アークナイツストーリー翻訳

【明日方舟】遺塵を歩む WD-ST-1「サスナの百合よ」

十七年前
2:44p.m. 天気/晴れ
ウルサス中部、サスナ谷療養所外

シュコー――ハァ――
シュコー――
ハァ――
シュコー。

ヴィッテ
ヴィッテ

やあ、旧友よ、調子はどうだい。

ヴィッテ
ヴィッテ

いや、いいんだ、そのまま横になっててくれ、少しだけ様子を見に来ただけだ、すぐに公務に戻らねばならん。駄獣が止まるわけにはいかないんでね、それに鞍を私につけたのは、紛れもなく私自身だからね。

ヴィッテ
ヴィッテ

なに?いや、もちろんさ。私は依然として君が知っているあの若人だよ、財政大臣なんかじゃなくてね……

ヴィッテ
ヴィッテ

身分を弄っても意味はないからね、我らはみなこのウルサスの広大な大地のために努力している、陛下が思い描かれたあの真なる栄誉なる未来のためにね。

ヴィッテ
ヴィッテ

我らはみな陛下の臣民だ、この点を忘れ、未だに暴力に生きる人々は、いずれ古い伝統の孤児になる。

ヴィッテ
ヴィッテ

……すまない、どうやら財政の処理にあたりすぎて少々ストレスが溜まっているようだ。

ヴィッテ
ヴィッテ

心配はいらない、同僚と有志の者たちの意気揚々とした様も、腐敗した者の腐敗がヤツら自身を蝕んでいく様も見えているとも、我々は必ず勝利するさ。

ヴィッテ
ヴィッテ

軍に蔓延っているあの貴族たちも……ヤツらとあの蛆虫共もすぐに陛下の足元にある土と化す、そして我らが陛下の行かれる道から徹底的にそれらを排除する。

ヴィッテ
ヴィッテ

……そうだな。

ヴィッテ
ヴィッテ

――帝国議会は今まさに変化を遂げている。

ヴィッテ
ヴィッテ

我らであの頑迷な貴族共から、ウルサスに属する、陛下に属するすべてを奪い返すのだ。

ヴィッテ
ヴィッテ

我らで旧時代を引き裂き、蹂躙し、冒涜し、ウルサスのために新たな航路を切り拓く、わが友よ――私が成し遂げよう。我らで成し遂げよう。我らの生涯を費やしてでも。

ヴィッテ
ヴィッテ

ウルサスは変わらねばならないのだからな。

ケルシー
ケルシー

今日だと?

リリア
リリア

計画は本来なら次の週に遂行する予定だったけど……今日が一番の機会なの。

リリア
リリア

さっきメイド長の話を聞いたわ、財務大臣がここに来てから明らかにあの縮こまってた臆病者が動揺しているって、あの大臣が彼に何か言おうが言わまいが、彼は少なくともそこから立ち去るわ

ケルシー
ケルシー

彼は恐れているんだな。そしてその恐怖が彼にスキを生じさせる。

リリア
リリア

おそらく彼の衛兵隊はこの突発事態に対処しきれないと思う、だから彼は一番油断した姿を私たちに見せるはずだわ……

リリア
リリア

ウルサスの別の要人が訪問しにくる合間に、大公を暗殺するのは極めて危険なことだわ、けどここに大物が来ること自体少なくない上に、大公が彼のプライベートガーデンに行く回数自体指で数えるほどしかないのよ。

ケルシー
ケルシー

私たちはまだ十分に状況を把握しきれていないだろ。

リリア
リリア

確かに私はまだ把握しきれていない。

リリア
リリア

でもあなたなら把握しきっているって信じているわ。

リリア
リリア

それに、あなたならきっとやり遂げてくれるとも信じている。

ケルシー
ケルシー

……

リリア
リリア

教えて、まだ何に戸惑っているの?

リリア
リリア

あなたのためなら私がやってあげるわ、なんなら――

ケルシー
ケルシー

リリア。

ケルシー
ケルシー

私はただ、君に普通に生きててほしいだけなんだ。

ケルシー
ケルシー

君がどう私の言葉を解釈しようと、私は認めざるを得ないんだ、チェルノボーグで、あの理想を抱きながら情熱に溢れていた若き科学者たちは……みな犠牲になってしまったことを。

ケルシー
ケルシー

私は彼らが死んでいく様など見たくなかった。リリア、君も同じだ。

リリア
リリア

……

リリア
リリア

……それはできない相談よ、ケルシー。

ケルシー
ケルシー

この件が終わったら、私はシラクーザに行く、それからヴィクトリアに向かう。

ケルシー
ケルシー

もし君が私と同行してくれるのなら……チェルノボーグでの計画を遂行しないのであれば、君は死なずに済む。

リリア
リリア

私は夫の血痕があの裏切者に踏みにじられてるのが耐えられないのよ、一秒たりとも。

ケルシー
ケルシー

……身勝手だな。

リリア
リリア

そうよ、だから私の一番身勝手なお願いも忘れないでちょうだいね……

リリア
リリア

私の娘のことをよろしくね、もしあの子がそうしたいのなら、あの子に医学を教えてあげてね。

リリア
リリア

あなたならきっと生き残れるわ、ケルシー。

ヴィッテ
ヴィッテ

我が旧友よ。

ヴィッテ
ヴィッテ

今年の冬は寒い、だが春の温かさは変わらないと私は信じている。

ヴィッテ
ヴィッテ

まだ私たちが初めて会ったあの日のことを憶えているよ、あの時も初春だった。あの激情に溢れた演説の中、君は歓声も上げず、笑いもしなかった。

ヴィッテ
ヴィッテ

お互い一目で目に入ったな、もちろんほかの人もいたが。

ヴィッテ
ヴィッテ

侵略の成功を誇りに思う者など誰一人いなかった、歓喜を上げる者は先代皇帝の栄光を仰ぎ見るばかりで、足元の貧相な大地が目に入らず、他者の生存を許さないでいた。

ヴィッテ、春は来たか?

ヴィッテ
ヴィッテ

分からないな、わが友よ。もう来ているんじゃないのか。

ヴィッテ
ヴィッテ

今年の春は早めにやってくる、だが私の天災トランスポーターが言うには、北の強烈な天災の影響で、もうしばらくずれるかもしれない、それに気温もまた下がる。

ヴィッテ
ヴィッテ

おそらくまた冬へ逆戻りだろうな。

私たちは冬が好かん、そうだろ?

ヴィッテ
ヴィッテ

私も好きではないさ、相棒。

ヴィッテ
ヴィッテ

だがそのことで思い出したよ、私もさすがに禁酒せねばな……アルコールで冬を凌ぐのはもうやめだ。あれは一種の麻酔にすぎないからな、酔い潰れれば、どのみち凍傷してしまう。

ヴィッテ
ヴィッテ

しかし冬が長引くことはない。

ヴィッテ
ヴィッテ

ただの天災による余波にすぎないからね。

リリア
リリア

これは……

ケルシー
ケルシー

これで永眠を与える。最も安全な方法で、かつ最も効果的だ、効果がはやく生じて過ぎて、私たちの退路が断たれることもない。

ケルシー
ケルシー

撤退する準備はもう済ませてあるか?

リリア
リリア

ここに初めて来た日から、すべての準備はもうできているわ。

ケルシー
ケルシー

もう時間がないな。

リリア
リリア

わかっているわ、けどこの前の演習では、私たちなら余裕で……

ケルシー
ケルシー

それは違う。

ケルシー
ケルシー

私たちはこの療養所のことを甘く見過ぎていた。

ケルシー
ケルシー

君は計画を変更する必要はない、あとのことは私に任せておけ。

リリア
リリア

何かわかったの?

ケルシー
ケルシー

……

ケルシー
ケルシー

潜伏させておいたMon3trが敵を察知したんだ、大公はウルサスその他権力者と何か交流をしていたか?

リリア
リリア

いいえ、彼はずっとここで大人しくしていたわ。

ケルシー
ケルシー

……

リリア
リリア

Mon3trって……あなたのペットのことよね?何を見たの?もしかしてウルサスの民俗伝説?

ケルシー
ケルシー

実情をそのまま君に伝えるわけにはいかない、さもなければお互いの生存可能性を極度に縮小させてしまうからな。

リリア
リリア

そう……ウルサスには手段がたくさんあるものね……

ケルシー
ケルシー

恐怖は餌になりえる、この件に深入りすれば君の判断力に影響を及ぼしかねない、私を信じてくれ。

リリア
リリア

……ええ。

ケルシー
ケルシー

よし、そろそろ時間だ

ケルシー
ケルシー

あのバックを持っている金髪のフェリーンが見えるか、彼が大公の専属医師だ。

リリア
リリア

……わかってるわ。

ヴィッテ
ヴィッテ

一人の大公に何ができるというのだ?

ヴィッテ
ヴィッテ

現状に甘んじているあの連中を見てみろ……もちろんだとも、あの片目が見えなくなった総督が陛下の御前に跪いた時から、彼はすでに脅威ではなくなった。

ヴィッテ
ヴィッテ

彼は賢い、適切な時期を選んで明哲保身に回ったからな。あんな連中みたいにではなく……私利私欲のために、頑なに抗い続け、ウルサスの僅かとしか残されていない兵力をもって反乱の余波を対処した連中ではなく。

ヴィッテ
ヴィッテ

あれは本当に心を痛んだよ……私は軍政のトップではないにしろ、我らの祖国の生産が停滞するのを、経済と民間産業の状況が日に日に落ちぶれて行く様を見るたびに、とてつもなく悲しくなる。

陛下はあの風見鶏の連中を許したのか?きっかけさえあれば、ヤツらは懲りずに己の利益を再び陛下とウルサスの上に置こうとする。

ヴィッテ
ヴィッテ

陛下の慈悲を咎めないでくれ、ずる賢くもしばらくは裏切らない貴族を容認することよりも、我々が耐えられないのは、果てしない内部での軋轢のほうだ。

ヴィッテ
ヴィッテ

何としても雑草と害虫を駆除し、種を蒔かねばならない、春がやってくるよりも前に、新たな芽を目にしなければならないのだ。

ヴィッテ
ヴィッテ

そのために私はたくさん努力したよ……どうかこの言い回しを許してくれ、あまりこんな言い回しはしないのでね、だが陛下のおかげで、私は私の今の身分に大変誇りを持っている。

ヴィッテ
ヴィッテ

わが友よ、安心したまえ、あの犠牲になった者たちが成し遂げられなかった偉業は、生き残った者たちは遂行してくれる。

ヴィッテ
ヴィッテ

陛下はウルサスに新たな未来をもたらしてくださる。たとえ頑固極まりない貴族だろうと、捻じ曲がった邪悪な神だろうと、祖国の最も暗黒な場所に根付いている怪物だろうと、ヤツらは恐れなければならん――我らの皇帝陛下を恐れなければならないのだ。

ヴィッテ
ヴィッテ

我々の責務はこの一点を確実なものにするためにある。

ケルシー
ケルシー

……

ウルサス軍人
ウルサス軍人

止まれ。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

メイド長から聞かなかったのか?ワーリャ大公が今ここを使用している、誰だろうと入ることは許されない。

リリア
リリア

今日の当直医師は私です、であれば、私は大公閣下の医療顧問でもあります。こちら身分IDカードです。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……新入りか?

リリア
リリア

はい。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

ワーリャ大公の当直医師は大公閣下の専属医師が担当している、暗黙の了解というやつだ、運がよかったな、つまり貴様らは今日休暇にあたれるということだ。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

貴様らが初めてであることに免じて、今回は許してやろう。だがもしまた勝手にこの廊下を行こうものなら、楽な死に方はさせんぞ。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

わかったらさっさと去れ、よそでせっかく得たその休暇を楽しめ。

(無線音)

ウルサス軍人
ウルサス軍人

私だ、いやなに、ただの療養所の当直医師だ、すぐに追い払う……

ウルサス軍人
ウルサス軍人

なに……?あのやぶ医者がいなくなっただと……?

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……だがそれではリスクが……むぅ……財務大臣がここにいるんだぞ、わかっている……

ウルサス軍人
ウルサス軍人

そこの二人、止まれ。

リリア
リリア

はい、何なりと。

リリア
リリア

何かあったのですか?

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……ついてこい。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

いいか、何を見たとしても、あれは大公閣下のいつもの癖だ、大げさになるんじゃないぞ。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

穏便に大公閣下のお世話をするんだぞ、日が暮れたらすぐに出てこい、閣下を煩わせることは許されん。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

よく処置にあたれば、貴様らに褒美が与えられる、とても豪華な褒美がな。貴様らみたいな……貧乏人が楽して暮らすには十分なものだ。

リリア
リリア

ありがとうございます、この機会を得られて大変光栄に存じます……ケルシー、あなたも感謝しなさい?

ケルシー
ケルシー

あ……はい、本当に感謝致します、旦那様。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……フン、田舎者が。しくじるんじゃないぞ。

リリア
リリア

気をつけます。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……

ウルサス軍人
ウルサス軍人

待て。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

以前から一人しか入れないんだ、今回とて例外ではない、さもなくば大公閣下からお咎めを受けることになってしまう。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

このメイドを入らせろ。

リリア
リリア

――しかし、旦那様、医者は私であって――

ウルサス軍人
ウルサス軍人

大公閣下が服用される薬はこちらで用意する、貴様はここで待っていろ、何かあればその時に入れ。

リリア
リリア

それはどういう――

ウルサス軍人
ウルサス軍人

つまり貴様はここに三時間待機していろ、いつでも対応できるようにな。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

それと、貴様、入ったあと10分を超えてはならない。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

もし超えてしまったら、例え中で何が起きようと、生きて帰れないと思え。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

ボディチェックだ、先にこの使用人を入らせろ。

ケルシー
ケルシー

……かしこまりました。

(扉を開ける音)

ケルシー
ケルシー

……

ケルシー
ケルシー

……大公閣下。

光を背にしたところに一人の老人が座って――横になっていた。彼は動かず、穏やかな呼吸をしながら、遠くを眺めていた。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……医者か?

ケルシー
ケルシー

いえ、わたくしは使用人でございます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうか……まあいい、こっちに来てくれ。

ケルシー
ケルシー

……かしこまりました。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

君はウルサス人か?

ケルシー
ケルシー

いいえ。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

頭を下げて、君の顔を触れさせてくれ。

ケルシー
ケルシー

……かしこまりました。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ふむ……ヴァルポ、いやフェリーンか?実に愛らしい種族だ。

ケルシー
ケルシー

閣下……目が見えないのですか?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうだ、先月の出来事でね。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

私はもうじき死ぬ、今日かもしれんし、明日かもしれん。無駄足だったな、若いの。

ケルシー
ケルシー

……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ヤツらは医者を入らせないようにしてるんだ、私を殺すためにね。

ケルシー
ケルシー

申し付けないのですか?あなたは大公でいらっしゃるのですよ。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

大公であるからこそ、私はウルサスには逆らえないのだ、もう心の準備はできている。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

今日の天気の様子はどうだ?日差しがだんだん暖かくなるのを感じるよ。

ケルシー
ケルシー

快晴でございます、大公閣下。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

あぁ……快晴か、もう長い間こういう日が続いている。

ケルシー
ケルシー

……絶望されているのですか?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

絶望……?絶望は始まりの一瞬にすぎんよ、私たちの長い日々の生活には常に様々な情緒が溢れかえっている、それは人々を絶望させることもなく、己の人生を愉快にしてやることもない。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

我々は常に妥協しながら生きてるのだ、若いの、ある者はそれを無感覚だと称している、私は自動自得だと思ってる人もいるがね。

リリア
リリア

……そうだな、暖かい季節がやってくる、あの風ももう耐えがたいものではなくなるのだな。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

誰が君をここに遣わしたのかな?若いの?

ケルシー
ケルシー

もうご存じかと思いますが。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

君も驚かないのだな。私みたいな何事も成し遂げず、それでも最後には身代わりにされた人は、いつも若者たちから見下されているのだと思っていたよ。

ケルシー
ケルシー

私は一度も人を見下したことはありません、何よりもあなたはウルサスの一大公でございます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

私に本当のことを教えてはくれないのだな……それもそうか、なら私に当てさせてくれ……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

財政大臣が遣わしたのか?いや、違うな……彼はこの件となんら関りはない、こんなでしゃばることをする人とも思えん、これが彼の意思であるのなら……そうであってほしいものだね。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

なら、集団軍の蛆虫共か?あの肝の小さい老いた連中なら……いや、これも違うな、ヤツらならもっと簡単な方法で……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

考えさせておくれよ、若いの、誰が君を遣わしてきたのを……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

まだこそにいるかい、若いの?

ケルシー
ケルシー

ここに。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……陛下のご意思か?陛下が私に……この愚かで傲慢な人間に己の愚行に対する代償を支払わせたいと?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ああ、あの晩はただの恐ろしい夢ではなかったんだな……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

君は失明した感覚がわかるかい?とっくに慣れたこの私の暗黒の視界から、何かもっと歪曲したものが蠢いているのを……恐ろしい違和感を覚えるんだ。

ケルシー
ケルシー

それはつまり、失明しても覆い隠し難い恐怖があると。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……あれは親衛の意志だ、若いの、あの晩、皇帝の利刃と私の喉の距離は目と鼻の先しかなかった。

ヴィッテ
ヴィッテ

なに?果物ナイフを?なら私がやろう。

ヴィッテ
ヴィッテ

スケジュールは忙しいが、旧友にリンゴを剥いてあげる時間さえないのであれば、それはあまりにも冷酷すぎやしないか。

財務大臣にこんな雑務をやらせるわけにもいかんだろ。

ヴィッテ
ヴィッテ

私を皮肉っているのかい?

財務大臣はナイフを取るのではなく、もっと別のことを執ったほうがいいと思うぞ。

ヴィッテ
ヴィッテ

冗談はよしてくれ、友よ、リンゴを剥くだけじゃないか、それとも迷信などの話題に切り替えたほうがいいかい?

ヴィッテ
ヴィッテ

ほら、療養所の果物はどれも新鮮だ。君の身体にもいい。

いや、ヴィッテ、我が友よ、ナイフを寄越してくれ、時には身体を動かさなければならん、でなければなまってしまう。

ヴィッテ
ヴィッテ

弱りきってるじゃないか、自分の手を切ってしまうぞ。

ウルサスの将校が、果物ナイフを扱う気力すら残っていないとでも思っているのか?

ヴィッテ
ヴィッテ

いや、そんなことなど思っていないさ。

ヴィッテ
ヴィッテ

はぁ、わかったよ、ナイフを渡そう。くれぐれも気を付けてくれよ。

(ナイフで切る音)

ヴィッテ
ヴィッテ

――

ヴィッテ
ヴィッテ

一体何を――医者を呼べ!――一体何をやっているんだ!?

ヴィッテ
ヴィッテ

なぜそんなことを――自分の指を切るんだ――はやく医者を呼べ!

フゥ――ヴィッテ!そう狼狽えるな、想像よりも痛くはない……長年の痛みが私を慣れさせたんだろう……そう急ぐな、聞け。

見てくれ、ヴィッテ、私の右手は戦火のさなかで爪を失った……カジミエーシュ人よって親指を削ぎ落された、そして東国の刺客によって人差し指の半分をもってかれた。

私は自分の右手にはもう価値はないと常々思っていた、ヴィッテ、たかだか右手は私が刀を持つための手であったということだけで、こんな目にあった。

そして今、私は自分の左手人差し指を斬り落とした、これで両手ともに健全ではなくなった、公平になったとも言える。

ヴィッテ
ヴィッテ

一体何のために……!

教えてくれヴィッテ、ウルサスの戦争は、私がかつて生涯をもって誇りに思ってきたこの栄誉なる傷痕には、本当に栄誉などあるのか?

いや、お前が答えを言う必要はない、肝心なのはこれではない、しかし見ろ、この血が流れる新たな傷口を、これは己の意志によって作り出された傷だ、私を病魔から目を覚まさせ、お前と再びこうして言葉を交わすようにしてくれた。

ヴィッテ、お前はサンクトペテルブルクに戻るのだな、お前はいずれあの偉大なる都市に戻るのだな。

ならば私の身体の一部を持っていくがいい。我が肉体は征戦のさなかでバラバラに引き裂かれ、摧残(さいざん)を受けてきた、しかしこの血肉は、唯一私が自らの意志で切り離したものだ。

私に子はいない、だがこの指は、私の愚かさを嘲笑うといい、この指は私の唯一誕生してくれた血肉なのだ。

これをサンクトペテルブルクに持っていき、お前の庭に、あるいは街にある花壇にでも埋めてやってくれ、私をサンクトペテルブルクの泥土で活かしてやってくれ。

そうだ、私の血肉をウルサスへ溶け込ませてくれ……私をサンクトペテルブルクへ、我々の世代が守った、ウルサスの心臓へ!

――ヴィッテ!

(誰かが走り回る足音)

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……

リリア
リリア

……

ウルサス軍人
ウルサス軍人

今日はやけに慌ただしく走り回ってる連中が多いな……チッ、マナーも弁えないアホ共が。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

お前はここでジッとしていろ、様子を見てくる。

(ウルサス軍人が去る足音)

リリア
リリア

承知しました。

リリア
リリア

(ケルシーは今どうなってるの……)

リリア
リリア

(チッ、もう時間がない。)

(ウルサス軍人の足音)

ウルサス軍人
ウルサス軍人

おい、お前、116号宿舎の様子を見てこい。

リリア
リリア

はい?しかし私の助手がまだ――

ウルサス軍人
ウルサス軍人

ここは使用人が一人いるだけで十分だ、医者は必要ない。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

これは財務大臣からの要請だ、もしあの大物の怒りを買えば、私たちでは担いきれん。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

さっさと行け!絞首台に立たされたいのか!?

リリア
リリア

は、はい、申し訳ありません、直ちに、直ちに向かいます……

リリア
リリア

(ケルシー……!早くして!)

ワーリャ大公
ワーリャ大公

若いの、こっちに来てくれ、ここに座るといい、君の名前は?

ケルシー
ケルシー

ケルシーでございます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……コードネームでも、偽名でもないんだね?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

わかるぞ……君が名乗った時の態度、私には分かる、君はその名前を愛しているのだね、ケルシー?

ケルシー
ケルシー

どうでしょう。

ケルシー
ケルシー

もうお時間がありません、大公閣下、もうしばらくすると、あなたの衛兵たちがここに入ってこられます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうだな……どうやら自分を殺しにきた刺客に時間を与えてやらねばならんな……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ん。確か通信機は手元にあったはずだが……

ケルシー
ケルシー

ここにあります。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

はは、慎重な殺し屋さんや、いつの間にそれを持っていたんだい?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

どうか私に任せてくれないか。

ケルシー
ケルシー

……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

信頼してくれて感謝するよ、若いの、慣れているんだね君は……誰から遣わされてきたかは知らんが、君はいずれ大器になるよ。

(無線音)

ワーリャ大公
ワーリャ大公

衛兵隊長、こちらの療養所の使用人は……私の故郷から来たと言う。もうしばらく彼女と話がしたい、邪魔をしないでおくれよ、私が命令を下すまではな。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

侵入者は、軍規に違反する者と見なす、わかったな?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……これでよし。

ケルシー
ケルシー

……閣下の故郷はどちらにあるのですか?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

サスナ谷のすぐ向こう側だよ。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

君が私を信頼してくれているのは、君はすでに用意周到だからなのかな?たとえ衛兵たちが今入ってきても、君は難なく逃げ出すことができる、そうなんだね?

ケルシー
ケルシー

それについてはお答え致しかねます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……もしくは君は親衛の者ではないのかしれんな。君は歪な恐怖を抱いていないからね。そうだな、あの親衛が内部の事情を他者に委託するはずもなかろう?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ヤツらはウルサスで最も無欲なる監視者だ、天秤に置かれる価値ある者でなければ、ヤツらのお目にかかれることはない。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

まあそういうことだ、私の負けだ、若いの。結局君の内情を知ることはできなかったよ。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

君は何のためにここにやってきたんだい?

ケルシー
ケルシー

……己の責務のためです。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ケルシーよ、私は苦しみながら死ぬのだろうか?

ケルシー
ケルシー

いいえ、薬が徐々にあなたの神経系を蝕み、昏迷したように眠りに落ちます、二度と目が覚めることはありません。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……重病を抱えた老人にとって、それは施しと言えよう。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

感謝するよ。

ケルシー
ケルシー

……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうだ……君は医者なのかい?それとも科学者なのかい?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

輝かしい眼を持っているかい?手の指には薬品の匂いでも残っているのかい?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

君は――

ワーリャ大公
ワーリャ大公

――いや、待った、もしや君は……チェルノボーグの一件のためにやってきたのか?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ケルシー……ケルシー……あの日の大火事によって亡くなった所長も、確かその名ではなかったか?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

もしあなたがあの犠牲者たちを全員憶えられているのであれば、私はウルサスの目から逃れられないでしょう。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

あぁ……君だったのか、君がケルシー……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

なんとも奇妙なことだ……君はあの秘密警察の目をかいくぐってきたのか、それだけじゃないな、君はその名を偽ることもせず、ここに侵入してきた……?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

どうやってそんなことを?

ケルシー
ケルシー

方法ならいくらでもございます、大公閣下。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

私に死んでほしいと思う人もいれば、そうでない人もいる。最初はそう思っていたよ……しかしもし君はただの科学者なのであれば、こうも簡単に……騙されるべきではない。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

あぁ……それとも、何者かが君を買収したのかい?何者かが君の復讐を利用して、私を死に追いやろうとしているのかい?

ケルシー
ケルシー

お答え致しかねます、閣下。

ケルシー
ケルシー

では、薬品の注射をさせて頂きます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

あぁ、私に死刑宣告を言い渡すのだね、それはいい、ここでいたぶられるよりかはマシだ……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

む……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……

ケルシー
ケルシー

終わりました、閣下。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……私にはあとどこくらい残っている?

ケルシー
ケルシー

十五分ほどです、閣下。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……教えてくれないか、若いの、私の目の前にある景色は美しいか?

ケルシー
ケルシー

大地が芽を生やし、太陽がそれらを満たし、希望を抱かせております。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

美しいか?

ケルシー
ケルシー

壮麗な景色でございます、ただこの壮麗さもウルサスでは珍しくもありません。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……フッ、若者はいつの時代も口八丁だな……この景色を見れるウルサス人は……どれほどいるのだろうな?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうだ……花、私の花、種を蒔いたんだ……芽は出ているか?蕾を付けているか?私のこの痛めつけられた目では、もう花たちが咲き誇る姿すら目にしてやれん……

ケルシー
ケルシー

今は……残念ながら。

ケルシー
ケルシー

どうやら帝国の冬はこの観賞植物の成長を妨げてしまってるようです。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

あぁ……ここでは咲きほこれないのだな?

ケルシー
ケルシー

閣下はこの長い冬で何を植えられたのですか?

ワーリャ大公
ワーリャ大公

若い頃……私はかつてカジミエーシュとの戦争に参加したんだ。戦争をしたことはあるかい、ケルシー?

ケルシー
ケルシー

……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

混沌を極めた戦争だった、一発目の砲撃音が鳴った十数分後、隊列も戦場も意味を成さなくなった。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

私は騎士数人によって足にケガを負い、頭部も一発ハンマーで殴られたよ、私はヘルメットを外し、無我夢中で地面を這いずり……花畑まで這いずった。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

その後私はそこで気を失い、援軍に救助された、朦朧としていたが、そこにあった花のことは憶えていたよ。

ケルシー
ケルシー

……サスナの百合の花ですね。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうだ……戦争が終わった後、私は人に頼んでその辺境から種を持ってこさせた、私はあの花のカジミエーシュの学名が嫌いでね、だから自分で新しい名前をつけたんだ。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

私はこの花が好きだ、私の町では、この花は町のシンボルとして扱われている。ウルサスの土地でなら……カジミエーシュより立派に育ってくれる。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……私の妻も……花たちを育てていた、かなり上手だったよ。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

しかし花たちは……土から芽を出すことはなかった。

ケルシー
ケルシー

まだ春が来られなかったのでしょう、閣下。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

そうだな……私はこのウルサスの地を愛してる、ここは様々な希望を生み出してくれるからだ。

ケルシー
ケルシー

しかし貧者と感染者の身体によって満たされてもいます。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

この地が数々の悪行を犯したことは否定せんよ、だがだとしても、この地はすべてを包み込んでくれている……あぁ、少し疲れてきたな……

ケルシー
ケルシー

説得力ある言い訳には聞こえませんが。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

言い訳?いいや、若いの……赦しを得ようだなんて一度も考えたことはないよ、必要ともしていないさ……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ただ、命が輝く最後のひと時でなければ、気付け……ないのだ……意味というのは……実際に……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

サスナの百合よ……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

もう一度……この目で彼女に会いたかった……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……もう行くといい、若いの。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

感じるよ……太陽の暖かさを、それに……見える……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

ふぅ……

ケルシー
ケルシー

閣下は命の最後のひと時にご自分を許せる資格はないのかもしれません。

ケルシー
ケルシー

(ウルサス語)ウルサスは貴殿を忘れません、大公閣下。

ワーリャ大公
ワーリャ大公

(ウルサス語)……ウルサス……私の……

ワーリャ大公
ワーリャ大公

……祖国よ……

ケルシー
ケルシー

旦那様、大公閣下がお眠りになられました。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

……貴様に言われんでもわかる、命令を受けた、30分後でないと入られん。

ウルサス軍人
ウルサス軍人

おい、大公閣下と地元が一緒らしいな、んん?

ウルサス軍人
ウルサス軍人

貴様みたいな若い女が、何が何でもこの療養所に入りたがっているのは、お偉いさんに気に入られたいからなのだろう、違うか?

ウルサス軍人
ウルサス軍人

これで満足か?なら何をボーっとしてる?私に靴を磨かせたいとでも思ってるのか?

ケルシー
ケルシー

いえ、そんな……申し訳ございません!旦那様、どうかお許しください、すぐに立ち去りますので……

ウルサス軍人
ウルサス軍人

フンッ、使用人風情が……

リリア
リリア

……果物ナイフはとても錆が付着しやすいので、感染を引き起こすかもしれません、彼の容態は随時チェックしておきますので、どうかご安心くださいませ。

ヴィッテ
ヴィッテ

……そうか、苦労をかけるな。

ヴィッテ
ヴィッテ

友人の血が上った頭を冷やすのに私も随分と時間を費やしてしまったようだ……

ヴィッテ
ヴィッテ

彼が医務室を出たあと、伝えておいてくれ、君は私たちの心に炎を点けさせてくれた、どうか信じてくれ、君の友人のイスラム・ヴィッテを、と。

ヴィッテ
ヴィッテ

ただこれから、私はトランスポーターと共に目的地に行かねばならなくてね。

リリア
リリア

お気を付けくださいませ。

ケルシー
ケルシー

……

ヴィッテ
ヴィッテ

……

(ヴィッテが去る足音)

リリア
リリア

(ケルシー――!)

ケルシー
ケルシー

(直ちに脱出しよう。)

ケルシー
ケルシー

(財務大臣がいるおかげであの官僚たちの付き人も縮こまっている、脱出するなら今しかない。)

リリア
リリア

(あいつは……死んだの?)

ケルシー
ケルシー

(効果が生じた時間が私の予想よりも短かった、彼の身体は元から長くはもたなかったんだ。)

リリア
リリア

(無数もの人があいつの死を利用しようとしている、連中の争いはきっと私たちにチャンスを与えてくれるはずね。)

ケルシー
ケルシー

(行こう。)

リリア
リリア

ケルシー――

リリア
リリア

ありがとう。

リリア
リリア

あなたは私たちのために……その手ですべてを終わらせてくれたわ。

ケルシー
ケルシー

まだ終わりではないさ。

ケルシー
ケルシー

どんな形に変わろうとも……私たちはいずれまたこの帝国と相対するだろう。

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