「尚蜀の山には桟道多し、峰の戻り道は霧に包まれたり。」
と言った具合でこの標識は高々とここに突き刺さってる、標識は新しいし、字もまだ新しい、だが言葉がちと古いな。
それに山も、石階段も古い、だがケーブルも人も、どれも今時のもんだ。
俺は頭をかいたが、思ってたのよりもぐちゃぐちゃに湿っちゃいなかった。言葉では言い表せられないこの感じはまるで頭に水を被ったかのように、とてもすっきりとしていた。
どんなはっきりと憶えてる昼間に関する記憶もすぐさま遠のいていく、だが必要とした時、そいつらはまたご親切にも頭の中に戻ってきてくれる。
俺は登ることに決めた。
なぜ登るのかは知らない。今踏み出した左足がたとえ石ではなく空を踏むことになろうが、俺は一歩一歩この階段を登ると決めた。
まるでそんな誠意に応えてくれたかのように、桟道の曲がり角にまた標識が現れた。
新しい看板、新しい文字、某ここに遊ぶと落書きされたどの景勝地の看板と同じように。
“攥江峰”と書かれていた。

攥江峰……どこだここ?

おーい――誰かいないのか――

……

おーい……誰かいないのか……

……まあいいや、来ちまったもんは仕方ない、じっくり回るとするか。

(……遠くに庵があるようだな。)

(おかしい、どこかで見たことがあるような……)

ここに人が来るなんて珍しい、あの庵のところに行きたいのかしら?

あっ、いや……ちょっと見てただけだ。

ここは……

攥江峰よ。

尚蜀にある三十七峰の一つなのか?

……十八峰よ。

あの庵までの道は険しいわよ、一体どこの暇人なのかしらね、あんなところに庵を建てるなんて。

……使ってる人がいるのか?

そりゃいるわよ、じゃなきゃあんなところに庵なんか建てないわ。

君はここで雪かきしてるのかい?

そうよ。

山頂には人なんかいないはずだよな?

雪かきしたら人が来るわよ。

誰が来るんだい?

さあね、でもあなたは来たでしょ?

庵であなたに手を振ってる人がいるように見えるわよ?

……いるのか?

足元には気を付けてね。

雪が降った日はよく滑るから。

……全員揃った?

ええ。

上からは止められてますけどね、総支配人も毎日旅館の接客で忙しそうにしてますが、無駄メシ食ってダラダラと過ごす気がないヤツらなら、全員ここにいますよ。

本当にジェ……ジェン総支配人の言うことを、過ぎたマネはするなって言われたことを無視していいんですか?

あ?言うことを聞くってか?言うこと聞いた連中ならみんな足を洗ってコックになっちまったよ、習った武術も今頃腐らせてやがるぜ。

ほかの場所の物流会社で、今時どこもかしこも繁盛してるだろ?総支配人は旅館を開いてでもあの規則を破ることはしねぇし、物流会社との競争にも乗り出そうとはしねぇんだ、ありゃもう絶対ボケてるとしか思えないぜ。

ジェン総支配人から見たら、飲食業だって真っ当な商売だ、でも今の看板を潰してまで行裕の名に物流を加えることは、絶対に許しちゃくれないんだろうな……

なんであんな風になっちまったんだろうな?

俺に聞くな、分かるわけないだろ。

ジェンがここ最近面倒事を恐れてる、それは周知の事実ね。長年鏢局をやってて、歳をとってからやっと気づいたのよ、残りの人生はずっと人から恨みを買われるって。

このまま続ければ、鏢局の看板を潰そうとする人が現れなくとも、どのみち鏢局はおしまいよ。

……でも今回のは、朝廷が関わってるデカい仕事なんすよね?わざと台無しにしちゃ、まずくないすか?

でかい仕事だからそうするのよ、それぐらいちゃんと解ってるから。

泥棒だ!捕まえろッ!!

そいつを逃がすなッ!!

えっとぉ……ドゥお嬢様、これもお嬢が仕掛けたことなんすか?

……そんなわけないでしょ!さっさと様子を見に行くわよ!

あなたのご友人ですけど、寝てしまったようですね。

……もういい時間だからな。

ちょっと話し込んだだけでこんな時間になっちゃいましたものね?

……じゃあ劇のほうは?

それはまた今度話そう、君も安静にしてくれ、なるべき外出は控えたほうがいい。

しっかり身体を養いたまえ。

身体の調子を心配するよりも大事なことって時々あるじゃないですか、だからわざわざ伺いに来たのですよ。

……劇を見に行くことがか?

そうです。

しかし私にはまだ公務がある、付き合ってあげる時間はそうそうないんだ。

私は遊んでばかりいる暇人だとリャン様はそう仰りたいのですか?

そんなことはない。

泥棒だ!捕まえろ!!

む……泥棒だと?

珍しい、ここ梁府に入ってくる賊がいるとはね?

君は部屋に戻っててくれ、私が様子を見に行こう。

……
(リャンが駆け寄る)

何事だ?

おお、リャン様、私もつい来たばかりでして……

……君たちはリーの客、であれば私の客でもある。驚かせてしまって申し訳ない。

りゃ、リャン様、つい先ほど仕事終わりに家へ帰ろうとしたんですが、壁に人影を見かけまして……

人影?

は、はい、それになんだか箱を抱えていたようにも……

……!

リーの部屋に行くんだ、はやく!

さっきの雪かきしてたお嬢さんの言ってた通り、確かに険しい道だ。しかもこんな苦労して登ってきたっていうのに、肝心な人は逆に見当たらなくなっちまったじゃないか。

おーい、まだいるか――?
いるよ。

……ここは一体どこなんだ?
行山止境、言い換えれば、山頂さ。

俺を呼んで何の用だ?
呼んだのはそっちのほうじゃないか。

俺?

……俺……

……そうだ。

お前を呼んだのは……思い出話がしたいと思ったからだったな。
一局、象棋はどうだい?

……いやいい、駆け引きがない、なら楽しめるはずもないだろ。
見下されたものだね。
それじゃ酒目当てに来たのかな?

お前にプレゼントを持ってきてやっただけさ、つまらない物だけどな。
数十年ぶりだから礼などは些細なものでいいよ、それよりも気持ちのほうが大事だからね。

数十年なんて、須臾にすぎんさ。
……これは?

黒と色の一対、光影相生、陰陽調和って感じだろ。

好きなほうを選んでくれ、残ったヤツは俺がとっとく。
うーん。

どうした?お気に召さなかったか?
貴君はほかの者を、さらにはほかの兄弟と姉妹たちを欺けられてきたが、私を誤魔化すことはできないよ。
貴君は……
すべてがしくじってしまうことが怖くないのかい?

怖いさ、だが怖くもない。

それに、こっちも仕方がなかっただけなんだ――
――
――リー!
リー――!

――!

うぅ……さっきのは……夢か?

大丈夫か?

まだうたた寝しただけで心配されるような歳じゃないさ……それよりどうした?

……リー殿、さきほど賊の目撃があったらしいんです、あなたが持っていた箱を同じようなものを持って壁伝いに逃げていったと……

箱はまだあるか?

あの盃のことか……心配すんな、ここにある。

一体どうやって……

箱に入ってるのは俺がさっきついでに棚から拝借した普通の急須だ、墨で真っ黒に塗ってやったよ。

こいつを狙ってる人が明らかにいる状況のくせに注意を払わないほど俺もバカじゃないさ。

やはりリーさんはクルース殿が言ってた通りですな、巧妙聡明、隙も漏れも決して出さない。

……

リャン様よ。

こんな骨董品の盃一杯のためだけに一都市の知府にケンカを売ったんだ、もし世の中の泥棒連中がみんなこんな態度じゃ、天下の近衛局は鴨が葱を背負って来るのを待つだけで済むようになる。

こいつは一体なんなんだ?

それはいずれ必ず教える。

君に頼みたい別件もそれと関連している。

この盃の持ち主を探し出してほしい。

……そうかい。そりゃ確かに探偵頼りの仕事だな。

だがその前に……ウユウさん、クルースさんはどちらに?

えっ……ま、まさか追いかけていったのか!?

私が見に行きます!
(クルースの走る足音)

……

(追いかけたらこんなところまで来ちゃった……それにしてもここの夜市、賑やかすぎない?)

(おかげで見失っちゃったし。)

(とりあえず方向を絞って探してみるか……)
(クルースとドゥ嬢がぶつかる)

あっ、ごめんなさ――

――あんた、昼間の――

……

……もしかしてアタシが“関係ない”って言ってももう無駄になるのかしら?

まだ何も言ってないんだけど。

考えてみたら分かると思うよ、尚蜀につくなり、自分の知り合いが強奪される場面に遭遇しちゃったんだ、しかも二回連続で、それがたまたまって言われても信じれる?

まあ少しぐらいの言い訳なら聞いてあげてもいいけど。

フンッ。

なら沈黙は金なり、喋ったほうが損するってことなるわね!

俺はこっちに行きますんで、ウユウさんはそっちをお願いします。

わかりました!頼みます。

ちょいとお待ちを、ウユウさん。

なんでしょう?

その……足元にあるのはなんです?

え?なにもありあませんが?

……

……まだ寝ぼけてるみたいだ、大方ペットかなんかだったんでしょう。

行きましょう。

……






