(ティアゴが駆け寄ってくる)
ジョディ!
あっ……ティアゴさん……どうしました?
……今すぐ荷物をまとめろ、ここを出るぞ。
えっ、なっ、どうしたんですか?それに出るってどこに?
もうすぐこの町に裁判所が来る。
……え?
邪教徒が、海のバケモノが――
……
ボクたち……この町を見捨てるんですか?
俺たち?
……
いいや違うさ、ジョディ、逃げるのはお前だけでいい、ここに邪教徒がいるって裁判所に知られたら、きっと真っ先にエーギル人がとっ捕まえられちまう!
邪教徒なんざ、ましてや俺たちの命なんざどうだっていい……俺たちはもうここに長く居過ぎた、ほかの場所に行っても生きられない、だから俺たちはここに残る。
だがお前は違う!お前、ずっと外の世界とか景色を見たかったんだろ?お前はまだ先があるし、素質だって……
でもボク、そんなの……急すぎます。
これはチャンスなんだ、ジョディ、変わるチャンス、その最後のチャンスだ。勇気を持て。
ここに残れば、裁判所の尋問を受ける。家に帰れたとしても、海と恐魚に怯える日々を過ごすだけだ。
だがここを出れば……自分の運命は自分で握ることになる、あの小さな礼拝堂じゃなくて。
あの礼拝堂はお前にとって小さすぎる……お前はずっとそこに籠るべきじゃない……
ティアゴさん……そんなこと言われても……急すぎて……
もう迷ってる暇はない、ジョディ、自分を強く持て、強くなるんだ。お前の両親と祖父母のように。
……ボクの両親、二人は本当にイベリアのために命を貢献したのですか?
今はそんなことを聞いてる場合じゃない――ほらはやく、一緒に荷物をまとめるぞ。
まったく、全然行商人が来ないもんだから、服が全部お古じゃないか……ここにいりゃ若いモンが新しい服を着ようと思っても一苦労だ……外に行ったほうがマシだろ?
なぜ裁判所はエーギル人ばかり狙うんですか?邪教徒と言っても、リーベリとかフェリーンの可能性だってあるんじゃ……?
エーギル人は海から来た、バケモノと災いも海から来た、そういうことだ。
……お前そいつらを見たことはあるか?
いえ……でも待ってください、ティアゴさんは、知ってるんですか……?その人たちがここにいることを……
ああ……火のないところに煙は立たないからな、みんな知ってるさ。
フアンさん、邪教徒でした……裏の小道から人のいない倉庫に隠れてて、怪我をされてて、でもボクには……敵意がなくて……
それはお前がエーギル人だからだよ、ジョディ。あいつらはイカレちまってるんだ、俺だって知ってる。
じゃあなぜ……ティアゴさんは彼らを庇ってるんですか?
今はそんなことどうでもいい、とにかくお前ははやくここから出ろ。
いやです、ティアゴさん、この町から出たくありません。
なに?
ボクは……グラン・ファロで生まれました、裁判所から逃げるためだけにここを出るなんて……そんなの……
そんなの、なんだ?自分が何を言ってるのか分かっているのか!?
裁判所に連れて行かれた後、無事に戻ってきたエーギル人なんて一人もいなかったんだぞ!廃人にされるか、精神をヤっちまったのかのどっちかだ――
――それ以外はほとんどが消息不明になった。裁判所に監禁されてるとか、あるいは殺されたってのが専ら言われてる!とにかく誰も戻ってこなかったんだ、誰も!
あのバケモノとアビサルの信者どもがここで暴れ出す前に、“善良な”裁判所が真っ先にここを根絶やしにする、それが一番効率的な方法だからな!
て、ティアゴさん……落ち着いて!
憤った老人の目にジョディが映る。まるでその昔、彼も不安ながらこの地へやってきて、廃れた地から自らの手で新たな家を建てたように。
生涯のほとんどが、若く力ある者たちの黄金時代のほとんどが過ぎ去った、彼らはこのグラン・ファロで何を建てたのだろうか?そして今日のイベリアはどうなった?
彼らが幾ら力を添えようが運命が動くことはなかった。まるで深井戸に投げ込まれた小石のように、彼らが情熱を込めて建てた家々もまた、今では軋んで揺れ動くばかり。
巨大な虚無感がティアゴを呑み込んだのだ。海に浮く暗雲と同じく、すべてを覆う。
……誰も……
誰も……戻ってこなかった、マノーリンも、誰も。グラン・ファロはもう燃えちまったんだ、裁判所も、バケモノも、もう俺たちに逃げ道はない……
ティアゴさん……
……頼む、ジョディ……もしお前に何かあったら、俺はお前の両親に合わせる顔がない。
……分かりました。なら……
……
海を……見に行ってみたいです、いいですか?
アガッ――ギャアアアアッ――!
(寡黙な信徒が倒れる)
恐怖に眠るといい、貴様らの夢、それは悪夢にほかならない。
ケルシーよ、この者たちを任せる。すぐにでも吐いてくれるさ、あの暗く湿った陰謀がどこで蠢いているのかを。
無論だ。
(ワ~オ、あのイケてる爺さんってあなたのお知り合い?医者とか?)
君たちが……AUSだね?ロックバンド、若者の愛好は理解できんな。
音楽の神聖さと理解してくれれば。
ここ数百年、イベリアは一度たりとも大いなる獣を目にしたことはない、ましてや言葉を交わすことなど、そう記録にある。仮に君たちの音楽が君たちの人類社会に対する見方の表れというのであれば、興味はある。
『Aflame Avenue』を出した後、こっちはもう興味を失うほど知り尽くしたことに気力を置くつもりはなくなったけどね。
フフッ……君たちの目に、イベリアはどういう色で映っているのだろうね。どうやら長い寿命も、少しばかりは驚きを授けてくれそうだ。
ではケルシー、さきほど言ったように、君がなるべくイベリアの眼へ向かえるよう、裁判所が手配しておこう。
それまでに準備をしておきたまえよ。そしてなるべく、存在しうる障碍すべてを清潔にしようじゃないか。
……あの恐魚、あの変態の身体にハメこまれたアレなんだけど。
エーギル人の匂いがするわ。ただのエーギル人じゃない、私たちと似た、海の匂いよ。
……なに?
ティアゴの歩幅は狭いが、速い。明らかに老いているものの、しかし不思議にも元気だった。
ジョディも辛うじてティアゴの後をついて行く。海を見たい、彼はそう言った。
なぜそう言ったかは自分でもよく分かっていない。今ではもはや、自分が見に行きたいのか、はたまたティアゴが見に行きたいのか、それすら分からなくなってきた。
ボクはエーギル人だ、そう思うジョディ。海はボクの故郷だ。
けどどうやって海で呼吸する?島民の先祖たちは、どういった科学技術を用いて水面下で暮らしていたのだろうか?
次から次へと少年の脳に疑問が浮かぶ。小さい頃から彼はこういったことに興味津々だった、だがティアゴはそんな彼に答えてやれない。ティアゴはリーベリなのだから。
だとしたら、なぜ海から来たと称するエーギル人たちは、海に溺れるのだろうか?
海……
もう憶えていませんね、最後に海を見たのはいつ頃だったのか……
今ここに懲罰軍がいたら、俺たちはとっくに連れて行かれてただろうよ。
す、すみません、こんなわがままを言って……
……いいんだ。
ここの海岸線を見てくれ……なんて寂しく、廃れたことか。数十年前、俺たちは偉大な計画を抱え、ここを難攻不落の城塞にするはずだったのに。
だが今はどうだ?北東数キロ外には懲罰軍の駐屯地、西にある崖にも一か所ある。
それ以外は、全部ただのまやかし……あるいはただの夢に終わった。目の前にある現実が俺たちに言うんだ、イベリアはもう戻らないと。
ティアゴが口笛を吹く。ジョディがあんなおちゃらけたティアゴを見るのは久しぶりだった。
まるで今の彼は、抑圧された町長から……ただの大工、職人になったような気がした。家を建てる大工、血沸き肉躍る職人。
ペッ、もう昔のことだ。俺たちは失敗した、グラン・ファロは失敗者の揺り籠だよ。
さっき両親の話をしたよな、ジョディ?
……はい。
俺はあんまり海に……思い入れはねえ。みーんなエーギル人だか島民だか言ってるが、そんなの知ったこっちゃねえ、俺はリーベリだからよ。
それでお前の両親、正確に言うとお前の祖父母だが、二人はエーギル、深い海からやってきた人だ。あそこはデカい国だよ。
お前もそこから来たんだぞ、ジョディ。
……エーギル。
前まで俺たちはある夢を抱いていたんだ。グラン・ファロは今日みたいな陰鬱な町としてではなく、城塞、堅牢な拠点であるべきだってな。
ここを起点に、海岸防衛を増強したり、自分たちで国を災いから守ったり、復興したり、建て直すはずだった。
俺たちには本気でそう思ってた時期があったんだよ、ジョディ。
……
ジョディは返事をしなかった。ティアゴの表情も段々と明るくなってくる、まるで活気が老人の濁った目に戻ったかのように。
肌にも張りを見せる。彼は少しだけ姿勢を変え、海風が彼の眉をなびかせる。彼の背中が少しだけ大きく見えた。
そんで半世紀も続いた偉大な青写真を実現する最後の一歩として、俺たちはイベリアの眼へ戻り、再び灯台を……稼働させようとした。
……灯台?
ああ、灯台だ。あれは黄金時代の遺物、運よく大いなる静謐に滅ぼされなかった孤独だ。
災いだろうと俺たちを踏み潰すことはできなかったさ。俺たちはいつものように、堅く希望を抱いた。
あの頃……マノーリンは青い帽子を被りながら、言ったんだ……俺たちはみなヒーローだ、朽ちることのない英雄だってな。
お前の祖父母、そしてお前の両親、グラン・ファロのこの世代の人たちは、みんなその青写真のために血と汗を流した。あいつらは……偉大であるべきなんだ、本当さ。
しかし……
しかし、ここには何も残らなかった。
あの船が見えるか?本来ならこの港にはたくさんの船が止まってたんだ。あの船も懲罰軍に押収されるはずだったんだが、あいつらそれすらも忘れていきやがった。
あるべきものはすべて消え、残されたのはゴミクズと、平凡な町と、問題の数々と、夢に覚めない者たち、そして……
……あの船。
……そう、あの船。
ボクの両親と、一度も会ったことのない祖父母……みんなその責務に誇りを感じていたんですか?
その質問はお前から何度も聞いたな、ジョディ。
お前が物心をつけて、礼拝堂で介護の仕事をしたいと言った時……その時のお前も、家に置いてあるあの埃を被った冊子と図版を指して聞いてきたものだよ、何度も何度もな。
……ああ、憶えてます。
そうさ、ジョディ。
何度聞いてこようが、俺は“そう”と答えた。結果がどうであれ、あいつらはあの巨大な厄災を経ても希望を抱き続け、貢献し続けてきた。
俺たちが最後にイベリアの眼へ向かおうとした頃、自分たちから志願したほどにな。
だが幼いお前をほっぽり出した二人を責めないでやってくれ……あいつらは消えようとしない人々の信念を抱え込んで、もう何年にもなる。どうしても成し遂げたかったんだよ、俺たちは。
……
はぁ……そんで最後にあいつらと会ったのは、あいつらが率いた船団がこの地から出て行った時だった。
あいつらは英雄だよ、ジョディ。マノーリンが言ったように、俺たちは英雄であるべきだ。だが今いる俺たちは違う、死んでいったヤツらが英雄さ。
……そうですか。
ボクの両親は……
誰がすべてを壊したのかは、お前も知ってるだずだ。絶望にいようと、俺たちはほんの僅かな希望を絞り出して、灯台に火を灯そうと願った。だがその結果どうだ?
結局は裁判所がすべてをぶち壊しやがった。エーギル人をとっ捕まえながら、あいつらはこう言うんだ、この中にアビサル教会のスパイが潜んでいるとな。
俺たちはイベリアのために戦ってきたっていうのに……あの忌々しい裁判所にすべてズタズタにされちまった、尊厳も、理想も、何もかも。
だからジョディ、もう分かるだろ?
お前はここを出るべきだ、こんな希望もクソもないイベリアから出て、なるべく遠い場所……外の国に、もっと広々とした場所に行くべくなんだ。
グラン・ファロには……もう何も残っちゃいねえんだからよ。
大海原―!!
……絶対方向が真逆だって。楽器をあんた湿った部屋にほっぽり出したら大変でしょ?
いいやAya、ここは確かに海だ。この先にある波の匂いだってもう鼻に届いてるぜ。
波の匂いってどういう匂いよ?
綿のような匂いだ。
嗅覚で視覚を表すって……
でもまあ……間違っちゃいないかな、確かに目の前には海がいるわね。
(グレイディーアとスカジが近寄ってくる)
……あなた方は……
エーギル人。でも陸にいるエーギル人とはまた違う。うん……あなたたちが例の怪しいエーギル人ね。
名前はなんだったかしら?ああ、アビサルハンター。
グレイディーアはピクリと眉を弾く。彼女はこうも面倒なやり方――つまり眉を顰めるやり方で――感情を露にすることはめったにない。
彼女は予感がしたのだ。アビサルハンターとして、優秀な執政官として、エーギルの技術スペシャリストとして、なによりも戦士として。
あなたたちが……AUS。
あら、お知り合い?
ええ、たまたま。
なによ、コソコソして……けどエーギル人にも私たちの名前が知られていて嬉しいよ。
Altyはあなたたちが残した気配であの船に行ったって言ってたけど、その時に知らったのかな。でもこうして直接会うのは初めてだね。
自己紹介するね、私はAya、AUSのボーカルをやってるの。でこっちはDan、ドラマーよ。
オッス!海からのお客さん!
――同じく海に属するあなた方と知り得て、こちらも嬉しく思いますわ。
陸に上がった後、ケルシーからあなた方について少しばかり学ばせて頂きましたわ――あなた方、陸にいる同族について。
あー……陸だったら、“私たち”はまだ同族のカテゴリーかな、海に残ってるほうはなんとも言えないけど。
あなたたちは何しに来たの?あの医者に用?
野暮用がありましてね。
エーギルに戻る方法を探してますの。
エーギルに戻る……あなたたち三人で?
離れ離れはいけないから。
へえ~、仲いいんだね。それで後ろにいるその人は?もしかして人見知り?さっきからだんまりだけど?
……
色々混乱してるようだね、見たら分かるよ。ナニかが彼女の脳を痛めつけてるみたい。病気とか?
まあ、そうとも言えますわね。
可哀そうに。
――ヒッ!
どうしたの、Dan?
なんかがアタシの背骨を通っていきやがった、あれだよあれ、頭に電流が走って、気付いたら喋れなくなったあの感覚――
――声。
いつもと違って静かなスペクターが空を見上げた。
彼女が瞼を閉じる。混沌とした思考が波に攫われる。波、ここは海岸から近い、ナニかがスペクターの意識に触れているのだ。
ソレは風の中、雲の中に。陸を超え、海よりやってくる。
声。声が聞こえます。
声……?わたくしは何も聞こえていないんだけれど。
海の旋律、海の子らが泣いています。
あれは……歌。一種の歌。
恐魚の気配、どんどん多くなってきてる、町が襲われてるんだわ。
(聖徒カルメンが姿を現す)
お、おい待てよ……お前……どっから入ってきたんだ?
し、審問官だと!?お前、引きずってるそれって――
家に戻りたまえ、住民たち。
この両者は異教と結託している。イベリア審問官の名において、私が刑を執行した。
住民たちよ、速やかにここから離れたまえ、この者共の血は敵を惹きつく、戦いに巻き込まれたくはないだろう?
し、審問官だと!?いつの間に入り込んで――あのよそ者、あのよそ者たちは審問官のスパイだったのか?
お、俺は邪教徒じゃない!こいつらとは一切関係ないぞ!
この者たちを知らないかね?
こ、こいつら……フアン?フアンなのか?さ、最初から怪しいと思ってたんだ、こいつは――
もういい、十分だ。
自ら心を削る必要はない。家に戻りたまえ、窓や扉をしっかりと閉めるようにな。
は、はいぃぃ――!
(慌てた町民が走り去る)
……
……出てきたまえ、隠れてても無駄だ。
……チッ……審問官め……いや違う、お前は大審問官の一人か!
なぜ大審問官がここにいるんだ!?
アマヤもティアゴもいなくなった、もしかしてあのエーギル人が関わっているのか……?
ヤツめ……フアンを殺しやがった!
死んではおらんさ。まだまだ吐いてもらわないと困るのでね。
貴様らは私が今まで見てきた連中とは異なるな。意識をはっきりと持っている、指図を受けているのだろう。
だが、明瞭かつ狂っていないのであれば、貴様らとて理解してるはずだ――
――貴様らでは私に敵わぬ。裁判所の勇猛なる戦士に勝てることなど不可能だ。
……チッ……
それを知ってなお、なぜ自ら身を捧げる?なぜ自ら火に飛び込む?
邪悪な波は貴様らに何を約束した?貴様らはこの廃れて等しい海岸で何を企んでいる?
ああ……聞きたいことが山積みだ、イベリアの宿敵共め。
祈りたまえ。願わくば、貴様らの神が代わって、答えを導かんことを。