“大地”。
この言葉は、その狭隘さによって広まった。
いつか古の時代、天地にあるすべてを、また我々の暮らしに及ぶすべてを形容する言葉が、我々の言語にあったのではなかろうか?
その偉大なる言葉は天と地と、内陸諸国の多くが知らぬ広大なる海を含めていた……口を開けば、一つの単語で、幾億年もの生命の過程を表すことができたのではなかろうか?
その言葉は、人の思考のどこに存在しているのだろうね、ケルシー?

あなたならご存じのはずでは?

色々と知ってるさ、だが日々それを繰り返していけば、人は未知から逃れられぬというものよ、未知は人類を永遠に苦しめるものだからね。

……

……(古いサルカズ語)“世界”。

ほう、てっきり……(サルゴン語)“世界”を言うと思ったよ。

それはサルカズの言葉かな?

そうだ。

ふむ、医者を謳うフェリーンが、まず最初に魔族の言葉を用いたとはな、珍しい。

君という存在は海の上を漂う雲のようで、実に変幻自在だ。

それによって言語が性質を変えることは無い。

言語か……見たまえ、ケルシー、この井戸を。

如何にしてここから淡水を汲み取るか知っているかね?またイベリア人が如何にしてこの紺碧な礎石を用いて家屋を建てるか知っているかね?

仮にかつてのイベリアの貴族が傲慢で頭をやられていなければ、海の勢力もイベリアを崩れることのない城塞へと造り替えていたことでしょう。

この井戸は深い、それにここは海からも近い。

見たまえ、まだ井戸は枯れていない、しかも偽りの太陽をも映している。

そろそろ先を急いだほうが。
老人は答えない。彼は静かに地面から小石を拾い上げる。
取るに足らない至極普通の小石。弄ぶ価値もなく、しかし老人はまるで海風が残した感触を覚えたかのように、井戸の底を覗いていた。
ケルシーも問い詰めなかった、目の前にいる老人が答えるのを待っていたのだ。彼女は流れゆく雲を見やる、風は大きい。

焦ることはないさ、ケルシー、焦ることはない。私たちにはまだ憩う時間がたんまりとある……君がどんな先手を打っていようがね。

ここに石を投げ入れれば、どれぐらい経てば水音が聞こえてくるのだろうか?

56秒だ。

イベリアのどんな素朴な住民とて海をどう利用すればよいか分かっているさ、この井戸の深さがその叡智を表しているのだよ。

しかし今では、ヴィクトリア人の農夫やクルビアの労働者とて、海の全貌すら知り得ていないはずだ。

ふむ……ケルシーよ、今に至るまで、私は君にいくつ質問をした?
老人は小石を握る腕を上げ、そして指を開き、小石を落した。
小石を見つめる二人。そしてすぐに、小石は陽の光が届かない深くへと落ちいき、視界から消えた。
二秒、あるは三秒と、静寂が二人を包む。風もこの時ばかりは鳴りを潜めた。
ケルシーは思う、静寂、なんたる静寂か。
“ポチャン”。
か細い音が井戸の底から響いてきた。短く、しかし数秒もの間、この大地はかように静かだったのかと、まるで二人を気付かせる。

123個だ、なんとも縁のある数字だな。

123個の問い、そして123年もの歳月。今の裁判所には……もはや私よりも年長の審問官はいないさ。

ほとんどは戦死し、あるいは天寿を全うした、またあるいは果ての見えぬ苦痛で弱さに負けたのかもしれないね、その場合はロクな末路を辿らない。

イベリアのすべてを私は身を以て知った。帆を揚げる艦隊、そして声を震え上がらせるイベリアの使節たち。

大いなる静謐はそのすべてを滅ぼした、まるで夢に覚めたかのように。イベリア人はみな、今もなお災いへの憎しみと夢を打ち破られた茫然の中に沈んでいる。

リーベリは比較的長寿な種族ではない、いくらリーベリの神民、その健康な長寿者たちとて、今日のイベリアが受けた厄災を受け入れることはできない。

それゆえにあなたの寿命はまさに奇跡だ。裁判所の創り上げし奇跡が、あなたに前代未聞の使命感を賜ったのだろう。

あの思想と栄誉が堕ち始めた時代、あなたとあの裁判所の初期メンバーはみな、“聖徒”という尊称を与えられていた。

“聖徒”、その称号はかつて人々を導くための薪としてあったが……今ではただの灰燼よ。

123回も移り変わった春夏秋冬だが、ただ冬だけが私に痕跡を残すだけのようだった。私は真実を多く見てきた、しかし春の様子だけがどうしても思い出せない。

……ケルシーよ。

なんだ。
老人の目つきが変わる。
信念とは言葉であり、祈祷とは道なのだ。イベリアという国、ありは国という枠組みから超えた一個人が、今は自分の顎を撫でながら、風の速度は測っていた。

今日まで、私は123年もの歳月を経てきた。そして私がかつて会得した真諦を123個をも君に問いかけた。

だが君はそのすべてを答えた。私の知るすべてを君も知っているかのように。

人類は今もなお前進している。神秘も続々と湧き上がってくるが、知識は“既知”という名の壁を超えることはできない。

我々が抗っているのは、そんな壁の向こう側にある、仄暗い黒い森だ。

しかし君はどうなのかね、ケルシー。君はその壁のこちら側にいるのかね……それとも森の果てにいるのかね?

好きなように解釈して頂ければ。

フッ、ふふふ……その森にどれくらいの葉がついていることも知っているということか、実に恐ろしい女だ。

今でもなおイベリアの聖徒は人の為せる果てにある頂だ、疑う必要もない。だが君はそんな範疇すら超えている、だから君はただの常人ではない。

もしかすればある種の特殊なアーツで寿命を延ばしているのかもしれないし、古の身分を引き継いでいるのかもしれない、またあるいは、大いなる望みを誓い立てた魂が内に秘められているのかもしれないね。

……

思考が創り上げた嘘偽りが信仰だったとしても、我々はそれへの希望を捨てはしない。だが悲しいかな、老いが我々を打ち倒す時になっても、我々は問題を解決する策を見いだせずにいる。

自身のアーツやほかの手段で老いに打ち勝てた者たちもまた、殊更恐れるだけだ、敵の果てしない苦痛に苛まれる歳月に。

いつからエーギルもイベリアに未知なる恐怖として見なされたのだ?

素手の幼子が、利器を持つ知らぬ者に助けを求めることなどできると思うか?

しかしその幼子が溺れかけていた場合は?

であれば君が言ったそれを証明してみたまえ。エーギルの現状は本当に君の言った通りか?本当にシーボーンとその根源に打ち勝てる策はあるのか?

さもなければイベリアは君を信じない。無論私もだが。

私が死ぬ前に、ケルシーよ、君は、君たちは、必ずイベリアに証明したまえ。

さもなくば、文明の火は海によって消し去ることになる。ほかの国が備えを終える前に、ヤツらはイベリアを超え……この“世界”を引き裂くだろう。

もしかすれば、テラ文明と社会のすべてを否定することは、ヤツが自然に生み出した思考の一部なのかもしれないね。

そんな私たちも、ヤツらと本質的には違わないことでしょう。

……海辺の小さな町、のんびりだが、物寂しい。静かだが、賑やかでもある。生き生きとして見えてるが、そこら中に危険が潜んでおり、謎めいている……

なんだか創作意欲が刺激されるような場所だな!

なあなあ、そうだろ?

(軽やかなギターソロ)

海辺、そして不安になる気配。もう嗅ぎついているわ、このいやらしいものが。

やっぱりこんな軽率な気持ちで海辺に近づくべきじゃないと思うんだけど。

平気よ、インスピレーションが受けられるんだし。だって見て、もうDanは待ちきれないって感じじゃない?

(どんよりとしたギターソロ)

イエス、音楽のインスピレーション!

……そうね、インスピレーションを汲み取るチャンスだわ。

私たちがあの異様な海からインスピレーションを汲み取るなんて思わないんだけど。

思わないから、ネタの価値ってもんがあるんだろ。

言えてるわ。

(同意を意味するギターソロ)

……じゃ、じゃあ手分けして探してみる?荷物なら私がホテルまで運んでおくけど。

よっしゃ!じゃあアタシはあっちに行ってみるぜ!

一人でいいの?

ご心配どうも、ここは“危険”だってことも憶えててくれて助かるよ、まったく。

ホテル、どこ?

そういや、こんな小さな町にもホテルがあるんだな?こんな場所、人なんか来るのか?

そりゃ生きるためならなんでもしなくちゃね。

そうそう、生きてなきゃ音楽は生まれないのよ。

(ギターソロ)
(AltyとFrost、Danが立ち去る)

……海、海かぁ。

戻って、きちゃったね。

すみません……ちょっとどいてくれますか?

ああ、ごめんよ。

今日もずっと一日中礼拝堂に?えっと……

エリジウムだよ。

すみません……もう何度も会ってるのに。

いいさいいさ、“エリジウム”って名前はここじゃあんまり聞かないからね。

それにボクみたいなイケメンも、イベリアじゃあんまり見かけないんじゃないかな?

…あはは……

あなたみたいな自信満々な人は……確かに……あんまり見かけませんね。

……そうだね。

実はしばらくここにいて分かったことがあったんだ、自分が思ってた故郷は、本当に思った故郷のままじゃないんだって。

エリジウムさん、今日もここで人を待ってたんですか?もう何日も経ってますけど……

あはは、そういう仕事をしてるからね、仕方がないよ。それにここは、ムシや源石まみれなジャングルよりもよっぽどマシだよ。

……あなたは外からいらしたんですか?

おや、分かる?ボクの落ち着いた雰囲気からかな?

まあ……えっと……そうなのかな?

たとえば?

服装……とか。

キミ、分かってるね。

……グラン・ファロに来る人なんて滅多にいないもんで。ここで生まれ育った子供ならみんな町に住んでる人の顔を憶えますからね、ここは人も少ないですし。

それに……海にも近いですから……こんな積極的にエーギル人と話をしてくれるリーベリも、どんどん少なくなってきていますよ。

裁判所の人が頻繁にここで姿を見せたことも相まって、なおさら……

……そうだね。

分かるよ、ボクもそういうのはそれなりに見てきたからね。

ほかのイベリアの町でもここと同じことが起こってるんですか?噂じゃあの平和な町も……?

ボクから見れば、イベリアの外にある町なんてどこも大差ないよ、みんな何かしらの問題を抱えてる。

取っ付きにくいエーギル人も見てきたよ、そいつのことを考えただけで頭痛を起こしちゃうぐらいのタイプでね。ホント、自分が持つ世間の常識ってもんをあいつらの頭の中に注ぎ込んでやりたいよ。

そういうキミはあいつらと比べてたいぶマシな部類さ。

えっと……

……なんでそんな“お前の常識は常識って言えるのか”って顔でボクを見てるんだい?

い、いえ、そんな!

今は無職みたいに時間を持て余してるように見えるけどね、これでもボクはすご――く遠いところに行ったり、いろ――んな出来事を見てきたことがあるんだからね。

へぇ、エリジウムさんって探検家だったんですね……じゃあほかの場所で、エーギル人たちはみんなどう暮らしているんですか?

……それは……まあ、あはは。

まだマシってところかな。

……うん、まだマシさ。

ティアゴ町長……毎日ここへお越し頂く必要はないのですよ。

よからぬ噂が回ってる。お前たちが心配なんだ……アマヤ。

よからぬ噂……あの邪教徒のことですか?

ここは裁判所の本拠地から、海から、また今日のイベリアの心臓からも近い。

それなのにどうしてそんなことが?

さあな。海に近い場所じゃ、どこも同じことが起こる。珍しくもないさ。

それと聞いた話なんだが……海でバケモノを見たってヤツもいるらしい。

……ペドロさんから聞いた話ですか?

アルコールが抜けている時の彼の言うことを鵜呑みにしちゃいけませんよ、全部デタラメですから。

……

ティアゴさんは優しいですから、あの礼拝堂で働いてるジョディが心配なだけなんですよね?

……俺ァ学がねえからな……もしかすればアマヤなら俺を、安心させてくれるんじゃないかと思って……

あの噂は……本当なのか?幽霊船、邪教徒、そして深海に潜むバケモノってのは……

裁判所はもう長い間、私たちに海へ出ることを許してくれていませんね。

ああ、もう84年か85年なのかさっぱりだ……

大いなる静謐が起こったのは1038年、戒厳令が敷かれてもまだ56年目です。

ティアゴさん、ご自分ではそれほどの歳月、足枷をかけられきたと思っているのですか?けどあなたはそこまで歳は取っておりません、もしや生まれてからずっとこの町に閉じ込められていると?

清貧な暮らしが禁固刑っていうのなら、俺ァ確かに長い間ずっと囚人だ。

マノーリンが死んだあと、俺ァもう海を見ちゃいねえ。憎いからな。

……流言飛語ではなく、裁判所が気掛かりなんじゃないですか?たくさんの邪教徒がここにやってきては、エーギル人を尽く攫ってしまわないかと。

……

はぁ、可哀そうなティアゴさん……

裁判所はあのエーギルの女性の命を奪った、あなたの愛する人を奪った、それであなたが怒りと不条理を覚えるのも理解できます。しかしここにいる皆さんのためにも、どうか慎んでください。

……そうだな。

……分かった。お前の言う通りにするよ、俺たちよりもお前は物知りだからな……それで今日は何をしていたんだ?

いつも通りですよ。この怖気づくほど閑散とした町で、私は私の仕事を、時代外れの翻訳としての仕事を全うしてただけです。

けどもう何か月もトランスポーターさんが町へいらしてません、原稿は溜まるばかりで困ったものです。

翻訳か、俺ァ生まれてこの方ずっとこの町だ、イベリア語以外てんで分からんさ。

日もそろそろ暮れそうですね……

そうだな、ジョディもそろそろ仕事終わりだろう……ここ二日は、その流言飛語で裁判所に目をつけられなければいいのだが。

そんじゃあ俺は先に行くよ、アマヤ。
(ティアゴが扉を開けて出ていく)

はい、ティアゴ町長。また。

……邪教徒。

……
アマヤと名乗る若き女は片時の思いを図った後、再び目の前に置かれた原稿用紙に思慮を戻した。
ウルサスの小説、カジミエーシュの伝記、リターニアの詩歌、サルゴンの民謡……
この時ばかりの大地は、書籍として彼女の目前に積まれ、文字として解かれた。それは理路整然として厳かだった。
空気はとても湿っている、彼女がやむなくページの端をそっとつまみ上げてしまうぐらいに。

……海の感触。

“波は速まり、風は怯え、サンゴが空を描き、蛍光を照らす。”

“我らは翼を持たぬ我らが憎い。”

仕事はおしまい?

あ、は、はい……

見ての通り、ここは普段からあんまり人は来ませんから、ボクの仕事もちょっと掃除をするぐらいのものですよ。

今日もこのまま待つつもりで?

そうだね。本当なら先週に着いてもおかしくないんだけど……まあ彼女たちは変人だから、遅刻なんていつものことだって、そう上から聞かされているよ。

遅刻はあまりいいとは言えないと思いますけど、今の人はわざわざグラン・ファロで待ち合わせしたりするもんなんですか?

変でしょ?ボクも変だと思ったんだよ、だからMiseryさんが言い出した時に、ボクは自らこの任務を買って出たんだ。

それがまさか一か月もここに滞在することになるとはね。待機時間にしちゃ長すぎるよ。

しかし裁判所は……あなた方のようなよそ者がグラン・ファロに入ることを許してはいないはずですが。

ここが裁判所の中枢に近いから?

それとも……海に近いから?

……どっちもじゃないですかね。

……なるほどね……

あなたはどうやってここへ?あんまりよそへ行ったことがないので知りませんけど、グラン・ファロなんて棄てられた場所ですよ……

聞きたいのならウェルカムさ、ボクも話し相手が欲しくてね、退屈で死んじゃいそうだ。

もしイヤでなければ、ぜひ……あっ!

すみません、もうこんな時間になってしまいました、ティアゴさんがボクを待ってるんで、はやく帰ってご飯を作らないと……

家族かい?

あー……まあそんなところです。ティアゴさんは育ての親みたいな人でして。

そう、ならキミは自分がエーギル人だからって凹む必要なんてないよ、誰かがキミに善意を向けているのなら、もう少しだけポジティブになりな。

……はい、ありがとうございます、エリジウムさん。
グラン・ファロ。イベリアの古い言語の中で、それは灯台を意味する。
かつての灯台は船舶と、船人たちを照らす拠り所だった。
船が海を愛し、抱擁し、そして滅びた後、はたして幾多の魂が暗礁にひしめき合ったことだろうか。

(あれ、アマヤさん?どこに行くんだろう……ん?)

(この先、賑わってるな、珍しい、なんだろう?)

どこに行くつもりなの?

礼拝堂だ!人間の両手ってのは祈るんじゃなくて、もっとドラムを叩くことを知るべきだぜ!

……この広場がこの町の中心なんだね。すべての建物がこの広場から広がってる。

灯台の、彫刻。

海の灯台は、この町の灯台でもある……

ダッセエ例えだな!

変な人、近寄らないでおこう……

なあ、この前ペドロが言ってたアレなんじゃ……

関わるんじゃないよ、裁判所に目をつけられてしまう。

まったく、なんで最近はこんなによそ者が多いんだ、裁判所はなにをしている?

(見たことない人たちだ……彼女たちの恰好……ミュージシャンかな?)

(うわっ、こっち見てる?)

……

こ、こんにちは……?

本来なら海辺にエーギル人がいるのはすごく普通なことだけれど、今じゃあなたみたいなエーギル人はむしろ珍しいとも思えてきちゃった。

ここで何が起こってるのか……あなた知ってる?

な、何がですか?

知らないか、まああなた海の子供じゃないしね、陸地に住んでるエーギル人。

はぁ、私ももうちっとも驚かなくなくなっちゃったなぁ、まったく。

Aya、なにしてるのー?はやくこっち来なさーい。

今行くー。

あっ、そうだ……あなた……

ま、まだ何か?

この彫刻、なにが彫られてるのか理解してる?現地の人はみんな知ってるの?

灯台……ですけど。昔はあの灯台と関わる仕事も多かったらしく、そこで働く人たちもたくさんここに残ったのでそれで……

あなたもなの?

あっ……はい。今でも家に当時のもの、見取り図とか、写真が残ってまして……

ふーん……灯台。イベリアの灯台、陸の灯台、ユーモアだね。

匂いはあなたから発してるようじゃないみたいだね、だからあなたたちも十分に気を付けたほうがいいよ。
(Ayaが立ち去る)

なんなんだろあの人……あれは楽器なのかな?

……もしかしてエリジウムさんが待ってる人たちとか?
(ティアゴが近寄ってくる)

ジョディ。

あっ、ティアゴさん、ごめんなさい、今すぐ戻って――

あの人たちとは関わるんじゃあないぞ、尻尾も耳も、羽も見当たらなかった、あの人たちも同じエーギル人かもしれねえが。

ボクは別に――

ジョディ、お前はいい子だ、俺がエーギル人全員に思うところがあるわけじゃないのはお前だって知ってるだろ。でもな、ここ最近の噂を忘れるんじゃない。

よそから来たエーギル人にはあんまり近づくな、もし海辺に現れたエーギル人、そいつの傍に審問官や懲罰軍がいなかったら、きっとまずい人に違いねえ。

彼女たちはいい人だって俺も信じたいさ、けど裁判所はそうとは限らない。だからな……お前には申し訳ないが……もっと大人しくしてくれ、お前まで連れて行かれるとこは見たくねえんだ。

分かりました、謝らないでください、ティアゴさん。

……全部、分かってますから。

まさかそんなあっさりお応えして頂くとは、予想外だった。

三名のアビサルハンター……そしてサル・ヴィエント町のことなら、すでに知っているさ。アイリーニからも詳しく報告してくれている。

だが君が意図してイベリアを害するつもりがあったのなら、きっとより簡単な方法でそれを実行できたはずだろう。

アビサルハンター……仮に彼女ら三名が報告通り、それほど強靭で素早くとも、裁判所の手が及ぶ範疇の内さ。

彼女らへの処罰なら一旦保留にしておこう。彼女らがイベリアの地を闊歩することも目を瞑っておく、これもすべて私が君の言う真相に興味を示した、それだけのことだ。

そのような傲慢があったがゆえに、イベリアは今日のような醜態を迎えたのでは?

傲慢なら、我々はこの上なく理解しているさ。傲慢とは人の影、どこに行こうが足元についてくるものだ。

君と関わったあの審問官二人だが、すでに裁判所から極秘命令を受けている、必要とあらば、私たちの前に姿を見せてくれることだろう。

……どうやら身元不明のエーギル人たち数名がグラン・ファロに入り込んでいるようだ。君からは聞かされていないぞ。

彼女らは何者だ?

エーギル人ではない。

……

イベリアの歴史は語らずとも、この国が繁栄を極めた時、我々は大陸全土を跨り、ボリバル平原へと行軍したこともあった……

幾多の金貨と知識が我々の都市に流れてきたものだろうか、まるで川が高所から谷へ流れていくかのように。繁栄の滝によって生じた轟きは、大波の音すらかき消すものだった。

……(サルゴン語)崛起するもの、あるいは“大いなる獣”と呼ぶべきか。

彼女らにも留意しておくべきだな。敵意は確認できないが、それでも私に警戒心を覚えさせる……彼女らは、かつて海に属していたのかもな。

ケルシーよ、君は医者だ。裁判所に一つ手を貸してくれないかね?

……なんだ。

裁判所の中枢は海岸線にほど近い。我々はいつでも滅びを迎える備えができている。

だが必要なのだよ、君というよそ者が。彼方を望んでくれる我らの目が。

この件については双方とも利害が一致している、あなたを拒む理由などこちらにはない。

では長い歳月が君にもたらした神秘的な風情を納めるといい、ケルシー医師よ。住民らの中に潜む悪がどこへ隠れているのか、共に見てみようじゃないか。

お褒めの言葉として受け止めよう……至極光栄だ。

……グレイディーア。

しばし共にしただけで呼び名を言い換えるなんて、この点を見れば確かに、あなたは今までとは変わったと言えるわね。

……隊長、聞きたいことがあるんだけれど。

あの腐った海岸を出てから、情報はすべて共有したはずだけれど。

全部じゃないわよ。

私たちだけが行くのならまだ分かる、でもなんで彼女まで……

今の彼女の様子を見てみなさいな。これが本来彼女のあるべき姿よ。

彼女がロドスで受けた治療記録はすべて調べてみたけど……こんなにも押し黙っちゃうなんて、あなたも見たことがないのではなくて?

彼女を助けてあげたくはないの?

じゃあこれで彼女は助かるの?

おそらくは。

あの幻を打ち破れるのは彼女自身だけですわ。自身を解けるのは自身だけ、あの薄汚い実験結果すら覆せしめた、ローレンティーナとして。

……だからその前に、私たちで彼女に温かなベッドを敷いてあげましょう。

……

短い間だけど、彼女は目を覚ました……なのに私はただ見てることしかできなかったなんて……

感傷的になるにはまだ早いわよ。彼女があの姿を、自身の姿を嫌っていなかったのなら、私たちが口出しするほどでもありませんわ。

あなた、私が想像していた以上のケルシーを信用してるのね。

そうかもしれませんわね。彼女は独りでイベリアに残り、私たちのためにチャンスを作り上げてくれた、それについては驚いたけれど……何よりも感謝せざるを得ませんわね。

彼女のほうも順調にいくといいのですけれど。

……もうこんな時間か。

これだと今日はもう来ない感じかな。この町で唯一目立つ建物で待っていれば、遅かれ早かれ彼女たちと会えると思っていたんだけど……

それにしても待ってる間は退屈で仕方がないね、そうと知ればロドスから本を持ってくれば――
(Altyが扉を開けて入ってくる)

――ラテラーノ様式の礼拝堂!海辺なのにこれほど原型がキレイに保ってるなんて、不思議ね~!うーん、でもやっぱり雰囲気はまるっと異なるわね。

ラテラーノ人のいるラテラーノの礼拝堂なら、ハプニングは付き物なのに、ここはあまりにも陰気くさいわ……あら?

あっ――

――Altyさん!?

しばらくは海辺に近づかないでくれ、ジョディ。礼拝堂なら安全だし、キレイだ、そこにいてくれ。

ほかのことは心配するな……今年ここに戻ってきた若い連中はそう多くない、ここから出てったみんなは何かしらの方法で大都会に居を構えているさ……まあ、ここの暮らしは全部裁判所からの援助があってのものだからな。

お前もそろそろ俺が言ったことを考えてみたらどうだ、ここを出るって話を。ここにいる連中は、みんな灯台を維持点検するために集まった職人たちだ、時代が変わりゃあ、ここは遅かれ早かれ廃れていく。

……ジョディ?

聞いてますよ、ティアゴさん。

でも、エーギル人なんてどこに行けば……

アマヤから聞いた話だが、外の世界、イベリア以外のほかの場所では、あんまりエーギル人を悪いようにはしていないらしい。

だとしても家を決めなきゃならないんですよね。モノとか、連絡手段とか繋がりとか……そう簡単には、手に入りませんよ。

それに、心の準備だってまだ……

……そうかい。

そうだ、アマヤからまた本を預かってるんだ、彼女が翻訳してくれた本だ、どうせ俺は読んでも分かんねえし、お前が持ってな、礼拝堂で少しは時間を潰せるだろうよ。

はい。
ジョディは静かに街中を行く。
目の前にいる老人の縮こまった姿を見て、彼は往年のティアゴを思い出せずにはいられなかった。
老いとはかくも寡黙で、流れ去った歳月を表してくるものなのだろうか。目覚めから眠りまで、その寝息に藻掻くも、歳月は知らぬ間に抜けていく。
だがジョディは何も言わなかった。もうこの暮らしには、慣れているからだ。

……ティアゴさん。

なんだい?

今の暮らしも素敵だと思いますよ。礼拝堂でお手伝いをして、たまに子供の面倒を見たり、たまに仕事で怪我をした人たちの手当をしたり。

それに最近、外からきたリーベリとも知り合いになったんです、エリジウムさんと言って、ほかの人とはまるで雰囲気が違う人でして。だからそこまでボクを心配しなくとも大丈夫ですよ。

だってもう長いこと、裁判所はこの町に来ていませんから。ティアゴさんもそう焦らなくとも。

正確に言えばあれは礼拝堂じゃなくて、詰所なんだ。職人たちがまだ灯台を修理しようとしていた時、裁判所が俺たちを監督するために建てられた詰所だ。

だが今じゃ、新しい海岸線も落ち着いて、イベリアの眼の修復作業もほっぽり出された。当然裁判所も、もう俺たちをいちいち構っちゃくれねえよ。

まあ、裁判所がなんの取柄もない連中でもないさ、アレを止められるのもあいつらしか……

……アレって?

なんでもない、働いてる連中の間に流れてるただの噂さ。

……噂……

ジョディ?

……
(回想)

……こ……ここにいるのか?

あれは一体なんなんだ……先にティアゴさんに知らせたほうがいいんじゃ……

――!

――
(回想終了)

ジョディ?どうかしたのか?

……いえ、なんでも。

ティアゴさん……海には、一体なにがいるんですか?