者たちがこうしてこの区画に集まった。お互いの艦隊がお互いのライバルの動向を逐一探りながら、ね。
この飛空船の飛行速度も遅いことから、あなたたちは彼らを待っていた。誘っていたのということかしら?
飛空船が堅牢な城壁に囲まれたロンディニウムに戻ることなんて、大公爵たちが許すはずがない。だから彼らはここに集まった……
それをあなたたちは待っていたのね。
ザ・シャードに……的を用意するために。
ヘドリーはいいバディを持ったな、実に鋭い。私も彼のために喜んでやるべきなのだろうか?
だが、気付くのに少々遅かったな。
彼女を捕らえろ。
(イネスが兵士達を切り捨て走り去る)
パプリカ、彼女から何か誑かされたか?
……
戦争は戦争に過ぎない、それ以上でもそれ以下でもないって言われただけっす。
ほう……
そうだな、その通りだ。
だがもう少し視野を広くしておくべきだ。その戦争の周りにも、たくさんのものが存在しているのを忘れないようにな。
必ずこの情報を届けなければならない。
まったく軍事委員会はとんでもない計画を練り出したものだと、イネスも思わず唸ってしまうほどだった。
これから何が起こるのか、彼女にだって想像はつく。
公爵たちの武力は、ザ・シャードが引き起こした天災によって壊滅させられる。そしてこのツケを公爵たちはサルカズだけでなく、ほかのライバルたちにも求めるようになるだろう。
そして天災を引き起こす力をヴィクトリアが所有していることが明るみに出れば、この大地に存在するどの国家であろうと恐怖を感じ、そして怒りを露にするはずだ。
誰もがこの力を滅ぼしたいと、あるいはいっそのこと手に入れたいと企んでくるはず。
だがもしそんなタイミングで、国境を防衛していた公爵たちが内輪揉めで力を削がれてしまったら?
リターニアやウルサス、そしてカジミエーシュ。あるいは旧ガリア地区に至るまで、決してこの絶好のチャンスを逃すはずがない。
しかし、これはあくまでほんの始まりに過ぎない。
争いの火種は瞬く間に、大地全土に席巻するからだ。
とはいえ、それを止める時間はある。まだ遅くはない。それをイネスはよく分かっている。
この情報さえ届けてやれば。
廊下の果てに、黒い影が押し寄せてきた。あれは自分の影ではない、この飛空船の殻に住まう宿主のものだ。
イネスは以前、彼女のバディから死した魂の噂話を耳にしたことがある。この時になって彼女は初めて、自分が本当にサルカズではなかったことを心から喜んだ。
……そうね、影のことをすっかり忘れていたわ。
朝日は次第に顔を出し、長い夜は終わりを迎える。足元に見える移動都市の区画にも、長い影が引かれている。
……仕方ないわね。
これだけの高度にある場所を見つけた自分に感謝しなくちゃ。
……多分、ここから飛び降りたら即死でしょうね。
……
まさかいつも死から逃れてきたあのイネスが、とうとうそいつに捕らえられてしまうとは。
ヘドリーとWに知られたら、一生笑いの種にされてしまうでしょうね。
そんな惨めなところ、あの二人に見られなければいいのだけれど。
……ふぅぅぅ……
(イネスが飛行艇の窓を割って飛行艇から飛び降りる)
重力に引っ張られ、落ちていく身体。髪の毛は強風に吹かれ、ほとんど目が開けられない状況だ。
だがこの高さでなければ、イネスはノーポートを覆う影の全体像を目に収めることができない。
この高さでなければ、目の届く範囲にある大きな影を自身の制御下に入れることができないからだ。
自分に残された時間はたったの数秒。今にも下にある影に落下し続けている。
今がそのタイミングだ。
イネスの周りに死が纏わりつき始めた。