(回想)

これで準備は整った。みな、ミサでこれを……最後に食してくれることだろう。

そなたが奏でる音色は……はたして儂のために悲しみを覚えてくれるかな?それともそれは祝福か?

まあ、音楽のことはさっぱり分からんのだがね、アルトリア。そなたが理解できないのと同じように。

ここで儂と感覚を共有しているはずだというのに、そなたはまるで空白そのものよ。

私の音楽は、いわば鏡のようなものさ。私も単に奏でてやりたいから奏でているだけだよ、主教様。

鏡か……フフッ。
年老いた主教は磁器の大皿を持ち上げる。その両手は、楽器が奏でる音色の中で震えていた。
まるで幽暗を漂う音色と組み打ちしているかのように、彼はひたすらその音色の終わりを待っていた。
最後に修道院で音色が鳴り響いていた頃、彼はまだ若かった。それは噴水に映る自身の姿に、白髪一本すら生えていなかったほど。
荒野の羽獣はこの移動する沃土へ吸い寄せられ、パイプオルガンが奏でる音色の中で羽を震わせ、広場を飛び去っていく。やがて年老いた主教はこの修道院を、最も若い修道士のステファノに任せた。
「この楽園で生きろ、ほかの者たちと共に。」
どうすればそれができたのだろうか?
やがて、これまで幾度も辛酸をなめ、枯れ木のようになってしまった主教トッレグロッサは目を閉じた。
それでも楽器の音色は漂い、漂い、いつまでも漂っている。そして――
彼は手放した。

……おや。

つらいことだ、それがあなたの選択だというんだね。

……
礼拝堂の固く閉ざされた門の内側からぼんやりとした話し声が聞こえてくる。
フェデリコはだだっ広い広間でしばし耳を傾けたあと、くるりと背を向け階段を上がっていった。

……装備に問題はなし。

現時点で、唯一損害を受けたのは通信機のみ。

ターゲットも変更はなし、引き続き任務を続行します。

容疑者はすでに捉えました。

中の情況はどうなってる?

聖餐式ならすでに終了したはずだぜ。

……状況はこっちの想定通りってところか?

おそらくな。

クソォ……フェデリコの野郎は?

繋がらない。

……あいつ、深海教会が育てたバケモノがどれだけ厄介かちゃんと分かってんだろうな?

誰かしらやらなきゃならねえもんなのさ、仕事ってもんは。んで、レミュアンとスプリアはどうした?

お前から連絡があった後、調査しに地下へ。

そっか、じゃあ一番面倒な仕事は俺とあんたの二人で片付けるしかなさそうだ。

よし、じゃあ門を開けるぞ。

たとえ自分たちがどこにいようと、どんな目に遭っていようと、互いを敬愛することを――

……ご機嫌よう、聖都からの使者殿。

……

……皿が空っぽだ。

リケーレ、お前は住民らを見張っておけ。主教は俺がやる。

なにか気になることでもあるのかな?

気になることっつーよりも、主教様はなぜ……何が何でも「最後の」ミサを開こうとするほど思いつめちまってるんですかねぇ?

レミュアンから話は聞いてるはずでしょ。ラテラーノに戻った後でも、この修道院の主教を続けることはできるはずだって……

なぜラテラーノの使者から……質問を受けなければならないのかな?

儂はすでに決心したのだ、全員が助かるという大きな願いを放棄するとな。

修道院にもうこの先はないのだよ。だから最後のミサくらい、全員分の皿を空にしてやってもよいではないか。

このアンブロジウス修道院がラテラーノに引き返すことなら同意はしたぞ、先ほどみなにもそう伝えた。

……引き返すだって?

俺たちが深海教会を放ってこのまま帰るとでも思っているんじゃ――

――言ったはずだ、すでに決心したと。

オレン、主教様の言ってることは本当だ。

住民らに異変は見られない。皿もチェックした、どれも変なものは入っちゃいない。

そうとも。あのバケモノの肉は儂が直々に下処理をし、すべてパンに詰め込んだ。

だが、腹を空かせた住民が誤って口にしては敵わんからな。だから本来ミサに用いるそれらのパンなら、地下の棚に入れて鍵をかけることにした。

アウルスが去った今、そなたらが憂慮しているものが生まれてくることはもうない。

これが棚の鍵だ、持っていくといい。儂が嘘を吐いていないことを証明してくれるだろう。深海教会の賜物をどう処分すればいいか、そなたのほうがもっと詳しいはずだしな。

ご協力に感謝します。

ふぅ、今日はこの銃を使わずに済みそうだ……

残念だって思ってるわけじゃねえだろうな?

んなわけあるか。

ホッとしたんだよ、やっと面倒事が終わったってな。これで、あとはまともな残りの仕事をするだけでいい……んだよな?
(無線音)

……レミュアン、主教の話は聞いたか?今から鍵を持ってそっちに向かう。

必要ないわ。

棚が誰かに破壊された、中身は空っぽよ

褐色のテーブルナプキンに、地面で粉々になった皿の破片。その他の細かいところも、主教の供述と一致してるわ。

それに以前調べて記述によれば、アレを食べたら決して元通りにはならない……彼がもしすでに住民らにソレを食べさせていたのなら、私たちにウソをつく必要もないはずよ。

じゃあつまり、誰かがこの「聖餐」を盗んでいったってことね。

今すぐそいつを見つけ出さないと。

う~ん……でもこんなデカい修道院の中で探すの、ちょっと骨が折れない?

……

私たち、大事なことを一つ忘れていなかったかしら?

たとえば、あのサンクタの女の子が堕天したことを聞いて、ジェラルドはとてもショックを受けた。

でも私たちが堕天した情報を外に漏らすことなんて絶対にありえない。じゃあ、ジェラルドは一体どうやってそれを知ったのかしら?

それだけじゃなく、聖堂で起こったあの火事も、一体なぜ?

もしほかの人たちの支援がなければ、主教もこんな独り善がりなマネはしなかったはず……

きっとほかにも絶望のどん底に落ちてしまった人がいるはずよ、主教様だけじゃなく。こういった事態が立て続けに起こった後にね。

……フォルトゥーナが礼拝堂に入ってきた時、ほかにもう一人その場にいた。あいつは確か……
やっぱり、主教様はそうしたか……
最後はもしかしたらこうなるのかもしれないって、私も一度くらいは考えたさ。
主教様は優しいお方だ。その優しさがあったからこそ、あの方は崇高な理想を抱いてここまでやってこれた。けどその一方、結局最後のほうには退いてしまった。
けど私は違う。
ずっと前から、私はもう希望なんてものを抱かなくなってしまったのだから。

おや?お客さんだね。

これは驚いたよ。少しばかりヒントを与えてやったとはいえ……

てっきりその極めて理性的なロジックでなら、「もっと優先しなければならないことがある」って結論を出すと思っていたんだけどね。

……

何年振りかな、フェデリコ?五年?それとも六年?

あれれ、「無意味な発言をやめなさい、指名手配犯のアルトリア」って言うと思ってたんだけど、どうしちゃったのかな?
(アルトリアが楽器を鳴らす)

もしかして、ようやくほかの形であいさつをする気にでもなったのかな?

それなら私の家に住んでいたあの頃のようにさ……私のことを姐さんって呼んでみてよ?

……

……へぇ、ここまできてまだ怒らないんだ?

門をくぐって私を見かけた瞬間に手を出してこなかったなんて、あなたらしくもない。

当ててみよっか?そこまで普段と違っている原因を。

何かを待っているのかな?

それとも……迷ってる?

……聞いてごらんよ、この小さな修道院に溢れている様々な音を。

悲しみ、苦しみ、疑惑、嫉妬……それと絶望の音を。

それらすべての音が織り成せば、人が創り出したどんな旋律よりも繊細なものになるんだ。

あぁ……すごく気になるよ。フェデリコ・ジャッロ、あなたは何を感じたのかな?あなたのその、常人とは異なる脳みその中を踊っていられる音符でもあるのだろうか?

あなたの発言と行動に対する評価が完了しました、指名手配犯アルトリア。

現時点において、私が優先して処理すべき事項はあなたではありません。

おや、フェデリコさんじゃないか。礼拝堂には行かなかったのかい?

てっきり君も君のお仲間たちも、主教様に注意を惹きつけられたと思っていたんだが……

あなたこそが、この一連の異常な事件を引き起こした張本人ですね。

……そうだよ。

私は……うん、私は主教様の選択を尊重するよ。

みんな、あの方を敬愛していることだしね。当然か、だって私たちはみんな主教様に守られてきたんだから……

……

とても分かりやい例えなんじゃないかな?

その人が様々な原因で都市から追い出され、荒野を彷徨うことしかできず、もはや残された道は死ぬことだけだと知った時……

飢えに苛まれ、どこに向かっても見えるのは単調な景色ばかりで、永遠にこの人を苦しむだけの土地からは出られないんだと察してしまった時……

そんな時に、君は小高い丘を、岩を、谷を越えるんだ。

そして砂塵の向こう側に、なんと城のような建物が目に入る。その中に住んでいる人が君のために食べ物を分け与え、夜を越すための部屋にまで案内してくれた。

たとえそれが少々粗末なパンだったとしても。味がとても薄いスープだったとしても。

部屋の壁には亀裂が走っていて、いつも手を加えて直してやらなければならなかったとしても……

それでも君は、荒野で死なずに済んだ。君はそこに受け入れられたんだ。

そのためあなた方の中には、ここを「楽園」と称する者たちがいるのですね。

「楽園」か……そうは言っても、偽りに過ぎなかったよ。

ここに来てしばらくして、私は気が付いたんだ……鉱石病を患ったサルカズの友人が、ある時ふと姿を消してしまってね。

ずっと探し回ったよ、彼女を。そしてようやく……この真下、前々からトレーニングルームと聞かされていた、とても壁が頑丈なあの部屋で彼女を見つけた……

病に侵され、もう後がない人たちを、ここの住人たちはその部屋に送り込んでいたんだよ。

……専用の防護設備がなければ、源石粉塵の拡散を効果的に防ぎきることはできません。

仕方がないじゃないか、私たちにはほかに方法がないんだから。

それとも君は、自主的にその病人たちに最後は修道院から出て行ってもらおうと、独り荒野で死ねとでも言いたいのかい?

私たちにできるのは、せいぜいその苦しみを見えない場所に隠すことだけだ。振り返らず、耳を塞ぎながら……私たちは誰も救ってやれたことはできないし、誰も私たちを救ってくれることはできないんだ。

けどね、たとえそんな偽りの安寧でも、いずれは必ず乱されてしまんだよ。

今みたいにね。君たちがここへやってきたことで。

私たちの任務は、ここの秩序を維持するためです。

もちろん、ここの暮らしは君たちに壊されたわけじゃないさ。自然と今のような形に変わってしまったからね。

私が植えた花みたいに。いくら心を込めて世話してやっても、散り際になれば花たちは少しずつあられもない姿に変わってしまう。

あなたはアルトリアに影響されています。

それはアルトリアさんの音色に、ってことかな?

そうかもね。彼女の音色を聞いていると、よく昔のことを思い出すんだ。

けど彼女は、一度だって私たちの生活に踏み込んでこなかったんだよ?もちろん、彼女が私たちの苦悩を、苦痛を、ただ暇つぶしのために利用していたことなら分かるさ……

だとしても、彼女は一体どうやって私たちの意思に干渉し、私たちの代わりにこんなことをしてくれたって言えるんだい?

……危険物を確認。

あなた、この聖堂に……いや、修道院の地下全体に大量の可燃物を隠していますね。

うん。

これは……一つの選択肢だよ。

たとえ君たちが来ようが来まいが、この修道院の穏やかな生活は破綻していたさ。

君は見たことがあるかい?飢えと落ちぶれて荒野をさすらう恐怖が、人をどこまで追い詰めてしまうのか。

私は見たことがあるよ。

だから取返しがつかなくなる前に……私がすべてを終わらせる。

クレマン・デュボワ、あなたにはアンブロジウス修道院への破壊行為、及びここで多発したラテラーノ公民の権益をめぐる事件と関連する容疑がかかっています。

ラテラーノ公証人役場の執行対象として確立したため、関連する条例規定に従い、速やかに捕縛プログラムを執行させていただきます。

……
フェデリコが余分な警告を口にすることはない。彼はただ言葉の代わりとして、手に持っている武器を使用するだけだ。
しかし、クレマンが倒れることはなかった。
この痩せ細った男は感覚を失ってしまった自身の腕を抑えつけながら、悲し気に一笑する。

点火装置の破壊を確認。

どうして……私を殺さないんだい?

どうしてわざわざ、点火装置なんかを狙ったんだい?

まだ直接的に、あなたの行為によってラテラーノ公民の死者が発生したわけではないからです。法があなたに死刑を宣告することはありません。

法、か……私も長年、主教様の教えに耳を傾けながら、君たちのその法に従って生きてきたよ。

普段であれば、いつもその効力を感じることができるよ……けどそれを最も必要としている混乱の最中、法は忽然と姿を消してしまう。

だからいつからか、私にはもうアルトリアさんが奏でる音色しか聞こえなくなってしまったよ。

ねえフェデリコさん、こんな私を救おうとしているのは、ラテラーノの法なのかい?それとも君が……私を救おうとしてくれているのかい?