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明鏡止水。
お主のその年齢からすれば、珍しいものだ。
白光湮没、心思寂滅。森羅万象何もかもがお主の身躯から離れていく。
そして最後に、平穏だった心の湖が再び感情によって起伏した時――
――お主は果たして悲しみに思うのだろうか?
講談師殿!邪魔を致す、御免!
夢からついに覚めたか……どのくらい経った?
拙僧は梅の花が十回咲き、また十回枯れたのを見たにすぎぬ。
私が筆を取らない限り、画中の天地は、決して万古不易なり、いつ花が咲き花が散ろうか?
正直に言おう、拙僧が天岳の絵巻に迷い込んでしまった時から、毎日過ぎる日時を心の内で数えていた、だから年数はおおよそではあるがその程度で間違いなかろう。
……十年だと?
君は私の絵の中で、十年も迷い込んでいたというのか?
そのぐらいかと。
一介の客僧が、私のところで十年もの歳月を浪費してまで、何を求める、何をそこまで苦して来られるのか?
いやぁ~、夢の中とはいえ、飲み食いには困らず、俗世に迷惑をかけることもなく、ましてや天災を避けることも、感染に危惧することもなかったのだ、拙僧は割と心地よかったとすら思っておるぞ。
……だとしても、君は夢を一つ見て……十年も経ったのだぞ。
そんな悠久な歳月を経てなお初心を貫いた人はそういない。一部には、むしろ自分が誰だったのすら忘れてしまい、永遠に絵巻の中に留まってしまう人もいたのだぞ。
うっ、それはまことに恐ろしきかな。
そう言う割には恐れているようにはお見受けしないが。
講談師殿は優しい御仁ゆえ、その人らの意識が臨終する際、きっと彼らを諭すはずだ思っているのでな。
ほう?何ゆえそれを言うか?
天岳山頂の魚釣りの翁、不帰河畔の布織りの老女、無界原の戟を持つ将、龍門旅館の女主人……そして婆山鎮の講談師殿、お主が何度も拙僧を諭してくれた。
拙僧が遊歴を続けていた間、幾度も眠って醒めては、過去に欺かれんと耐えてきた。であれば、拙僧はどうしても詫びを入れなければならぬ、画中で生人を一人養うにも、さぞ多大な精力を消耗してしまうのであろう?
心配には及ばぬ、君が入山した頃は秋風が吹き渡っていたが、今は冬に入ったばかりにすぎぬ。夢から覚めたとしても、ほんのひと時しか過ぎておらんさ。
なんと!画中に長い間留まっていては故人に責め立てられるのではないかと心配しておったが、現世はそれほどの時しか経っていなかったのか、心持ちも幾ばくか晴々となったぞ。
君は天岳にいた時から自身の置かれた境遇を察知したのであろう、一切皆絵画と知っておりながら、何ゆえ時間を浪費するか?
それは拙僧は夕娥奔月の真相を目し、長い間釈然としなかったからでござるよ……もし狂人が己の力のみで、天に昇ってしまった真摯の愛を取り戻そうとしたのであれば、その痴癲っぷりも、哀惜には思わぬさ……
ほう……では私が、夕娥のあの神意すらも、私が書き加えた――偽物だったとすればどう思うのだ?
各国にある伝説や、名著、典籍、神話のいくらが真で、いくらが拙僧らの素朴な生活と縁のあるものであろうか、であれば拙僧らはその「偽」という一文字のためだけに、それらの意義を否定せねばならぬのだろうか?
拙僧は、そんなことは間違っていると考える。
君はまことに変人であるな。
奇人も変人も、紙一重にすぎぬ、恐縮でござる。
……フッ。
君は師匠そっくりだな、いい年してるのに、心は赤子のそれのままだ、純一無雑。
私の暇つぶしに付き合ってくれたのだ……であれば君の師匠に免じて、よかろう、私に一目合わせてやろう。
えっ、貴殿との面会だと?
カカ、門をくぐれば夢から覚めると、本気でそう思っているのかい?
……!もしや拙僧は未だに画中にいるというのか?
そう気を落とす必要はない、そういうものだ。
そう簡単に君に目覚められては、私のメンツも地に堕ちてしまうだろ。
さあ。
夢から覚めるといい――
星は点雪を蔵(かく)し、月は晦明を隠さん。
起きた?
あぁ……
起きなさい、地面に突っ伏してちゃ、みっともないでしょ。
あ……!直ちに……
……
どうしたの?
いや……その……まさか、貴殿の正体が、そのような姿であったのだな……
フッ。
聞きたいことがあるんでしょ。
拙僧は……拙僧は……
拙僧は百余りの絵画を行き渡り、貴殿の大半の絵画を体験したと思っていたが、まさか……それらは貴殿が描いた画海のほんの片隅にすぎず、沙汰の限りであったとはな……
頑なに目の前の非を認めない痴人なんていないのよ、みんな最後には諦めて、そこで死んでいったわ。
それは理解できなくもないな……
聞きたいのはそれじゃないんでしょ。
あぁ、そうであった、驚きのあまり、ド忘れてしまっていた、申し訳ない。
拙僧はかつて住職様の屋根裏にて、あの『拙山尽起図』を見た、当時はかの絵の中にはきっと真意があると思っていたが、それが何なのかまでは知り得なかった。
住職様にもお聞きしたが、師匠は拙僧に山を下りて己でその答えを探してこいとおっしゃられた。それに従い拙僧は山を下り、四方を行脚し、ある程度答えは見つかったが、しかし俗世によってさらに茫漠となってしまった。
そこで幸運にもこうした貴殿にお会いできたため、貴殿に是非ともお伺いした――
答えはもう出ているんでしょ、なのに私に問う必要なんてある?
長短を補い合い、漏れを調べ欠を補いたいがためだ……実を言うと、拙僧は未だにあの絵の真意を理解できておらぬ、なぜ滝を最後まで描きとおさず、一筆だけを残して、数寸の空白を空けたのだ?
あなたはどう思うの?
――拙山尽起、即ち画中の天地、無限に展延するという意味なのであろう。末尾一筆の滝、天に衝かんとす、しかしてその余白は、きっと絵巻の中で書ききれなかった大山河を描くために残されたのであろう……
……
いや、これは全部拙僧の憶測にすぎぬ、貴殿も勿体ぶらないでくだされ、申し訳なく思ってしまう。
絵に対する理解というのは、見る人の意思によって変わるものなのよ。
でも、そんなことを聞くために……十年も私の絵の中で彷徨っていたの?
人生とは、求解もまた求解でござる。
そういった小さな蟠りがあるからこそ、拙僧はこうして貴殿の絵巻の世界の中で見識を広めることができたのだ、よいことではないか?
それもそうね。
でも、あなたが知りたいその一筆だけど、あれはただの気まぐれよ、興が冷めたから筆が止まった、それだけよ。
え?
当時あの滝を書いてた時、急にこれ以上筆を進めたくなくなって、そこで止まったの。それからまた絵を見ると、わびさびに似た趣を感じたから、適当に題をつけて、あなたのおっちょこちょいな師匠にあげてやったのよ。
な――
――なんと、そういうことであったのか!
失望した?
画中で虚ろな月日を過ごし、得られた答えがこんなにつまらないものだったなんて――
そんなことは滅相もない、貴殿の絵の中で拙僧がどれほどの益を貰った話は置いといて、貴殿の今の答えは、なんと趣のあるものか!
興が起こって筆を取り、興が冷めて筆を置く……すべての物事には意味がある、と拙僧はずっと思っていた、しかしいつしか、むしろ拙僧はその中に深く嵌ってしまい、自分から抜け出せなくなってしまっていたのだな。
そうだ、その通りだとも、何ゆえその中の真意に拘る必要があろうか……もし一つの答えしかないのであれば、百もの考えで得た解に、なんの意味があろうか?
師匠から聞いた「本来無一物、いずれの処にか塵埃を惹かん」という言葉も、大差ない意味なのだろう?
……フッ。
人にはみんなそれぞれの意思があるのよ、その点さえ理解していれば、いくら思い上がったとしても、別段悪いことではないでしょうね。
うむ、その教誨、肝に銘じておく。
それと、当時あなたの師匠に絵を渡した時、私ははっきりと「拙山尽」とこの三文字を言ったのよ、この「起」という文字こそが……あなたの師匠の意思よ。
「起」?
あなたの師匠が当時何を見たかは知っている?
貴殿と旅をし、共に数々の山河を見てきたのではないのか?
違う。
うおっ!?
拙僧は、もしやまた画中に……?
ハッ、これはもしや住職様が当時目にしていた光景――
――
あれは……住職様?
そうよ。
足は擦れに擦れて、飢えにより意識が朦朧としてしまっても、この飢えと死に満ちた地を歩き渡ったのよ、三日三晩かけて。
彼はひたむきに二千と二十四回もの祈祷を行い続けた、己の生死なんて構わず、ただ悲しみと不解のみを噛み締めながらね。
貴殿は……住職様を助けたのか?
苦潭江で、一回ね。でも今回は、助けかったわ。
むしろ考えてみることね。
幼い年齢であんな見ずぼらしい小さな沙弥が、あなたの知っている温厚な住職様になれる経緯を。
そして何を経て、彼は絵の題目に「起」という一文字を加えたわけを。
住職様……
……難民が至る所にうずくまっていた。
見たもの、聞いたもの、語ったもの、みな惨劇であった。
若き日の東国の僧侶は、一歩進むがごとに一歩止まり、一言一句経を唱えた。
光陰水の如し、かの時に凝滞せしめん。
サガという名は、拙僧が山を下る前に住職様がくれた名なのだ。
……そう。
人の間の冷暖を見てなおも心を墜とさず、たとえ天岳が崩れようと顔色一つ変えなかったわ。
あの小さな沙弥は……東国に戻ったあと、身寄りのない子供たちを引き取り、野山の山間に寺を建てて、あなたがいつも口にする住職様になったのね。
珍しいことでもないわ。
あの絵……拙山未だ尽きずという意味は、住職様が付けられたものであったのだな。
……そっちのほうがもっとよいな!この拙僧が住職様に代わり、再びこの大地の風光を見渡そうぞ!
フッ、勝手にしなさんな。
心の蟠りはも消えたでしょ、だったらもう帰ってちょうだい。
お、お待ちくだされ!
まだ拙僧本人の疑問が残っておる、十巻もの絵画を渡り歩き、一つの胸憶が生じた、これを吐き出さなければ気も晴れぬ!
……わかったわよ。
でもこれで最後よ。私あまりうるさいのは好きじゃないから。
画中の人は、誠であるか偽であるか?
面白いことを聞いてくるわね。画中の人だって知ってるのに、なぜ真偽を問うの?
拙僧は味気ない経文を聞くと居眠りしてしまうが、それでも朧げながらも「求真」という二文字だけは憶えておる……しかし拙僧は貴殿の絵画で十年も行脚してきたが、それでも未だに真偽がわからぬままだ。
貴殿に問いたい、真とは如何なるものなりや?
……真ねぇ。
人は画中の人を見ていると、自分をあたかも「真」と思い込み「偽」を見るのよ、偽物だって生まれもするし老いや病で死ぬ、どちらも一笑いで去ってしまう儚さよ。
ならもし私たちも画中の人で、いつか適当に霧散してしまっても、あなたそれでも泰然自若でいられるのかしら?
人はいずれ死ぬ、しかし何ゆえそれに須らく苦しむ必要があろうか?拙僧が思うに、心を保ち続ければ、当然としてそこにあり、自由自在にあり、己の存在に危惧することもあらぬ。
人は必ずしも自由ではないわ。私によって描かれたそれらが本物だろうと偽物だろうと、全部自我への詰問なのよ。
人生当に自由であるべし。
いいえ、あなたも私も画中の人なのよ。
……
自ずとそれを明らかにしてなお、自らそれを知らぬままとするか、であればなぜそれを真と言えようか?
結局のところ、真とは何か?偽とは何か?あなたは本当にその違いがわかるの?
ならなぜ真を比べようとするの?
貴殿は……拙僧はこの時でも、画中にいるとおっしゃっているのか?
……あなたは確かに私の絵から出たわ、それに関しては本当よ。
ただあなたはどうやってこの大地は、それと異なる無聊な絵巻じゃないと、証明してくれるのかって聞いてるのよ?
……
あなたが歩んだ道も、見てきた人々も、生も死も、もしかしたら筆を走らせる人の気まぐれで描かれた、無意味なものなのかもしれないのよ。
あなたたちが一生をかけて求めてきたいわゆる「真」とは、所詮我に似て我に非ずの幻想にすぎないのかもしれない。
私たちはただ絵巻の中をグルグルと回っている登場人物、見物人がそれを見て、喝采を上げたり、もしくは唾をはきかける、それだけの話よ。
生とはみな夢幻、露や稲妻に似た、踪無き泡影が如しなり。
……
……もうこれで十分でしょ、ここで無駄な時間を過ごして、あっちこっち行ったり来たりしないでほしいわ、煩わしいのよ。
ほかの人はあとでまたほっぽり出してあげるから、あなたは先にどこへなりとも行ってちょうだい。
ラヴァ殿は貴殿に会うために、万里もの遠方より足を運んでこられたのだぞ……冷酷すぎやしないか?
あなたとは関係ない。
あなたは彼女たちが何のために来たかのかを知らないからそう言えるのよ、だからもう彼女たちに付き合わなくていいわよ。
しかし――
――仏も顔も三度までよ、サガ。
これ以上喋ったら、壁に面して反省してもらうから。
しかし拙僧はラヴァ殿と約束をしておるのだ、せめて、これを貴殿に渡してほしいと。
なっ――これは……!?
(ニェンの足音)
……みぃーつけた。