
女の子は素直に目を閉じ、手を放した。
彼女の足に纏わりついていた力もすぐさま消え失せた。様々な細かい物が水に落ちる音も彼女の耳に届く。海面に触れる直前、彼女はとある力に引っ張り上げられ、地面へと落ちた。
――顔から落ちたのだ。


ゴホゴホゴホ……

……相手が人だと、力加減と角度の制御が難しいわね。

わ、私は大丈夫だよ……

(自分の匂いを嗅ぐ)

血でも流れたのかしら。

なんでアイツらはまだ興奮してるのかしら?ここにいる恐魚の数って元からこんなに多いの?

昨日のバケモノのこと?

そんな感じ。

前まで見かけなかったけどなぁ。

数日間はここに近づかないほうがいいわ。はやく戻りなさい。

詩人さん。

……スカートを引っ張らないで。小さい子供じゃないんでしょあなた。

そうじゃなくて……自分の欲しがってるモノが何なのかが分かったの。私あなたの歌が聞きたい。

そう……

だって……私歌が何なのか分からないんだ。あなたが寝てる時鼻ずさんでいたのを聞いたぐらいだよ。それでも全然何を歌ってるのか分からなかったけど。

分かったわ。

それって、歌ってくれるってこと?じゃあ約束ってヤツになるのかな?

そうかもね。

(眉をしかめる)

私のハープはどこ。

あれ?ホントだ、詩人さん、ハープをどこにやったの?

……戻って探すわ。

分かった、じゃあ一緒に探してあげるね。

もしかして、私と一緒に戻ってくれるってことなの?や、やったぁ!

……

それって……そんなに嬉しいことなの?


……
(アニータの足音)

やっほー、セニーザ、おはよう!

プランチャ……

そうだ、プランチャはどこ?あなたたちってずっと一緒にくっついてたじゃん。

プランチャ。

あなたがジッと見つめてる方向って……海……だよね?

まさか、昨日赤い貝殻を引き当てた人って、プランチャなの?

はぁ……

フエゴ、俺の病気がまたひどくなったみたいなんだ。

胸がずっと苦しい、張り裂けそうだ。

食欲もまったくない。だから俺に話しかけないでくれ。

……はぁ。

(スカジの足音)

詩人さん、再びようこそ我が家へ!

うっ……あっ……

お婆さんが……

ペトラお婆さんはまだお休み中なんだ。昨日一緒に戻ってから、ずっとこうして寝てるんだよ。

たぶんだけど、彼女も体力を消耗してたから、疲れたんだと思う。まさか割り込んできて、審問官にあんな激昂するとは思わなかったよ、いつもと全然違ってた。

そうね。彼女は……すごい人だわ。審問官を撃退したんだもの。

ふっ……はっ……

審問官を……撃退した!?詩人さん、そんなことを言って、もしあの審問官さんに聞かれたら、きっとまたすっごく怒っちゃうよ。

そんなの知らないわ。

もしまた来るというのなら……

またあなたに突っかかってくるのかな?

……誰に突っかかっても同じよ。

(箱を撫でる)

そうだ、ハープを探さなくちゃ!

ちょっと待って。

え?

あなたの頭の上。

わ!緑色のネバネバがいっぱい……な、なにこれ?

海藻ね。

さっきズッコケた時に引っかかっちゃったのかな?

たぶん。

この海藻って……使えるの?海草とそれほど変らないようだけど。風干ししたらベッドに敷けるのかな?ペトラお婆さんは腰が悪いから、ちょうど使えそうだね。

……貸して。

貝殻を使って海藻を摺りつぶすの。この粘液は洗い流さないで。

それから海水を入れて、海藻が浸るぐらいに。この小瓶に入れて、封をする。そして半年間寝かす。

瓶の液体が淡い緑色になったら、発酵できたことになる、そしたら飲めるわ。

……詩人さん。

どうしたの?どこか聞き逃したところでもあった?

あなた……今まで私にそんな一気に話してくれなかった!

そうね。

貝殻も捨てないで、綺麗に洗って干したら、お酒の受け皿になるから。

おさけ?それって何?

そこに書いてあるわ。ここって元は酒場だったのよ。

この文字ってさけって意味だったんだ!

みんな飲んだ酒は快楽をもたらしてくれる、悩みを打ち消してくれると言ってるわ。

ホントに?

……まあ無駄だけど。

ただ、味は中々よ。

詩人さんも昔それを飲んでたの?その故郷……エーギルで?

ちょっと違うわ。

……時折一緒にそれらしいものを飲むの、ダンスを踊る前に。

じゃあきっと楽しかったんじゃないかな。あ、分かった!きっと飲んだおさけが快楽をもたらしてくれるんじゃなくて、楽しいから、おさけを飲むんだよ。

外で暮らしてる人たちって、えっと、みんなおさけを飲むの?じゃあみんな楽しいのかな?

そうとは限らないわ。

なるほどね。じゃあ彼らはきっと今の私よりそんな楽しくなさそうだね。詩人さん、そのおさけの作り方を教えてくれてありがとう。今すぐにでも詩人さんと飲みたいよ。

あなたいい筋してるわね。

そんな風に磨っても、磨りつぶせないわよ。角度を変えるの、一番尖った部分で海藻の筋模様を狙うのよ。

一定のリズムで、呼吸を整えて……あなたの腕と、身体と、あなたに触れる潮風と一体になるように。

こんな風に――一撃で、潰す。

……

私をジッと見つめて、まだ突っかかってくる気?あなた一人だけなら、すぐ終わっちゃうわよ。

いや……そんなつもりはない。

これ、返す。

ん?

プランチャが拾ったんだ。

昨日の夜にお前がこれを外に落したのを見かけてな。

……

おお、良かったじゃん!詩人さん、私たちが探さずに済んだよ!

プランチャは、あいつはこれを俺たちの家にこっそり持って帰って、俺に……俺にこいつをお前に返すようにと。

それだけ言ってあいつは行っちまった……

ありがとう。

あ?あぁ……

(ハープを弾く)

そのフレーズ……あれ、昨日詩人さんが寝てる時に鼻ずさんでたヤツだ。

よく頭の中に響くの。

それってあなたとあなたのお仲間さんが、以前歌ってた歌?

故郷にいた時、こういう風の歌はほかにもたくさんあったわ。私たちは歌声で……お互いコミュニケーションを取っていたの。

でも離れた後、ほかの歌声も消えて行った。残ったのは私と、これだけ。

どうりで、聞いてると悲しくなるような歌だね。

(ハープを弾く)

詩人さん、約束!ハープが戻ってきたんだし、私たちに歌を歌ってくれない?

みんな待ちわびてたんだから、だよね、ペトラお婆さん?

うっ……うぅ……

お婆さん今日は喋れないみたい。じゃなきゃきっと彼女も歌いたがってるはずだよ。

あ……あぁ……

詩人さん、ペトラお婆さんも聞きたいって。

……

分かった。

赤いスカートを纏った吟遊詩人が人混みの真ん中に座った。彼女は目を閉じ、竪琴の弦に指をかけた。
琴の音色と歌声が彼女から湧き上がり、このボロボロな酒場に木霊った。響き、増幅し、まるでソレらは本来ここにあるべきはずのようだった。
一人の狩人が海岸を行く♪
故郷は背に、道は目の前に♪
父母と子らは彼と引き離され♪
愛すべき人も海へと葬られた♪


……


表情が一瞬だけ変わったな。何か感じ取ったのか?

なんでもありません。

意外には思わんよ、なんせ君の精神は相も変わらず鈍いままだからな。目の前にある水を見てみろ。起伏する水位、広がる波紋、躍動する光沢。これらはすべてがメッセージだ。

じきに満潮となる。そろそろ行くとしよう。

一人の狩人が海岸を行く♪
故郷を背に、嘆きながら♪
彼の道に果てはなく♪
ただ霧が覆い被さるのみ♪


あのエーギル人が歌ってる。

まさか、あのボロ小屋で、あの人たちの前で歌を歌うだなんて。

あの人たちも耳を傾けているだなんて。

首を垂れてる人は相変わらず首を垂れてる。喋らない人は相変わらず舌を躍らせないでいる。どう考えても歌声は彼らの凝り固まった身体に染みわたってないというのに。なのに彼らの目は……

住民たちには、歌が分かるっていうの?

一人の狩人が海岸を行く♪
……
詩人は琴にかけた指を止めた、だが琴の音色と歌声がすぐさま消え失せることはなかった。
ソレらは依然と詩人の身を纏わり、分厚い土に隙間を生じさせた。
そこに葉の芽が入り込み、本来そこあった芽たちが抜け落ちていった。

……

……

……

ペトラお婆さん?

どうかしたの?

眠った……みたい。

こんなに穏やかに眠ってるのは久しぶりに見たよ。昔なら目を閉じた瞬間叫んで、手足をばたつかせて何を掴もうとしていたからね。

あなたの歌を聞いたら、お婆さんも踊り出すんじゃないかって思っていたよ、いっつも踊りたいって言ってたからね。

……

セニーザ?

俺は死ぬんだ。俺の目に……海水が入り込んじまった。しょっぱい、飲んでも全然美味しくない。

え、あなた……泣いてるの?

泣く?泣くってなんだ?

……あなたの身体の奥底から感情が湧き上がることよ。

詩人さん、その歌とっても好きだよ。詩人さんは口数は少ないけど、歌ではいっぱい話しかけてくれた。

もう一回歌ってくれないかな?もっとあなたの話が聞きたいの。

……

(ハープを弾く)
詩人の指に纏わりついていた潮風が、鼻孔をかすり。匂いを変えた。
満潮の合図だ。

食い物……

食べ物が出た……

海岸に行こう。

司教様!
部屋を続々と出る人々。
琴の音色と歌声が消えて去った。
