(回想)
私はずっと見ていました。
毎日大広間へ向かうアルフォンソの姿を。その大広間も今では彼にイベリアと呼ばれています。
寝室にあった大きな姿見も大広間へと運ばれ、日々自分の姿を入念に眺めておられる。
料理長とジェミーが処された後、船に残ったのも今では私と船長だけとなってしまいました。
……
来たか。
私はどれだけ眠っていた?眠るも……すぐに目が覚めてしまう。
アァ……長ク、ナイ……デモ……
無理して話さんでもよい。今じゃ会話すら苦痛だろう。
低俗なバケモノの血がまだ残っている、それで字を書くといい。
私は頷きました。隅には樽が置かれており、中には獲物の血で満たされている。
時間とはかくも悠久なものなのか。僅かな時間しか寝ていないというのに、見る夢はまるで数十年以上にも及ぶほどゆっくりとしたものだ……
我々はもう、諦めるべきなのだろうか?ジェミーも料理長も去って久しい、我々も彼らの後を追うべきなのだろうか?
諦めるべきなのだろうか。
私の意識は徐々に朦朧となっていくばかりです。夢に覚める前の蟠りのように。
変化してるのは肉体だけではない、生き物たるすべてが変わってしまっています。
諦めるべきなのだろうか。呑まれる前に己を終わらせるべきなのだろうか。果てしない海から。海風から。波から。その囀りから。
……ガルシアよ。この船は我々の船、我々の理想そのものだ。
いずれ我々は足を止めてしまうかもしれぬが、彼女は、この“阿呆船”だけは歩みを止めることはない。
あの葉巻中毒の技師の言っていた通りだ。我々が全員死のうが、この船だけは決して沈まん。
今日という日も……長い時の中のたったの二十四時間に過ぎないのだな。
……(恐魚の血で文字を書く音)
諦め……るな?
ハッ、お前はもうそんな姿に成り果て、もはや紺碧色の瞳すら見えぬというのにそれを言うか。お前にとっても諦めは解脱になるだろう?
(筆記)私はあなたの副官です。
……
……アナタノ……タメ。
……もういい、喋るな。
感謝するよ、ガルシア。お前がどんな姿に変わろうと、我々の関係が変わることはない。
(頷く)
ですが、船長が鏡を眺めていたのは、いくら屈強な彼でも、ついにはあのバケモノに敗れてしまったがためだったのです。
私たちが血肉を食らったのは最初、命の火を継ぐためだった。しかしいつしか私たちは、血肉を食らわずにはいられなくなった。
最も強大だった審問官ですらアルフォンソの屈強さを大いに讃嘆し、どれだけ若い水兵たちの憧れの的になったものか。船長に為せないことは決して存在しないのです。
しかし彼はもう十分耐えてきました。いずれ彼もあのバケモノに成り果ててしまうことでしょう。
そんな彼は憂い、そして憤っておられたのです。
己に宿る矮小なバケモノすら受け入れられずにいるのに、どうして私を受け入れられると言えようか、と。
(回想終了)
(斬撃音)
ゴミクズめ、サル・ヴィエントにいたあの植物にすら劣るわ。あの女もただの法螺吹きだったってことね。
相も変わらず、海は馬鹿の一つ覚えね。
……Gla-dia……
……知リタイ。キミハ自由?
……
ココ、同胞イル。閉ジ込メラレテル。助ケ、イル。一族ノ抱擁ニ、帰ス。
同胞タクサン、ココデ死ンダ。親、許サナイ。ボク、助ケル。
その臭い口を閉じておきなさい、心底気持ち悪い。
キミ、海ニ戻ル。モウ、戦ワナクテイイ。
ボクタチト一緒ニ――
(斬撃音)
あなた方の長ったらしい無駄話にはもうウンザリですの、トドメをつけて差し上げますわ。
……Gla-dia、ボクヲ食ウノ?
ボク食ッテ、強クナル?元気ニナル?
ソノ首の鱗生ヤシテ、元ニ戻ル?
――!
アビサルハンターは血によって繋がる。
シーボーンはゆっくりと自分の痩せこけた身体を捻る。ヤツは――
――自分の身体を食い千切っていた。
コノ肉、千切ッタ、食ベテ。
足リナイ、モットアゲル。全部アゲル。
グレイディーアは茫然と地面に置かれた肉を見やる。
彼女は動揺していた。
シーボーンの存在、あるいはシーボーンのその行為によって動揺していたわけではない。
しかしこの刹那に気を散らしたことにより、グレイディーアは自分の提案を受け入れてくれたのだと、シーボーンは身勝手にそう思った。
……スグ、マタ会エルヨ。
シーボーンは去るも、グレイディーアは追わなかった。
なぜならサメとスカジの匂いを嗅ぎ取ったからだ。あのシーボーンはもう逃げられない。
グレイディーアは振り向き、匂いが伝って来た方向に目を向ける。
……海の匂い……血の匂いと、狩人の匂い。なぜこの船に?このわたくしが気付かなかっただと?この距離で?
そんなの、ありえませんわ……!
私たち……どうすればいいのですか?
ここに生きてる人がいるとは思いもしなかったわ。恐魚を排除すれば、この船をゲットできると思ってたんだけど。隊長、よくも簡単だって言ってくれたわね。
……
……スペクター、どうしたの?
鏡を見ているの。
知ってるかしらスカジ?今こうして鏡に映る自分を見つめていると、忘れ去った色んなことを思い出すのよ。
薄暗いドーム、百メートルはある大きな彫刻、蒼い劇場、水しぶきを上げる滝。これは何、スカジ?
……あなたの故郷よ。
あぁ……思い出したわ。
その彫刻は蠢く醜い肉に覆われ、そして大きな音を立てながら崩れ去っていった。
しかし……記憶にあっても、それをわたくしは見たわけではないのよね?
さあね、昔自分が住んでいた場所はとうの昔に崩壊したって、あなた自分で言ってたわ。私があなたと知り合うよりもずっと前の話かもしれない。
きっとその後、どこかでその話を聞いたんじゃないかしら。
そういう話は後にしてくれませんか!?
今はあの二匹のシーボーンを追うのか、それとも彼がいないうちにこの船を奪って、その、岸まで帰還させるのか、さっさと決めてください!
六十年も生き長らえてきた人たちですらできなかったことを、わたくしたちができるとは思えないのだかれど。
もう少し時間があれば、隊長がきっと何か考えて……うッ、くッ。
スペクター!大丈夫?
少し……頭がクラクラするわ。
思い出した……彼らがわたくしに何をしたのかを。わたくしは……
いや。
わたくしは、グラン・ファロで彼女と一度会ったことが……?
わたくしと話していたわ。それが偽善で、本心でなくとも、でも彼女は……
……彼女は、この船にいるのね。
えっ……ほかにもこの船に生存者がいるのですか?
生存者じゃなくて、私たちの敵ね。ほかの誰かがこの船に乗ったんだわ。海を渡れるってことは、それだけでその人の正体を語ってるようなものよ。
手分けして探しましょう、あなたはどこに行く?
……私は……
……
……私はイベリアの審問官なので、この船をイベリアに戻す責務があります。
だから……アルフォンソを追います!
(慌てふためいて避ける不気味な声)
(ガルシアが恐魚を襲う)
ギエエアア――!
おお、焦るなガルシア、すぐにまた追い詰められるさ。
気が利けないエーギル人がヤツに傷を負わせた。ヤツはヴィクトリアから上に行き、ボリバルを経由し、あとは甲板に上がって海へ落ちるだけ。
この船はヤツが乗りたいと思えば乗れるものではない。
……ああ、リターニア。まだ若かった頃、我々は軍の士官数名とその国へ訪れたことがあったな、お前は憶えているか?
あの選帝侯のニヤケ顔ときたら、思い出しただけで虫唾が走る。だがヤツらとて芸術を尊重していたよ、その点は驚いたものだが……
アァ……?
今日はいい日だ、生きている人間をたくさん目にできた。さっさと消えてもらいたいがな。
さあ、“リターニア”へ向かおうじゃないか、ガルシア。お前がかつて愛してやまなかった楽曲を弾きに行くといい。
私の狩りに華を添えておくれ、私の愛する者よ。
(頷く)
――!
ギエエアア――!
(ガルシアがシーボーンに襲いかかる)
キミ、鱗ナイ、食ベ物イル?
(取り囲む不気味な声)
栄養、コレデ足リル。デモコノ海、完璧ジャナイ。生キ物、無駄死ニスルダケ、循環、デキテナイ。
ダカラ早ク――
(アルフォンソがシーボーンに襲いかかる)
――ドウシテ?捕食、意味ナイ。ボクタチ、ヤルコトアル、一族ノヤルコト。
貴様で十何匹目だ?バケモノめ。いつから人の言葉を覚えた?
ほう……いや、見覚えがあるぞ、小魚め。我々が貴様らの父母を食らっていた時、貴様と貴様の兄弟たちは、傍らで見ていただけだったな。
貴様はあの中で一番か弱い一匹だった、哀れな畜生だ。
アルフォンソは嘲りながらシーボーンの傷口をえぐり、血液が切っ先から地面に垂れていく。
ボクタチハ血族。キミハボクタチヲ食ライ、ボクタチニナッタ。昔、ボクタチノ親ガキミヲ食ライ、君タチニ食ラワレタヨウニ。
貴様らが何かしらの条件で変化を遂げるというのならば、味わうための顎なり喉なりに進化することはできないのか?肉は美味いぞ?
捕食ハ、生キルタメ。捕食、イイ悪イ、ナイ。
そうか、それは残念だ。
ここで……匂いが途切れてますわね。
わたくしを誘うために、彼はこの匂いを……
……
グレイディーアはその狩人の行方を深く追究しようとしなかった。
周囲を見渡す。
船に上がってから、ここに用いられた素材も装飾も技術にも、とても懐かしさを感じる。
ブレオガン、科学院の天才と称されたエーギル人。疑いようもなくここは彼の領域だ。
数十年も船が沈んでいない謎は、彼がエーギルに伝えたいメッセージと、源石と陸の技術を結合した新たな産物にあるのかもしれない。
それは一体、何なのだろうか?
グレイディーアは懐から鍵を取り出す。
彼女は周囲をしきりに見渡した。
ブレオガン……あなたはどこに秘密を隠しているの?
(なんでこの船はこんな宮殿みたいな造りになってるのよ!?しかもほとんどは無意味な装飾だらけ、おまけに彫刻まで置いてあるなんて……)
(いやそれよりも、彫刻も絨毯もキレイに掃除されてる……ウソ……こんな環境下で?)
(どこからか伝わってくる音楽)
……これは、ピアノの音?
あっちね!
……!
アイリーニが足取りを緩める。
回廊の突き当りで、彼女が扉の隙間から見たものは――
――シーボーンが一匹、崩れんばかりのボロボロのピアノを弾いている光景だった。
(アルフォンソの傍にいたシーボーンだわ……!しかしなぜこんなところに?)
(嬉しそうに鍵盤を叩く)
うっ、うるさい……あれじゃあ弾いてると言うよりは叩いてるだけだわ……
(アルフォンソは見当たらないわね……シーボーンを追っかけに行ったのかしら?じゃあなぜコイツは独りでここに……)
(コイツはとりあえず放っておこう……)
――嗚呼、浜辺よ、海岸よ♪
――えっ?
(さっきのメロディ、ただの聞き間違いかしら?今もただ無作為に鍵盤を叩いてるだけのようだし……)
いや……手が止まった?
……
……浜辺……アア、海岸ヨ……
英雄ト……偉人ニ別レヲ……
――
――!ッ……!
驚いたガルシアは振り向く。恐れ。アイリーニはヤツの挙動に恐れがあると感じ取った。
狩人と対面した時にもなかった、とてつもなく、しかしどうしようもない恐れだ。
あなたさっき、ピアノを弾いてなかったかしら……?
さっきのあれは……イベリアの軍歌……?なぜ……あなたが?
ウググ……!
……
…………
アナタ……
い、意識がまだあるの?まさか、まだ人としての意識が?自分が誰だか分かる?
いや、でも……もうこんな姿に成り果ててる。裁判所はこういったアビサル教徒と大勢対処してきたから分かるわ、こうなってしまえばもう元に戻ることはない……
(ガルシアがアイリーニに近づく)
……
な、何をするつもり?伸ばしてきてるその手はなにッ!?
(用心しながら、優しくアイリーニの頭に手を置く)
なっ……どういうこと?
……
ウェディングベールにも似た薄布を通して、ガルシアと称されるシーボーンがアイリーニを見つめる。
濁りきった瞳だ。苦痛が煮えたぎっている。しかし――
――慈愛と物懐かしさにも満ち溢れていた。
あなた……やっぱりまだ人としての意識が……
でもあんなにも長い歳月が経ってるのに、なぜ……
(爆発音)
――!
――船、長――
な、なに!?
(ガルシアが立ち去る)
待ちなさい!
……捕食、捕食。キミノソレ、捕食ジャナイ。キミノ目的、ドンドン変ワッテル。動揺。ソウ、動揺。
チッ。
そのままピアノを弾いておけばよかったものの、なぜここへ来た、ガルシア?お前はこんなものと接触すべじゃ……
(わずかに首を振る)
……フッ。
であればヤツを押さえておれ、ヤツの身体は刻一刻と変化し続けている。さっさと狩らねばな。
(ガルシアがシーボーンを押さえつけ、アルフォンソが斬り刻む)
キミタチ、オ腹空イテナイ。
ドウシテ?
(アルフォンソがシーボーンを何度も斬り刻む)
アルフォンソはシーボーンに答えなかった。彼はただまな板に置かれた肉を相手にするかのように、斬って斬って、斬り刻んだ。
ガルシアもシーボーンに噛みついて離さない。ばたつく中、彼女の冠が地面に落ちるも、拾おうとはしなかった。
アルフォンソはシーボーンの髭を斬り落とし、髭は冠の傍に落ちた。それを見たガルシアが一瞬だけ、ピタッと動きを止めた。
ああ、ガルシア、ガルシア。
己の冠とその髭を見なさい。今の自分がどういう姿をしているのかが分かりましたか?
……バイバイ。マタネ。
ガルシア!
――!
声に応じて顔を上げるガルシアだが、シーボーンはすでに姿を消していた。
彼女は静かに冠を拾い上げ、また頭部に被せた。そしてアルフォンソの傍に寄り、優しく彼の手を触れ、謝罪の意を表した。
……怪我をしたのか、私のガルシア?それともあの招かれざる客人のせいで、気が散ってしまったのか?
……
ガルシアは答えない。
言えなかったのだ。シーボーンを噛み千切った瞬間、“同族を噛み千切っている”と感じてしまったことを。
言えなかったのだ。改めて自分のかような姿を認知したせいで、後ろめたさを抱いてしまったことに。
……心の奥でナニかが湧き上がったということは、お前がまだ人間であることを意味する。ジェミーが言った最後の言葉を忘れるな、“悔いも惜しくも、恐怖もない”。
何も感じなくなってからが、人でなくなったバケモノだ。
そう気を負うことはないさ、次の狩りもすぐにやってくる。ヤツならきっと戻ってくる、またいつものようにな。
……(頷く)
……どうした?
(わずかに首を振る)
……使者。
……同胞ダ。デモ、鱗ガナイ?
ひどい怪我ですね。生まれたばかりのあなたは、この船に上がるべきではありません。
同胞。ココニイル。助ケ、アゲル。
ええ、そうですね。しかしその同胞はあなたをのけ者にし、傷付けた。
彼女らはまだ己の正体を受け入れられていないのです、まだ迷っているのですよ。
正体?受ケ入レル?
……分からなくとも結構です。この海はまだ完成されていません、一族を率いるためにも、あなたはもっと進化しなければなりません。
時間ト、栄養。欲シイ。
時間も栄養も私が与えましょう。
あの不敬極まりない船長は恐魚を狩って食らうも、手段を尽くして変質を拒んだ。循環を奪うも、その循環の受容をも拒絶した。
ここにいる海の子らの血肉はすべてあなたのためにある物ですよ、あなたこそがその養分を食らうべき存在です。この船が、新たな生の誕生を阻んでいるのですね。
どうか私を拒まないでくださいな、使者よ。いずれこのテラは、巣窟に成り代わる言葉となりましょう。
……
拒マナイヨ。同胞。
時間。ソンナニイラナイ。
バイバイ。マタネ。
てっきりあのまま襲ってくるのかと思っておりましたよ。
待ってくれたことに感謝すべきなのでしょうかね、ウルピアヌスさん?
あんなバケモノなど、いつだって簡単に殺せる。今のアレはクイントゥスにも劣るぐらいに弱い。
我慢強いお方なのですね。
グレイディーアはサルヴィエントでアビサル教会に委ねて、何かを企もうとしていた。まあ無論、ヤツの性分がそんなことを許してくれるはずもないがな。
それはあなたたち全員に言えたことだと思っていたのですけれど、違っていました。それとも、あなたは比較的特殊なのでしょうか?
それと、私に対しての口数も増えましたね。
……
はぁ。そんな急に黙られては困ります、ウルピアヌスさん。
気安く俺の名前を呼ぶな、リーベリ。貴様はこの名が何を意味しているのかを分かっていない。
俺たちは敵同士のままだろ。
けどあなたの本心はすでにそう思っておりませんよ。あぁ、でもそうですね、確かにあなたはまだ“敵意”を抱いておられる。
さながら飢えに苛まれてる流浪人のように、山間で凍え死にそうになった飢えた獣のように。
……
ブレオガンが残していった物を見て、満足されましたか?
いいや、まだ足りんさ。
シーボーンの存在がエーギルよりも古いとなれば、ヤツらの歴史が捻じ曲げれたことにはそれなりの原因があるはずだ。
貴様らは神の言葉をいたく気にしているようだが、好きにするがいいさ。シーボーンは神ではない、無論ヤツらの生みの親もな。
貴様らの神の死に様なら俺は見たことがあるぞ、悲鳴は海を超え、血肉は深海までをも覆った。一族が頭上を飛び回っていたが、俺はエーギルの未知なる領域を見た。
この目でしっかりと見たさ。俺が過去に築き上げてきたどの信念をも打ち砕くほどのものではあったが、それでも俺はもう一度建て直してやろう、エーギルを支えてやるために。