(アーツ音とゲルトルートの走る足音)
そこに跪け!
(アーツ音とエーボンホルツの走る足音)
させるか!
(フルートの鳴る音と爆発音)
よくもまだ反撃ができたものですね……
今度は全力でいくぞ、ゲルトルート!
(アーツ音)
なっ――私をハメたな!?
どうした、まさか貴殿にもやむを得ない時があるとはな!
フッ、まだまだぁ!所詮貴方はヴェルトリッヒ・メロディエンのお力に頼っているだけ……アーツの実力を語るのであれば、私の足元にも――
(アーツ音)
ハァ!!
(アーツ音と爆発音)
ぜぇ、ハァ、ぜぇ……
や、やったか……
……ふふ、ウルティカ伯、まさかこの私が貴方に負けてしまうとは。
負けを認めるとは意外だな。
ええ、負けは負けです。認めないからといって、勝ちに変わるはずもないでしょう?
貴殿は……なぜまだそんな落ち着いていられるのだ?
あなた方なら私をどうこうすることができないからですよ。
私はこの都市の領主であるのですよ?あなた方は私が管理するザールへ足を踏み入り、あまつさえ私の許可を経た改造品を取り外そうとした。
ましてやあなた方を止めようとした私に、却って危害を加えようなどと――
自分たちの身の心配をしたほうが賢明でございますよ、ウルティカ伯。貴方様だけではない、ロドスの人も、ツェルニー殿もそう。
その捻くれた卑劣さは救いようがないな、ゲルトルート。
それが十数年もあなたに資金援助をしてきた金主に対する態度ですか?よくもこの私に向かって卑劣と言えたものですね。
ツェルニー殿、あなたがあのザールを使えているのはこの私のおかげなのですよ?
たかが感染者であるにも関わらず、今あるその身分も、この私があなたに授けたものです。
あなたの愛するこのアーベントロートも、私の慈悲のおかげで辛うじて今日まで生き長らえているだけに過ぎない。
それを努々お忘れなく
貴様、どこまで救いようがないのだ――!
さあ皆さん、どうかお引き取りを。
……
それはどうだろうな。
ウルティカ伯という身分は、リターニアにおいてはある種の屈辱だ。
それは私がどこに至ろうが、女帝の目から決して逃れられないことを意味している。
それがどうかなさいましたか?先ほども申し上げましたが、私のザールを破壊しようとしているのはあなた方のほうです。
いくら女帝の密偵がここで現れようと、捕らえられるのはあなた方であり、私ではない。
ベルク、出てこいベルク!
いるのは分かっているんだ!最初から見ていたのだろ!
まさかまだ傍観に徹するつもりか!?
(ベルクが姿を現す)
俺が見たのは、あのウルティカ伯が堂々と人を連れて、深夜にザールへ忍び込んだことだけです。それ以外は何も見ちゃいませんよ。
彼女の陰謀が聞こえていなかったのか!?
それはシュトレッロ伯の陰謀のことですか?それともシュトレッロ伯とウルティカ伯が手を組んだ陰謀のことですか?
なっ……
でもまあ確かに、話は全部聞かせてもらいましたよ。
だが、あなた方の会話をすべて録音したところで、それを立証することはできません。
証拠ですよ、ウルティカ伯、何事も証拠ってヤツが必要なんです。シュトレッロ伯が女帝陛下に謀反を起こそうとする証拠はあるのですか?
証拠だと……この期に及んでまだ証拠を求めるか……
そうだ、メロディエン!
下水道でメロディエンに関する研究資料を一緒に見つけたじゃないか!
……なに?
フッ、あれね。
まっ、これで貴方もバカじゃないってことぐらいは分かりましたよ、ウルティカ伯。
なんの研究です?私にはさっぱりなのですが。
この期に及んでとぼけたって無駄ですよ、シュトレッロ伯。
確かに、貴方はあの実験室に置いてあったノートと計画書に直接的な関わりはないかもしれないが、こっちにはこっちのやり方ってもんがある。
下水道で見つけた手がかりさえあれば、貴方が関与したっていう証拠を見つけ出すのも難しくはありませんよ。
現時刻をもって、貴方には陛下が明確に禁止を言い渡したヴェルトリッヒ・メロディエンに関する研究に関与した疑いが生じた、ご同行願いましょうか。
……
ちょっと待て、彼女がメロディエンの研究に関わった容疑だけなのか!?まだほかにもあるだろ!
もう一度申し上げましょうか、ウルティカ伯、それと貴方のお連れさんたちにも。
確実な証拠を得ない限り、あなた方が言ってた事態が確実に起こり得ると証明してくれない限り――
あなた方の彼女に対する指摘はすべて侮辱罪として見なされるだけですよ。
ならそのメロディエンの研究資料とやらを見せてください、きっと詳細な証拠を見つけ出してみせますから!
残念だが、あれはリターニアの機密情報なんだ、国外からやってきた部外者に見せるわけにはいかない。
そんなの言いがかりです!
この大地には自分の思うままに進まない物事がたくさんあるのだよ、フロイライン。
でも……!
もういい、ハイビスカス。
私たちが何を言おうが意見を曲げてはくれないさ、我々が今掴んだものだけではシュトレッロ伯を断罪することはできない。
彼が現れたのも、シュトレッロ伯を別の容疑で断罪するに至れる証拠を見つけただけだ。
私の呼びかけに応じて姿を見せてくれたことに感謝せねばならんな、ベルク、親愛なる密偵殿よ。
シュトレッロ伯より貴方のほうがまだマシだったってだけさ、ウルティカ伯。
それと、ツェルニーさん。
なんだ?
今はもうシュトレッロ伯は我々が取り押さえましたから、ありもしないことで心配する必要もありませんよ、コンサートはもう安全です。
でもまあ無論ですが、コンサートは中止したほうがいい、それが一番穏便なやり方ですからね。
てっきり明日のコンサートは禁止と言い渡されるのかと思ったぞ。
開催するかどうかはお好きにどうぞ、あなた次第ですんで。
さあ、シュトレッロ伯、貴方の女帝陛下に対する忠誠心はよく分かっています、だからご招待させて頂きましょうか……我々のささやかな朝食に。応じてくれますよね?
フッ、こんな未明の時間帯に朝食とは、随分と朝が早いのですね。まあいいでしょう、喜んでご招待をお受けいたしますよ。
ウルティカ伯、いずれ私を裏切ったことで後悔することでしょうね。
ああ後悔するさ、この先色んなことでな。だが貴殿にだけは絶対にしないさ。
(ベルクとゲルトルートが立ち去る)
行かせちゃいましたね……
ゲルトルート……
まだ彼女に何か言いたいことがあったのか?
フッ、汚い言葉も含めるのであればな。
クライデはまだ目を覚まさないのか……
彼のことは任せてください、もうじきロドス本艦に帰還しますので、その際は彼も一緒に連れて行って、そこで治療します。
連れて行くのか?
はい、ロドス本艦でないと真っ当な治療は受けられないので。
それはダメだ。
なぜですか?
彼の症状を抑えられたとして、メロディエンはどうするんだ?
貴殿らの医療水準を疑っているわけではない、だがメロディエンまでをも片付けられる保証はあるのか?
……ありません。
しかし、もうこれしかないんです。
先に言っておきますが、ゲルトルートが言っていた、コンサートでの演奏ならメロディエンを除去できることをまだ信じているだなんて言わないでくださいね?
すまないが、今はもうそれを信じるしかない。
なっ――
一つ聞くが、ヴィシェハイムからその本艦とやらに着くまで、どのくらい時間がかかるんだ?
……
答えないということは分かっているのだろう、それまでにクライデはもう持たないと。
しかし、たとえゲルトルートの言ってたことが本当だったとしても、自分を犠牲にしてまですることですか?
私にしかできないことなら躊躇う必要はないだろ。
ハイビスカスは呆然としてしまった。
目の前にいるこの青年の目つきは、当初出会った時とはまるで違うものであった。
彼は本気だ、彼女はそう思った。
分かりました。
可能な限りお手伝い致しますが、それでもこちらのメロディエンに対する理解はあまりにも浅いままです、とりわけあの伯爵の口から聞いたものばかりですから、真偽も不明で……
(お爺さんが近寄ってくる)
どうやら間に合ったようだな。
お爺さん!どうして……
メロディエンに関する情報が欲しいのであれば、ここに計画書がある。
……!?
お爺さん、あなたまさか……
まさか貴殿もベルクと同じ……
ああそうさ。
ピンと来たかもしれんが、クライデは当時の計画の生き残りだ。
まあ、女帝陛下がこんな不確定要素を野放しにするはずもないがな。
しかし君たちは共に十数年も流浪してきたではないか!
だからこそ疑われずに済んだのさ。
しかしベルクさんが言うには、これは機密情報なんじゃ――
こっそりヤツから盗んできた。
クライデさえ救えるのなら何だっていい、それで計画の情報が外に露呈してしまおうが構うものか!
ゴフッ、ゴホッゴホッ!
お爺さん、落ち着いてください、もうお年を召したんですから……
計画書は私が読んでおこう。ハイビスカス殿、君はご老人を休ませてやってくれ。
……分かりました。
……お爺さん、クライデさんは、このことを知ってるんですか?
教えてはいないが、彼は賢い子だ、きっと薄々気付いているだろう。
なんて残酷な……
残酷か。
フッ。
フロイライン、わしがなぜ感染者になってしまったか知っているかい?
……いえ。
きっと耳にしたことはあるだろうが、女帝陛下が権力を掌握するよりも前、リターニアは古典アーツの探究の頂点に達していたのだ、これ以上超えられないとも言い換えれる。
はい、それは知っています。
では、その高みへ至るまで、リターニアがどれだけの犠牲を強いてきたか分かるかい?
夥しい人の命、その中には感染者をも含むと。
そう、感染者。
あの時代、一部の選帝侯は定期的に一定数の感染者を交付するノルマを定めていたのだ。
だが感染者とて人だろ、むざむざ殺されるのを待っているはずがない。
それで最後、一体何が起こったと思う?
まさか……!?
そのまさかだよ。
……源石で腕を切られたら、その人も晴れて感染者だ。
わしはそうやって感染してしまったのさ。
旋律……旋律だ!まさかメロディエンは巫王が残した旋律だったとは!
そうだったのか……
いや、少し考えれば分かっていたことではないか!
巫王はこのリターニアで最も強大な術師であったと同時に、リターニアで最も恐れ多い音楽家でもあった。
音楽に対する造詣は非常に深く、その探究に対する情熱はアーツの研究にすら勝るとも言わしめられたほどだ。
だがリズムも調性もテクスチュアも……これら音楽を構成する必要不可欠な美は、尽く無価値なものであるかのように巫王に投げ捨てられた。だから巫王がこの世に残した曲の数々はどれも人の心を蝕み、そして壊されてしまうほどの危険性を帯びるものとなってしまったんだ。
彼の作品はどれもリターニアでは禁曲に指定されている。仮にメロディエンが本当に巫王の残した旋律だとすれば――
メロディエンは紛れもなく巫王が残した作品であり、君たちはその作品の延長線とも言える存在にあたる。
私たちはヤツの作品などではない!
だが事実だ、それを認めなさい。しかし、そうだとすれば……
方法が見つかったのか?
ああ、オリジムシを追いやった時のあのセッションを再現するという方法がある。
あの時、君たちはその身に宿るメロディエンを掴めたのだろう?
セッション?今ここでやるのか?
今の状況を分かってそれを言っているのか?
分かっているさ、君よりも断然に!
だがクライデは――!
(クライデが近寄ってくる)
ツェルニーさんの言うことを聞こ、エーベン。
クライデ、もう大丈夫なのか?まさか一人でここに……?
アンダンテさんが送ってきてくれたんだ。
そうは言うが、貴殿はこれ以上メロディエンの旋律とシンクロしてはダメだ、前回で痛い目に遭ったのを忘れたのか……
でも悔いを残したくないんだ。
それでツェルニーさん……方法は?
仮にメロディエンが一つ一つの旋律であるのなら、かつて君たちを実験台にした巫王の残党にしかり、それかゲルトルートにしかり……
きっとその旋律に含まれているアーツ、あるいはその逆、アーツに含まれている旋律を引き出そうとしていたに違いない。
つまるところ、ヤツらはメロディエンの奥底に眠っている深奥を掘り出そうとしていたということだ。
有り体で言えば、メロディエンをより“はっきり”と、そして“美しく”奏でようとしていたのだ。
そこで一つだけ、はっきりしたことがある――
メロディエンを“転移させる”方法だが……この計画書にはどこにも書かれていなかった。
……そうだろうな、もう驚きはしないさ。
実行するのは困難だったから書かなかったわけではない、むしろその逆だ、ヤツらからすれば、メロディエンを転移させることは即ち、天からの恵みを徒に穢す行為に当たると考えていたのだろう。
巫王が残したメロディエンの旋律は様々だ。作られた時期が異なれば、その中に含まれる感情や思考も異なってくる。
考えてもみたまえ、異なる楽曲を一つに繋ぎ合わせてところで、それがまともな曲になれると思うか?
だから君たちが以前のようにメロディエンを奏で、触れようとすればするほど、それだけメロディエンの影響は増幅し、やがて災害レベルのものになってしまう。
あのオリジムシたちが逃げていったのは、単に君たちの演奏があまりにも耳障りだったに過ぎなかったからだ。
じゃあ、彼らも本当は転移しようと試みたけど、その結果はあまりにも危険過ぎるものだった……ということですか。
そうだ。
とはいえ、いくら異なる旋律でも、充分な練習とアレンジを加えれば、一つに繋ぎ合わせられないこともない。
だから君たちには、私の『朝と夕暮れ』を演奏してもらう。
それだけではない、君たちにはこの楽曲を演奏する中で、自分を見出してもらいたい、すでにあの時一度はやったことがあるはずだ。
そこで君たちが奏でるメロディエンの中から君たちの旋律を見つけ出し、君たちのために私が一曲書き上げてやよう。
待ってください、メロディエンを転移するにしても器が必要になります。
それに実験結果を見るに、異なる二つのメロディエンを埋め込まれた人の実験は失敗に終わったって書かれているので……
私がその器になる、ということか?
それっぽっちの覚悟で自己犠牲が為されるとは思わないことだな。
こちらもなるべく君たちの体内に宿るメロディエンを引きずり出すように努めよう、私のピアノ演奏でな。
仮にできなかった場合、私がその器になる、なれればの話ではあるが。
……どうしてそこまでしてくれるのだ?
……
確か、私の『朝と夕暮れ』は君がフルートを習うきっかけになった曲だったらしいな。
そうだが、それがどうした?
ならこの曲がどうやって産まれたかは知っているはずだ。見知らぬ人にそれを知られるのは甚だ不愉快ではあるが、あのゲルトルートがそういった要素を私の“チャームポイント”に仕立て上げてな、そのせいで広まってしまった。
確か一番親しかった友人を失い、悲しみに暮れる中、この曲を書き上げたとか。
“悲しみ”か。
表現としては半分正解だな。
だが、“悲しみ憤った”と言ったほうが正しい。
我々の暮らしは自分たちが思ったようになってはくれないのだと、その時に初めて理解したよ、音楽の意味も――
運命に抗うという意味をな。
一般人を感染者にしてしまうだなんて、なんて残酷な……
もう何度巫王に罵倒と呪いの言葉を投げかけたは忘れてしまったが、きっとそれまでに誰かの耳に入ってしまったのだろう。
おかげで私は実験所送りとなったが、女帝陛下が巫王を転覆してくださったおかげで、わしは首の皮一枚で助かったよ。
だから誓ったんだ、わしの命すべてを女帝陛下のために捧げると。
それで密偵に?
そうさ。
普段密偵がどういうことをしているかは、残念だが教えられない、君もそれを知る必要はないさね。
ただ、当時メロディエンを研究していた巫王の残党を炙り出した密偵が、このわしであることだけを知っていればいい。
我々がヤツらを発見した時、すでにクライデの実験は失敗に終わっていた、あの子の今ある体質もそこから来たんだ。
……けど、彼を助けようとはしなかった、ですよね?
なぜそれを知っている?
私の知る限り、双子の女帝が即位した後、巫王時代に行われたすべての研究は禁止されました。そしてメロディエンに関する研究も、そのリストの中に含まれていると。
それほどメロディエンが強力なものであるのなら、巫王が転覆された二十年間も表沙汰にならなかったとは到底信じられません。
何より、「巫王が残されたかの痕跡」や「巫王がかの旋律に残されたお力」は、どれも主語は巫王のことを指していました。
メロディエンの探究は、言うなれば巫王自身への崇拝とも捉えられるかと。
それからベルクさんのスタンスを見るに、密偵の原則は、女帝のために利益をもたらすことにある。
つまりあなた方からすれば、メロディエンはなんら女帝にいかなる利益も生み出せないものであると。
以前はあんな無鉄砲なことばかりをしていたものだから、君はなんとも愚かなのかと思ってしまっていたよ、フロイライン。
だが今ようやく分かった、君は自分の才覚をどう使えばいいのかが分かっていないんだね。
うっ……
君の言う通りだ。わしがあの計画書を君たちに渡した以上、あの文書に関してはもう隠し通す意味もない。
メロディエンは非常に特殊だ、あれは紛れもなく巫王がこの大地に残した余韻であり、底知れぬ力が含まれている。
だが巫王がその内に自らの分身をも残してくれたと信じれるのは、あの巫王の熱狂的な狂信者たちだけだ。
メロディエンに含まれている力はあまりにも独特過ぎるがゆえ、普及することはなかった。
少なくとも、今宮廷にいる術師たちからすれば、メロディエンの研究は一文の価値すらないことなのかもしれない。
だからこそ、エーベンホルツとクライデの処置が一つの問題となってしまったのだ。
エーベンホルツは比較的安全であるから、彼が選ばれたと……?
そうだ、我々は必ずこの計画の失敗と終わりを告げなければならない、身体に問題がないエーベンホルツは自ずとその最善の適材だ。
クライデは身体に問題が生じてしまったために、やむを得ず……死を迎えてしまうがな。
せっかく巫王の残党から逃れたのに、死ぬしかないんだなんて……そんなのあんまりです!
君からすれば、我々のやり方は人の道に反しているように見えるかもしれん。
だがたくさんの悲劇を、血も涙もない連中が引き起こした悲劇を経験すれば、きっと分かってくるはずさ――
何事にも私情を挟んではいけないのだよ。
君はベルクを……彼も血も涙もないヤツだと思っていたんじゃないのかい?
確かにそう思いました。
そうか、なら君は何も分かっちゃいないな。彼がここアーベントロートで十数年暮らし、ここの者たちと日々を過ごしていくうちに、アーベントロートにどれだけ強い思いを抱いてしまったことか。
彼はゲルトルートを八つ裂きにしたくて堪らないのだよ、だが彼にそんなことができる力はない。
彼の言ったことに一番憤っているのは自分なのだと、君はそう思っているのかね?
……
ベルクさん……
それにだ、クライデはその体質のせいで、周囲に危険をまき散らす存在となってしまった、もはや誰とも慣れ親しむことはできない。そういった過去があったせいで、あの子はもう普通の暮らしを過ごせなくなってしまった。
そうするほかなかったのだよ、あの子は。
……しかしお爺さん、あなたは彼に感情移入してる、彼に死ぬ以外の選択肢を与えてあげているじゃないですか。
こんなものが選択肢なんぞ呼べるか。死に損ないのジジイと一緒に大地を彷徨い、チェロを学ぶも、その肝心なチェロにすらまったく触れられずにいる。
友だちもできず、人と慣れ親しむことすらでない、こんな日々が日常など呼べるものか?
しかし彼はまだ生きているじゃないですか。
……そうかもな。
震えるあの子の姿を見る度に、わしは今でも腕に痛みを覚えてしまうよ。
巫王……巫王め。
わしも、クライデも、知らぬ間に感染してしまった人や感染させられた人たちも……
巫王がリターニアに残した傷痕からは未だに血が絶えず流れ出してしまっている。あろうことか、今日にもヤツの再誕を望む者たちもいれば、巫王の残党たちが行った研究を匿う貴族共も現れたときた。
なんて恨めしいことか……
ヤツら全員を刑に処する日まで生きられないわしが憎い!
ゴホッ、ゴホッゴホッ……
大丈夫です、きっと生きていけますよ。
慰めはいいさ、フロイライン。
あの子とずっと一緒に暮らして、今日まで生きて来れたこと自体が奇跡のようなものだ。
わしにとってあの子は、本物の孫のようなものさね。
実はあの子をここへ連れて来たのは、あの子をベルクに紹介して、あの子にも密偵の仕事を斡旋してもらえないかと考えていたんだよ。
そうすれば、わしも少しは安らかに目を瞑れるからね。
……だが今となっては、密偵になろうがならまいがもうどうだっていい。
密偵として、女帝陛下にすべてを捧げるのがわしの運命なのだと、ずっとそう思っていた。だが今考えると、全てでもないらしい、フフフ……
お爺さん……
ガーン。
部屋の中から大きな物音がした。
!?
わしはここで少し休んでおくよ、様子を見に行ってやりなさい。
……もしどこか具合が悪くなったら、すぐに私を呼んでくださいね!
(ハイビスカスが走り去る)
当初、ヴェルトリッヒ・メロディエンに名はなかった。
なぜなら、巫王が棄てた旋律たちであったからだ。
だが宮廷にいる奏者たちはとっさに奮い立ち、手当たり次第にその旋律たちを――書き記していった。
巫王の非の打ち所がない楽曲がさながら深淵から伝わる怒号だとすれば、これら断片はきっと俗世に残された旋律なのだろう。
ゆえに、これら断片はヴェルトリッヒ・メロディエン、俗世の旋律と名付けられた。
とはいえ、巫王の力は依然として身の毛がよだつほど恐ろしい。
……
エーベンホルツ、さきほど音楽で純粋たる君自身を見出せと言ったが、そのためには今から――
十数年前の君自身の過去を思い出してもらう、君が感じた怒りや不平不満を存分に示せ。
音楽はその者の写し鏡であり、歩みであり、大地を覗き見る眼なのだからな!
その感情を隠すな、欺くな!手繰り寄せて、そして曝け出せ!君の魂の奥底にある旋律を引きずり出すのだ!
……!
み……見つけた……
そうだ、いいぞ、それなのだな!
これが、君の脳裏に刻み込まれた旋律……すべてを朽ち果てさせる、滅びの旋律なのか……
……
クライデ君、君にはその真逆のことをするんだ、自分を抑えろ。
君はあまりにも我を持たない、経験したすべてを包み込もうとしている。君の最大の弱点が君のその優しさなのだ、それを理解しているか?
和解?なぜ和解する必要がある?和解する必要などどこにある?誰も君に和解を強要することなどできるはずがない!
誰からの目に入っても自分こそが一番なのだと、そう思わずにはいられなかったこともきっとあったはずだ、違うか!?
……ボクは……
……
……こんな状況下になっても、自分の考えを改めるつもりはないのだな?
まあいい、それも個性だ。
それもいいだろう。
君の旋律も、確かに感じたぞ――
無、すべてを呑み込んでしまう無そのものだ。
くっ……
あぐっ……
持ち堪えろ!根性を見せるんだ!
二つの異なるアーツの力が屋内で絡め始め、青年二人もその顔から徐々に苦痛の色が浮かび上がってくる
そろそろ私の出番か、そうツェルニーは思った。
そのまま演奏を続けなさい、冷静に、慌てるんじゃないぞ。もしどこか不調を起こしたら、すぐにやめて構わん。
ただし、それが自分たちの身に起こったものでないのであれば――その時はすべて私に任せなさい。
ツェルニーはピアノの前に座り、深く一息を吸い、弾き始めた。
そして、あの二つの異なる力をまとめ上げようとするも、自分がいかに身の程知らずだったかを思い知らされる。
あれは強大で、怒りに満ち溢れ、恐ろしく、また悲しくもあり、血と悲鳴にまみれた――
しかし思わず聞き惚れてしまうほどの旋律であった。
彼は巫王に対して突如激しい憎しみを覚えたかと思えば、次の瞬間には心の底から憧憬の念が込み上がっていく。
また自分がまるで産まれたての赤子のように感じたと思えば、すぐに歳月は流れ去り、自分がひどく老いてしまった感覚に苛まれていた。
僅かに残留した己の理性を保持しようと努めるツェルニーであるが、しかし彼は自分がまるで果てしない荒野の中を突き進んでいる感覚に苛まれる。なんという砂嵐か、もはや目すらまともに見開けないほどである。
ツェルニーは必死に砂嵐を突き抜けようと試みが、その後、彼は天にまで届く高大な壁にぶち当たった。その壁には何もない、苦痛も怒りも、死すらも。
まことに、ただの壁なのである。
その時、彼は瞬時に理解した。これこそが彼が決して超えられない障壁であるのだと。
そして次の瞬間にも、彼の心は恐怖で満ち溢れてしまった。
ごふッ!
突如激しい咳に見舞われるツェルニー、その口から艶やかな血が噴き出す。
凄まじい咳であったため、身を起こして水を飲もうとしたが、よろめいてしまい傍にあった楽譜を地面に落してしまった。
おい、大丈夫か!?
ツェルニーさん!
(ハイビスカスが駆け寄ってくる)
外で物音がしましたけど、どうしましたか?
……なんでもない。
今やっと理解したよ、きっと私と同じようなことを試みた人は大勢いたのだろう、だがそのほとんどはあっけなく死んでしまったということか。フッ、ハハ……
フハハハハハ!
笑ってる場合か!?
そうですよ、ツェルニーさん、口元から血が流れ出してるじゃないですか……拭き取ってあげますね。
聞くが、さっきはどう感じた?
……メロディエンを引き出している最中はとても引き裂かれるような凄まじい感覚にあったが……
ツェルニーさんがピアノを弾いてから、少しだけだけど、プレッシャーが和らいだ気がする。
なら少なくとも、私の考えは実行できると証明されたな。
しかし身体のほうが……
血を吐いただけだ。君に言われずとも、私の身体は私が一番よく理解している。
さあ、続けよう。
ピアノの椅子に再び座り込むツェルニー。
そして目を閉じ、あることを考え始めた。
ツェルニーとは一体何者か?
ツェルニーとは臆病者であると、彼は答える。
その者はかつて親鳥の翼に匿われるように、親友と師に守られながら、音楽だけで人生を過ごせるのだと高を括っていた。
だが、親友は死に、鉱石病に苛まれ、経済の困窮で嫌というほど気付かされた、自分はただの凡人に過ぎないのだと。
死んでしまうぞ。
私が今日まで生きて来れたのは、ゲルトルートにまだ価値があると見出され、惜しまず薬代を出してくれたおかげだ、一般的な感染者よりも数年は生き長らえてきた。
だが、今日ここでこの曲を完成しなければ、私は死んだも同然と言えよう。
もし私に意味を見出してほしくないと思っているのなら、今ここでそのフルートを吹き鳴らして私を殺すといい。
……
ツェルニーとは音楽こそが己の全てだと思い込んでいる者であると、彼は答えた。
彼がまだ無名で、我が家を飛び出し、明日我が身がどうなろうかも分からず、音楽の美に突き動かされることもなく、憂慮に堪えないアーベントロートの住まう人々の表情を見た時……
彼がやむを得ずゲルトルートの提案を受け入れ、巫王が残したコンサート会場で、まるで絶滅危惧種が如く貴族たちに鑑賞されていた時……
あまりにも生活が複雑化してしまい、自分の部屋に縮こまりたいと思った時……
音楽が彼のその逃げる足取りを阻止してくれていたのだ。
私にとって音楽が全てではないが、少なくとも音楽で己のすべてを表現できる。
クライデ君、演奏が弱いぞ。
でも……
私に構うな、君にそんな資格はない!
これは君の生死に関わる問題だ、私のではない、無私の奉仕が美徳であると思うな!
君の捧げる行為は一種の負担でもあることを理解しなさい!
叫べ、そして感情を解き放つのだ、君が手に入れるべきだった報いを掴み取れ!
……はい……分かりました。
最後に、ツェルニーとは運命に抗う者であると、彼は答えた。
そのいわゆる運命への抗いとは、音楽を用いて己の運命に抗うことを意味しているのであろうか?
いや違う!音楽は彼の藻掻き足掻く姿であり、彼の怒号、彼の歌であるのだ。
彼は音楽の理想を掴めずに死んでしまった親友のために藻掻いてきた。
声を発せぬ人々のために怒号を上げてきた。
苦しみに生きるも、なお心に喜びを持つ人々のために歌ってきた。
であれば、彼の演奏は他者のためにあるものなのだろうか?
それも違う!悔恨の情に満ちた親友の死を、声を発せぬ人々が集う街々を、苦しみの中に喜びを見出す人々のために音楽をもたらしたことを、彼は何よりも知っていた。
再び巫王の名を冠する高大な壁に立ちはだかるも、自分は決してこの壁を乗り越えられないことも、彼は何よりも理解していた。
だが今は、親友と共に分かち合った音楽への喜びを、アーベントロートに住まう人々からの敬愛を、日々目に入ってくる朝日を、彼は思い浮かべていた。
そして彼はこう答えたのだ――
私の相手はもはや巫王にあらず、この私自身だ!
……ゴホッ、ペッ。
ツェルニーさん、また血が!
……
(私の声がまったく届いていない……)
……
ボクたちは少しだけ休もっか、エーベンホルツ。
でも――
もうここにボクたちがいる必要はないよ。
ボクたちのやることと言えば、身体を休めて、ツェルニーさんが新曲を書き上げるのを待つことだけだ。
……ハイビスカス、彼を診てやってくれ。
……私よりも先に倒れさせはしませんよ。さあ、休んできてください。
もはやツェルニーの敵は巫王ではなくなった。
いくら巫王が数々の罪を犯しても、自分が巫王を唾棄しても、彼は認めざるを得なかった。音楽に善悪も良し悪しもないのだと。
ゆえにこの時より、彼は自分自身を相手取った。
もうあの絶望してしまうほどの壁を登る必要はない。
ピアノを奏で始めるツェルニー。
途端に彼の足元から台が現れ、そのまま彼を連れてぐんぐんと上へ昇っていき、やがて雲すらも突き抜ける。
たとえその壁に果てが見えなくとも、もはや気にすることはない。
荒れ狂う力が自身の体内で暴れ回ろうが、それで堪らず血を吐き出そうが構うことはないのだ。
そんな傍らにいるハイビスカスは、とある錯覚を覚えた――
ツェルニーの命が凄まじい速さで流れ去っていく、同時彼が書く記した音符たちが声を荒げて吼えているのを、彼女は目にしたのだ。
持っていけ、持っていくがいい!私の全てを持って行くがいい!
今日こそが、このツェルニーの死期なのだ!
されどとこしえに、我ツェルニーの音楽は不滅なり!
そして夜が明けてきた。
ゴフッ、ゲホッ……
できた……ぞ……
すごいです、ツェルニーさん!でははやく治療を――
その音楽家は身を起こそうとしたが、上半身がピアノに野垂れかかってしまい、夜が明ける黎明に不協和音のコーダを残すのであった。