力。
ほんの少しの力。軽く押しただけで……
雪崩は一気にイェラグを覆い被さっていく、そこでひた隠されてきた陰謀も過去もすべて。
店主さん、こりゃただのぼろっちい木札じゃないか、50ポンドで売るには高くないか?
お客さん、分かってないね、これはただの木札じゃないぞ、雪境の神イェラガンド様の祝福が込められたものなんだ。
イェラグが天災を受けないのも、この地に根付いたのも、その神様が守ってくれてるおかげなのさ。
そんでこの木札の原材料はな、ウチらイェラグの二番目に高いクマリ山の頂に生えてる常緑樹から取ってあるんだ。
クマリ山は知ってるかい?伝説によるとな、あのお山はイェラガンド様が流した涙が氷に固まってできたらしい。
山にある雪水を吸った木々はこの地に対するイェラガンド様の慈愛と祝福を含んでいるというんだ、そんでその木材で作られたお守りは家内安全、無病息災と守ってくれる。
お客さんイェラグは初めてらしいね、ヴィクトリアにいる家族にお土産を買ってあげたいのかい?
なんでヴィクトリアって分かったんだ?
いやね、ここ二年間、エンシオディスの旦那さんが掲げた政策で大きな会社がどんどん引き寄せられていているんだよ、お客さんの発音を聞けば大体はわかる。
お客さんみたいな初めていらした方には、こういうお守りをお土産にするのが特におすすめだよ。
それとイェティは聞いたことあるかい?ここの山ん奥に潜んでいてな、おっかない見た目に、人ならざる姿をしていて、神出鬼没な人食いのバケモノなんでさ。
だがこの曼珠院が祈祷してくれたお守りを持っていれば、あいつらはイェラガンドの威光に縮こまり、お客さんを襲ってこなくなる。
それにさ、帰って家族と話す時、このお守りにはイェラグの霊山のご加護があるって話したら、少しは土産話にもなると思わないかい?
遠路はるばるイェラグまで出張にきなすったんだ、土産に一つや二つぐらい家族に持って帰ってやりたいはずだろ?
……
……はぁ、わかった買うよ、嫁さんと子供の分も一つずつくれ!
毎度アリ、お客さんみたいな気前のいい人は大歓迎だよ!
この木材、見るからに適当な山から取って来たものだよ。
!?
な、なに適当なことを言ってやがるんだい!?
まず、ペルローチェ家の許可がない限り、クマリ山を登ることはできない。
そして、ここ最近クマリ山を登った人がいるなんて話は聞いていない。
あたしがイェラグを出る時、わざわざヴァイスお兄ちゃんに言っておいたんだ、登った人がいたらあたしに知らせるようにって。
なんであんたがそんなことを知って……
待て、その尻尾……あんたまさかエンシアお嬢様ですかい!?
エンシア……も、もしかしてエンシオディスさんの妹さん!?
ふふ~ん?
ちょっと店主さん、私を騙していたのか!?
いやぁ、ははは、エンシアお嬢様は幼い頃から山登りを好まれていたから、自ずとわしら一般人よりも雪山にお詳しくなられておる。
実を言うとウチの店にある品は山で狩りをしてる連中から仕入れたものなんだ、わしもきっとあいつらに騙されたんだ。
あとできっちり仕返ししてやらんと!
それでこのお守りなんだが……エンシアお嬢様、見てください。
お守りに曼珠院の祈祷が施されてるのは間違いないね、曼珠院の印を偽造してまでイェラガンドのバチを買う人なんてこのイェラグにはいないからね。
これでイェティを撃退できる話なら嘘っぱちだよ。ただお土産にするのなら、ちょうどいいと思うかな。
だからさ、もう少し安くしてやってよ。
ふぅ……お嬢様がそう言うのであれば、10ポンドまで値下げしてやろう!それでお客さん、買うかい?
あのエンシオディスさんの妹さんが言うのであれば、信じよう。
店主さんも商売大変そうだし、五個もらうよ!
毎度アリ!
それでエンシアお嬢様、お嬢様もなにか買っていかれます?お好きなものがあれば持っていってください、なんせウチの商売はシルバーアッシュ家のお世話になってるもんなんで。
いいよいいよ、ちゃんとお金払うから。
ね、ドクター?
・当然だ。
・ヴィクトリアとカジミエーシュのお金をたくさん両替しておいてよかった。
・自分の家の領地なら、適当に貰ってはダメなものなのか?
いやでもね、いくらいっぱい両替しても、それうちのところでしか使えないよ。
あとうちの領地の中で一番繁盛してるのがここの貿易港なんだから、お金を全部ここに落しちゃったほうがいいよ。
いやいやドクター、向こうだって商売してるんだから取っちゃダメだって。
でもぉ、もしどーしても欲しかったら、お兄ちゃんにお願いしてあげても良いよ。どうせ全部お兄ちゃんがやってくれるんだし!
エンシアお嬢様、そろそろ駅に行って列車を待ちましょう。
あっ、そういえば時間がなかったんだった、ドクター、行こっか。
大雪が来る、気を付けなさい、異邦人。
あなたは?
凍えたくなければ、今のうちにここを離れたほうがいいわよ。
……?
ドクター、ボーっとしちゃってどうしたの?
誰かに話しかけられた。
そう?傍に誰もいないようだけど。
……?
今はもうのんびりと屋外でコーヒーを嗜める季節ではなくなった。
振り向きざま、あなたには色鮮やかな日よけシートとカランド貿易の宣伝広告しか目に入らなかった。
誰もいないバルコニーは静かに佇んで入り、連なる山々は相変わらず遠くに望む。
もしかすると机に置いてある雑誌が風でページを捲られたことで、その机に誰かが座ってあなたに話しかけてきた錯覚を生じさせていたのかもしれない。
ドクター、ボーっとしてないで、行くよ。
……
また会いましょう。
ヤーカ兄貴、お帰りなさい、旦那様がお待ちですよ。
これまでの間ご苦労だった、ヴァイス。
お前は行かなくていいのか?
行こうとしてましたけど、旦那様が霊山で行われる三族会議にドクターを招待したものなんで、ぼくが兄貴の代わりに彼らを迎えにいくことになりました、なんせぼくもロドスの一員なんで。
兄貴は外でエンシアお嬢様を長らく護衛に務めていましたので、旦那様もそろそろ休暇を挟んでもらいたいと仰ってましたよ。
それにほら、兄貴もどうせエンシアお嬢様に追い出されちゃったんじゃないですか?
あはは、その通りだ。お嬢様なら今ドクターと街を散策されている。
きっとお嬢様からも自分のお守はいいからと、俺にお暇してもらうように配慮して頂いたのだろう。
さすが兄妹と言ったところですかね。
それでどうでしたか、今回戻ってきて?
領地の開発もかなり進んで、全体の変化が著しい、見間違えそうなほどだ。さすが旦那様だな。
では旦那様とお嬢様のご好意に預かり、俺は一旦実家に帰らせてもらうよ、両親に顔を見せてから旦那様のところに向かう。
お前はどうするんだ?
ぼくですか?
お前もしばらく戻ってこなかったんだろ、前回会った時は、旦那様とクルビアに行ってたんじゃなかったか?
ぼくなら急用もないですし、街をブラブラできただけでも満足しましたよ。
ならお前の同族の古い友人とはどうなんだ?確か名前はメンヒだったかな、時間があれば一緒にメシでも食いに行こう。
それは……
……その時にまた話しましょう。
……
俺だ。
(無線音)
もしもし、聞こえる?
聞こえるぞ。
よかった、拠点の信号は問題なさそうだね。
そうだな。
そっちはどうだ?
通信拠点に適した隠れ場所をいくつか見つけたよ。でも、いくらトゥリカムで拠点を築いても、イェラグ全土はカバーしきれそうにないかな。
ここはイェラグ南側にある出入口だけど、事実上イェラグと外を結ぶ唯一の玄関口だ。
ここで通信ネットワークを築く意義はとってもい大きい、けどイェラグ全土に通信網をカバーしたいのなら、できれば中央にある湖周辺にもう何個か簡易的な拠点を築いたほうがいいと思う。
聞いてるのはそれじゃない。
……?私を下見に行かせたんじゃないの?
久しぶりにイェラグに戻ってどうだったって聞いてるんだ。
あ、そうだったんだ……
正直、不思議な感じ。私がシルバーアッシュ家の人材育成計画でイェラグを離れた時も、ここからだった。
あの時、国境沿いにあった駅どころか、ここトゥリカムも至って地味で小さな町にすぎなかったよ。
それがまさかこんなに変わっちゃうなんてね。今の外の街と比べても見劣りしないぐらい発展してるかな。
雪山をこんなに開発しちゃうなんて、その難しさが窺い知れるよ。
それで隊長、今どこにいるの?そっちに向かうよ。
俺たちならちょうど列車に乗ってカランド山に向かってる。
お前は来なくていい。
え?
実家は山の上にある工業地区だって、お前自分で言ってただろ。
そうだけど。
なら先に顔を出してやれ。
家族より大事なものはないのだからな。
でも……
もう雪山に戻ってんのなら、せっかくだから実家に戻って顔を見せてやれ、ドクターの意向でもある。
ドクターもそう言ってたの?
……わかった、じゃあお言葉に甘えさせてもらうね。
じゃあドクターのほうは……
俺がついてる。
カランド山麓行きの列車がまもなく出発致します。
ご乗車されていないお客様はお急ぎください。
もう出発する。
少しは羽を伸ばしておけ、オーロラ。
(無線が切れ、汽車の汽笛とガタンゴトンという列車の走る音が鳴る)
汽笛の音と軽微な通信の音と共に、霊山に向かう列車がゆっくりと車輪を動かした。
ドクター、あたしがこの山たちの名前を紹介してあげるね。
ほらあそこ、あのちょっと傾斜が緩い山がクマリ山で、三代目の巫女が命名したんだ。
であそこの険しい山がマッターホルン山、ヤーカおじちゃんの名前はあれにちなんできてるんだよ。
……
エンシアは次々と流れてくるイェラグの風景を語っていく。
クーリエは相も変わらず笑みを浮かべながら、傍らで静かにこちらに耳を傾ける、しかし彼は時折遠くに目をやり、言葉では言い表せない情緒を胸に秘めていた。
Sharpは背もたれに寄りかかってネットを閲覧している、予想外にもイェラグのインターネットの内容は案外充実していたようだ。
あなたはエンシアの話に耳を傾けながら、景色が流れていく窓に目をやる。
窓の外には、青空の下に薄氷を残した湖が映っていて、そこには現地の人々が湖畔に集い、洗濯をしたり、談笑していた。
白雪に覆われた山々は聳え立ち、その頂を覗こうとすれば、日差しがそれを遮ってしまう。
なだらかな山腰には、若い牧者が牧獣を家屋から追い立てていた、列車にいる人を目に入っても、彼は驚きもせず、むしろ普通の面持ちで鞭を掲げてこちらに挨拶をしてくれた。
そう遠くないところに、彼が住む村がある、炊煙は昇っていく様は穏やかで、平和そのものだった。
なにもかも心がほぐれる情景だ。
今回は、もしかしたらいい旅になるかもしれない。