生きろ。
どうなったとしても、生きるのだ。
何があったとしても、生きていくのだ。
おいジジイ、起きろ。
湿っぽく、暖かく、そして柔らかな土が流れていく。
静かに、軽々しく、そしてゆっくりと意識が沈んでいく。
うッ……
あんたはまだこんなとこで倒れちゃダメだ。
ヤツを逃してしまうぞ。
滾る月光は頭(こうべ)へと降り注ぎ、身体の下に広がる土もなんだか沸き立っているかのように、瀕死によって遠のいていく意識はそんな熱流に押し上げられて、焼かれた痛みが彼の両の目を無理やりこじ開けさせた。
そうだ、それでいい。立ち上がるんだ。
儂は……どれだけ気絶しておった?
五分だ。
五分も、時間を無駄にし過ぎてしまったか。
狩人の生死なら、ほとんどの場合は一秒もあれば決定するものだ。
だが今回は運がいい、あんたにはまだ時間がある。
湖のところに行って、あんたの矛を拾ってやりな。
(湖の水が跳ねる)
狩猟用の矛、それはハンターが生活する上での支えではあるが、今やその柄の半分ほどが湖に沈んでしまっている。
自分がなぜそんな矛をまるで自身の命を捨て去るかのように手放してしまっていたのか、彼はよく分からないでいた。
やがて矛は再び直立する。矛先にこびり付いている血糊は、未だに鮮やかであった。
顔を洗って目を覚ましたほうがいいのかもしれないな。あんたはもう三日三晩追い掛け回してきたんだ。
たかが三日だ、儂はまだそんなザマに成り下がるほど年老いちゃおらんよ。
で、あの獣はどこに逃げたんだ?
傷を受けている、森に入ってもそう遠くまでは逃げていないはずだ。今はおそらく、どこか涼しい場所で傷口を舐めているんだろう。
森か……
そうして彼は森のほうへ視線を向ければ、“身体”が目に入った。
木の幹はまるで上へ伸びていくような背骨であり、枝はまるで肋骨のように広がり、びっしりと肉片をぶら下げている。
黒色の脂肪は空中に堆積しており、鮮やかな血糊が溜まったその様は、まるで次の瞬間にも崩れ落ちてしまうかのようであった。
あんた、恐れているな。
(年老いた老人が茂みをかき分ける)
バカを言え。
疑っているな。
はたして自分が前に進んでいるのか、それとも森が牙を剥き出しにしながら自分に迫ってきてるのか。
あんただって、今にも逃げ出してしまいそうな様子じゃないか。
ありえん。
強がるなよ。俺の目からは逃れられないぜ。
だが、そんなあんたの恐怖を否定するつもりならないさ。
この森は言うなればバケモノだ、ここにあるすべてを恐れるに値する。
バケモノ……
悪夢のようなバケモノさ。そいつは血に塗れた大きな口を開け、命を噛み砕いて貪り食う。それが森の本来の有り様だ。
そうだな、お前の言う通りだ。
だが、そんなヤツに打ち勝てないというわけではない。
俺の最後の有り様はまだ憶えているか?
憶えているさ、忘れるはずがない。
なら、怒りが湧き上がってくるか?
ああ。全身が震え上がり、爪が掌に食い込んでしまうぐらいにはな。
よろしい。ならそのまま怒り続けるんだ、必ずな。
あんたはきっと恐れ、狼狽え、身を悶えるほどの痛みを覚えるかもしれないが、怒りならそのすべてを洗い流してくれる。
怒りにどんな障害物が立ち向かってきたとしても無意味だ。森もあんたのその怒りによって脆弱な存在に成り下がるだろう。
そうとも、儂は怒り続ける。この森の牙を引き抜き、爪を切り落とすその時まで。
お前にしでかしたその報いを、今こそそっくりそのまま受けさせてやる。
よろしい。なら向こうに血痕が残されている、見に行ってみるといいさ。
(年老いた老人が血痕を確認する)
ふんッ……
まだ温かい。傷口がまた開いたせいで、余計に血を流したみたいだな。
だが血痕はここで途絶えてしまっている。
木に刻まれた爪痕は見えるか?もっとしっかり観察してみろ。
言われるまでもない。
深く刻み込まれているな、下には大量の樹皮が落ちている。きっと何度も引っ掻いたはずだ。
その痕の周りには血が染みついた体毛が付着している、地面にもだ。
ますますズル賢くなってきたな、あの畜生どもが。
ヤツは血を辿って後をつけられることを分かっているのだ。だから傷口に木屑をくっつけて止血し、先ほどの痕跡をより一層引っ掻いて、痕跡を揉み消した。
だが所詮、獣は獣だ。いくら細い墨であっても、白紙を擦れば跡が残る。
オナモミの実は近くを通る獣の毛皮に付着する。ついでに連れてってくれと言わばかりにな。
そんな付着した実が儂らに示してくれた道を辿れば、フッ……
やはりな、ヤツはあの洞窟に逃げ込んだ。
(何かの咆哮が聞こえてくる)
なんだ?今の声は……初めて聴くぞ。
おや、どうやら新しく仲良くできそうヤツが現れたようだな。
儂を奮い立たせるような咆哮ではないか、もしかれすればヤツなのかもしれんぞ。
まあ焦るな。狩人たるもの、まずは目先のことに集中するんだ。
(老いた狩人が走り出す)
ここに隠れているのは分かっておったぞ。
(獣の唸り声)
その傷口、さぞ痛かろう、血も流れておる。なぜいくら舐めても痛みが治まらんのかと、そう思っているのだろう?
獲物に成り下がってしまった気分はどうだ?
かつてお前の牙によってズタズタに引き裂かれた命のことをまだ憶えているか?その時ヤツらがどんな思いをしたのか、お前に分かるか?
腹を空かせ、今にも倒れそうなほどに疲れ果てている、お前も儂も同じだ。お互い最後の時が来たのだ。
もうお前に逃げ道はないぞ、もはやここで戦うしかあるまい。
ハッ、そうか。どうやらお前には少し刺激的なものが必要だな。
(掌で鋭利な矛先を掴み、血が腕に伝って滴り落ちる。)
匂うか?お前の大好物な血の匂いだ。甘く味わい深い命の味、今すぐ噛みついてきたくてウズウズしてるだろ?
儂を殺せば、この身体はお前だけのものだ。
だがそんな気力、はたしてお前にまだ残されているのかな?
(獣が襲いかかる)
畜生め!まだ余力を残しておったか!
クソ、離せ……その臭い口を!
(年老いた狩人が倒れる)
こうも簡単に押し倒されてしまうなんてな。
今の自分のザマを見てみろよ、なんて無様なんだ。
口々にその獣を殺してやると言っておきながら、死に瀕したそいつにまったくの無力だなんて。
まるでボロ雑巾のように、抑えつけられながらズタズタに引き裂かれていく。実にあんたにお似合いな死に様だ。
義岡(よしおか)、長年戦い続けてきたのにまだその程度の実力だったのか?
いいや……儂は倒れてなどおらん。
そいつと刺し違えればいい、なんてことを思っているんだろ。
俺もバカだったよ、こんなことであんたに期待しちまって。
儂ならまだ戦える……
いいや、あんたには無理だ。すぐここで倒れる。
儂は……絶対に……
なら矛を持って、一気に突き刺してやれッ!刺すんだ!そいつの身体にィッ!
一発でも!二発でも!
そうだ、それでいい。
命を投げ出してしまうほど、何もかも顧みないほどに怒りを沸き立たせるんだ。
何も顧みないほどに怒りを沸き立たせる、お前のために。
そうだ、俺のために!
そいつにトドメを刺せ!
(年老いた狩人が刃を突き立てる)
そうだ、それでいい。
さあ、はやく立て。
お前は恐ろしい存在だと、そいつに知らしめるんだ。
お前は黙っておれ!
(獣が唸る)
この畜生め!この恐ろしい森の牙と爪の化身め!
あと一歩のところで儂を殺すことができたはずなのに、そう思っているのだろう?
儂がすんなりと降伏するとでも思うたか?
さあ来るがいいッ!儂はここだッ!
儂を殺してみろッ!
矛は獣の喉元を穿ち、老いた狩人の身体もその勢いで地面に倒れた。
しかし稲光が忽然と一閃し、空を覆う巨大な影を映し出し、煌々たる炎が曇雲を引き裂いた。
狩人は全身を震え上がらせ、指の爪を深く肉へと食い込ませていく。
ヤツだ、ヤツに違いない。
今まで見たことがないバケモノ……なるほど、ヤツがお前をそこに引き寄せていったのだな……
お前は決してたかが獣に敗れるほどの人ではなかった。なら、間違いないはずだ……
これもすべてはお前のため……
ヤツの心臓に矛を突き立てる際には、静かにお前のために黙祷しよう……
そうして狩人は目を閉じた。