エンヤ、お前には巫女になってもらいたい。
――なぜ?
カランド貿易がイェラグでさらに発展するためには巫女が必要だ、今がその絶好の機会なんだ。
――なぜ?
当然だが、そう簡単にことは進まない。
ほか両家がなにを考えてるかはお前も私もよく理解してるはずだ。だがお前なら冷たい雪水を被ろうと、必ず試練を通過し、巫女になれると私は信じている。
エンヤ、お前にならできる。
――私がイヤと言ったら?
――私が失敗でもしたら?
……
どんな反論も疑問も、私は一言も口には出さなかった。
なぜなら彼がどう答えて、なにを言い出すのかが分かっていたからだ。
お前はシルバーアッシュだ、エンヤ。

ねえあなた、はやく来て、あれってエンシオディス様じゃない?

そんなわけあるか、山での聖猟は明日行われるんだぞ、そんな時期に巫女様に供物を捧げに行かないで、朝っぱらから領地を視察しにくるわけがあるか?

……おいちょっと待て、本当にエンシオディス様じゃないか!

聞いた話なんだけど、むかし霊山に入る時は駄獣に乗っちゃいけなかったらしいのよ。

特に巫女様に謁見する人たちがそうで、家から出た一歩目からすでに、合掌しながら地面を見つめ、ずっと頭を低くして祈りながら向かわなきゃならないんだって。

だからエンシオディス様のあのお姿って、もしかしてその伝統に則ってるのかしら?

言われてみればそうだな。俺もその風習は聞いたことがある、しかし……あのエンシオディス様も頭を下げて一歩一歩霊山まで登らなきゃならないなんてな。

何言ってるの、エンシオディス様だってイェラガンドの民でしょ、まさかエンシオディス様がペルローチェ家のバカみたいに、あるべき姿を忘れてるとでも?

適当なことを言うな、そんなの一言も言ってないだろ!

俺はただ旦那様が心配なだけだ。お前だって知ってるだろ、あの両家の貪欲さは底なしだ、旦那様が執政権まで巫女に返還したのに、それでも満足しないような連中だぞ。

しかも旦那様がもたらした発展に嫉妬するあまり、俺たちの鉄道まで爆破したらしいじゃないか、イェラグを封じ込めたあとに俺たちを併合するって噂が立ってるぞ。

あの人たちにそんなことする度胸があるわけないじゃない。イェラガンド様の御前で暴力を働いたら、天罰が下るわよ。

鉄道まで吹っ飛ばしたんだぞ、する度胸がないとでも?

旦那様はいま武器も持たずに手ぶらで街道を歩かれてる、それに明日には御三家が兵を連れて山で狩りをする神事がある、あの連中が今なにをしでかしてもおかしくはないぞ!

ちょっと、そんな縁起でもないことを言わないでちょうだい!イェラガンド様、どうか旦那様をお守りくださいませ!

ああイェラガンド様、どうか旦那様をお守りくださいませ!

エンシオディス様、今日あなたのような敬虔なる参拝者をお目にかかれるとは思いもしませんでしたぞ!

申し訳ございません、ペイル様、旦那様はいま御大礼を行うため真摯に祈祷を捧げておりますで、お返事はできかねます。

ぼくが旦那様に代ってご挨拶を申し上げます。

構わん構わん、こちらの配慮不足だった。イェラガンド様の御前にて、どうか許してくれ。

しかしトゥリカムから霊山までの道のりはかなり長い、そのような長距離巡礼を行かれるエンシオディス様の姿を見てしまっては、わしも領民も心が痛ましい限りだ。

これは旦那様自らがご決断なされてことですので、ご心配には及びません。

ぼくたち護衛部隊が必ず未然の事態から旦那様をお守りいたします。

それなら安心だ、どうかシルバーアッシュがイェラガンドの祝福を賜らんことを。

あなた様にもイェラガンド様の庇護があらんことを。

狩りはまだなのに、獣たちがすでに怯えてるように感じますね。

あら、窓から外を眺めただけなのに、なぜ獣たちが怯えてるってわかるの?

積もった雪が微かに震えているので。

なら明日の聖猟の時は、くれずれも足元に気を付けてね。

……大長老がいらっしゃったわ。

はぁ、気をつけなきゃならないことなら他にもごまんとありますよ。

エンヤ、準備はできたか?

装いも式辞も、全部準備はできています。

ご安心ください、別に初めて祭典に参加されるわけじゃありませんから。

だが此度の祭典は今までとは違うぞ。

あのエンシオディスがイェラガンドを参拝するために山へいらしたと聞き及んでおりますが。

彼がこの時期に信仰心を示してくれるのはいいことじゃよ。

シルバーアッシュ家は以前、神像を祀られていない人々のために曼珠院から多数の神像を借りたと聞いておるからのう。

あのエンシオディスが敬虔な信者になったって冗談ですよね?たった一晩でですよ?

巫女様、敬虔かどうかはイェラガンド様がお決めになられることでございます、わたくしたちが勝手に断言できることではありません。

イェラガンド様を存じてない蒙昧な人たちでさえ、五彩の極光の目にすれば、自ずとそれに感化され、祈りを捧げだすものです。

であるのならば、一夜にして敬虔になったことは、イェラガンド様の御威光の現れとして捉えてもよろしいかと。

エンシオディスが心の中でなにを思っていようが、今の行いを咎める道理はない。

彼のやってることが信仰を守ることであるのなら、巫女様がそれに悩まされる必要もなかろう。

イェラグ人が千年の伝統に首を垂れるのは必然であるからのう。

だといいのですが。

エンシオディス以外の両家当主なら、いつものように山へお越しになられる。

お前は巫女として御三家の権限を譲り受けたのだから、式辞を述べるにしてもただ形だけ述べてはならんぞ。

聖猟にしかり、祭典にしかり、御三家に対する態度に偏りが出てはならん、さもないとたちまち御三家のうちの一家が巫女様に贔屓されてると大衆から見なされるからのう。

私が手に持ってるこの鈴の重みなら理解しています、対応のやり方もわかっていますのでご心配なく。

それと、狩猟用の弓を使いたいので、大長老に使用を許可して頂きたいです。

エンヤ、お前は歴代の巫女が書き連ねた書簡を熟読しておったな、ならわかっているはずじゃ、巫女自らが狩りをする必要はない。弓を借りてなにをするのじゃ、聖猟開始時の儀式に使うのか?

確かに巫女が狩猟を行う必要はありませんが、神事そのものに参加する必要はあるじゃないですか、借りることがイェラガンドへの不敬になりえるとは考えづらいと思いますし。

千年より続く曼珠院の伝統なんだぞ、巫女様よ、弁えられよ。

巫女様にはイェラガンドに代わって御三家から奉られる供物を受け取ってもらいたいのじゃ、また供物を祭典場へ持っていっては民に分け与える役目がある。

巫女様自らが狩られるようになってしまっては、伝統が断たれるではないか?

それにだ、今は巫女様が狩りをするに適した季節ではない。

大長老の言う通りですが、この千年の間、御三家が執政大権を曼珠院に返還したという前例だってないじゃないですか。

権限譲渡の一件は、本来なら緩和策として提示されたものです、なのにここ最近、霊山の麓ではかえって混乱が頻発し、巫女へ渡された土地も恣意的に荒らされています。

もはやイェラガンドの怒りを恐れていないかのような有様じゃないですか。

イェラガンドの民はまさに今、巫女様にあのお方のお怒りを鎮ませて頂きたいと思っておる、イェラガンドに千年も不変の信仰心をお見せする必要があるのじゃ。

なら巫女がイェラガンドの怒りを俗世に伝える必要もあると思いますが。

……ここは聖殿じゃ、妄言はよしなさい。

それに、「勤め働く者の手はついに人を治める、怠る者は人に仕えるようになる。」

確かに御三家が巫女に権限を譲りましたが、彼らは巫女に実権を握らせようとは考えていません。

巫女には信仰を守る義務がありますから、ただ御三家の供物を待っているだけではいけません、彼らの無能さを示すのではなく――私が率先して手本を見せるべきなのです。

守るのなら、なおさら変化を論じるべきではない。

イェラガンドの民はすでに前へ進んでいます、今の彼らがイェラガンドへ祈ってる内容もすでに千年前とは異なっています。

ならイェラガンドも、千年前と違って今いる民たちの祈りに応えてあげるべきです。

ねぇ、旦那様ってシルバーアッシュ宅から出てから、自分の足でここまで歩いてきてるのよね、しかも飲まず食わず、まったく休まずに。

だからお父さん、私だけでも旦那様にお水を届けに行きましょうよ。

本当に伝統に則っているのなら、旦那様は不眠不休のまま、飲まず食わずのまま山まで向かわなければならない。

でも……もう丸一日よ、お父さん。私たちの村で山までやっと半分なのよ。

それに村を出る頃には日が暮れちゃうわ、雪原でどんな危険が起こるかもわからないんだし。

見ろ、旦那様がいらしゃったぞ……
黄昏の街道の中、シルバーアッシュの巡礼隊が静かに近づいてくる。エンシオディスは頭を低くし、手を合わせながら、黙したまま遠方にある霊山に祈りを捧げている。
巡礼隊の足音を聞きつけては、続々と人々が窓から顔を出したり、自宅のドアから出てきて街道の両脇を埋め尽くしていく。

お父さん。

旦那様にお水を渡せないのならせめて……私も旦那様と一緒に山までお供したいわ。

旦那様が工場を開いて私に技術を教えて下さった時から、私は旦那様についていくって決心してる。だからいま旦那様がこんな敬虔深く霊山に向かわれているのなら、なおさらお供してあげたいわ。
その場にいた民衆はみな静かに立ち上がり、ある者は家屋から降りて来ては、シルバーアッシュの護衛部隊の後をついていき、共に雪原へと歩んでいった。