君が決めたことだろう。
疑問の口調では無いですよ、ケルシー先生…。いや最近知ったのですがケルシー卿と呼ぶべきでしょうか。
今更そんな話をしても意味は無いだろう。
お前達の決定は残念だと思っただけだ、テレジアの有能な助手になれたというのに。
殿下…彼女は任務の最後の時に一人で俺を見つけたんです。
彼女らしいな。
彼女は俺の出身を覚えてくれていました。かつてカズデルに滞在をしていた時のことです。
…そこは巨大な工業地区で、その周囲百里には犯罪と死が腐敗した都市が溢れている。
難民が増え続けていたせいで既に腐っているスラムが空高くまで積み上げられていました。
カズデルにはいわゆる「貴族」というものはどれだけいるのでしょうか?そして戦争で王様や家臣と呼ばれる馬鹿げた肩書を持つサルカズはどれくらいいるんでしょうね?
ごまんといるな。
確かに、ごまんといます。
…ですが、殿下は恐らく全てを覚えているのでしょう。
殿下の慈悲には感謝をしています。彼女はサルカズの末端でも人と呼ばれる部分があることを覚えておいてくれていたんです。
殿下だけがそうしてくれたんです。
では何故ここから逃げ出そうとする?
…そんなに難しく言わないでくれ、先生。
イネス、ケルシー先生はここ数日俺たちを良くしてくれたんだ。それくらい分かっているだろう。
ふん…。
…悪気は無かったんだが。
君たちは自由な傭兵として大地を放浪することを決めたのだろう。私にはそれを止める理由はない。
たくさんのことがあるだろうが私が言う必要もないだろう。
はい。
それでもうひとりのサルカズは?
Wには彼女なりの考えがあります。
それに傭兵一人に全ての軍規を守らせるような拘束力があるとも思えません。
規模が大きくはない傭兵はいつもそうだな。独立を除く勢力は一つの捻じ曲がった巨大な勢力に比べると常に脆弱極まりないが。
だが、君たちが求めているものは…いくらかの失われたサルカズの戦士からは学ぶ価値があるものだろう。
いずれにせよ、これは君たちが自分たちで選んだ道だ。
君たちに逃げ場が無かったとしてもだ。
傭兵は戦争の真っ只中へと逃げ込み、廃墟の中に立ち上る煙で身を隠すんです。
…それが出来るのであれば、君たちにはそうして欲しいところだな。
ありがとうございます。
…私達のようなサルカズも残っているのは僅かか。
多くの人はそこに留まることを選んだんだ。より多くの人は永遠に帰る場所を選ぶ権利すらも失っているのに。
キャンプサイトも無くなった。装備もバベルが提供する最低限の武装しかない。
傭兵というよりかはピクニックに行く登山客だな…。
…最初の頃、白樺の森で出会い、自立を決意した時のことだ。
ありがたいことにケルシー先生は特別契約を提供してくれた。少なくともまだ仕事はある。
このまま彼女からの仕事を続けるのと、バベルから離れないことに何の違いがある?
俺たちはただ利益のために戦っている傭兵部隊、価格の高い契約を受ける。
自分を欺いているだけだろう。
…待て、私達の旗は何処にある?
残してきた。全てを残してきた。どうせ自分を騙して人も騙すんだ、はっきりしておいたほうが良いだろう。
覚えているか?最初に旗手が倒れたのであれば、すぐに旗手は他のやつに挿げ替わるってこと。
西から東へ、傭兵となって、そこで折り返しても、旗は落ちることは無かった。
旗本が旗の元で死んだのは70番目から80番目まで。彼らは旗竿を自分の腹に刺してまで旗を倒れさせなかった。
俺たちがロドスの本艦を護衛している間、敵共は…カズデルから来た強敵はいとも簡単に俺たちの防衛戦を破ってしまった。
その時に旗を握っていたのは子供だった。
俺たちは坂の下、敵は坂の上で、アーツは土石流のように地面を洗い流した。
ケルシー先生が到着するまで、俺達はほとんど反撃することすら出来なかった。
そして旗は壊れた。
そうだ。
だが、実際のところ、俺が手を伸ばしてさえいれば旗竿を掴むことが出来ただろう。
…。
俺はずっと傭兵の旗が嫌いだった。
あれは倒れるべきなんだよ。
あの時からの老兵で生きているのは?
お前とそして俺。
…道を急ごう。
…。
おい、ヘドリー。
お前はわざとWを殿下の元に置いたのか?
殿下のことはどう思う?ケルシーとそれに――「ドクター」も。
お前も影で他人のことを議論するんだな。
単なる雑談さ。
お前はあそこで一回もアーツを使わなかった。それはお前にとっては珍しいことだ。それが心配でな――
…役に立たなかったのではなく勇気が出なかった。ケルシー先生は私にそれをほのめかしていたしな。
あそこには秘密が多すぎる。
俺たちは確かに深く追及するべきでは無いだろう。ケルシーだけでも十分だというのに…
だが、私は無意識に殿下を試してしまった。私のアーツは直接人の心を見るものではなく人の「影」を感知して察するだけのものではあるが…。
殿下は特殊だ。
殿下は…彼女は悲しすぎる。それなのにとても素晴らしく、そしてお優しい。
ケルシーは変わっているな、機械に近い部分もあるが、この機械には意外と人情味がある。
…あの先生が?
お前には感じることは出来ないだろうがな。
彼女は平等に全ての人を見ている。それに彼女は私達のことを「魔族」とは呼ばなかった。
それは殿下が側におられたからかもしれないだろう。
それでドクターは?
…よくある揶揄を使うとしようか。兵士は駒、指揮官は棋士だ。
あのひとに出会って、自分はいつまでも駒でしか無いと悟った。
彼は戦場を操っているのではない、戦争を操っているということか。
そういうことでは無いな。
駒と棋士の一番の大きな差は何だ?
なんというか…お前の話し方がWのようになったな。以前のお前は短気で遠回しなことは言わなかったのに。
棋士は最終的に注目しているのは絶対に駒ではないし、甚だしきに至っては全体の状況ですらない。別の棋士だ。あいつが勝ちたいと思っているのは引き分けている棋士だけだ。
帰ったら温かい飯を食えるのは棋士だけ、駒は箱に入れられる。
毎日眠りから覚めて、両足で歩くことが出来て、言葉で会話することは棋士だけだ。駒は常に戸棚の中で死んだようにじっとしているんだよ。
私達はみんなそうだ、死んだ物だ。戦争はあいつだけが人であり、唯一の人なんだ。
私達が自分を人して見ていたとしても、あいつからすればそれは異常だ。
なるほど、その点については俺たちは合意出来るな。
しかし殿下達はそれを見てみぬフリをしている。
ケルシー先生は常にとても警戒をしている。仕事をした時間は短いが、あの戦士達も多かれ少なかれいくつかの迷いを抱え込んでいる。
Wには注意をしておいたが、一部は捻れているのかもしれない。
…距離を置いたほうが良いのかもしれんな。
いや待て、私と同じ意見を持っているのであれば、ならば何故Wをあの場所に残したのか答えていないぞ。
あいつのことを心配しているのか?。
だから何だというんだ。答えろ。
…万一に備えてだ。いつの日にか本当に異なる種族とは同位にならなければならないからな。
それとも、摄政王や殿下の兄は俺たちを寛大に許してくれて、俺達が生活のためにこれからもラテラーノから略奪し続けることを許してくれると思うか。
俺はこの戦争から出来るだけ遠くに離れたいんだ。同胞との争いにはもう嫌気が指しているし…俺たちはひどい目にあった。
…ああ。
誤解はしないでくれ。Wを使って後ろ盾を守るという考えは最初からは無かったんだ…
あいつはそこに留まるということを聞いたら喜んでいたな。
…
ちっ…なんて恩知らずな奴だ。
君は想像以上にここの仕事をこなせるみたいだな。
君には友達が二人いたな。彼らはドクターの誘いを受けなかったけど、相変わらず仕事を上手くやり遂げているみたいだ。
ふーん。それでテレジアは何言っていた?
…殿下に褒められたいだけなのであれば、自分で功労を言ってみてはどうかな。
ケルシーさんを避けることが前提だけど。
そう出来れば良いんだけどね。あのケルシーっていうめんどくさい女、テレジアから少しでも滅多に離れようとしないのよね。
それであの人達は今は何処に?
知ってるけどまた行くのか?
行ってみましょう、叱られない程度にはね?
一体誰がめんどくさいやつなのやら。
私はあなた達のために生命を掛けて難民の中から7人のスパイを摘発したんだけどね!7人も!一人は術師だったけど!どれくらい大変なことか分かる?
声を小さく。君の存在と仕事内容は全て機密事項なんだからさ。
それは君自身の任務だろう。ドクターは少なくとも1人位は生きた人をとか言っていた気がするんだが…。
人を助けるのは苦手なのよ。彼の自殺するスピードは私より早かったのでどうしろっていうの?
…んー。
彼らは艦橋にいるはず。アーミヤもそこだろうね。
そんなにもたくさんの名前を覚えていようが他の人はどうだって良いわ。どうでもね。
どうぞご勝手に…
…ちょっと待て。手に何を持っているんだ?
うん?スパイから奪ってきた小型カメラ。珍しいでしょ?
それはちょっと…。
え?普通のサルカズならば殿下と写真を撮る機会を諦めると思う。
…はあ、もしケルシーさんにスパイ扱いされても、かばってやらないからな。
そうそう。
このスパイ達はどうやって紛れ込んだんでしょうね?
…
最近はとは思わないけど…私達の戦いってどうもおかしい感じがしない?
それは俺がどうこう言える範疇じゃないから、不満があるのであればドクターを探してくれ。
ドクター、ね。
これも計算の内か。
(あそこに――やっぱりみんないるわね、しばらくは隠れておいたほうが良さそう)
(あのウサギは何なのかしら?鬱陶しいわね、彼女が耳がテレジアを遮っちゃってるのよ!)
(――!あれはケルシー…)
(…)
(…来てない?見てなかったのかしら?)
(しまった、何でドクターもいるのよ…あの人が写真の中に入ったら、何か不吉な予兆みたいに感じるじゃない…)
(…)。
(あ、テレジアが笑った)
(彼にかまってちゃ、チャンスを逃してしまうわ!)
チーズ――!
…W、今の状況よく分かってるか?
ええ、私はあなたよりよく分かっているわ。戦場に行く回数が多いからね、「せんせー」
ケルシー、大丈夫だから、そんなに怒らなくてもいいわよ。
ちっ、あの女、だんだんと面倒になってきたわね…ただ写真を撮っただけだっていうのに!
それはそれとして、これからのあなたの仕事は辛いかもしれないわよ、捕虜さん?
んーんん!!
あら、そんなに緊張しないで。議長室にあんなにも大胆に近づいたのだから見つかる覚悟位出来ていたでしょ?
それに私、あまり気分が良くないの、だからあまり楽出来ないわよ。
――
ん、自殺したいの?
焦らないで。あなたは自分では出来ないわよ、そしたら、まず何を聞きましょうか。そうね…
先月の「ミル」での戦いでは何があったのかしら?
どうしてあそこに現れたの?どうして中心区域に近いところに現れたの?
何を探していたの?誰があなたを迎えに?そしてテレジアに何を持っていこうとしていたのかしら?
あ、急いで答える必要は無いわよ。私は早く知りたいという訳じゃないの。
先に教えて。もし鋭いオリジ二ウムの棘が毎秒3ミリずつゆっくりとした速度であなたの目に迫ってきているという状況――
あなたは怖い?
ヘドリーの予想に相違なく、戦局は捻れ始めた。
だが、私は実際のところ、それがカズデルの情勢にどう影響していくのかにはあまり関心が無かった。
心配なのは…テレジアだけだ。
あの忌々しい医者を見た時というのは鏡で自分の笑顔を見た時と同じくらいには気分が悪いものだが、彼女とはよく離しておかなければいけないのかもしれない。
彼女は私と同じタイプだ。いや、それはもし彼女が「人」だった場合のことだ。彼女のことについてはまだ多くの答えが明らかになっていない。
しかし彼女は私よりもずっと強い。彼女ならテレジアを守ることが出来るかもしれない――。
いや、彼女ならば出来るだろう。
さもなければ――。