
静けさを取り戻した街道。
重厚な箱は合わさり、再び吟遊詩人の手に戻った。
歩くスカジ。
一歩、二歩と。地面に堆積した残滓と凝固した体液が彼女の足元で急速に腐敗し、風化していった。
三歩。潮風が彼女のスカートを翻し、地面に散りばめられた小さな結晶が舞い上がり、散っていった。


み、見ました?さっきの?

見てたよ。

彼女は、あんなのことまでできるの?

あれは詩人さんだよ。ただの詩人さん……

審問官さん、彼女なら、ああいうことをやってのけてもおかしくはないよ。

詩人……詩人って。あなたはまだ彼女のことを詩人と呼ぶんですね。

じゃあどう呼べばいいの?審問官なんでしょ、私に教えてよ。

……

外に出ます。

え、ちょっと待って!

なんですか?あなたも私を止められるとでも思ってるのですか?私は審問官ですよ!
(打撃音)

な、このヌメヌメしたものって……

ふぅ……あ、当たった!よかったぁ、審問官さん、危なかったよ。

さっきあなたが椅子を斬ったおかげで、コイツを殴る武器にできたよ。そうでなきゃもう少しであなたの頭に襲い掛かってたところだよ!

も、もう何なんですか!ここにいる人はどいつもこいつも変人ばかりです!

あんなものを見ても、怖くないのですか?

ちょっとはね。でも、審問官さんよりはマシかな。

……あなたは、よくも私を、あのバケモノと比べましたね!?

まあいいです。とやかくは言いません。あなたはコイツらを見たことも、コイツらが何をするのかも見たことがないのでしょ、それなのになんで恐怖を感じるのですか?

待ってください、外にほかの住民が来ていますね。なっ……彼らは何をしてるのですか!?

……あの人たちもまったく恐れていない?

由々しき問題ですね……

この問題の在処を突き止めなければ。

いわゆる問題とは、即ち眼前に広がる最も異常な場面のことであった。
審問官は傍にいる女の子に目をやった後、外の街道でポツンと立っているエーギル人に視線を戻した。
そして最後に彼女の視線は街にいるほかの住民たちに向けた。

……

砂か。

……塩だ。しょっぱい。

さっきのアレ、食べられる。しかしもうなくなった。残念だ。

残念だ。

塩も食べられる。

食べられる。

もっと、もっとだ……むぐっ、おえっ。

汚れた。

呑み込むんだ。もっと……
(審問官が駆け寄ってくる足音)

待ちなさい!

……

まだ聞きたいことが山ほどあります。はっきり教えなさい――あなたをここに呼んだのは誰ですか?

私、血が流れてるけど。

血が流れてるのは分かってます、あなたは先生に負け、負傷して逃走した。それとこの……バケモノが突然現れたことと何か関係があるのですか?

みんな私の血の匂いを嗅ぎつけて来たの。

コイツらは……あなたを殺しにきたのですか?後先考えずみんなあなたに押し寄せてきていましたが――

そうかもね。

そうかもね?

けどまだ私を傷つけることはできないわ。

あ、あのですね!あなたのその喋り方すっごく気に障るのが分からないのですか?

事実を述べてるだけよ。

アイツら――あのバケモノたちのことですけど――全部いなくなりましたよね。

ええ。

綺麗さっぱりいなくなりました、まるで出現したかったかのように。さっきこの目で見ていなかったら、夢でも見てるのかと思いましたよ。

あのバケモノ……恐魚のことです。昔もそれなりに見てきました。けど見た目が異なっていましたし、どれもこれもイヤな匂いを発していました。

けどあの時もビーチで現れたけど、今回ほど数は多くなかった。アイツらって海の中で暮らしてるんじゃないのですか?

海に行かないと、面倒事は起こらないはずですよ?あなた昼間に海辺に行きましたよね。

その結果コイツらは今回こんな遠くまで這い上がって来た、街道にすら押し寄せるぐらいに。

アイツらは色んなところに行けるわ。姿形を変え、拡散し、浸透する。

鋼鉄で造られた都市でも、高地にある村落でも、黄砂が舞う荒野でも。私が行けるところなら、アイツらも行けるわ。

そんなバカな!?

大地は海に囲まれているのよ。海が見えないところだったとしても、海水がそこに触れられないとは限らない。アレは生きてる、動けるのよ。アレがもたらす厄災も同じ。

特定の地方の海が危険なのは承知してます。けどまさかイベリア以外の陸地も……脅威に晒されているとは知りませんでした。

脅威なら、いつどこにでもあるわ。

けど今回のは、私がもたらしてきた厄災なの。私に近づけば、あなたにも危険が及んでしまうわ。

なっ……あなたは一体何者なんですか!?

前に言ったはずだけど。

吟遊詩人なんてふざけたことはもう聞きたくありません!全部お見通しなんですからね。

あなたはアイツらと戦ったことがありますよね。それに戦いなれている。

アイツらを殺す時の技巧も、私や、長官と戦った時よりもよっぽど手慣れていた。

ヒトの手に余るものだから。

オ、オホン、もうそんなわけわかんないことは聞きたくありません……ホントあなたって変わってますね。

あなたは以前……ハンターだったのですか?そういう目をしていますよ。

想像にお任せするわ。

ならあなたの狩猟対象はこの……恐魚たちなのですか?

コイツらは排除する必要があるから。

はぁ……相変わらず神経を逆なでするような喋り方ですね。どうしてかは知りませんが、あなたみたいな人がこんなことを言っても、ウソとは思えないんですよね。

詩人、ハンター……もうなんだっていいです。

さっきの状況を見るに、あなたは私を、この街道を、あるいはこの町全体を救ってくれたと言っても過言ではありません

あなたは敵の敵かもしれませんが、仲良くすることはできません。

けどなんであれ、私は私の責務を遂行しなければならないので、あなたを連行します。

……

私がなぜここに来たのかが聞きたいんでしょ?

私がここに来たのは、答えを探すためよ。この答えは、私自身と……私が探してる人としか関係ないの。

なんで先ほど言わなかったのですか。

……そっちが私に話す機会をくれなかったから。

……

今あなたが何を言おうと、私の判断は変わりません。

あなたはこの町の者ではない。あなたみたいな人が、ここに現れること自体、間違ってるんですよ。

この厄災はあなたがもたらしたなんて……もってのほかです。

――私が想定してた事態とはかなり異なっていましたけどね。

しかし、エーギル人、あなたは危険です。この町にとっても。この町にいることも。

ん?

ここの住民たちを見てください。彼らは……あの恐魚の死体を漁って食っています。彼らはあのバケモノたちを恐れていない……いや、むしろバケモノが何なのかすら分かっていないんです。

飢えを感じれば、捕食する。それはバケモノも同じです。しかし恐怖を感じるのは……人間だけです。

彼らは……果たして人間なのでしょうか?

私が知ってるのは彼らも頑張って生きてることだけよ。

生き延びようということに関しては、人間も、バケモノも、元から区別なんてない。

生き延びる……あんなのが、生きてると言える状態ですか?

長官は自分の目で確かめてこいと言ってました。今やっとその意味が理解できましたよ。

この町の最大の問題は、住民たちが何をしているのかではありません。彼らがまだ生きていること自体が問題だったんです――一番の異常がこれだったんです。

彼らもあなた同様に危険です。危険は制御されなければなりません、過ちがあればそれを正すのと同じように。

まだ諦めないのね。

だから尚更あなたを逃すわけにはいきません。

……言ったでしょ。私にはまだやることがあるって、時間が惜しいの。

ならもう一度戦うしかありませんね。

エーギル人、あなたが怪我を負ってることは分かっています、あれだけ大量の恐魚を撃退するのにも多くの気力を尽くしたことも。

だとしても、手加減はできません。
(打撃音)

ん?これは一体?小さな貝殻?

あなたが投げたものじゃないですよね、エーギル人……私に貝殻を投げる必要なんてまったくありませんし。

じゃあ地面で嘔吐してる現地の住民たちが?いや、それもありえませんね。彼らは自分の腹に入れたモノが何なのかすら判別できないのに、私に手出しするはずもありません。

なら……窓から投げられた?
(打撃音)

……

誰ですか!?

誰の仕業ですか?さっさと出てきなさい!

ふぅ……

あなた?あなたが投げたのですか?まだこのエーギル人を守るために私の邪魔をするのですか?

え、そ、そうだよ、私が投げたの!

アニータ、適当なことを言うんじゃない。

投げたのは私だよ、審問官様。

様?

あなたがどういう人間かは分かっているよ、ほかの連中は何もわかっちゃいないがね。

……こんな場所にも普通の人間がいただなんて。

お婆さん、きっと目が悪くて私に当たっちゃったのでしょう。とりあえず下がってもらっていいですか、先に片付けないといけない危険な仕事が目の前に立っているので。
(打撃音)

ほれ、審問官様。アタシの目はぼやけてなどいないよ。日が暮れて暗くなったとしても、アンタに当てられる自信はあるよ、そちらが避けなければね。

小さな貝殻よ、美しい漣よ♪

一枚また一枚、一つとまた一つ……一つとまた一つ……

自首したのなら、こちらも遠慮なく――

審問官……様!ペトラお婆さんは、病気なの……だから見逃してやって。

病気?なるほど。どうりで。そうだと思ってました。

これ、アニータ、またウソを言って。アタシのどこが病気だって?

ペトラお婆さん、もう何も喋らないで、お願いだから。

病気……そう病気だとも!

病に冒されているのはこの塩風町だ!病に冒されているのは――この町だ、ここにいる全員だ!それはアンタもだよ、高みの見物をしてる、審問官様も……アンタもかなりの重症だよ!

あなた、ご老人を家まで送ってやってください。

こっちはまだ重要な仕事が残ってますので。

重要な仕事ってなんだい?命より、重要なことなんてあるものかい?

……審問官にとって、命を換えてでも守らなけれならないものは山ほどありますので。たとえば、法律に書かれたすべての正しさ、それと私たちの国がそれに当たります。

命を換えてでも守るか……誰の命をもってだい?

それは……もういいです、なんであなたにそんなことを教えなきゃならないのですか?老衰と疾病があなたの理性を削り取ったのでしょう、市民、その非常識な行いに目を瞑ってあげます、これ以上私の邪魔をしなければですが。

審問官様、アンタが言うその正しさや過ち、国なんて、アタシにはチンプンカンプンだよ。

アタシが聞きたいのは、アンタが守ってるものの中に、アタシらはずっと含まれていないのだろう?

なにを……!?

アンタらはよく人を連れ去っていく。彼らは秩序を乱したとか、食料を奪ったついでに傷害罪を犯したとか言って、彼らはただ生きていたいだけだというのに。

私はその件に関与していません……しかし彼らが罪を犯したというのであれば、当然の報いです。

だが彼らが帰ってくることは二度となかった。

悪事を働いた人を連れ去っていけば、ここの暮らしがよくなるとでも言うのかい?

混乱をもたらす要因を排除すれば、秩序は自然と生まれます。

そのわりに食料は少なくなるばかりじゃないか……歳を食った人は飢えか病で死に、たくさんの若者たちも耐えきれずに死んでいった。

アンタは口を開けば秩序だのなんだの言っているがね……アタシらを静かに死なせたいだけなのだろう?そうすれば騒音を起こすこともなくなり、柔らかいベッドで眠っている高貴な貴族様方の安眠を妨げずに済むからね。

そんなんじゃありません。

今のイベリアは国全体が苦しんでいるんです、あなたたちだけじゃありません。

物資を奪うために他者を傷つけた罪は裁かれなくてもいいとでも言いたいのですか?では仮に私たちの前に十人分の食料があったとしましょう、十名のイベリア人の腹を満たせる分の食料です。

もし誰もとっていい数量を教えなければ、彼らは争いを起こしてしまうんです。そして最後、生き残れるのはたったの一人だけになります。

混乱が起れば、審問会が正しさと過ちの境界線を張ります、人々を正しい道へ導くために。もしそうしなければ、国家はとっくに砂のように崩壊していますよ。

アンタが言ってることなんて……アタシには触れることも、見ることもできないさ。

アタシらに道なんかないよ。審問官様、アンタが言う道は、一体どこにあるんだい?アタシらが道を指し示してほしい時、アンタらは一体どこにいたんだい?

私は……私はあなたたちの助けになりたいんです。だから私は審問官になるために努力をしてきました。私が踏み入れたこの道は、みんなを助けるための道です。これが唯一正しい道だと私は信じています。

アタシを……アタシらを助けたいだと?

アタシは願ったさ。望んださ。渇望したさ。誰かに助けてもらいたいという夢まで見たさ。寝静まる夜に、アタシは数えきれないほど喉が枯れるまで叫んださ。

だがアンタらは現れてはくれなかった。

過ちを犯さなかれば、アンタらは現れてはくれないのかい?

こんな老いた身体で、ずっとなあなあとして生きてきた。本当に悲惨な日々だったよ。毎日毎日が、苦痛だよ。
(打撃音)

アタシは今アンタを攻撃してるんだよ、ほれ見なさい、審問官様。

だからさっさとアタシを連れて行ってくれ!アタシを連れて行って、この無意味で残り僅かな命を終わらせておくれ!

さあ、はやく!もう我慢の限界だよ――何年も何年も待ってきたんだ!ゴホッ、ゴホッゴホッ……

しかし……

あなたに手は出したくありません。あなたのその怒りは……正しいです。私の剣は市民に向けるような剣じゃありません……

お婆さん、私に剣を抜かせないでくださいよ。

ゴホッゴホッゴホッ……

ペトラお婆さん!

あ……アニータか。アンタも広場にいたんだね?

日が暮れたというのに、どうしてまだ歌声が流れてこないんだい?

詩人さん、アンタは詩人さんなんだろう?なぜ歌わないのだい?竪琴はどうしたんだい?ダンスが踊りたくなったんだ、一曲付き合っておくれよ。

……

それなのに、審問官様、アンタは吟遊詩人より役立たずだよ。彼女は少なくともアタシらに歌を聞かせてくれる、それに……堂々とアタシらの傍にいてくれるんだ。

アタシはバケモノも、死も怖くはないさ。怖いのは今の生活だよ。アタシは狂ってしまったのだろうか、アニータ?

ペトラお婆さん、大丈夫だよ。お婆さんが震えてるのは、寒いからだよ。一緒に帰ろっか?帰って横になったら、少し落ち着くと思うよ。

そうかい……ならそうしよう。さあ、帰ろう。どうせどこに向かえばいいのかも分からないんだからね。

待ちなさい……!

考えを改めたのかい?だったら、まだアタシを連行するか、処刑する機会は残っているよ。そうしてもらえると……少なくともアタシは人間として死ねる。

アタシが死なないうちに決めておくれ、審問官様、もう長くはもたないのでな。

さあ、帰ろう……詩人さん、一緒に帰ろう。アンタの歌を聞いてみたくなったよ。

……

今は……しばらくの間、見逃してあげます。

けど絶対に戻ってきますからね!

それとあなた、エーギル人。絶対にこの事態を暴いてみせます。私の目から逃れられると思わないでください!
(審問官が去っていく足音)

ふぅ……あ、危なかったね。

詩人さん、大丈夫?顔色が真っ青だよ。

平気。

もう無理しなくても大丈夫だよ。審問官さんはもう行っちゃったから。

別に彼女のことは怖くないわ。

分かってるよ、怖くないことぐらい。あなたみたいな人って、怖いもの知らずだもんね。

彼女は悪い人じゃないわ。

私を遠ざけることは、あなたたちにとっていいことだから。

いいこと?こんな場所にいる限りいいことなんてないよ。

ペトラお婆さんはあんなこと言ってたけど、別に審問官さんのことを恨んでるわけじゃないから。お婆さんが恨んでるのは別のことだよ、私には分かる。

さあ踊ろう、あはは、歌声は好きだよ……

もうその辺にしてよお婆さん、疲れてるんでしょ。詩人さんがちゃんと歌を歌ってくれるから、だよね詩人さん?

……

はい、詩人さん、手を私に見せて、傷の様子が見たいから。

……ダメ。

危険だから、あなたに近づいちゃダメ、て思ってるでしょ?

大丈夫だって。私、詩人さんのこと信じてるから。何が起こっても、詩人さんなら勝てるってね。

……

ほら、傷も全然酷くないし、血ももう止まってるじゃん。

詩人さんって本当にすごいね、もう傷が治ってるんだもの。

ちょっとは回復が遅くなってるけど。

傷はいいんだけど、あなたの様子がちょっと心配かな。さっき選んだ部屋も崩れちゃったし、ロクに寝れてないでしょ?だからやっぱりペトラお婆さんと一緒に帰ろうよ。

そうよ、一緒に居ましょう、あいつらに関わらないで済むわよ。

いや……

ほらほら、「いい」とか「必要ない」とか「やることがある」とか言わないでよね、もう聞き飽きたんだから。

でもまだ……

くっ。

ほら、もうフラフラじゃない?今は、人に面倒を見られて、しっかり寝たほうがいい。

あなたが探してる人も、そんな無理してる姿は見たくないと思うよ。

……


さっきのあれは……なんだ?

……もう私とは関係ないか。

もう考えるのはやめよう。答えはもう得たんだ、道も、どこに向かえばいいのかも知れた。

前へ……前へ進めばいいんだ。

明日になればみんな食い物にありつける。私は……いや、私たちは、みんな生き長らえる。

「みな生き延びたい、だからお互いをより愛そう」。

「愛ゆえに、我々は密接に繋がっている」。

「強かであれ」。

「さすればみなも強かになる」。
男は独りで漆黒の海へと向かっていったが、何かが彼の足取りを阻んだ。

……

これは……

あいつの竪琴だ。ここに落ちてる。

(スカジを真似て竪琴を弾く)

(ポロロン、ポロロン)

耳障りだ。

こんなものに意味なんてない。捨て去り、腐り果てればいい。
