嵯峨はラヴァに驚くような物語を語ってくれた、そして女主人の黎は何やらラヴァに手がかりを暗示させようとしている。クルースも烏有も皆と合流できたが、一息つく間もなく、空色がまたもや変化した。
拙僧は幼い頃より東国のある寺で育った、ただそうは言っても、そこの住職様に拾われただけで、真の僧侶ではござらん。
嵯峨という名は、山を下り世道に入ろうと決意した際、住職様から賜った名でござる。
東国を出た拙僧は、各地を行脚しようと志した。炎国の見事な山河を見て、続け様にそこに居座っていた時、ふと拙僧が幼き頃に、誤って住職様の屋根裏部屋に入ってしまった時の記憶を思い出したのだ。
そこには様々な雑貨が置かれており、灰を被っていた、しかし珍しいものも置いてあったため、拙僧の童心に火がついてしまったのだ。その中で一番拙僧の目を引いたのが、雑貨に混ざっておかれていた大きな絵巻だった、ただ生憎その絵巻を入れていた箱のことと、その箱が拙僧よりも大きかったことしか覚えておらぬ。
その後偶然知り得たのだが、あれは住職様が今の拙僧のように各地を行脚した時の旅の証として、その絵を残したのだという。その絵巻は長さが百メートルにもなるものであったが、名匠の大作というわけではなかった。
当時拙僧は住職様に半日も懇願して、ようやく拙僧にその絵を見せてくれるようになった。
幾年月を経たことやら、しかし今日に至っても、あの落ち葉が風と共に落ちた日に、当時まだ健康であった住職様が寺院の境内でその絵巻を開いてくれたことは未だに忘れられぬ――拙僧は、拙僧は未だかつてあのような壮麗な山河を見たことがなかった。
拙僧は未だに不思議に思うのだ、あの絵巻は決して本物と見間違うほど繊細な、生き生きとしたような尋常ならざる「名作」ではなかった、しかし拙僧は瞬時にその絵の中に吸い込まれてしまい、その中にある盛夏の滝の迫力この身で感じたのだ。
おっと、拙僧が言う「絵に吸い込まれる」というのは、決してただの比喩ではないぞ。あの瞬間、拙僧はまるで本当に絵の中に吸い込まれて、羽獣の如く林を飛びぬけたのだ。聳え立つ山々、瀬々らぐ池水、さえずる木の影、怒涛に轟く滝の音も、遠方より耳に届いておった!
しかし恍惚から意識が戻ると、拙僧はただ絵に吸い寄せられていて、痴れ痴れとただその絵を眺めていただけであった。印象深かったのは、拙僧は寒さによって震えておったのだ、なんせあの盛夏の山河から秋深い院内へ戻ったのだからな。
住職様が言うには、あの絵は、彼が大炎の苦潭江で偶然手に入れたものらしい。当時の住職様は今の拙僧よりも随分と若い、小さな沙弥であった、その時はちょうど南を巡っておったのだが、通る道が官僚専用ということで、仕方なく小舟で河を渡ることにしたのだ。
千もの帆が互いに競い合っていた河を渡っていた最中、遠くに一隻の小さな舟が見えたのだ、まるでこの気力溢れる情景に属さないかのように、悠々と河を下っていた。住職様は一時的な好奇心に負け、その舟についていったのだ。
その小舟はゆったりと漂っているかのようにして、河を下っていた。住職様は舟を隔て中に乗っていた女性を一瞥したが、その途端まるで天岳に登る前に天を眺めるが如く、仙界にいるような感覚に陥ったという。そして驚いたことにより、河に落ちてしまったのだ。河の中で藻掻く住職様は、その人によって助けられたのだ。
その女性はとても絶世の才華を誇っていたが、一言も言葉を発さなかった、住職様と共に河を下り、吠山で舟を降り、灰斉山の方へ向かって去っていった。住職様は命を救ってくれた恩義を報いるため、披星戴月、彼女のために火を起こし飯を作り、荷物を持ち、薪を斬った。
その女性はどうやら睡眠を必要としなかったらしい、住職様が毎晩眠ると、今まで見たこともない過去の夢を見たという。しかし目が覚めると、その夢は朧げになって、思い出せずにいた。
それから彼女との日々を繰り返すうちに、住職様は長らく思考に耽った、二人とも旅を共にする旅人なのに、なぜかそれぞれ知らぬ道を行っているような感覚を憶えると、まるで己の孤独が己を見てるかのようだと。
そしてある日、二人はとても秀麗な山河がある地にやってきた、女性は感銘に打たれたのか、足を止め、数時間もそこを眺めていたのだ。住職様は何をしているのかと聞くと、彼女は、絵を描いていると答えた。拙山尽起図を描いてると。
住職様は暇に耐えきれずうたた寝をした、そして愕然と目を覚ますと、自分はなんと未だに苦潭江に漂う舟の上にいたのだ。
吠山を渡ったことも、仙人のような女性も実は夢だったのだ。そして唯一目に入っていたのが、その絵巻だったのでござるよ。
その女性の名前はなんて言うんだ?
存ぜぬ。
聞かなかったのか?
聞けなかったのでござるよ。
……
あの夢のような幻のような、真のような偽のような、一年半もの時が経ったような一爪弾きすれば瞬時に終わるような恍惚の間に、名など尋ねられるものだろうか?
……
拙僧が炎国を遊歴してる時に、ふとこの昔の出来事を思い起こすのだ、よくよく考えれば、これは住職様が拙僧に敷衍するために創り上げたおとぎ話にすぎなかったのかもしれぬ。
しかし拙僧が炎国を聞き歩いたところ、この『拙山尽起図』なる絵は狭きながらも名が知られていたのだ。
伝説によれば約百年前にとある無名の画家が残した絵とされている、かつての帝やその一族がいくら金を押し付けても求められなかったことから、名が知られるようになったらしい。
そしてちょうど拙僧が灰斉山付近に辿りついた時、ふと思いついたのだ、ここはかの絵が描かれた情景がある場所でもしやこの目でその情景を見れるのではないかと……
あはは、そして山の中でその山紫水明な地を探していたうちに、気が付くと、ここに来ていたということでござるよ。
灰斉山の茅屋のくだりは、アタシらのとまったく同じだ……
……まさかここは夢なのか?
もし夢であるのならば、お主にとって、拙僧は夢の中の幻、拙僧が言ったことも、信じるに値しないものになるでござるよ。
では信じるに値しないのであれば、ラヴァ殿はいかにして目の前の光景を、夢か夢ではないと判断するのだ?
待ってくれ……そんなことを言われた頭がこんがらがってくるだろ……
じゃあお前はここから脱出する方法を知っているのか?
拙僧は今日に至るまで遊歴してきたが、ここを出る方法はまだ見つけておらぬ。
……今日まで?どのくらいここに閉じ込められたんだ?
それはそれは長い間でござるよ、数えるのだとしたら……
お二人ともお茶が冷めてしまいますよ、話ばかりしてないで、どうぞお茶も召し上がってください。
あぁ……どうも。
(ふぅ……)
……ん?じゃあ、黎さんも、もしかして……?
私はただここで店を構えている番頭ですよ。
ラヴァさん……お優しいのですね、墨魎から村人たちを助けようとするその思いも大変素晴らしいです、しかし、たまにはご自分の身の危険についても考慮してあげてくださいね。
あんなバケモノなんてロドスの精鋭にとっちゃ脅威でも何でもないよ。
それについてなら拙僧が保証する、傍でラヴァ殿の強さをこの身で感じ取ったからな、心配はいらぬ!
……それならいいんですけどね。
ラヴァさん、一つお聞きしてもいいですか、質問になるかどうかはわかりませんけど。
何でも聞いてくれ、それにそんなに畏まらなくてもいい……
ラヴァさんは、水に浮かぶ月のことをどう思いますか?
たとえ波によってどんなに引き裂かれようと、波風が鎮まれば、またあの真ん丸な月の形に戻る。
わずかでも水面に煌めく月を憐れんだがために、靴を濡らしたり、風邪を引いたりしちゃったなんて、おかしな話ですよね。
ラヴァさん、あなたはそんな水の中の月を掬い上げるために……全力を尽くしますか?
いや……しないと思う。そんなことしても意味はないだろ?
どうして急にそれを?
……ラヴァさんにとってその月がどんな形をしているのかは分からないし、それでラヴァさんにどう提言していいのかも分かりませんけど……
でも私たちなんかのために、そこまでしなくてもいいんですよ。
一体何を言って……?
(ウユウとクルースが入ってくる音)
恩人様!恩人様じゃないか!ご無事か?
……え~、二人ともお茶飲んでくつろいでる、私たちも呼んでよ。
こちらのお二人もきっと婆山鎮の貴賓でしょう?お茶を入れてきますね、ついでにお菓子も持ってきます、ごゆっくりおくつろぎくださいね。
(黎が去っていく足音)
あの人は?
この店の女主人だ、名前は黎、黎明の黎だ。
恩人様、墨魎はどうしたんだい?わかったぞ!きっと恩人様が無双の力によって、全部追い払ったのであろう!
――あの女の子はどうした?
大丈夫、あの子ならもう安全だよ。
およよ、恩人様や、なぜこうも信じてくれないのか……私は火の海や剣山を超えようとも涙を流すことはないというのに、今のはさすがにちょっとばかし心が痛む……!
お二人とも、お茶をお持ちしました。
うんうん……匂いでわかるよ、きっといいお茶葉を使ってるに違いないね。
恩人様はさすが見識が高い!私のような凡人からすれば、苦みだけで、うま味などまったくわからんよ。
ただの普通の茶葉ですよ。村の市場で売られているんですが、売られてもこの一種類の茶葉だけなんですよ、ですのでお口に合わなくても、どうかご了承ください。
う~ん、いつもは紅茶とかコーヒーばっかりだけど、たまには大炎のお茶を飲むと、また違った美味しさが楽しめるもんだね。
拙僧の故郷にもまた違った美味しい茶があるぞ、もし機会があれば、ぜひとも拙僧がお主らに茶を点てさせて頂きたい。
ふあぁ……
あら、ラヴァちゃん、眠いの?
いや。ただ急にリラックスしてあくびが出ただけだ……
茶水は心を養ってくれますからね、皆さんがお悩みになってることも、きっと苦労を重ねれば解決できることではないのでしょう。
……やっぱり手がかりはなしか。
この画中の天地でござる、ゆっくり行こうではないか。
そうだ!サガ、これを見たことはないか?
拙僧は存ぜぬが……しかしなぜだろう、どこかでこれを見たことがあるような……
本当か!?
拙僧に記憶を辿らせてくれ……うーむ……この紋様……それにこの材質……一体どこで目にしたのやら……
――!
……ん?
お茶が光を反射してる……
どうかしたか?
うおおッ!?何事か?みんな急に立ち上がってどうしたんだい?
……空が?
明るくなった……?
ガゥ!
な、なんでこいつらここまで来られるんだ!?ここは昼だぞ!
ち、違う、空が……太陽が、向こう側に移動した?鴻洞山で一体何が起こってるんだ!?
グガァ!
うわああああ!こいつら、ひ、人を食い始めた――!逃げろ、逃げろぉ!
逝く者は斯くの如き、日が昇れば月は落ちゆく、当然の理だ。
フッ。
……吾の静けさを邪魔したな……彼女はそう言いたいのか?
……な、何が起こったんだ?
なぜ太陽が……
――太陽は本来こういうものでしょ、ラヴァちゃん。
ん?ああ、そんなこと言わなくてもわかってる、ただなぜ普段の太陽に戻ったのかを考えて――
いや待てよ、そうだよ、これが普通なんだよ……アタシはさっきまで何を……?
恩人様、街のほうが何やら騒がしいぞ?
助け――助けてくれェェェ!たす――
グギャッ!
大丈夫か!?
だ、大丈夫だ、あんたらここにいたのか、それはよかった、何よりだ!あのバケモノ共が急に太陽を恐れなくなったんだ!
それに街で、ひ、ひ、人を……人を食い始めやがった!