十七年前
3:09p.m. 天気/晴れ
ウルサス、移動都市チェルノボーグメイン航路から北西147kmにあるとある村落
村だわ……
はやくはやく、ぬるま湯を準備しろと医者に言われただろ!
ぬるま湯つってもどこに行きゃあるんだ……マーシャに聞いてみるか、朝沸かしたお湯がまだ残ってるかどうか聞きにいこう。
皇帝陛下、どうかわしを見守ってくだされ……
すみません……ここで何か起こったのですか、その医者の名前を伺っても?
ん、お前……誰だ?
どこから来たんだ……その恰好、町から来たのか?すまん、申し訳ないが、今は人命救助でそれどころじゃないんだ……もし構わないのなら、わしについて来てくれ、そこなら少なくとも座れるところがある。
お構いなく……そちらがおっしゃってる医者を探しに来ただけですので。彼女のお名前を伺っても?
まさか……あんたもしや……
そのお医者さん割と疑わしいと思いますが、あなた方はそんなに彼女を信用しているのですか?
しかし……今わしらを救ってくれ人は彼女しかおらんのだ、頼む、どうか頼む、せめて今だけでも、彼女は人を救ってくれる医者なんだ。
……別に私は彼女を捕まえにきたわけじゃありません。ちょっと彼女に用があって来ただけです。
彼女のところまで案内してくれますか?
わしは……わしは何にも知らん……
私だってこれでも医者です。助けにはなると思いますよ。
そうか、その恰好、駄獣でも見れば医者ってわかるな……
……先にケルシー先生に伝えてもらえますか、あなたの生徒のリリアが訪ねてきました、助手は必要ないかと。
なんだ、先生の名前を知っていたのか、リリア、だったな?よし、わかった、いい名じゃないか、ここで少し待っておれ、すぐに伝えよう。
あ、おい!マーシャにお湯がないか聞くのも忘れるなよ!
……
うっ、うぐっ……
歯を食いしばって、痛むが我慢してくれ。
むぐうううう――!!!フッ――
(リリアが駆け寄ってくる足音)
……ケルシー……
……
これはどういう状況?
獣の襲撃に遭遇した、今は応急処置をしている。
メス。
あれ、えっと……ど、どこにあったか……見当たらんぞ……
ここにあったわ、はい。
……
感染生物によるものですか?
そうだ。
……感染する可能性は?
大半の感染生物は人々が想像している以上に清潔だ、ここに噛み痕がある、おそらく付近を彷徨っている獠獣のものだろう。
……でももし活性源石の獠獣に誤触したのなら……
感染生物はおそらくだが各種方法を用いて病原菌と共存することできている、だが人間にはできない。
状況は深刻だ、源石感染以外にも、壊死が見られる。
痛い……痛い……
冷静に、深呼吸するんだ。
ひぃ――ふぅ――ひぃ――
呼吸困難が見られるわ、おそらく血栓によるものね。全部急性鉱石病の症状よ。
こ、鉱石病って身体に石が出てからのものなんじゃないのか!?彼の皮膚はまだこんなにキレイじゃないか!?
感染源が血液内で迅速に循環することによって、一般的な鉱石病と異なり身体表面に結晶を出さず、短時間で感染症状を劇的に加速する場合もあります。
もし薬物による抑制を行わないと……くっ。
皇帝陛下……どうかお救いくださいませ……
……
……よく勉強しているな。
注射器を、そこの灰色の救急箱に入っている。
はい……いつも抑制薬品を持ち歩いているの?
いつだって必要になるからな。
待ってくれ……ゴホッゴホッ、せ、先生……それ、高いんじゃないのか?
今更気にしてる場合か!?
それほどの値段はしない、気にすることはないさ。今の急務はあなたの急性鉱石症状を抑えることだ、源石結晶粉塵の爆発を抑える意味も込めてな。
自分が受けてる受難をほかの村の人たちにも浴びせたくはないだろ?
……うぐっ!
呼吸を落ち着かせて、身体の力を抜いて。
私が助ける、だから心配するな。
うぅ、わかった……
すぅ――はぁ――
うぐっ……すぅ……せ、先生……わしは……かんせ……ゴホッゴホッ……感染者になりとうない……
すまない。
わしは……うぅ……わしは……ゴホッゴホッ……ゴホッゴホッゴホッ……
窒息しかけてる、でも人工呼吸器なんてどこに……
ここには何もない、だからと言って私たちは何もできないことを意味してるわけではない。スプレーを持ってきてくれ。
先生!先生!どうかこの爺さんを助けてやってくれ!
もし源石粉塵が彼の傷口にわずかでも触れさえすれば、彼は感染者になり果ててしまう、そして今私にできることはただ彼に延命措置を施すことだけだ。
ゴホッ、ゴホッゴホッ――ふぅ、ハァ――
抑制剤はまだ効かないの!?
患者本人の年齢を考慮して、抑制剤を与えること自体リスキーなんだ、辛抱強く待て。
……ハァ……ハァ……
呼吸が安定してきた……
治ったのか?彼は助かったのか?
急性症状のことを指しているのであれば、おそらく回復したでしょうね。しかし鉱石病の場合だと、私たちはおろか、誰だろうとどうにもならないわ。
そんな……じゃあもし治安維持隊に見つかったら……
だったら、だったらわしを……差し出せばいい!どうせ数年ももたない命だ……今更感染したって変わりはない……学校に行ってた若い連中があちこちに言いふらさなければいいが……
そんなことはない!もしそんなことがあったらわしらが口を塞いでやる、お前を匿っておけば、誰にも見つかりはせん、ここにいるみんながお前をちゃんと匿ってやるから安心せい。
先生、本当にありがとう、最善の結果とは言えないが、わしらは……このご恩をどう返していいのやら……
私は医者の責務を全うしただけだ。今のあなたたちに必要なのは……感染者のなった者たちの末路を考えることだ。すまない、これ以上私でもどうしようもできない。
……抑制剤が効いてきたわ。でも傷口にまだ感染部位が残っている、このままでは血栓による悪化も起こってしまう……オペで切除しましょう……
君の判断は正しい、ご老人、また苦労をかける、歯を食いしばってくれ。
あぁ、わかっ……た……ふぐっ、む――!
ご苦労だった、リリア。
お久しぶり、ケルシー所長。
久しぶりだな、歩きながらで話そう。
君はおそらく……あのような虐殺が起こった後に私と会話などしたくないと思ってるかもしれないが、私は心底君が生きていることを喜ばしく思っているよ。
……あの後、あなたはずっとここに隠れていたの?
あそこの丘の上から、チェルノボーグのビルが見えるわ。私だったら、こんな航路に近い場所を隠れ蓑なんかにしたくないわね。
私はしばらく留まっているだけだ。
所長は……あれから何をしていたの?
これ以上君たちの間に流れている憎しみを断ち切りたかったんだ。特にこの憎しみは、自分で自分を滅ぼしてしまうようにするだけでなく、直接的な報復すら招いてしまうからな。
……それわざと私に言い聞かせているのかしら?
否定はしない、リリア、しかし……
ケルシー先生、お出かけですか?
あ、そちらの方は……
私の門下生だ、怯える必要はない、彼女は私を迎えに来ただけだ。
あぁ、そうでしたか……しかし、迎えに来た?
あぁ皇帝陛下……やはりもう行かれるのですか?
……
もし行かれるのでしたら、どうか必ずわしらに一声かえてください!あなたはわしらの娘を救ってくださった、せめて、わしらに見送りをさせてくださいな!
そうしよう。
あぁ、それならいいんだ、ならお二人ともごゆっくり、出て行かれる前に、どうか必ずわしらに一声かけてくださいな、ケルシー先生……どうか。
ここの人たちから歓迎されているのね。
彼らからは十分すぎるほどの善意を受け取った、私はただ医者としての責務を全うしただけだと言うのに。
……彼らの暮らしこそがウルサスにいる大多数の人々の本性なのでしょうね。研究所に長い間引き籠っていたから、みんなすっかりそれを忘れてしまったわ。
あえて移動都市の航路に近づけても、彼らにチャンスと繁栄がもたらされることはない。
だがその逆、権力に縋ってる土地の権力者たちは治安維持隊に貧民を搾取させるようにより肥沃な土壌を提供されている。
だから彼らは医学院から卒業した普通の医者すらも雇えないんだ、一般的な流行り病だけでも年若い少女を殺めるには十分すぎる。
見識が広いわね。いや、あなたはずっとそうだった……しかし医療にも精通していたの?てっきり……
君は私を論文とデータにいちいち口を挟んでくる科学者とでも思っているのか。
正直に言うと、私の想像以上に医者がお似合いよあなた。
なら私は最初から医者だったのかもしれないな。その医療対象と抗う病巣が変化し続けているだけのな。
どうりで自分の生徒たちから篤く信頼されているわけね。
……リリア。
娘はどうしたんだ?
……友人に預けてきたわ。あの子はまったくの無関係だから。
あの子は……まだまだ小さいわ、言葉を話せるどころか、歩くことすらまだままならないのに……
私は自分の子を置いて行ってしまった。
君がそんなことをする必要なんてなかったはずだ、君がもしルイーザと一緒に名を偽りながらの生活を望んでいるのであれば――
私が何を考えているなんてお見通しなんじゃないの、ケルシー所長。
君を阻止してあげたいだけだ。自分の娘から止められても無理なのであれば、私が口を出しても君は聞き入れてくれないだろうな。
……そうね。よく分かってるじゃない。
今年の冬は寒いわね。
パブロフのお父さんは息子の死によって発狂し、湖の畔にある屋敷で羽獣を飼い始め、毎日自分と息子が狩りに行ってた風景を空想していたわ。
イリヤの子、リュドミラは、まだまだ全然幼い、でも彼女はすでに取返しがつかないことを一部だけど理解し始めた、彼女が今どうしてるかを知ってる人はいないけど。
それとロマノヴィッチ、彼の家族は全財産を売りさばいて、住んでいた都市から出て行ったわ。彼の兄弟は事故を信じてなかったけど、それでも何者かによって口を塞がれた。
……
……その他大勢の人に関しては、警察が提供してくれた当たり障りない事故報告書で知ったわ。
あの「事故死傷者リスト」、誰一人出所しなかったチェルノボーグの研究所。実験事故で誘発された連鎖反応、それと軍が提供してくれた遺体の身分鑑定報告。
私の直感が訴えてくるの……まだ生き残ってる人がいると。
直感?
あの後、被害者含む家族は多かれ少なかれ匿名による助けと――警告を受けとっていたわ。
……あの臆病者のボリス侯爵と、裏切者のセリゲイに慈悲が芽生えたとは思えないけど、でも、きっとほかにあの出来事を知ってる人がまだ生きていると思っていた。
それがまさか三年経った今日あなたを見つけられたとは、ケルシー所長、やっとあなたを見つけたわ、隠れるのはすごく上手なのね、あの秘密警察の目すら誤魔化せたなんて……
捜査員たちは、ウルサスの最新技術に頼りすぎている面があるからな、それがむしろ私にチャンスを与えてくれたんだ。
そうね……あなたは誰もが認める天才、比類なき科学研究の権威、そうじゃないとみんなあなたに敬服するはずもないですもんね。
――正直に教えてほしい、リリア、君の計画にはどれくらいの人が参与している?
……六、七人ぐらいかな。たぶんもっと多いかもしれないけど、公では一緒に固まらないわ、でないと尻尾を掴まれちゃうもの。
私含めて、みんなあの“事故”で大切なものを失ってしまった同志よ。
いつからそれを策略していた?
……
第四集団軍の牙たちがあの研究所で矢を放ち、私たちの子供の父親の喉を貫いた時から、よ。
リリア……
蛮勇だとは思っていないわ。確かに私は身体的な原因で、あなたたちと作業できた時間は限られていた、でも……
私にもそれなりにできることがあったわ、例えば――
ワーリャ大公の所在と、移動都市の郊外に建てられたサスナ谷療養所を見つけたのだろ。
え……
第四集団軍の元参謀、ウルサスの大公であり石棺事件を推し進めた黒幕の一人である可能性が極めて高い、今の彼はおそらく戦いを経てきた己の生涯で最も脆い時期にある。
暗殺するつもりだな、リリア、だがその復讐とて傍から見ればただの“蛮勇”にすぎないぞ。
……フッ。
やっと分かったわ、どうして夫が……アストロフがそんなにあなたを尊敬していたのかを。
君も理解してくれ、リリア、年老いた大公を殺したところでなんの意味もないぞ。
それにおそらく最初から、あの演説をする時に強心剤を注射せずにいられない年老いたワーリャが張本人ではない可能性だってある。
わかってるわ、ケルシー、わかってるわよ……
けど私がルイーザを他人に預けたのは、たった一つの理性的な結果のためでも、正義の鉄槌を下すためでもないのよ?あなたにはわからないわ、ケルシー。
盲目の復讐は君の目を遮るだけだ。
ケルシー、ケルシー、あなたには分からないわよ。
ルイーザは“パパ”って言葉すら口にすることができなかったのよ。
座ってくれ。
……ここにどのくらい居るつもりなの?
それほど居候するつもりはない、リリア、顔色が悪いぞ、休んだほうがいい。
君はどうやって私を見つけのだ?
たまたまよ……この偶然がなければ、あなたが生きていたことすら知り得なかったわ。
……リュドミラ。
もう子供たちが傷つくところは見たくなかった、だからまずは、リュドミラを探すことにしたわ。
あの時、リュドミラの保母さんから話を聞けたの、誰かがあの子たちとの連絡を維持し、援助を続けているって。匿名で誰かは分からなかったけど、あの子たちのことを知り尽くしていた。
それにその匿名者、あの子のためにウルサスを離脱する手はずすら整えてくれていたのわ。
その時に確信した、まだ誰かが生き残っているはずだって。私の知ってる限り、あんなことをできる人なんて、もう限られているんだけどね。
茶でも飲もう。
てっきり療養所のことで質問攻めされるのかと思っていたわ。
リリア、君は焦りに駆られ過ぎている。
療養所の件だけど、あなたはずっとワーリャの行方を知っていたのね……なのに高みの見物をしていたわけ?あなたなら彼が何か秘密を握ってるのを知ってるはずでしょ!
その秘密ならイリヤによって永遠にあの研究所に封印された。今だって、軍でさえその秘密欲しさに指を咥えてダラダラと涎を垂らしている。
それにワーリャ大公は病を患っている、だから毎年の冬にサスナ谷で療養してる。上流社会のサロンに一度潜り込むことができさえすれば、こういった情報は難なく手に入る。
……あちこちでその療養所の美しさと広大さを言いふらしているんでしょうね。
そうだな。あの療養所には卓越したウルサス軍人が多く駐在している、もちろん、官僚も貴族もだ。
そこに潜入して大公を暗殺することなど、チェルノボーグでボリス侯爵の邸宅に侵入して、彼の喉を掻っ切って無傷で撤退するぐらい荒唐無稽だ。
その通りかもね、でも“官僚と貴族たち”に対してなら、そこの警備は相変わらず救いようがないほど薄くなるのも確かよ。
否定はしないな。しかしどうやってそれを、ワーリャ大公がすでに権力の座から降りたということを知ったんだ?それとも……
それともワーリャ大公は何者かによってそういう運命になるように仕組まれたと?言ったはずよ、ケルシー、私が求めているのは公平な審判じゃないの。率直に言うと、私が求めているのは私的な罰を与えることよ。
……
今は正義やら道徳を語る時じゃないわ、ケルシー、そんな“客観”を盾にするのは枕を高くして眠れるヤツらだけよ。
ワーリャ大公は軍あるいは皇帝から直接責任を問われ、スケープゴートにされた、もしくは権力闘争に敗れ、追放された、軍によって雲隠れにさせられた……
――何がどうであれ、彼の最期が絞首台に立たされたとしても、どうでもいいわ。
彼はチェルノボーグを何もかも滅茶苦茶に推し進めた、今私が欲しいのは、代償、“私たち”に支払うべき代償よ!彼こそがあの子の父親を殺した真犯人なのよ!
ケルシー!
聞いてる……
療養所に忍び込む方法ならもう思いついているわ……でもそうね、あそこの警備がどれだけ薄いからといって、簡単にヤツの喉を掻っ切れるという意味にはならない。
突破口なら一つあるわ。貴族の療養所で三十数年間警備責任者を務め、貴族たちを恐れるがあまり媚びへつらいことすら叶わなかったヤツがいる。
同僚の手助けで……集まった大金をちらつかせたら、あの何一つ成しえず引退しそうなアイツはすぐに首を縦に振ったわ。
アイツを信じ込ませるには随分と手間がかかったわ、私をただの田舎にある成金の娘として、貴族や将校に引っ付きたいがために療養所で実習しに来たことをね。
でも……
私の助けが必要ということか。
そうよ、どんな身分であろうと偽造したところでリスクは生じる、でも、療養所が情報機関と密接な関係にあるとは思わないわ、なら――
もし秘密警察すらあなたはすでに死亡していると誤認しているのなら――
――すでに死んでるあなたはどこへなりとも行けるわ。
1080年、“石棺事件”から運よく生き延びた科学者、セルゲイは、新たな研究所を立ち上げた。
同年、ボリス侯爵がチェルノボーグの工業区域を大幅に拡張。第四集団軍のトランスポーターは侯爵から前例のない門前払いを食らった。
リュドミラはまだ幼く、ルイーザも無数にいる普通の子供たちの一員にすぎないと、ケルシーはそう考えていた。彼女は母親としてのリリアが、子供たちへ複雑で、また残酷な嘱望を抱いていたことも理解していた。
そしてチェルノボーグ市のエンジンは幾度の重要なメンテナンスを経て、相も変わらず轟々と音を立てていた。