未だ茫漠とした鴻蒙であった頃、私はたかが一顆の果実のために、相争っていた頑童たちを見たことがある。
二人とも、年齢も体格もさほど変わりはない。だがその内の一人はより素早い反応を見せ、繰り出される拳も重く、そのまま相手を地面に叩き伏した。
当然ながら、果実はその子の戦利品となったのである。
勝者は歓喜し、敗者は垂涙した。
そしてあの神殺しの巻き狩りも、私は見てきた。
ヒトは及びもつかない“神々”に宣戦布告し、その矮小な存在らは屍河血河を生み出しながらも、見上げたところで目にも及ばないほどの神明に打ち勝った。
そして勝者は生き残り、敗者は消滅した。
果たして“武”とは何か?
それは力量か?技量か?はたまた単なる殺人の術か?
ひと一人にどれだけの力量を有したところで、千軍万馬に勝てるはずも、高速戦艦に敵うはずもない。
もし暗殺や闇討ちこそが技量と称するのであれば、殺人の術である“武”を極める必要などないはずだ。何故それを学問へと昇華させる必要があろうか?
その関隘を通るのは至難の業だった。だからこそ、その答えを求めるために、私は力量を捨て、“己”を剣に封印し、ヒトとしての躯体を作り上げた。
それからどれだけの時が経った?
こうして無作為に、思うが儘に拳を振るうことを許してくれる相手と再び遭逢するまで、どれだけの時が経ったのだろうか?
八回目。
先手を取られた宗帥は、一歩退いただけであった。槐天裴の拳撃は宗帥の掌へ当たる前にはすでに、その勢いを失っていた。
(骨がきしむ音)
ハァ……ハァ……
武を修め始めて四十年。俺は未だ山にぶち当たったこともなければ、一度だって負けたことはない。
最初に入門したところの師匠は俺を教え始めてから半年しか経たないうちに、もはや教えられるものはなくなった、他の名師たちを探すがいいと言い捨て、俺に手を払った。
その後、また何名かの師匠に師事するも、どこも一年半年も過ぎれば再び俺を師門から追い払った。
この世には優に百をも門派が存在するが、人間の身体にはせいぜい二本の腕と脚しか生えていない。にも拘わらず、なぜあのように数多の外連と型が生み出されるのだろうか。
俺は、俺だけの武功を修めたい。
より拳を重く、足取りを素早く、狙いを的確に。
だが、今目の前にいるこの人は……
九回目……
ワイ・テンペイの重々しい拳撃はそのまま宗帥の横を捉え、その退路を封じ込める。
しかし宗帥は動じることなく、槐天裴と同じように反撃を繰り出し、槐天裴の攻撃を勢い半ば、そのまま打ちのめした……
勝敗はすでについているはずだ……この世の中に、こいつの攻撃を九回も凌げたヤツなどどこにいる?
俺は一種の錯覚をこいつから覚えた。仮に自分が石であった場合、今対面しているこいつはより大きな石ではなく、深い深い水溜まりそのものだ。
そしてその水底には、すでに無数もの石が堆積していた。
人が“武”を習えども、なぜ“武”そのものに勝てると言えようか?
だがそれでも、俺は今でもここに立っている。
ワイ・テンペイは両足を深く砂の中へ埋め込み、体勢を安定させ、精神を集中させながら息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
しばらくして、彼は再び型を構え出したのである。
山岳を移せば湖河すらも埋めることができる。もし今もこの寒潭を埋めることができないのなら、それはまだ埋めるための石が小さく、重さも足りていないということだ!
(喀血の声)
俺の、負けだ。
俺は、負けたのか……?
じゅ……十回目。
その録武官は、先ほどまで辛うじて綴ることができていた筆をとうとう止めてしまった。
彼は分からなかったのである。先ほど繰り出された一撃を、どう形容すればいいのかを。
あれは極めて単純な一撃であった。両者は技を繰り出してから離れるまで、如何ほどの工夫も変化も含ませなかったその攻防は、さながら食物を奪い取るために全力で相争う子供同士の喧嘩のようであった。
だがしかし、ここで彼ら両者が奪い合っているのは、“勝利”である。
録武官が師の顔から苦痛を耐え忍ぶ表情を見たのは、これが初めてであった。
そこへふと、風が起きた。
……宗帥の、勝ちです。
……
(喀血の声)
ワッハッハッハ!
ハァーッハッハッハッハッハ!!
やはり貴公は、勝敗に拘りはなかったようだな。
勝敗に拘っていなかったわけがないだろ!
やはりお前は天下一の武人だ。
しかし、武を修め始めて四十年にして、お前に一撃を与えることができた。ならあと三百六十年続けていれば、お前を完膚なきまでに叩きのめすことができるってことだろ?ハハッ、その時は俺が天下一だ!
(ワイが倒れる)
貴公がもう三百年鍛錬を続ければ、確かに私ではもはや敵わないだろうな。
だがこの世の中で、そこまで長寿で居続ける人間は、果たして存在するのだろうか?
アーツを利用して、三百年も延命し続けてきた人物の事例ならないとは言えませんが……
ただ、ワイさんではそれは無理でしょう。
三百年待たずとも、貴公はすでに人間(じんかん)一の武人だ。
師匠……すでに気絶しております。
……
すぐ彼を軍営まで運んで治療してやってくれ。
(絶え間ない称賛の声)
(剣や鞘を打ち鳴らす音)
リャン・シュンよ、あの者はお主の友人であるようだな?
はい、その通りです。
ではお主から見て、彼奴はあの剣を所持するに相応しい人物か?
武功も人としての品格も、彼に勝る者は他にはいないでしょう。
好(いいだろう)。
平祟侯のほうは如何かな?
……
ズオ・シュエンリャンは言葉を返さなかった。彼は城壁の下で繰り広げられていた武闘の会場を見下ろせば、倒れた者と立っている者がそれぞれいて、勝敗はすでについていた。
それでも周りにいる将兵らを見やれば、みな剣や鞘を叩いて音を奏でている。これは昔ながら、玉門軍が演武を鑑賞する際に発せられる特有の声援である。
それを発するに相応しい、見事な対決であったことは疑いようもない。武闘会場は広闊で、砂や砂利が舞う中、生死をかけた死闘が繰り広げられていた。
すでに身体が弱まってしまった左将軍でさえも、微かに血の滾りを覚えてしまうほどの。
今までにおいて、私は何度彼と共に戦場へ赴き、如何ほどの敵と対面しようと、あのように奮起しながら突き進んでいったものだろうか。
もし、彼がその剣を託すことができる人、あるいは居場所があるとすれば、それはきっと……
(天災の雷鳴が轟く)
天災……
もう間もなくですな。
師匠、ただいま。
その少女は一歩一歩、ゆっくりと移動都市の航路の傍らに佇んでいる小さな丘を登っていく。
墓はまだ出来上がって間もない。横には対角線上に何本かのコヨウの木が植えられており、彼女は特別に設けた印である。当初計算した距離とさほど離れていなかったため、移動都市はそれほど遠くまで離れてはいない。
そうして彼女は身を屈め、剣を墓前へと供えた。
ほら師匠、約束通り、剣を持ってきたよ。
師匠が言っていたあの鍛冶屋に行ったし、そこの主人とも会ってきた。そこに古いエンジュの木が植えられていたのも本当だったんだね……
移動都市の中の様子は、ちょっと想像とかけ離れていたけど……
でもああいう場所こそが、“家”って呼べるような場所なのかな?
なぜ人々は移動する巨大な土地の上で暮らしても、まったく恐れることはしないのだろうか?
天災に住処を奪われることも、水や食料が見つからないということも。
でも実はね、まだ分からないことがあるんだ。
移動都市に住んでいる人たちのことだったり、なんならその移動都市から出て行った師匠のことだったり。
それにあの人、彼がどういう人なのかってことも。
奴はとても勇ましく、強大で、挑んだところで勝ち目はないだろう。
だが一方、同時に奴は愚かで、情けなく、この世とは相容れない存在だ。
そんなお前は、奴の剣を持ってきた。奴に接近していった。
……
遥か遠くから、何やら声が聞こえたような気がした。一体誰が、私に話しかけてきたのだろう?
そして彼女は突如と再びこう思った。この剣は一体どういうものなのだろうか?
(回想)
明日にも出発する。
近頃は辺境の情勢も安定しているからな。しばらく私がここを留守にしたところで、さしたる問題は起こらないだろう。
もう行ってしまうのかい?
お前もそうだが……ほかにも怪我や病に侵された兄弟たちがいる。もう皆に残された時間は残り僅かだ。
玉門ではお前たちを治してやれる医者は見つからなかったが、それは炎国では見つからないことにはならない。この国で見つからなかったとしても、この大地は見果てぬ限りに広闊だからな……
もしかすれば、私の弟であればお前たちを治してやれるかもしれん。
それまで、私がここへ帰ってくるまで……達者でいるんだぞ
医者じゃないくせに、よくまあそんな「達者でいろ」なんて決めつけられるわね。病人のほうの気持ちも、少しは考えてくれないかしら?
私に残された時間がもう少ないのは分かっている、だからこそ色んな場所に行ってみたいのよ。
いつまでも玉門に引き籠もっていても、目に入るのは見渡す限りの黄砂だけ。まだ駄獣に乗れる元気があるうちに、私はあちこちへ見に行ってみたいの。
尚蜀に行って、あの三山十八峰を見てみたいし。江南の地に行って、取れたてのシャキシャキな菱角も食べてみたいし……
まあ一人でも行くのも退屈だろうし、できることならどこかの誰かさんと一緒に回りたいけどね。
あんまり病人が我が儘を言うものじゃないと思うのだが……
でもあなた、病をもらった人の気持ちなんてちっとも知らないでしょうよ。だってあなた、一度だって病に侵されることもなければ、怪我をすることもないでしょ?
それだけじゃないわよ。こんなに長い付き合いなのに、あなたの顔に皺が一本でも増えたところなんか見たことがないんだから。
やっぱり私たちって、それぞれ違う存在なのよね。
……
私はもう出発するよ。お前もあれこれ余計なことを考えていないで、しっかりと養生してくれ……
これは……夢?
剣を抜くんだ。
……
古びた剣が、鞘から抜かれた。
奇怪な造型をしてることを除けば、普通の剣である。刃に至っては鈍と化していた。
その数寸にしか及ばない剣身を通じて、少女は空を浮かぶ雲と、雲に遮られた日影が目に入った。
そうか、お前が自身を“ヤツ”と切り離した秘密はそれだったのだな。
当然と言えば当然だが、やはり甚だ無聊だ。
お前こそが、最も“ヒト”に成り下がった奴と言えるだろう。
そして悄然と、一縷の残魂が消え去った。
彼はようやく答えを得たのである。
……
じゃあね師匠、もう行かなきゃ。
この剣を返してやらなきゃならないの……それに直接、あいつに聞いてみたいことができたんだ。
ちょっとリィンさん、なーに屋根んとこで気持ちよく寝てるんですか!もうすぐ天災がやってくるんですから、はやくそこから降りて避難してくださいよー。
ここは私たちに任せておけば問題ありませんから。
まあまあ、それよりも状況はどうなったんだい?
玉門の四衛ならすでに固定完了です、甕城(おうじょう)にある砂の濾過機構と源石の浄化工程もすべて稼働させています。こいつらがきっと玉門の最初で最も堅牢な防壁になってくれますよ。
ただ前方に見える雲の一団から予測するに、四衛だけでは嵐を防ぎきれそうにありません。屏風衛を越えた砂塵と源石粉塵が二次災害を形成するでしょうね。
その場合は、小型の天災に相当すると思われます。
……
住民らを避難させた後、東地区の区画ブロックはすでに衝突を避けるために沈下を開始しました。ただ中枢区画のブロックは固定されてますから、おそらく二次災害の嵐と正面衝突するかもしれません。
そちらの対応人数は?
玉門に駐在している欽天監の術師でしたら、計十二人です。
分担防衛の状況は?
六人がここを、もう六人が中枢区画を守るように配置されます。
中枢区画を六人だけだなんて、それで十分なのかい?
平祟侯から命令が下りてまして、どちらの区画も死守せねばなりません。
……そのためなら、我々も尽力致しますよ。
……
全員中枢区画に行っておいで、ここは私に任せておけばいいから。
……
どのみち危険なのは一緒じゃないか。ささ、つべこべ言わずに行った行った。
(欽天監の観測員が走り去る)
以前も似た情景を見てきたが、あれは数十年前にちょうど尚蜀へやって来た頃だったね。
(リィンが盃に酒を入れる)
玉門には湖松や帰行といった清酒は造られていないけど、烈刀子(れっとうし)もそれはそれでいい酒だった。いやはや天よ、よもや再びこういった景色で私をもたなして来たとはね。
なればこそ、私ももう一度そちらに乾杯してやらねばならないかな。
けど残念、今は手元に擲(す)てるための盃が置いていないだなんて。
突如と急雷が耳元で炸裂したかのように、その場に居合わせた人々の鼓動が締め付けられる。
ただ瞬く間を有しただけで、黒雲が都市を覆っていった。
分厚い雲の層は無慈悲に空を呑み込んでいき、絶え間なく炸裂する稲妻はまるで獰猛な獣のようにさえ思えてくる。
雨粒は水滴と化す前に瞬く間に蒸発してしまい、空気は少しでも摩擦を起こしてしまえば燃え上がってしまうのではないかと思わせるぐらいに乾燥している。
然らば玉門は、その火打石とも言えるだろう。
いま目に映る天地はこの一景のみ!戦々恐々、なんと悍ましくも壮観たるや!
よくぞ来た!
その発破と共に横の提灯は灯り、詩人は身を起こしながら、瓢箪の酒を痛飲し始めた――
百丈もの狂沙吹雨、咫尺もの驚雷連雲。
当年 盞(さかずき)を擲(なげう)って残暮に飛すれども、今宵 酒を抔(すく)いて高城に對(こた)えん。
天地 今まさに甕瓶に入らん。
出力、すでに再調整中です!
……
できるだけ高出力を維持するんだ!砂渠をフル稼働させろ!
しかし、玉門が最高速で移動した場合でも、砂渠の砂排出圧力はここまで高く設定されておりません!今は都市も移動を停止してるため、砂渠の稼働だけを高めてしまえば、機器を損傷させてしまう恐れが……
そんなことを気にしとる場合かーッ!
もし屏風衛が防いだ砂と源石粉塵が前方で堆積してしまえば、その堆積した量によって、玉門の基盤が“呑み込まれて”しまうんだぞ!ここで嵌ってしまえば、それこそ元も子もないだろうが!
……
(山海衆達が集まってくる)
その前に、まずは自分らの命の心配をするんだな。
なッ、貴様らは!?
この空模様、すっかりとご機嫌を変えてきやがったな。
荊殿?皆を西地区まで避難させに行ったのではないのか?なぜまだこんなところにいるんだ?
戻って来たのさ。
あの山海衆の※玉門の隠語※が、混乱に乗じてあちこちで天災の防御工程を破壊して回っているんだ、おまけに火事場泥棒まで働いていやがる。ついさっきこっちも何回か出くわしたぐらいだ。
しかし、それは我ら巡防営の仕事であって……
今は天災と山海衆の両方から攻め込まれているんだ、それを巡防営だけで対処できるとでも?
それにだ、今ここで俺たちがトンズラこいてしまえば、この腰にぶら下げてる刀に申し訳がつかないだろ?
……
お、俺も入れてくれ。
サルゴンのあんちゃん、お前さんは玉門へ観光しに来ただけだろ。気を遣う必要なら……
炎国にこんな言葉あるだろ、“水一滴の恩、湧き出る泉をもって報いよ”って。
みんなから、酒を奢られっぱなしでいるわけにもいかない。
いいだろう、気骨のある漢と見た。お前も加えてやる。
そんな気骨のあるなしで……
無駄口は結構だ。処罰云々は玉門を守り抜いてから考えな。
そら、受け取れ。
(荊殿がサルゴン人の恰好をした観光客に刀を投げる)
出来上がったばかりの烈刀子だ。鋳剣坊の親方が言ってただろ、いずれみんなで酒を飲み交わそうとな。
モンの親方は、もう……
そこまでにしておけ。
今は、モンの親方がこの※玉門の隠語※どもの手によって殺されたことだけを知っていればいい!
玉門の連中、逃げなきゃならねえってのに、家ん中の金品を全部片づけてから逃げて行きやがった。
だがこの通りにはまだたくさんの宝石店が並んでいる、少なくとも宝石が何粒ぐらいかは落っこちてるだろうよ……
この貧乏性が、金目のものと聞いた瞬間に目を眩ませやがって。
向こうの分隊はすでに砂渠の破壊工作をしに行ったんだ、俺たちの任務も忘れるんじゃないぞ。
心配すんなって、忘れちゃいねえさ。
でも連中、もうすでに準備完了ってな感じだぜ。
フッ、リング上でちゃんばらごっこをすることしかできない、二十年もまともに身体を動かしてこなかった老いぼれ共に何ができる……
所詮は烏合の衆に過ぎないさ。
ヤツらが来るぞ。
なぁに、高尚な名前を付けてるが、その実ただのゴロツキ共だ。
所詮はただの烏合の衆に過ぎないさ。
ヤツらの目的は市内の混乱だ、ここで捉える!
それと、隣にある康慶通りは西地区に通じてる道だ。人手を何人かそっちに向かわせて封鎖しろ、ヤツらを食い止めるんだ!住民らはみんな向こうに避難しに行ってるからな!
おうよ、ここは俺に任せろ!
ではここで景気づけに一杯傾けるとしよう、それからヤツらを根絶やしにしてくれる!
こっちに来る時はなんとも思わなかったのに、なんで帰り道はこんなに……こんなに遠かったっけ……
風もどんどん強まってきてるし……
(ズオ・ラウがジエユンに近寄ってくる)
よかった、風で足跡が完全に消されてしまうと思っていたのですが……ようやく見つけましたよ。
確かに玉門へ戻ろうとする最中だったようですね、ウソはついていなかったと。
あなた、どうしてここにいるの?
剣を、取り戻しに。
……それと、あなたの安全も確保しなければと思いまして。
それは、うん。でもどうして……あなたもそんな重傷なの?
(雷鳴が轟く)
説明してる暇がありません、今はとにかく玉門へ戻りましょう!
……
あなたは運がいい、あの砂渠から飛び降りても死なずに済んだのですから。しかしそんな重傷を負ってしまった以上、長期間の治療は避けられないでしょうね……
肩を貸します、さあ。
――
どうしたの?
……いえ、単なる錯覚でしょう。こんな時に、砂漠に人がいるわけがありません。
さあ、行きましょう。
……
玉門は完全に移動を停止。予定していたポイントよりも僅かに位置がズレている。
天災の本体もすでに玉門の東地区に接触している。こちらも一時的にウェイ公と連絡が取れない。
……まあいい、我々も街に入るとしよう。
路断たれるも何ぞ豪興を妨げず、歳老いても但(ただ)帰心を問うのみ。
一夕の春寒 鉄甲を催し、万点の秋霜 玉門へ洒(そそ)がれん。
長夢 悲しむは古今なり。
いやはや、この期に及んでも令殿は意気軒昂なご様子じゃ。
おかげでこの老骨も、少しばかり腕が疼いて来もうたわい。
……
こいつら、狙いはきっと砂渠を停止させることだ。
このタイミングでの砂渠の重要性を理解しているとなると……こいつらの中には、それに精通してる人間がいるということか?
(冷たく鼻であしらう)
今すぐ後ろから飛び降りるか、それともここで俺たちに八つ裂きにされるか。好きなほうを選ぶといい。
(チュウバイが斬撃を防ぐ)
……
チュウ殿?
ここに左楽が来たと聞いて、助太刀に参ったのですが、どうやらちょうど頃合いだったようですね。
貴様は……
以前姜斉の水郷に、我らへ加入するよう招待状を送ったのだが、生憎返事は来なくてな。
それがまさか、炎国の軍と肩を並べていたとは。嘆くどころか、むしろ思わず笑えてきてしまうよ。
中々耳ざといじゃないか。
当然だ。我々は常々、同じ境遇を受けてきた同胞らへ目を向けているからな。
貴様らに同胞呼ばわりされる筋合いはない。
貴様、復讐をするために玉門へやって来たのだろう?それを忘れたのか?
いい質問だ。だが生憎、その答えはもう出ている。
そうして女剣客は、再び手中の剣を山海衆らへ向けた。
これからは、もはや彼女に剣を収める理由はない。
サルゴンからやって来た男が繰り出した一撃によって、防衛軍を急襲しようとする山海衆らが斬り伏せられた。
彼の話す炎国語はそれほど流暢のものではないにしろ、先の一撃はそれに反して鋭く瀟洒でいて、威力も大きい。演武で示される飾り気ばかりなものと違って、剛直で容赦ない剣撃だ。
……ほう、素早いな!
なるほど、以前宿屋で言いふらしていたことは嘘ではなかったわけだ。お前さんも中々やるではないか。
そんなことはない。俺、これぐらいしかできないから。
あの時、あの宗帥がサルゴンへやって来た時、俺は確かに彼から学んだ。でも、習ったのはこの技一つだけだ……
それにしても、これだけ叩きのめされているのに、連中まったく退こうとする気配がないぞ。どうやら向こうは本気らしいな。
(巨大な音が辺りに響き渡る)
な、なにが……
嵐が屏風衛に衝突した時の音だ、皆くれぐれも気を付けろ。
あの大きな揺れっぷりを見るに、今まで玉門が体験してきたどの天災よりも強烈なものだ。
その天災を、今は欽天監の術師たちが直で堰き止めてくれているが、向こうの状況は想像もしたくない……
今は天災が一番猛威を振るっているタイミング、連中はきっとその対処で手が回らないはずだ。俺たちもここでこいつらに付き合ってやる必要はない。
さっさとこいつらを片付けて、西地区にある住民らの避難区域に向かうぞ。
おうよ。
(斬撃音)
逃がさん!貴様らがそっちに向かおうとしているのは分かっているんだ!
城兵たち、ここで奴らを取り囲め!
天災のことなら欽天監の術師らに任せろ!俺たちはここで、この※玉門の隠語※どもを皆殺しにするんだ!
……
空には大きな亀裂が開いており、そこから数えきれないほどの砂利や石礫が渦巻きながら摩擦し、逆巻き、互いにぶつかり合いながら、金属とも思わせられるような耳をつんざく爆音を発している。
激しく渦巻く嵐は城壁を襲ってくるも、やがてアーツによって形成された壁に衝突していった。
持ち堪えろ!
陣形を維持するんだ!
(リンが近寄ってくる)
これを二次災害と呼ぶには、あまりにも威力が桁違いではないかのう?
リン殿!?なぜここにおられるのですか!?
助太刀に参ったのじゃよ。
ここは我々が持ち堪えますから、ご老輩は早く戻ってください!
戻る?どこへ戻ればいいと言うのじゃ?外でこんな大騒ぎが起こっておれば、静かに昼寝もできそうにないわい。
しかし……
都市の奥に設置されている源石浄化装置は、拡散を防ぐために辛うじて源石粉塵を吸引することしかできん。嵐本体の衝撃を防ぐには、どのみち術師諸君のアーツが頼りじゃ。
だからここで儂も助力しよう、人手は多いほうがいい。
そう言いながら林は、術師らが堰き止めている嵐の前線へと近づいて行く。
彼はいつの間にか、普段からかけてあったあの白い外套を脱いでいた。
何十年も砂を弄ってきたこの儂が、このタイミングでまったく役に立たなかったとなれば、いっそ儂を砂の下に埋めてしまったほうがまだマシじゃろうて。
それともなんじゃ?術師諸君は、儂のアーツではまだまだ物足りんと思っておるのかな?
……そこまで言うのでしたら、くれぐれもお気を付けください。
(雷鳴が轟く)
少しだけ陣形を変えるぞ、リン殿にポジションを空けるんだ!
そう来なくてはな。
(ユーシャが駆け寄ってくる)
父さん!どこに行ってたのよ!こっちはずっと探し回って……
おぉユーシャ、ちょうどいいところに来た。
何やってるのよ!まだ傷が癒えてないのよ!?
それがどうした?
いいからよく見ておれ。アーツに関しては、お前はまだまだ習わなければならないことがあるからのう。
雲の層は再びその分厚さを取り戻し、嵐がこちらへ襲い掛かってきた。外周では土砂が無秩序に旋回しており、嵐の中心部では空気が極限まで圧縮され、火花を散らしている。
天地は人々に向かって大きく吠えるも、次の瞬間には辺りが突如と静寂を取り戻した――
なんと平地から黄砂が盛り上がってきたのだ。砂粒はアーツによって形成された壁の隙間という隙間を埋めていき、ゆっくり着実にその壁を前へと押し込んでいく。1メートル……3メートル……10メートルと!
術師らの真ん中に立つ、砂を操るリンのその姿はまさかに、どれだけ大きな風さえも吹き倒せない百年もの老樹であった。
砂をここまで操るアーツなんて、見たことがない……
全力でアーツを展開して、その影響範囲をここまで拡大できることもそうなのだが、それをまったく乱すことなく安定して操ることができるとは……
皆気を付けろ、また来るぞ!
(雷鳴が轟く)
実のところ、父がここまで本気を出してる場面はリン・ユーシャにとって初めてであった。今まで父が敵を片付けるのに、ここまで大袈裟にする必要はなかったからである。
龍門を裏で支配する影ではあるものの、父の生活はとても規則正しいものであった――
街中を“散策”し、鱗団子のスープを飲んで小腹を満たす。時折、他人と顔を合わせる必要も出て来るが、その人の生死は問わない。
だが今、父は多くの時間を和やかに過ごすだけとなった。歯を食いしばりながらやり遂げなければならないことは、もうそう多くない。
しかし、脱ぎ捨てられたその外套の下に隠れていた父の背中は、今見れば想像よりも痩せ細ったように感じてしまう。父のアーツを展開する腕も次第に震え出してきたのが見える。まるでいつでも風に吹き折れてしまう、枯れ枝のように。
……
もう限界だ……はやくリン殿を後ろへ下がらせろ!
リン殿はすでに四波もの嵐を防いでくれたんだ!これ以上はもう持たん!
(喀血する)
(リンが倒れる)
父さん!
……
……
“さっさと事を済ませて、お前さんが無事ヴィクトリアへ行けるといいんじゃがな。”
“道が見えていないからといって、その道がないわけではないんじゃぞ。”
父さんはいつもそればかりだった。
父さんが敷いてくれた道以外の道をどう歩めばいいのか、おそらく私自身でさえも未だに考えがまとまっていないんだと思う。
けど父さんは、もうとっくに歳を取ってしまった。いつも口にしてる“引退”って言葉も、決してただの冗談ではない。
父の背中を追い、その父が倒れてしまったのなら、下の娘が支えてやれなきゃならない。
これ以上残酷な道理なんてものも、きっとどこにも存在しないんでしょうね。
そうしてリン・ユーシャは前へと踏み出し、傷ついてしまった父を背に、父の位置を受け継いだ。
ユーシャ……
ユーシャ殿……
無駄口は結構よ。みんな怪我をしているのだから、まずは息を整えなさい。
あともう少し、もう少しの辛抱よ。
さあ、みんな前を向きなさい!