私が生まれたところは今ある尚蜀から百里も離れた村だった、まさに桃源郷といったような村だった。
村から遠くを眺めれば、山が見える。山と山は一本の線に連なり、その線は辺りの地を囲って、そこを尚蜀と呼んでいた。
とても幼かった頃、山で天災が起こった。山は大きかったが、雲はさらに大きかった。
天災トランスポーターの迅速な行動のおかげで、私たちは避難ができた。その時、空に火花がチカチカと煌めいているのが見えた。
みんな理解していたのだ、この嵐が過ぎれば、尚蜀の地は見るも無残な姿になるんだと。
あの時の私はとても幼かった。大人たちの揺れる背中、そして強張った笑顔、私が唯一覚えているのがそれらだけだった。
救援部隊もすぐさま到着してくれたが、みんな分かっていた、家も田んぼも列をなした果物の木も、嵐の中で消え果てしまうのだと。
その頃、私たちはある山頂を通り過ぎた。
その山頂には庵があって、そこには人が、酔っ払った人がいるのを、私はこの目で確かに見たのだ。
彼女は天に向けて乾杯していた。
庵の中で酩酊していた。
だが救援部隊は歩を止めなかったし、傍にいる大人たちもまるで彼女が見えていないようだった。
……黒の盃。
あの時、あの人が使っていたのと同じ盃なのだろうか……
……
……リー殿。
(使用人が駆け寄ってくる)
はい!なんのご用でしょうか?
さきほどいらしたお客人だが、顔は憶えたか?
はい……あれほど体格のよいフォルテのお方だったので、憶えていないほうが難しいですよ。
……では点心を二籠ほど持って行って、ネイ殿の様子を見に行ってくれ。
もしネイ殿のところでそのフォルテの人を見かけたら……戻って私に報告するように。
かしこまりました、しかしなぜご自身で――あっ……申し訳ございません、失礼しました、今すぐ向かいますね。
(使用人が立ち去る)
……
恩人様、道を聞いてまいりました。このままこの山道を進めば、合流場所につくとのことです。
しかし万が一誰もいなかった場合、どうされますか?
それだったら梁府に戻ってリーさんを探すしかないね、リャン知府からちょうど盃の持ち主の捜索を依頼されてるらしいし、私たちも手伝ってあげよう。
……仮にあのドゥ殿の言ってた、盃を手に入れようとしてる人の話が本当だったとしたら……あのリャン知府が知らないはずがありましょうか?
しかし仮に今回の一件が最初からすべて仕込まれていた謀だったとしても、リャン知府もあんな面倒をかけてまで大芝居を打つ必要などあるのでしょうかね?
たぶん私たちはもう会ってるかもしれないね、その盃を手に入れようとしてる人と。
……あのトランスポーターを自称してる少年のことでしょうか?
あはは……ここにドクターがいてくれれば、こういった頭を動かすことは全部任せられたのになー。
はぁ……フカフカのベッドが恋しいよ。
はぁ、私たちはどうしてこんな出来事に巻き込まれてしまったのでしょう……
……そろそろ行こっか、お茶飲んじゃおう。
……うーん……
ここら辺だと思うんだけど……
お湯が通りますよ、どいたどいた――
うわぁッ!気を付けろ!
(そそっかしい従業員と旅でやつれた女性がぶつかる)
(レム・ビリトン語)――ちょっと!なんでよりによって私のところに……
……あら?
……手紙?さっきぶつかった時に落したのかしら……?
……時間過ぎちゃったけど、やっぱり来てないね。
どうします?ラヴァ殿が事務所に到着したのかどうかもまだ分かっていませんし……
……
もう少しだけ待ってみます?
……はぁ。
だったら先にリーさんと合流しに――ん?
ガァッ――!
……墨魎!?
待て待て、なんでここにいるんだ、こいつらはあの絵から自由に出入りできたのでしょうか?
さあ……
よしよし、君はどこから来たんだい?ご主人様は?
ガブッ!
痛ッ、なんで急に噛みつくんだ、こら放せ、放せったら!
(アーツ音)
あなたがその子を怒らせたからでしょうが。
ヤオ、そこまでにして。
いッッッたい!
シーさん!
道中ちょっとあってね、ひとまずこういう形で合流させてちょうだい。
ちょっとあったって何が……?
考えても無駄よ、あなたたちじゃ微力にもなれないから。
尚蜀で灰斉山を調べていた朝廷の使者にあったよ私たち……確か司歳台って言ってたっけ。
チッ……ニェンが私のところに来たのなら、てっきり準備はもう済んでると思ってたのに……
もうあいつが何を言おうが期待を抱くのはやめるわ。
それで、もうやったの?
いえ……はは、それがまったく敵う見込みがなくて。
あなたたち姉妹のことを言ってたよ、でもしばらくは深追いするつもりはないみたい。
ほかにも任務があったから、彼らは尚蜀に来たらしいよ。
……それ知らないわ、どういう任務なの?
黒い盃を追ってるとかどうとか。
……黒い、盃。
それで私たちはリーという方と一緒にその盃の持ち主を探している最中なんです、その盃にはある模様が記されていまして……ニェン殿がラヴァ殿にあげたアレととてもよく似た模様でした。
……フッ。
盃ね……どうりでなんか違和感を覚えると思ったわ、もし間違っていなければ、その盃の持ち主はきっと……
もし彼女を見つけられるのならかなり助かるわ。少なくとも、あのニェンも多少は静かになってくれる。
おいシー!はやく出てこい!あの爺さんウザったいったらありゃしないぜ、さっさと交代しろ!
えっと、これニェンさんの声?
……聞き違いでしょ。
天に洪炉あり――
わ、私たち、そろそろ失礼したほうがいいのでは?
……その盃の持ち主を探してるって、あなたたちさっき言ったわよね。
なら朝廷より一足先に彼女を探し出して、ついでに説得してちょうだい、できればこっちに手を貸すようにね。
せめて私たちが尚蜀に着くまで時間を稼いでおいて、絶対に司歳台に彼女を渡すんじゃないわよ。
じゃあ任せたから
……!
……あれ、戻って来た……?
恩人様、シー殿のあの術、やっぱりいつ見ても便利ですね。
あれどうせアーツじゃないんだから、習得したいって考えても無駄だからやめたほうがいいよ。
……まあ確かに便利だけど。
……庵だって?
あなたみたいな歩荷なら毎日山を何度も昇り降りしてるものですんで、この山のことも自分ん家の庭みたいに熟知してるんじゃないですかね。
なら単刀直入に教えてやるよ、ここ十七峰で、昔に建てられたヤツとつい最近修繕されたヤツを加えれば、数えきれない庵があるんだ。
そのうちの一つを探すとなりゃ、いつまでかかるものやら。
けどあなたなら見つけられますよね。
面倒だ、こっちだって報酬あっての仕事なんでな……
ただ働きしてくれる人なんざこの世にはいねぇよ。
ごもっとも、だからこれは先払いです……
(リーが歩荷に金銭を手渡す)
……龍門人か?
ええ。それでなんとお呼びすれば?
……ショウだ。和尚のショウだ。
でどう手伝ってやればいいんだ?道案内か?それともそれらしい場所を見つけたら教えるとか?
時間が惜しい、手分けして探してもらえると助かるんですがね。
……お前みたいなよそ者と、その舟漕ぎの二人でか?
私はずっと舟を漕いでいたから、ここら辺もまあ知り尽くしているさ。
川と丘は違うだろ。
だが同じ尚蜀だ。
……
……別離峰、梓雲峰、それと青鑾峰は探さなくていい。あの三つの峰は昔ついでとして十七峰に加えられただけだからな、そこら辺の丘と大差ねぇ。
わかった、それで俺たちはいま重点的にこの取江峰で庵を探し回っているんです。
すいませんが日没までに、手がかりなり何なり教えてくれると助かるんですがね……山間の村になんか有名な酒屋とかがあったら特に。
酒屋?
庵にいたら誰だってお酒をグイッといっちゃうじゃないですか?特に俗世を離れてる人ならなおさら。
……周りにも聞いてみよう。
助かります。
じゃあ午後六時ごろ、そこの茶屋で落ち合おう。
わかりました。
……じゃあまた後でな。
(歩荷が立ち去る)
無鉄砲だな、そこら辺の人に依頼するとは、騙されたらどうする?
俺は探偵ですからね、いつだってリスクは背負わなきゃならないもんなんです。
あの歩荷、信用できるのか?
ギリギリですかね。さっき彼が行った先々で挨拶を交わしていた店がチラホラありました、ってことは人脈はあるってことです。
あんな小遣いのためだけに俺みたいなよそ者を騙すような歩荷があんな人脈を持ってるはずもない。
行き当たりばったりな人に頼むよりはマシでしょうよ。
それもそうだな……では私たちはどうする?行く宛てはあるのか?
知府様によってこの地に雁字搦めにされているにも関わらず、まったく見つかりっこがないのなら、こんな山にある普通の村で見つかるはずもない。
つまりこの盃にワケがあるってことだ。
加えて……何者かがこの由来不明の盃を奪おうとしている、ということはこの盃が重要なアイテムで間違いない。
シェンさん、もしまたあの夜の盗人に出くわしたら、二人で力を合わせたら撃退できそうですかね?
はぁ、私はかれこれ舟を漕ぎ続けて数十年になる、唯一の心配事と言えばせいぜい孫たちの学業だけだ、だからケンカならしたことはない、仮に出くわしてしまえば、私じゃ足手纏いになるだけだ。
それなら私は大人しく道案内に徹するさ、もし不安なら、早めにリャン様からボディーガードを二人ぐらい手配してもらったほうがいいぞ。
またまた、実はかなりの腕利きなんじゃないですか?
もう何十年も舟漕ぎ続けてきたただの水夫だ、期待はするな。
私たちがぐるっと山を巡ってる間に、もし獣が出てきたら、数匹程度なら守ってやれなくもないが……
そんなお前を襲ってきそうな獣までもいなくなってしまったよ、ここ数年の都市開発のせいでな。
……確かに獣はあんまり見ませんね、でも尚蜀には……背中に金属の皿みたいなものを背負った生き物がいませんか?
……なんだそりゃ?
さあ。
そんなのどこで見たんだ?
それは……
ガウ……?
今目の前に。
なっ……こ、これは……
ガウッ!
あっ、逃げちまった……
……ビックリさせてしまったな。
おい。
……なにか?
盃はお前が持ってるんだろ?
俺たちはジェン総支配人の者だ、総支配人はこの村にも飯屋を営んでいてな、昼飯を奢ってやりたいんだとよ。
……
……逃げるぞ!
マジでお嬢と総支配人がなにを考えてるのかさっぱりだぜ。なんでこんな面倒臭いことを任せてきやがったんだ……
ブツを奪ったら、奪われないようにブツを守って、おまけに雇い主を止めろって……ん?
おい、起きろ、見てみろよあっち……
……
……
……
……ちょいとそこの、待ってくれ!
……お兄さん、なにか用ですか?
えっとぉ……そのぉ……観光しに来た者なんだけどよ、財布を失くしちまってな、ここのことはよくわかんないし、ちょっと手を貸してくれないか?
……皆さんお揃いで財布を失くされたのですか?
そ、そうなんだよ、えっと……一人一人リュックなんざ背負ってるのがバカらしくてさ、みんなカメラとか財布とかを同じリュックに入れたんだが、それを失くしちまってな。
だからお願いなんだが、俺たちに代わって山の麓にあるホテルで警察を呼んできてほしいんだ、帰ってきたら絶対お礼するからさ、マジで頼むよ。
……
もうこんなに空が暗くなっちゃった……日が暮れるの早いね。
ウユウ君、梁府ってどうやって行くんだったっけ?
……こっちです、恩人様。
尚蜀の街並みはどこもかしこも栄えていますね、それに高いビルに登れば山々と夜市を見下ろせる、実に風情がある町だ。
……勾呉とは、まったく景色が違うものですな。
そうだね。景色はきれいだし、一望もできるし。それにしても、風に混じって鉄の匂いがするね。
君もそう思わない?
(サガクが近寄ってくる)
ぼくの剣は随分と長いあいだ鞘から抜かれていないんで、錆びていないはずですよ?
私たちになんか用?
ええ……干渉し過ぎたんで、ロドスは。
……じゃあ私たちのことはもう調べがついているよね?
クルースさんに一つ炎国の言葉を教えましょう、“天網恢恢”って言葉です。
種族不問、出身不問、貧富も不問、感染者であれば分け隔てず、その者たちの救護に全力を尽くす医療会社――
――この世にある最も清廉な天岳の湧泉も、ロドスほどではないのでしょうね。
……恐縮でーす。
あっ……でも誤解しないでください、別にお二人を脅してるわけではありません。
もしロドスが怪しい組織であれば、おそらく今頃、お二人は牢屋に入れられているはずですからね。
ですので、この状況下において、お二人には是非とも“誠意”をもって対応して頂きたい。
それって君たちに“ありがとう”って言わなきゃならないのかな?
いくらなんでも感染者が堂々と街中をうろちょろするのは見過ごせません、周囲の安全にも関わりますので。
少し場所を変えましょうか。
……
(どうします?恩人様、この人明らかになにか企んでいますよ。)
(どうだろうね、それに今こっちに選択肢なんてないよ……)
いいよ、場所を変えよう。
わかりました、ではお二人はかなりの実力の持ち主とお見受けしましたので、十五分後、北にある五紡閣でお待ちしています。
……あれって軽功っていう君たち炎国の武術だよね?
そんな感じです。ただ当然ながら、あの人の腕前は一般人のそれとは違うことぐらいは見れば分かるかと。
……いや、正直に言ってかなりの腕前です。
君がそんな顔を引きつるなんて珍しいね。
あはは、なにを仰いますか、私はいつだって顔を引きつるほど厳粛に自分を律しているのですよ?
彼があの歳であんな身のこなし方をしているということは……控えめに言ってもかなりの才能の持ち主なのでしょう。ですので、あまり一般人として考えないほうがよいかと。
それに、あの大柄のフォルテの大官人が彼のボディーガードとして仕えているのですから、十中八九ただのハンサムボーイではないはずです。
彼らは明らかにニェンさんとシーさんのことを知っていた、ならリーさんのこともきっと知っているはず。
シーさん言ってた……私たちが先にあの盃の持ち主を見つけなきゃならないって……
でも勝手に炎国の政府といざこざを起こしちゃったら、絶対帰りにアーミヤちゃんのお叱りを貰っちゃうよ……
はぁ、ドクターがいればなぁ……全部ドクターに任せっきりにするわけにもいかないけどさぁ……