
十七年前
1:37p.m. 天気/晴れ
ウルサス中部、サスナ谷療養所、食堂ホール


どうぞ、コーヒーでございます。

――新入りか?

はい、左様でございます。

ならしっかりほかの者に聞いておけ、わしのコーヒーへのこだわりをな、コーヒーは冷ましてから持ってこんかい!

忌々しいフェリーンめ――フンッ、フェリーン人め!虫唾が走るわい!わしはフェリーンなんかに面倒を見られるために、戦場に赴いたわけじゃないわい!

さっさと消えろ!
(ガラスの割れる音)

……申し訳ございません、こちらに落ち度がございました。

どうかメイド長にだけは言わないでくださいませ、今すぐ新しいコーヒーをご用意致しますので……

……フン!クビにされたくなければ、三分以内に用意しろ。

それと……なんだその目は、お前は笑顔すらできないのか、だったらわしがお前の顔を引き裂いてやっても構わんのだぞ。

どうかご容赦を……ご機嫌を損ねてしまい本当に申し訳ございません。直ちにご用意致しますので。

ペッ、今時のメイドは、見てくれだけなのか?

本当に申し訳ございません、どうかお気を確かに。

お体に障りますゆえ。

おい貴様、そこをどけ!

は、はい、申し訳ありません。


……

お嬢さん。これ、お嬢さん!

私をお呼びでしょうか?

うん、そうだよ、お嬢さん、さっき見てたよ、どうか気を落とさないでおくれ。

さっきの人は治安維持隊の隊長さんでね……本来ならね、ああいう人はこの療養所には入れないんだよ。

貴族にも見えませんでしたけど……あんなに威張り散らして、お上の怒りを買わないのでしょうか?

噂によると彼はとある侯爵にえらく気に入られているらしくてね……はぁ、それだけじゃないのよ、今回この療養所に来たのは、何も“戦場で受けた傷”のためじゃないらしくてね、彼が戦場に上がったことなんかないんだよ。

噂によると侯爵の汚れ仕事に手を貸して、風当りから身を隠すためにここに送られてきたらしいのよ。あんなに大きな後ろ楯があるんだから、あたしたちみたいな下人に威張り散らして当然よ。

……侯爵ですか……

まさかあんなタヌキでも、侯爵様のお目にかかれるのですね。

その通りよ!もしかするといつかどこかのお坊ちゃまにだってさせられるかもしれないわね!ピカピカに着込んでご主人の後ろに立ってるだけの……はぁあ。

とにかく、気を落とす必要はないよ、あんな連中に纏わりつけられたら、オリジムシ以上に厄介になるからね。あんたみたいな若い娘っ子が、こんなところで仕事する必要なんてないのにねぇ。

あたしが言ったって絶対に言わないでちょうだいね、言いふらすのもダメよ、じゃないと疫病神に目をつけられちゃうから。

そうですね……わかりました、ありがとうございます。

はぁ、次彼に会った時は、なるべく避けちゃっていいから、睨まれたら何をしてくるか分からないんだし――あら、そちらは新しく入ってきたお医者さんの先生かしら?

……ケルシー。

先生。

あら、まあ、お知り合いだったの……じゃあ邪魔しちゃ悪いわね、今は休憩時間じゃないんだから、気を付けるんだよ、メイド長に見つからないようにね。

……

すごく私たちみたいな新入りを気にかけてくれている、優しい人ね。

ええ、ルイーザ先生、彼女の善意を無下にしてはいけませんね。

そっちはまだ仕事が残ってるかしら?少し話がしたいのだけれど。

ごめんなさい、先生……このあとコーヒーを一杯淹れないといけません、もしあの侯爵の寵児に絡まれなければ、あとでまた伺います。

そう……なら気を付けてね、ケルシー。


ルイーザ先生。

……今は私とあなたの二人っきりよ、ケルシー、あなたもそろそろ偽名をつけたらどうなの。

“ルイーザ”、君の娘の名前を借りて偽装するとは秘密警察も舐められたものだな。

彼らからすれば、私はもう死んでいる身だ。それにこの件を終えた後、私はウルサスを出る、暫くは戻ってこないだろう。

大公が暗殺されたことは誰にも知られないさ。彼らが再び大公の傍にやってきたころには、すでに老衰によって呼吸が止まってることだろうな。

……ウルサスの今ある技術ではあなたの毒を解析できないっていうの?

……現時点ではな、この毒は確かに彼らの“毒物”に対する理解の範疇を超えている。

……あなたのその知識があればウルサスの発展は何年先に進められるのでしょうね?所長?

この帝国の進歩はすでに私の想像を超えているさ、それより今はそんなことを話し合ってる場合じゃないだろ。

リリア、君たちがいくらこの仲裁を求めようとも結末が訪れることはないんだ。

復讐をしようにも君たちではもう手の出しようがない、大公の栄誉と意義を共に葬れるのは、ウルサスの皇帝たった一人だけだ。

……わかっているわ……

そうか。それで、ここが例のポイントか?

そうよ、私たちはワーリャ大公がどんな病を患っているかは把握していない。

けどメイド長から情報を得たわ、毎日午後三時、ワーリャ大公は彼の私室から、休憩しにここにやってくる。

そしてここで日が落ちるまで日光浴を浴びる、たまに客人が来る時は、直接その客人たちと一緒にここで晩餐を開くと言ってたわ。

私たちが大公の私室に近づくことは不可能、しかしここなら……

私たちは今その場所に立っている。

そうよ。

けど大公が護衛を同伴しないはずがない、従って、廊下も護衛隊によって封鎖されるかもしれない。

大公から特別に許可が下りた客人を除いて、大公の医療顧問、それと使用人しか、この区域には入れないわ。

だとしても、ウルサスの貴族が療養所の人員をこのバルコニーに入ることを簡単に許可するとは思えない。

私たちがここに潜入してそれなりに時間が経ってる、長引くほど、リスクも高くなるぞ。

わかっているわ。きっと何かしらのスキが、何かしらのチャンスがあるはずよ……大公の医療顧問は交代制だったわ、きっとすぐ私の番になるはず。今日、もしくは明日にもなるわ。

……

リリア、正直に答えてくれ。

大公が死んだあと、君はどうするつもりだ?

どうしてそんなことを聞くの?今は目の前のことに――

正直に答えてほしい。

……

私たちがサスナ谷につく前、パブロフ家から最後の手紙を受け取ったの。

セリゲイは相変わらずせっせとボリスのために働いている、そしてあの都市は……航路を変えたのよ。きっと何かしらのターニングポイントにえるわね。

あんなにたくさんの人を殺したっていうのに……あの人たちは平然と暮らしていて、枕を高くして眠っているなんて……

……セルゲイの裏切りを理解したんだな。

……だとしてもどんな言い訳を言っても死んだ人が生き返ることはないわ。

セルゲイはもうこれ以上科学的な援助を提供することはできなくなった、おそらく数年後、プロジェクトは正式に凍結されるでしょうね。じゃあその後は?セルゲイとボリスが結託し続け、笠を着て威張り散らしているところをただ見てろって言うの?

君はワーリャ大公が死んでも、止まるつもりはないのだな。

私はセルゲイが許せないの。彼を初めて知ったのは、酔いつぶれたアストロフが嬉しそうに私に抱きつきながら、自分には真面目で優秀な同僚がいるって話してくれた時だったわ。

彼は昔からこの事業に憧れを抱いていた、私は彼を支持していた、私の全てを捧げてでも彼を支持したわ。

今も変わらずにね。

……

ケルシー所長、あなたは何でも知ってるんでしょ。

話すつもりがないのなら、私はチェルノボーグに戻って、ケジメをつけるわ。

パブロフ一家が私たちのためにサーミへの逃げ道を用意してくれたけど、でもきっと、私は逃げ遅れちゃうでしょうね。それにあなたは……

算段はついている。

フッ……そりゃそうよね。

分かっているわ、私は飛んで火にいる夏の虫だってことぐらい。だから……ケルシー、私に真実を全部話すつもりがなくても、せめてこれだけは、どうか約束してほしいの。

自分が狂ってることをやってるって自覚はある、あなたが言ってることが正しいのかもしれないってことも分かっている。それでも一つだけお願いを聞いて、私の娘を、ルイーザの面倒を見てやってほしい。

次の代までも憎しみに悩まされる必要はないの……たとえ誰もこの円環から逃れられなかったとしてもよ、だからお願い、ケルシー、あの子のことを見てやって。もしできれば、リュドミラのことも……

ルイーザ先生?ルイーザ先生、どこにいますか?

ここにいます!少々お待ちを!

ケルシー……お願い……

約束しよう。

母親の最後の願いであるからな。ルイーザもきっと立派になるさ。

……ありがとう。

アストロフが、彼が最後にルイーザの小さな手を握ってた時にね、冗談半分でこんなことを言っていたわ。

ルイーザも将来は私みたいに、医学研究者になってほしいって、ルイーザが学校に通える歳になったら、是非ともケルシー先生をあの子の家庭教師になってほしいって。

そうか……

あの晩突如研究所に行く前に、自分の娘に話した最後の言葉だったわ。


あら、先生、ここにいたのね!よかったわ、これ以上遅れると、メイド長がまた癇癪を起しちゃうわよ。

ん?先生、目が赤いわよ?何かあったの?

……なんでもありません、どうかされましたか?

回診のお時間よ。

もうそんな時間でしたか……分かりました、すぐ用意しますね。

あちら何やら騒がしいようですが?

ああ、貴族の旦那様が遠くからいらしたそうなのよ、なんでかは知らないけどね。

何事もなければいいんだけど。


こんにちは――

すみません、今ちょうど回診のお時間でして……予定されてた訪問リストにお名前が書かれていないようなのですが、どちら様でしょうか?

旧友を訪ねにしゃれ込んできたウルサス公民にすぎないよ、どうぞお構いなく。

そちらの邪魔をしていないといいのだが。

ヴィッテ、もう行くのか?

いや、また後で来るさ。もう冬だ、君も体を大事にな、持病の喘息を再発されては大変だからな。

待たせてすまないね、先生、では私はホールで待っているよ。
(???が去っていく足音)

(あの人って……)
(ドアの開く音)

ヴィッテ大臣!

静かにしたまえ。

あ、失礼しました……

閣下のご来訪を把握しておりませんでした、わたくしたちの落ち度でございます、お詫びの印としてはなんですが、大公閣下がぜひ晩餐にご招待したいと。

どうかご理解頂きたい、大公閣下は現在病を患っておりますゆえ、もしそうでなければ、きっと自らお出向きになって閣下をお迎えに……

……!

む。

あ、申し訳ありません、申し訳ありません……

何をしているんだ貴様!よくも大臣の面前で――

いや、構わん、アルコールがベッドシーツにこぼれただけだ。

落ち着かれよ、先生、どうかしたのか?

申し訳ありません、アルコール瓶の蓋がキツくて、つい力み過ぎてしまいました……

ほかの者の手を借りればよかったじゃないか。

申し訳ありません、本当に申し訳ありません、すぐ雑巾を持ってきますので……
(リリアが走り去る足音)

哀れなご婦人だ。

それと大公閣下からの招待だったな、申し訳ないが、トランスポーターが待っているんだ、晩餐を共にできなくてすまない。

ワーリャ大公に伝えといてくれ、どうか安静に養生されよ。だがくれぐれも忘れるな、ここは陛下が勲功者に賜った恩賜の地だ、貴族たちのために社交の場でないとな。

あ……はい、必ずや……そこまでおっしゃるのなら……致し方ありません。

これは公務だからな。陛下と大公閣下のうちから一人を選べとなると、ワーリャ大公には申し訳ないが陛下のほうを選ばざるを得なくなる。

そうでしたか……!であれば、大公閣下もきっとご理解されるでしょう。

ご足労をおかけしました。

彼によろしく伝えといてくれ。


ルイーザ先生、どうかされましたか?

ケルシー、彼は誰?

イスラム・ヴィッテ子爵だ。

彼を知ってるの……?

ウルサスで新しく任命された財務大臣だ、皇帝の寵愛を受ける新しく出た貴族でもある。

彼は……

心配はいらない、ルイーザ先生。

彼がどういう人なのかも、彼が具体的に何をしたかについては私でもまだ不明だ。だが今の彼は、ウルサスの現皇帝がその身の支えとしている支柱であることは分かる。

それにあのような若き傑物は、ウルサスの広大な領土しか見ていない。帝国が直面する波風からすればチェルノボーグといういざこざは、大波に揺蕩うさざ波にすぎない。

たとえウルサスの大公であっても――

――いや……待て。

財務大臣は療養所に来るまで、一切護衛を付けていなかったのか?

ええ……そのようね。

……
