さあさ、どうぞこちらへ、ここに来ると分かっていたよ。
どうして?
ふむ、どう説明したものか……
フッ。必要ないわ。
君はどこに行こうがその箱を持ち歩いているのか、吟遊詩人殿?
そうよ。
ならもう一つ質問を聞いてもいいだろうか?
なに?
その箱の中身は何なんだい?
サックス。
ああ、素晴らしい、サックス……吹奏楽器の類か。素晴らしい。
その音色を聞かせてはくれないか?音楽……この町はもう長い間久しく音楽が奏でられておらんのでな。
ああ、いや、失敬……今思い出したよ、歌ってもらう場合吟遊詩人殿にサービス料を支払わなければいけなかったな。
困ったものだ、見ての通り、私はあまり銭を持たない身なのでね。
それにこの古い建物を見てくれ。ふん、これを維持するだけでも相当困難なことだ、通貨などここではなんの用途もない、誰も集めはせんし、使いもんせんのでな。
だがディナーを用意する余力ならある。吟遊詩人殿、如何かな?そちらのお好きな曲でも構わないから一曲奏でてくれないか?
そちらの腹を膨らせることぐらいなら私にもできる。あまり舌鼓を打てるような料理ではないが……
……
その沈黙の様子を見るに……ふむ、もしかして歌より、ダンスのほうがお好みだったかな?
君はとても美しいスカートを履いておられる……紛れもなく天賦の才だ。ここで君のような美しい人を見るのは久しぶりだ。
(……鳥肌が立つわね。)
曲が聞きたかったのなら、あの時私に言ってくれればよかったじゃない。ここに来るまでもなかったわ。
私がここに来たのは聞きたいことがあったから。あなたの傍に立ってる人なら知ってるかもしれない、お互い仲睦まじくやってるようだし。
……
私の傍にいる――この知人とは、知り合いなのかい?
もちろん。
君には聞いていない。
グレイディーアはそっぽを向き、黙りこくった。
知らないわ。
ほう……?
その人がまだ私が初めて知ったその人のままなのか分からないもの。
ほう、ほう……
それは、それもそうか。時が経てば人も変わる。陸地を海が打ち付け続ければ、いずれ岩礁すらも砂に変えられるからな。
つまり君がここに来たのは、彼女が君を呼んだからではないと?
――私をここに呼んだのはあなたじゃないの?
私がただ呼んだとしても、君はここに来てくれないさ。そうであろう、君にとって私は見ず知らずの赤の他人なのだから。
私が聞いているのは、君は彼女に呼ばれてここに来たのか?
違う。私は自分の意志でここに来た。
ふむ、ウソを言ってるようには見えんな。私はウソを見分けられるが……君は正直だ。
質問攻めしないで、こっちはまだ何も答えてないのよ、人からすればいい気じゃないわよ?
今度はこっちの番。
この町の人たちはあなたのことをとても信頼してるようね、でも、海岸で起こったアレ――
絶対におかしいわ。
乞食も。恐魚も。海も。
あなたは何者?何か知ってるんでしょ?あなたも彼女も私に何か隠してるんでしょ?
ふむ、ふふ。確かに、私はほかの人より少々知見が深いと自負しているよ。
それと君に会いたがっている人もいる。
私に?吟遊詩人だから?
音楽方面で会いたがっているのは私だけだよ。
少々遠回りに思うかもしれんが、君に会いたがってるのは私ではない。
私の友が君に会いたがっているのさ。彼のために、私は君をここに招待したのだよ。
誰?私に会いたがっている彼ってのは?
ついて来てくれ。彼に会えばわかるさ。
なんせ……君の友人もそこにいるからね。
「彼女に会いたいのだろう?」
主教は軽く流すようにそれを言ったが、スカジはそれを平然と受け入れられなかった。
ハンターはひそかに箱の取っ手を握りしめる力を強めた。材質の進歩とロドスが適切に大量のコストをそれに投じたおかげで、スカジはこの特製“サックス箱”の取っ手を握りつぶさずに済んでいる。
さあこちらへ。
それと君も。
……
君もついてきてくれ。褒美を与える時がきた。
スカジはグレイディーアを一瞥したが、特に何も言わなかった。
スカジは主教の後を続いた。なぜかは知らないが、主教の歩く姿勢は見るからにおかしい、足に力が入っていないのか、それとも関節が備わっていないような歩き方だった。
三人とも階段を降りていく、教会のカタコンベの下にははやりと言うべきか空洞があった、階段は岩壁に沿ってうねっていた。一つまた一つと下っていく、まるで巨大なバケモノの食道を行くようだ、光はまったくない、ただ感覚を頼りに道を探っていく、油断すれば足を踏み外して底へ落ちてしまいそうだ。
ランプが手元になくても申し訳ない、だが君にとってそれほど困ったことでもないのだろう?
吟遊詩人の大半はそれなりに護身の術を身に着けていると聞く、なんせ都市も荒野も友好的とは言えんからな、遠出すれば容易に災いと遭遇してしまう、だから自分で自分を守る術を備えてなくてはならん。
銭や財では音楽は買えないが、音楽は貨幣として扱える、良い曲を歌えば、どこに行ってもとりあえず餓死することはないのだろう……
私も昔はそういう生活を憧れていたよ、しかしそういうのが不得意だったかどうかは知らんが……その場で根を張ってしまうと、もう離れられなくなってしまうタチでな。
主教はまるで独り言のように話を続けた、なぜならほかの二人は降りる間一言も喋らなかったからだ。
ここだ。
ここってまさか……
その通り、海底だ。
階段を深く深く降りるにつれ、ようやく平地に足を置くことができた。スカジですら息苦しいと思うほどの湿気をしていた空間に、一筋の光が見えた、彼らはそこへ入っていき、開けた目の前の光景にハンターは息を飲んだ。
巨大な鍾乳洞の中には奇怪な設備がぎっしりと詰め込まれていた。海を透過し洞窟内の天井から光が差し込んでいた。そして淡い藍色の光がソレの居場所を照らしていた。
あれは――!
なぜこんなことが。
スペクターの身体は水の檻に浮遊していた、死んでいるようにも、熟睡しているようにも見えた。
数多の考えがスカジの脳内を駆け巡る。
どうしてここにいる?グレイディーアがやったのか?もしスペクターが死んでいたら?ならなぜグレイディーアは彼女を見殺しにした?まさか本当に死んで――
君の友人とは彼女のことなのだろう。
君はスカジだな?私は直接かかわってはいないが、彼らは君をよく対処してくれていたよ……
特に君の傍にいた人をだ。彼らはよく対処してくれた、君の精神を今の状態にずっと維持してくれていた。
――
目を大きく見開くスカジ。
何ですって?
だが最近彼らも忙しくなって君に構ってやれなくなった、だからこの隊長にお願いして、君をここへ呼んできた、もはや私へのプレゼントと呼んでも差し付けない。
スカジは振り向きグレイディーアに怒りの形相を向けたが、背後は誰もいなかった。
グレイディーアはすでに主教へ近づいていた、その足取りに戸惑いは見られず軽やかだった。彼女が誇りに思うその速度、アビサルハンターの中でも随一と言わしめた素早さとは……まさにこの音もなく間合いを詰める一歩のことだった。
まさかその詩人ではなく……君が真っ先に向かってくるとは思わなかったよ。何を待っていたんだ?なぜあの時私を殺さなかった?
そんな事も知らないほどあなたはバカじゃないでしょ?
この忌み子共め、いつもそうだ……自信に満ち溢れているくせに、中身は伴っていない。この実験体である彼女の命がここで消え果てても構わないのか?
成果を確認してあなたは安心しきっていた。満足げな顔を出していたが、私に彼女の居場所は教えてくれなかった。つまりあなたからすればまだ彼女を死なせるわけにはいかないと思っている。
それにあなたは私たちの中で一番彼女の命を重要視している。
あなたたちの実験場をあれだけ破壊してもなお――
はやりお前の仕業だったのか。
――あなたたちからすればスペクターはとても貴重な存在。アビサルハンターに源石の感染性をテストするには、彼女というサンプルしかありませんものね。
陸の畜生共の原罪が君たち忌み子の身にどう作用するのか、興味がそそらないわけがないだろう?
スカジもグレイディーアも顔色が変わった。
しかし……君はあまりにも私たち三者の実験場を破壊しすぎた。あれだけ大量の、精錬された液化源石を投入したのに、エーギルの技術をも用いたというのに……もう復元は不可能だ。
彼女は確かに貴重な存在だ。だがなぜ彼女はあれほどの規模の源石感染と対抗できているのかが未だに不可解なもんでな……彼女の脊髄を希釈してみたんだが、一つの小国を感染させるには十分なものだったよ。
私は必ず自分の心願を証明してみせるとも。私の研究を。私たちの敵の秘密を。弱点すらも……
ならその前にここで死んでもらいます。
スカジはひそかに力を込めた、グレイディーアへの怒りより今の主教への怒りは比べ物にならないほど膨れ上がっていた。
ほんの少し力を出せば、この元凶をミンチにしてやれる。
ほんの少しだけで。
私があなたを活かしたのは、あなたが首謀者と自ら証言させるためです。無価値な連中はすでに処理しておきました。
あなたが自ら、彼らとこの実験と関わっていると証言してくれた以上、もう活かす理由もなくなりました。
アビサル教会……あなたはアビサル教会の人だったのね。
誰の許しを得てその名で私を呼ぶ?
よくも今まで隠し通してきたわね。あなたたちはどいつもこいつも違っていた。色んな言葉だって巧みに操ってきた。
スペクターがあんな狂った様子になったのも……全部あなたたちが弄んで苦しめたからなの?
海に入ろうとした人たちも……あなたの実験の犠牲にしようと?
黙れ。
主教の身体は幾分か以前より大きく、怒っているように見えた。
海の施しはただの利用などではない。あれは救済なのだ。
彼らを放置してやってもよかったんだ、死にはするが。
海は彼らに食べ物を与え、生に絶望した人々に自由な新生を与えてくれる……
スカジは突如と身震いした。恐魚。恐魚。恐魚になったのだ。
君たち忌み子に何が理解る……
もう結構ですわ、主教。私は一度でもあなたの目的に関心を寄せたことがありましたか?もし誤解していたのなら、どうかお忘れくださいませ。私が関心を寄せてるのはあなたの数えきれない罪と、あなたの害毒がどこまで続くのかだけです。
だがそんなことはもうここでお終いにしましょう。
頭数を一人増やしただけで……私に勝てるとでも思っているのかね?
君は君の同類同様、自信満々で――愚かしい限りだ。
あなた方のうちに自ら選んで恐魚になり果てた情報はすでに耳に入っております。奥の手になれずに残念ですわね。
たとえあなたが海嗣になったとしてもね――
スカジは突如と気付いた、その海嗣の匂いが近づいて来たのだ。
しかも、主教の匂いではない。
隊長!!
スカジは咄嗟に駆け入った、しかしその海嗣はすでにグレイディーアの傍にいた、あまりにも近すぎた。
だがグレイディーアにかかれば、音が訪れる前より避けることなど造作もない。
しかし、それはグレイディーアが避けれればの話。
グレイディーアは咄嗟に反応しきれなかった……
ぐはっ、がはっがはっ……(吐血)……
Gla-dia、彼はそう願った。ゆえに私はそれを遂行した。
そこで休んでいろ。
スカジはバケモノがグレイディーアの身体を貫き刺す瞬間を目撃した、そしてソレは腕を引き抜き、グレイディーアはガクッと地面に倒れた。
罠。これは罠だ。スカジは最初から海嗣と対抗する用意をしていた……しかしグレイディーアはなぜ反応できていなかったんだ?
彼女は油断していたからか?それともスペクターのことで冷静さを失っていたからか?
今の時点で誰がハンターで、誰が獲物なのだ?
それに、なぜ――海嗣が――
Ishar-mla。
(どうして……どうして、どうして?)
なぜグレイディーアは一人で仕掛けた?スカジと一声呼べば、二人がかりで主教を殺すことなど容易かったはず!
バケモノはあの主教ではなかったのか?自分がずっと嗅いでいたこの匂いは主教のではなく海嗣のものだった?
それに目の前にいるコイツはなんだ?恐魚なのか?化けた主教なのか?それとも本当に海嗣なのか?
もしコイツが今まで自分がずっと憎しみを向けていた敵だとしたら、なぜ言葉を話せるんだ?
lshar-mla、会いたかった。
スカジは言葉を返さなかった。彼女は箱に手を伸ばし、海嗣の最初の動きを観察していた、一番最初の動きを。
生きるも死ぬの一瞬だ。このバケモノは殺さなければ。
長い間眠っていた。長い間漂ってきた。数多の生死を見てきた。
チッ……
愚かな忌み子め、もし使者が君を必要としていなければ、とっくに浅瀬で腐っていただろうに。
クソ……
使者よ、早急に解決に当たってくれ。我らの海を侵害するこの者どもを見ていると、虫唾が走る。
それほど彼女たちを殺したいのか?
エーギルが創り出した雑種である彼女たちが、どれだけ我らの同胞を殺したと思っているのだ?
それはつまり――いや。
先に答えてもらうとするか。
Ishar-mla、私の姉妹よ。
え……?
姉妹よ、お前は今でも自分はどこから来たのかが分かっていないのだろう。
私はエーギルから来た、バケモノめ……私はあなたの天敵よ。
分かっていないようだな。
なら私が真実を教えてやろう。
お前たちは私たちだ。
……
え?
一体何を?
いや。
そんな。
お前には私たちの血が流れている。
スカジは何度も考えた。自分とヤツらに関係があることは分かっている、しかし彼女はそのすべてをあの最後の一戦の傷痕として帰結させていた。
だが彼女は匂いで分かった。分かっていた。聞こえていた。憶えていた。
ウソよ!
使者よ、一体……何を言ってる?
Ishar-mla。君の血は私たちの血だ。
君たちの肉体に、私たちの血が入っている。
私には多くの血族を持つ。彼らは君に会った。そして死んでいった。
彼らは君たちの匂いを分かっていた。君が私たちの匂いを知ってるように。
彼らは君の肉体に同胞たちが閉じ込められていると誤解していた。だから自身の危険を顧みずに君たちの肉へかぶりつき、君たちの皮袋から同胞たちを解放しようとしていた。
彼らはまだ準備を整えていなかった、まだ理解できるための器官を持っていなかったからだ。
君たちの体内に同胞なんて存在しない。君たち自身が私たちの同胞なのだ。
Ishar-mla。君は私たちだ。
海嗣の言葉まるで魔力でも帯びてるかのようだった。スカジは混乱しながらも過去を思い起こした、彼女はほかのハンターたちと共に恐魚を狩っていた時、血の匂いがより濃くなれば、彼女たちもより興奮し、動きもより活発になっていた、まるで肉体が呼応するかのように。
同類の血に対して。
私は君を呼び覚ますために来た。あの感覚を思い出させるために。エーギル人の身体は脆弱だ、月日はあまりにも経ち過ぎた。君の代わりに私が導こう。
やめて。やめて!
だが君は、知りたがっている。知りたがっているのが分かるぞ。
スカジは知りたがっていた。
自分は一体何者なのかを、なぜ自分はこれほど災いに見舞われるのかを。
あなたたちは私たちエーギル人を殺したくせに……今更仲直りしたいっていうの!?
私の血と君の血は同一の血だ。
君は私たちの匂いがわかる、私たちも君の匂いがわかる。
君たちは私たちを見つけ出し、殺した……
私たちも理解に苦しんだ、同じように君たちを殺した。
私たちは海を養っている。私たちの死体が海の養分となった。
Ishar-mla、私たちは同じ故郷を持つのだ。
あなたたちは私の家族を殺した。私の母さんを、私の祖母を、私の妹を殺した。
スカジは知りたがっていた。
いや、違う。
私たちはエーギルの町には行っていない。
あんなにたくさんの都市を滅ぼしたくせに!
あの都市は私たちの領地にあったからだ。
ハッ、エーギルのお膝元にあった都市の人々も、あなたたちに連れて行かれたのよ!
いや……違う。
私たちはそんなことはしない。都市で死んでいたら一族を養えない。
エーギル人が私たちを攻撃した、そして私たちがエーギル人を攻撃した。違いなどない。
君たちの領地にいた人々が死んだのは、君たちの領地にいた人々が殺したからだ。
そんなのウソよ!
ウソ?ウソの意味が知りたい。“ウソ”、君はさっきも同じことを言った。その意味が知りたい。
スカジは固まってしまった。
海嗣の思考に触れてしまったようだ。
海嗣が持つ情報が匂いを伝って直接彼女の脳裏へと潜り込んでいく。
彼女にはそれができた。彼女なら……当然のように……
違う、違う……!
Ishar-mla、私たちと君たちの間には強すぎる隔たりがある。君では私たちに想いを伝えられない。
だが私たちが考えていることを知ってくれさえすれば、それでいい。
私の肉体は長い時を経た、だから言葉も話せる、君とこうして交流もできる。
言葉は複雑だ、あまりよく使えない、だからこうして話すしかない、こうして君に伝えるしかない。
Ishar-mla、君に会うために私はやってきた。
スカジは知っていた。スカジにはわかっていた――
海嗣はウソなどつかない。
私はあなたなんかと……違う……
君はいつも感じていた、周りの人々と、自分は異なると。
道を行く時、君は海の方角を察知できた、光が届かない海の様々な事情を知れた。
寝てる時は、自分が大群と共にある感覚にあった。
スカジの血はすでに滾っていた。
どうして?どうして……こうなった?
スカジには分かっていた。
察していた。
スカジはほかのハンターたちと小言を交わしていた。
スカジもほかのハンターもみなバケモノだったのだ。
……なんでそんなことを言うの?なんで?
自分はバケモノだ。
自分は同族を殺した。
同族のために同族を殺した。
同族によって同族を殺した。
町にいた人々の目は暖かかった。彼らは何も知らなかった。
研究所とテントにあった目はどれも冷たかった。
ハンターが眠っていた時巡海者が傍を守っていた。いや、あれは守り人の類ではない。ハンターのために夜を見張っていたわけではない。
巡海者はハンターがバケモノになり果てるのを待っていたのだ。
それに、彼女は見た……見たのだ……
彼女の姉妹がエーギル人を食らってるところを、大きく口を裂け、隊長がソレを殺すまで骨を貪るのを止めなかった。
「彼女は恐魚の影響で精神を汚染してしまったんだろう、おそらく恐魚の一種が彼女の身体の一部を乗っ取ったんだ、もう助けることはできない。」
違う。違う。
それは、彼女はもうエーギル人を同胞と見なさなかったから、彼女は自分の故郷に戻ったからだ。
……
思い出したか。
スカジは暗く静かな海の中に漂っていた。
彼女が逃げても守り人にとって無意味だ。
彼女の過去と未来も無意味だ。
彼女は海のバケモノだからだ。
彼女は、一匹の、海のバケモノだった。恐魚。海嗣でもあった。
彼女を除いて、誰だって知り得た。
海のバケモノ。
また、彼女は最も大きな罪を犯していた……
もし自分が海のバケモノなら、もし彼女の兄弟や姉妹もここにいたら、彼女は……
彼女はまったく抵抗しないあれらを思い出していた。
それが触手を自分の身に重ねていたことを思い出していた。
私がアレを殺した。
私が彼女を殺した。
私が彼を殺した。
主教はすべてを察した、しかし混乱もしていた。彼の自尊心と蔑視はグチャグチャに混ざりあっていたが、海嗣が話した言葉から真実を導き出すことは叶わなかった。
……そんなバカな……
なぜだ……なぜ以前まで……なぜ分からなかったんだ!?なぜ調べられなかったんだ!?
先ほど貫かれてぽっかりと風穴が空いたグレイディーアの胸からは未だに鮮血が流れ続けていた。しかし彼女の心臓が止まることはなかった。
Ishar-mla。聞きたいことがある、Ishar-mla。首を上げよ。
スカジは機械的に顔を上げた、彼女は目の前にいる自分の兄弟と自称するバケモノを、茫然と眺めていた。
私はアレを殺したのね。
殺してなどいない。
殺したんだ……
私はアレらの神を殺した。
私はアレらの時代を殺した。
私は私たちの時代を殺してしまった。
私が神を……
アレは何もしてないのに、私は……私は……
私の……自分の妹も……彼女も……エーギル人は……エーギル人は……
すべてエーギル人が殺したんだ。
私の姉妹、私の母も私の祖母も……
私が長い間報復していたのは、何もかも間違っていたんだ。
何もかも、エーギル人が殺したんだ。アビサル教会が。エーギル人が。
海嗣はウソなどつかない。
罪を感じているのか?
私の罪は……私は……
Ishar-mla、履き違えるな。私たちに罪はない。
君はただ君にしかできないことをやっただけだ、Ishar-mla、同胞に罪はない。
でも私はエーグルに代わって……あんなに大勢を……
血の匂いが喉まで上がって来た。
負い目を感じている?違う。
スカジはただただ茫然としていた。そしてハッとした、自分をこんなに長い間支えてくれた、巨大な苦痛にも耐えられるようにしてくれた原動力が……消えてしまったことを。
彼女が為してきたことすべては虚無に終わった。
エーギルのためですって?自分はそんな崇高な存在ではない。自分への言い訳はただの慰めにしかならなかった。
エーギル……エーギルは私たちアビサルハンターをどんな風に扱っていたの?
自分は一体“何”?私はなんのために生きてきた?今までのすべてと、あの時奮闘してきた私に、なんの関係があるのか?
「私は――何をしてきたの?」
……
海嗣の拙い言葉が彼女を現実へと引き戻した。この強烈なめまいと焦燥感が“現実”と言えるのであればだが……
君は自分をエーギル人と思っている、ならあの殺戮は正しい。
君は他者を血族として扱っていた、だからそうした、私たちは知らなかった、私たちが君たちを攻撃した時君は同じように反撃した、それもまた正しい。
――
どうして?
――Ishar-mla。
エーギル、鱗を持たぬ者、“罪”という言葉は君たちの言語にしか存在しない。
生きるためなら、どれも正しい行いだ。
じゃあ……
君は何も間違っていない。だから知ってることを話すといい、私たちに“望む”という概念はない、言うか言わないかだけだ。
君の知ってることを。言ってみるといい。
やはりこの問いに辿りつくのか。
スカジは話したくなかった。しかし彼女には海嗣の血が流れている……真実が流れているのだ。
エーギル人は自分の家族が誰によって殺されたのかが分からないとでも言うのか?
もし本当に海嗣が町入っていたら……殺されるのは彼女たちだけだったのだろうか?
Ishar-mla。君たちが襲ってきたゆえ、私たちはアレとの関係が途絶えてしまった、密接な関係が。私たちはアレの鼓動しか感じれなかった、アレの声は聞こえなかった
君たちが最後に攻めてきた時、その時のことだ。
そうだ、未だに憶えている、その通りだ。
最後には自分しか残っていなかった。
バケモノの群れを引き裂き、空をこじ開け、暗闇へ突き進んでいった。
すべてのアビサルハンターがわらわらと出てきた。僚友全員の命が彼女の足元で散っていった。すべての戦いはあの一瞬のためにあった。
彼女は決死の覚悟で突き刺したあの瞬間。
海のバケモノとハンターの血が海を腐らせた、死はある程度堆積すればもう新たな命を生むことは不可能だ。
彼女は……アレが沈みゆくところを見た。
その前に、巨大な目が自分を見つめているのが見えた。何かが自分の意識に繋がった、皮膚が痛い、視界が朧げだ、それに苦痛の匂いもした、まるで自分もすでに狂ってしまったかのようだった。
しかし彼女の目は冴えていた。生きていた。
なぜなら“アレ”が口を開いたからだ。
それで……
アレが君の目の前で再び眠りに落ちる時、君は――
アレの言葉を聞かなかったか?
スカジの血液が彼女の体内で燃え上がらんばかりに熱く滾っていた。
スカジはその問いの答えを知っている。
知っていた。彼女はこの秘密を墓まで持って行くつもりでもあった――
しかし――
アレは――
こう話したわ――
我々が受ける苦痛は永遠なり。
スカジはこの言葉を言い損ねた。
スカジの最後の反抗心が彼女を絶えず瞬きさせた。
グレイディーアが血の池から這い上がって来たのがうっすらと見えたのだ。
貴様!?使者よ!
あぁ。機会はまた今度か……
グレイディーアは先ほど避けれたのだ。しかし避けなかった。
(斬撃音)
(体液が塞ぐ音)
Gla-dia……
(嗚咽したような音)……さすがの強さだ、Gla-dia。
ゴミクズめ。(エーギル語)もう容赦はしない。
(エーギル語)獲物は大人しく……罠の中で悲痛な叫びを上げればいい。獲物はあなたのほうだ、ゴミめ。
長槍が再び動き出さし、瞬く間に海嗣の身体に巨大な傷を開けた、海嗣の身体から体液が噴出し、グレイディーアの腕を腐食した……しかし彼女の傷口はすぐさま癒えた。
姉妹よ……君の感情が……密集して伝わってくる。
感情。憎しみ。獲物に分かるはずもないのでは?
愛も。憎しみも。苦痛も。悲しみも。喜びも。慰めも。あなたたちからすれば無用のものです。これをクズと……不必要なものと、無駄だと思ってる、違いますか?
私たちは君の言ったそれらを備わっていない。
なら尚更理解できないでしょうね、ゴミめ。私たちはそんな無駄なものを備えてまで生きていきますよ。私たちはあなたたちじゃないので。
Gla-dia。感情。とても強い感情だ。
歌すらまともに歌えないヤツめ。死ぬがいい。
なぜだ――なぜだ?
なぜ彼女はあんな状態でも動ける!?
グレイディーアは力いっぱい長槍を海嗣の身体から引き抜いた、そしてスカジの目の前へと飛び、ふわりと着地した。
グレイディーアは抜け出せた、それに彼女には分かる、もし抜け出せていなかったら、次の瞬間には海嗣に殺されていただろう、たとえアレにそのつまりがあろうがなかろうが。
彼女は長槍を横へ一掃した。たとえこの海嗣が殺そうと思っていなくとも、主教は必ずスカジを殺そうとしてくる。そして彼女は、グレイディーアは、一人のアビサルハンターの隊長は、自分のハンターを守らなければならない。
たとえ自分の隊の者でなくとも、だ。
彼女の脳裏では無数の考えが飛び交った、だがその中に自分の傷を考慮するもの一つもなかった。
なぜなら今のままでも十分だからだ。今の状況でも皆殺しにするには十分だ。
海嗣の身体がピクピクと痙攣している、彼の複雑な筋肉が身体を支えていた。
血は今も絶えずグレイディーアの身体から流出している。その背後でスカジは全身に血管を浮かび上がらせいたが、海嗣が彼女にもたらした知覚と膨大な精神シグナルから抜け出せないでいた。
海は幽く果てしない、海の子らは自ら狩人と獲物に分かれようとしていた。