春寒料峭。
春風は過去の情景を少なからず思い起こさせてくれる、学問の探究を、商いの経営を、武術の鍛錬を、政の従事を。
あの月日、私たちはいつだって一緒だったような気がしなくもなかった。傍にはいい師と友が、それぞれ抱負を胸に、大志を実現せんとしていた。
しかし今はどうだ?
青煉瓦は久しく掃かれておらず、春はすでに到来しているのに、未だ雪は残ったまま、玉のように白く輝いている。
門を閉ざした時、門の外にいる者たちは一体なにを考えているのだろうか。ただ門を開けた時、自分が知っていることは精々、その者たちが己に知ってほしいことに過ぎないのだ。
男は顔を上げ、門がきしんで音を鳴らす。
……
リャン様。
……リャン・シュン、久しぶりだな。
久しいな。
長旅ご苦労だった、リー。
遠路はるばるとやってきたんだ、苦労はないほうがおかしいさ。それにしてもリャン様はたいそう見栄を張られたもんで、こんな小さい品物を送るために、俺をわざわざこんな遠いところに向かわせるとは。
それは時間があった時に改めて説明する。
シェン殿、そちらもご苦労だった。まだ早春の時期だから、川を渡る旅行客はさぞかし多いのではないか?
いえいえ、リャン様の依頼に応えた以上、優先致しますよ。
では人も連れてきたんで……お先に渡り場へ戻らせてもらいます。
そうだ。さきほど町でちょっとした騒ぎが起こりました。詳細はリーに教えてもらってください。
……騒ぎ?
リャン様も、くれぐれもご注意くださいませ。
ではお先に失礼させてもらいます、あっちは多分人手不足なんで、ささっと戻らないといけませんのでね。
ああ、ご苦労だった。
(水夫が立ち去る)
「争山から尚蜀に入る時、シェンという名の水夫を探せ。」
いやはやたいそうなご人望で、この一言だけで、俺みたいな初めて来たばかりのよそ者を遣わしてくるとはね。
初めて尚蜀に来たわけではないだろ。
シェンさんは何者なんだい?
信用できる水夫ってだけさ。経験豊富な水夫は、なによりも信用できるからな。
そりゃ確かに。
それよりこの者たちは……
(今気づきましたぞ、リャン様って、尚蜀知府のことだったのですか!?)
(もうその反応にも慣れたよ。つまりどういうこと?)
(つまり市長みたいなものですよ!)
(……でも炎国の官職通りなら、ウェイさんよりもずっと低いんじゃないの?)
この二人は俺の……パートナーみたいなもんだ。
お初お目にかかりますリャン様、わたしは楚……
ウユウと申します。
クルースと呼んでください、ロドスアイランド製薬会社からやってきたオペレーターです、今はリーさんのパートナーとして共に行動しています。
でも実際には尚蜀でたまたま会っただけなんです、お邪魔しちゃってごめんなさい。
たまたま?てっきり彼らは君が龍門から連れてきたトランスポーターかと思っていたんだが……
お前が“トランスポーター”って職業を憶えてくれていたのなら、とっくにそいつらをパシリに雇っておけばよかったんだ、俺じゃなくてな。
事情が事情な上、道も遠い、彼らに任せては安心できないのだ。
なら俺に任せれば安心ってか?勘弁してくれ、もし追い剥ぎにでも出くわしちまったら、逃げられなかったかもしれないんだぞ?
そこまで嫌なら、断りの手紙でも返してくれればよかっただろ。
冗談じゃねぇ、あのブツを手に入れてから事態が急変したんだ、お前の手紙が来たと思ったら、あの闇取引連中も龍門へおまけについてきやがったからな。
お前にほかを当たれって返信する時間なんざあると思うか?そのみち調査に入って、ついでに闇取引連中の古巣を駆除するしかないじゃないか?
はぁ、うちの就業員がどれも働き者で助かったよ、おかげでこうしてお前のこの仕事に手を貸してやれたんだからな。
(それってワイフ―さんのことかな……リーさんも大方龍門にいたら仕事が増えると思ってたから、いっそのこと言い訳をつけて抜け出してきたんだろうね……)
お二人がリーのパートナーというのであれば、門のところで呆けてないでどうぞ入ってきてくれ、部屋を用意しよう。
尚蜀知府自らお招き頂けるとは幸いだ、そんじゃお言葉に甘えさせてもらいますよ。
(リーが立ち去る)
さあ、お二人もどうぞ中へ。
……ありがとうございます。
恩人様、ちょうど宿屋を探していたじゃないですか、どうせ落ち合う時刻までまだ早いんですし、いっそここで休まれては如何でしょう?
……うん。
(奇妙な物体が通り過ぎる)
恩人様?
ううん、大丈夫……たぶん疲れたんだと思う。
リーさん、さっき起こったあれだけどリャン様に伝えるの?
……ああ。
この空模様、雲が多いな、こりゃ夜には雨が降りそうだ――
(アーツ音と共に何処かの風景が一瞬リーの脳裏によぎる)
――
……?どうした、リー?
……いや。
ちょいと脳裏に景色が一瞬よぎってな、久しぶりに尚蜀へ来たものだから、懐かしく思っちまったんだろう。
……ドゥお嬢様、どうします?
どうもこうもないでしょ、ジェンにこっぴどく怒られたわよ。
それじゃあ……
あたしが言ったように、あいつらの言うことに全部従うわけにはいかないわ。
従っちゃったら、あたしたちにはもうこれっぽっちの未来も失っちゃうんだから。
あたしの言った通りにして。
わかりました。んじゃみんなにも声をかけます。
うん。
それであの龍門人はどうするんすか?
……あたしが会いに行くわ。
腹を割って話さなきゃならない時だってあるからね。
一杯どうだい?
……遠慮する。あとでまだ仕事があるんでな。
遠路はるばるお前のために盃一杯届けてやったのに、俺のために一杯も傾けてくれないと?
この盃を手に入れるために、こっちはえらく手間がかかったんだぞ。
酒が入ったら仕事がままならなくなる。
酒が入ったら仕事がままならなくなる、ねぇ……
あの時のリャンもよくそれを口にしていたもんだ、今でも相変わらず酒に弱いとはね、いいことを知ったよ。
こちらも同じだ、君も相変わらず遠慮がないな。
行裕旅館の一件ならすでに調査するために人を送っておいたぞ。
そう簡単に解決できそうな一件じゃないぞあれは。事情を知らないのなら、首を突っ込まないほうがいい、シャバでの出来事だからな。
俺が尚蜀を出るまで待ってくれ、そしたらおおよそは解決されるはずだ。
……
それより盃の安否を気にしなくていいのか?ここに来るまでの間ずっとガタついていたんだ、俺が誤ってケツに敷いて割ってしまったとしてもおかしくはないぞ。
君からなにも言い出さなかっただろ、ということは盃は無事のはずだ。
……はは。
そんじゃ拝見させてんもらおうか、龍門からわざわざ運んできたお宝を。
……これが……
気になるんだが、この盃のどこが特別なんだ?密輸入商人どものオークションで売られてた時、こいつの価格は添え物と大して変わんなかったぞ。
唯一気になったところと言えども、闇取引連中の間で囁かれてる噂ぐらいだ、最初にこの盃を見つけた村に伝わってる怪談ってやつ。
話してみてくれ。
噂によるとこの盃、周りの器物に……命を吹き込めるらしい。
……証拠は?
怪談に証拠なんざあったら、それはもう事件だろ?こっちだって耳に聞いただけだよ。
では闇取引の商人たちはどうした?
全員近衛局にぶち込んでやった。
……それは結構。
実を言うと、ほかにも君に頼みたいことがあるんだ。
やっぱりか、俺をわざわざ龍門からこんなところまで呼びつけたんだ、パシリだけで済むはずもないもんな?
だがその前に、ほれ……
……フッ。どうやら一杯付き合わなければ離してくれそうにないな。
では公務を終えた頃にしてくれ、君は相変わらずだな、悠々自適で。
座りな。
その口ぶりからして主人気取りか?
龍門ではどうだ?あっちで個人探偵をやってると聞いたが?
ああ……ワイ・ウーチーの娘も預かってる。
ほう。どうりで私に彼の行方を探してほしい、と急に言い出したわけだ。
それなりにワイフ―の世話を見てきた、あいつの大学の卒業式だって俺が行ったんだぞ、まさか今度よそに嫁いだ時も俺がバージンロードをリードしなきゃならないって言いたいのか?
ワイフ―はいい子だ、だがあいつの親父はロクデナシだよ。
彼の娘は……もうそんなに大きくなったのか。
光陰矢の如しだな、リャン。
……そうだな。
お前が官僚になったって話は聞いた、お前の性格ならきっと存分に本領を発揮して、それなりの実績を積み上げるんだろうな。だが俺たちが疎遠になってからもうこんなに経つなんて、思いもよらなかった。
君も暮らしが順調になったと聞けば、みんなも安心するぞ。
順調ってほどでもないさ、悩みは色々あれど、日常茶飯事に関する悩みがないってだけだ。
……久しぶりに君の手作り料理を食べたくなったな。
お前はもう一都市の地方官なんだからさ、いい加減俺たちが苦労してた昔のことは忘れろ。
そんなことよりも、そういう若い連中の才能を無駄に枯らさないようにしてくれよな。当時のリャンが一番憤りを感じていたことがそれだろ?
……そうだな。
ヘッ、だが助かったよ、お前も相変わらず、女運に巡り合ってないようじゃないか。
尚蜀に来て、お前が世帯を築いたって知っちまったら、俺はどうすりゃ――
……リャン様、お客人ですか?
……
……オホン。
ネイ殿……また後にしてくれ……
――後も何も、俺はただのトランスポーターです、すぐ立ち去りますんで!
(ネイが部屋に入ってくる)
……こんばんは、リャン様、それと……トランスポーターさんも?
……こりゃあどうも、奥さん。
……
(おい、説明しろ。)
(ただの仕事仲間だ。)
(こんな時間に仕事だぁ?)
(ちょうどメシ時だったんだ。)
……あっ。
もしかしてリャン様、私が今晩来ることをお忘れだったのでしょうか?
いや、ただ……
……お二人はどうぞごゆっくり、俺はちょっと用事を思い出したので失礼させてもらいます。
リャン様、ブツならここに置いときますよ、もしまだ俺に用があるんでしたら……あー、そっちの用事が終わったらまた声をかけてください。
待て、リー――
(リーが扉から立ち去る)
……こりゃ流石にやべぇな。
……ウユウ君、ご飯食べに行くだけでしょ、こんな面倒臭いことする必要ある?
適当にどっかで時間を潰せばいいんじゃん?どうせニェンもいないんだし、誰も文句なんか言わないよ……
それはなりません!恩人様、私は昼間のあれで悔恨の念に苛まれるばかりでした、なのでこうしていいご飯処を恩人様のために探してやってるではありませんか。
へぇ……じゃあなんでこんな人っ子一人もないような路地裏に来たわけ?
フッ、恩人様、分かっちゃいませんね、炎国人は誰しも自分のお気に入りの現地のお店ってもんがあるんです、そこで出される料理は、有名どころのレストランとは比較ならないんですよ。
食するは思い出、味わうは感動、それと……
尚蜀に住んでる現地の人でもあるまいし……思い出にあるご飯屋さんなんかないでしょ。
はやくその旅行雑誌を仕舞ってよね。
承知
ウユウ君のそれって四次元ポケットかなにか?なんでいっつも色んな変な本とかが出てくるのさ……
……わざわざ裏路地を行くなんて、もしかして昼間ウチらを襲った人たちをおびき寄せるつもりだったとか?
私たちは知府様の後ろ盾を得たのですから、恐れる必要などありましょうか?
それに彼らもそこら辺のチンピラとうわけでもなさそうですし、向こうが来られるのなら、いっそのこと落ち合う前に、この一件を解決したほうがいいかと……
……大人しく梁府で待機して、それから一番近くにある事務所からオペレーターを呼んでもらって尚蜀と合流することが一番無難なんだけどなぁ……うーん……
あっ、ずっと聞きたかったんですが、ロドスに炎国人はたくさんおられますか?
そう言われてみれば、あんまり多い感じはしないかな、でもどこ行っても炎国人がいるような感じもするんだよね、不思議だなぁ――
ロドス?ロドス……
ああ。
感染者が市内を堂々と歩き回っているとはな?
――恩人様、危ない――
(ウユウがクルースをガタイのいい男性から引き離す)
うわッ――
電光石火の間においてもそのような反応ができるとはな。
実に意外だ。
一体なんの――
――!
(ガタイのいい男性がウユウに近寄る)
ウユウの思考回転速度は早い、動きなら尚更だ、武を極めた者はほとんどがそうである。
だが今回、この大漢の手刀はウユウの動きよりも素早く繰り出され、彼の喉元に宛がわれた。
動くな。
……ウユウ君!手出しちゃダメだよ!
お前は自分の同伴者の身分を分かっているか?彼女が感染者組織の一員であることを分かっているのか?
はは……恩人様、手なんか出せませんよ……
だってこの人は……炎国の官僚なんですから。
奇妙な扇を使用する短兵の者か。武術は極まっているが殺しは経験していないらしいな。
理解していた自分に感謝するがいい。
私たちどこかで会ったような……
ない。
だがあの大理寺少卿(だいりじしょうけい)とお前たちは少なからず関係があるようだ。
……レイズさんのこと?
そうだ!以前行動記録で見たことがある、あなたは……!
粛政院副監察御史(ぎょし)、タイゴウだ。
しゅ、粛政院……!?
感染者、何をしに尚蜀へ来た?
勾呉でなにがあった?なぜあのシーが勝手に山を離れた?
それとロドスはこの一件とどういった関わりがある?
(恩人様、もしかして……シーさんのことを言ってるのでしょうか?)
……
黙秘か。
ロドスに探りを入れる必要ならないですよ、私たちもちゃんと分を弁えていますから……感染者として。
……
けど私たちオペレーターの私生活について聞かれても、お生憎お答えできかねます。
私だって知らないんですから。
……オペレーターだと?
歳獣の化身が一企業の雇用員になるなど、前代未聞だ。
どうやら大理寺はロドスへ怠慢な対応を取ってると見た。
……私たちの後をついてきたんですか?
いいや。
じゃあ私たちを見逃してくれるつもりもないんですね?
そちらが調査に協力してくれるのなら、考えてやらんでもない。
……
タイゴウさん、そんな高圧的な態度を取っちゃダメですってば。
――!
サ公子。
すでに現地の人から少しばかり状況を把握してきました、この方たちは……ロドスと関連ある人たちです、今は尚蜀知府のお客さんでもあります。
確かに彼らは灰斉山の一件と深く関わっていますが、それでも意図的に過ちを犯したわけではありません、とっ捕まえる必要はないかと。
……
申し訳ありません、お二方、タイゴウさんはいつも寡黙なんですけど、今日はなぜか興奮気味でして。
ぼくはサガクと申します、そうですね……宮廷専属のトランスポーターとでもご理解頂ければと。
……ロドスオペレーターの、クルースです。
ロドスオペレーターの、ソ・ウユウです。まだ入職が決まったわけではありませんが。
クルースさん、ウユウさん、お騒がせしましたね。
ただ……先に無礼を働いたのがタイゴウさんとは言え、忠告を一つ。
もしお二人ともあの姉妹と浅からぬ関係にあるのでしたら、関わり合うのもそこまでにしておいたほうがいいですよ。
ニェンは私の友人兼同僚、シーはその友人の妹です。これは“そこまでにしたほうがいい”の範疇に入りますかね?
……そうですねぇ、正直“手遅れ”と言ったほうがいいかもしれません。
ご忠告ありがとうございます。
……フッ。
クルースさんって、結構肝が据わってるんですね。
ではぼくもタイゴウさんもまだ公務がありますので、お先に失礼させて頂きます、ではまた。
ロドスの一件については、梁知府からも粛政院に回答を頂けると幸いだ。
では失礼する。
(タイゴウ達が立ち去る)
……うぅ……
恩人様!大丈夫ですか?
あはは……さっきはビックリしちゃって、足をくじいちゃった、でも大丈夫だよ。
……ウユウ君。
……ええ。
粛政院副監察御史を“トランスポーター”の護衛に務めさせるなんて、ありえない話です。私たちだってバカじゃありませんからね。
それに相手はどうやら勾呉の灰斉山、つまりついこの前私たちが遭遇したあの奇妙な出来事について、完璧に把握している節がありました……
いくらバカでもあの姉妹の正体が非凡であることぐらい分かると思いますが、しかしこれは些か……くっ、予想外です。
……とりあえず梁府に戻ろう。
今はぶらり散策してる場合じゃない、はやく彼女たちと合流しないと……
(奇妙な物体が通り過ぎる)
……ん?
どうされました?
ううん、なんでもない……たぶん小動物か何かだと思う。
……はぁ。
ため息をつくなんてらしくないですね。
……もしくは私が来たことに、機嫌を損ねてしまわれましたか?
そんなことは……
ない。
なにか用か?
用がなければ来てはいけませんか?
……いいや。
一緒に山に行って劇を見に行きたいと思っていますが、いつ頃お暇になられますか?
今はまだ寒い時期だ、それにネイ殿は近頃お身体が不調だと聞いた、山に行くべきではないと思うが。
早春なんてそんなものじゃないですか、むしろ数舟峰の熱いお茶が恋しくなります。
わかった。時間ができたら、一緒に付き合おう。
さっきの方はリャン様のお客人でしたか?あなたはトランスポーターと雑談するような人ではないはずでしたが。
「仕事の邪魔になるから、ブツはそこに置いてくれればいい」と、あなたならそう言うはずですよね?
いや、前半の言葉を言うはずもないでしょう、リャン様は一番礼節を重んじておりますから。
……ネイ殿には誤魔化せんな。
どちらからいらしたんです?
龍門からだ。
まあ遠いこと!あっ……ならせっかく遠路はるばるいらしたんですから、もしかしたらお邪魔してしまいましたか?
そんなことはない、彼はあんなことを気にするような人じゃないさ。
まあ……珍しい、あなたにそう言われる人がいただなんてね?
てっきり誰に対してもつかず離れずの態度を取るのかと思っておりましたよ。
……オホン。そんなことは……
彼は何しにいらしたのですか?
彼には……頼み事があって呼んだんだ。
……
どういったご用件で?
些細なことさ。
千里を遠しとせず、些細なことのためだけに旧友を招くとは思いませんが……
……
言いたくないのであれば、私もこれ以上は聞かないでおきます。
しかし、俗世の万事は細毛の如く多い、もしあれもこれもと持ち込んでは悩み、深く首を突っ込まれてしまわれれば……
いずれ倒れてしまいますよ?
ん?
この客室は確か、リャン様から休憩させて頂くために俺に用意してくれた部屋のはずだが?
招かれてもいないのに入って来たことはともかく、俺のためにお嬢さん自らが茶まで淹れてくれたのはどういうことなんでしょうかね。
これはリャン様のお茶よ、あんたのじゃないわ。
あんたの分も淹れてやったんだから、これで文句なしにしてちょうだい。
ドゥお嬢さんがいらしたということは、まださっきの旅館での続きを?
……当ててみたら?
この梁府から見える景色は実に見事だ、ドゥお嬢さんもあまり大胆な真似には出られないと臣ますがね。
それよりも話してみてくださいよ、ここへ何しに来たんですか?
余裕綽々ね、まだアタシと話す気力があるなんて。
茶まで淹れてもらいましたからね。
……いいわよ。
単刀直入に言うわ、ここに来たのは、あんたに手伝ってもらうためよ。
いいですよ。
へ?
おっかしいわね、あんたがそう簡単に人を信用するとは思えないんだけど、どういう風の吹き回し?
あのリャンがあなたの侵入を許可したんだ、疑うも何もないですよ。
彼とはお知り合いなんで?
……年下の者としてリャン様に入れてもらえるようお願いしただけよ。うちの父親とここはいい関係にあるから。
なるほど。
この前会った時、アタシはあんたのブツを奪おうとしてたのよ。
あれはリャン様のブツだ、俺のじゃありませんよ。
面倒事なら彼に任せまてましてね、そういう俺は……それに対応するだけです。
……本当にアタシを信じてくれるの?
お嬢さん一人の恨みを根に持ち続ける必要なんかあると思います?
はぁ、誰だって若気の至りってもんぐらいありますよ、みんな怖い顔をして自分を強く見せようとする、自分のメンツのためにね。
――め、メンツなんてどうでもいいけど!?あれはただ――
店主さんに怒られたんじゃないんですか?
……フンッ。
あんたってば、本当におっかない人ね。
飄々として、我関せずって感じに見えるけど、実際は何を考えてるのかさっぱり分からない――そういう人が、一番おっかないわ。
だとしても初対面の人に椅子なんか蹴り飛ばすことはしませんけどね。
……
話してみてくださいよ。取引ってのは、誠意が必要ですから。
ジェン総支配人……父さんは朝廷の者から依頼を受けた、あんたが持ってる盃を奪えって。
だろうとは思ってましたよ、けどさっきまではそっち側についてたのに、なんでまた考えが変ったんです?
全部は言えないけど、ただ、父さんの目論見を阻止したの。
それで?
ことの経緯を教えないと、アタシを信じてくれないのかしら?
答えが分かりきってる問題を改めて聞く必要はないさ、そのほうは思慮深く見えますからね。
もし阻止できたら、アタシに分がどれだけあったとしても、父さんはその功績をアタシのものとして認めてくれる。
鏢局は敵が多い上に、ライバルも多い。なにより今の世の中はトランスポーター業のほうが盛んになってる、鏢局は規模がデカいからと言って、今でも古い掟を保とうとしている、それだと時代に取り残されて、いずれは淘汰されてしまうわ。
だから父さんはいつもアタシに言うの、身を慎めって。
ただの金持ちのボンボンとして、毎日遊びに耽るフリをすれば、アタシに注がれる目も少なくなってくる。
それから、アタシが密かに朝廷の依頼をいくつかこなしていけば、コネもできるし、部下たちも納得させられる。
そうすれば、父さんも安心して家業をアタシに譲ってくれるわ。
総支配人にも総支配人なりの計画があるでしょうよ。
でもその計画にアタシは入っていないわ。
鏢局を継ぐドゥ・ヤオイェーにしかり、毎日ダラダラ過ごすドゥお嬢様にしかり、どっちともアタシがそうなるように周りから望まれてことなのよ。
つまりこの機を借りてジェン総支配人に責任を背負わせ、自分がその新しい総支配人の席につくようにすると?
そうとも言えるしそうとも言えない。
朝廷が鏢局に依頼するなんてことは滅多にない、だからもしこの依頼がコケたら、父さんが鏢局をアタシに譲る可能性は万に一つもなくなってしまう。
多くの若い連中は、みんなアタシに新しい道を見出してくれることを望んでいる。だからあいつらに言ったのよ、もし父さんのこの案件がおじゃんになったら、鏢局は自ずアタシたち若者の言いなりになるって。
けど親父さんから引き継ぐのを大人しく待った結果も同じなんじゃないですか?
まったく違うわよ。もしそうだとしたらただ従うことになるだけだわ、引き継いでしまったら、アタシは必ずしきたりや掟には逆らえなくなる。
その“しきたり”はアタシの父さんだけとは限らないからね。
それで俺のところに来たと……あー、その手伝いって、要は俺と一芝居打つってことですかい?
そうよ。
ドゥ・ヤオイェーってのは……お嬢さんのお名前ですよね?
な、なによ?
静かなる杪秋の遥夜、心は繚悷して哀しむ。遥夜(ヤオイェー)遥夜、遥遥たる長夜か、いい名前だ。
お生憎様、アタシは夕方時のほうが好きよ。
……取引ってもんですから、そちらは俺になにをくれるんです?
あんたが持ってるブツを欲しがってる人がいるわ、その人は朝廷の人だけど、あんたは渡さなかった。それがどういう意味だか分かる?
そう言われても俺の友人からは渡せとは言われてないんでね、その友人はまさしく朝廷に仕える者ですけど?
リャン様がわざわざあんたを呼びつけたのは、別件もあったからなんでしょ?
別件つっても大した用事じゃないですよ。
まあどうでもいいわ、こっちは興味ないし。ただこの事情を知ったからには、そっちが何をしようが、もう自分は関係ないって顔をしないことね。
それでアタシなんだけど、あんたの助っ人になってあげる。せめてあんたが無事龍門まで帰れるようにしてあげるわ。
……そりゃごもっともで。
そんじゃあ取引成立ってことでいいですね。
……ええ。
ふふ、あんたってアタシが想像してたよりも話が通じるじゃない。
安心しなさい、アタシは確かにあの総支配人の席には座りたくないけど、今時の若い連中の多くは年配たちに少なからず不満を抱いているから、みんなアタシの言うことに従ってくれるわ。
……口では鏢局を引き継ぎたくないって言ってるけど、やってることはそれと同じじゃないですか?
……世代が違うってだけよ。
そりゃ確かに。
なーんかまだ何かひた隠してる気がしなくもないけど、まあいいわ、これ以上ここにいれば、見つかった際面倒なことになるわ。
……えっと……
リーと申します。
――そう、ならリー、また会いましょう!
……あの店主さん、優しい見た目してるのに、あんなじゃじゃ馬娘がいたとは……
……
(回想)
……リーおじさん。
ん?
リャンさんのところに行くんですか?
……ああ。やれやれ、あんな遠いところまで行きたくはないんだけどな……
それでその……
お前の親父さんのことなら、頭の隅に入れておくよ。
運がよかったら、連れ戻してくるさ。
……はい。
ありがとうございます。
……はぁ、よせよ、それにあんま期待するんじゃないぞ。
炎国はだだっ広いんだ、見つかりたくない人を見つけるなんざ、至難の技だよ。
……
……ワイフ―。
お前も知ってると思うが、仮にそいつを見つけ出してあれこれ今までの文句をつけるにしても、今までの恨みを全部チャラにしてそいつに甘えようとするにしても、どっちもお前が探しに行かなくちゃならないことなんだ。
お前があのイカレた親父の背中を追いかけなきゃ、そいつは振り向いちゃくれない、そういう人だからな。
……
俺はしばらく尚蜀に泊まる。もしあいつの知らせが入ったら、お前にも教えるよ。
そっちがもし……決心がついたのなら、俺のところに来な。
私は……
わかりました。
……はぁ。
リャンの野郎、用事があるなら一声かけろよな、客をこんなところにほったらかしにしやがって……
うーん……茶はまあまあだな、だがこの急須はいい。実に……いい急須だ。
……ん……筆と硯か……古風な客室だな。リャンのセンスも趣味も相変わらずか。
(あくび)
……うぅん。舟と車に揺られまくって、疲れちまった。
今のうちに少しだけ休むとするか、あれやこれやと頼む込まれて、疲れ果てちまったよ――
――
――ここは?
ガウ……