十三年前
8:09p.m. 天気/大雪
ヴィクトリア辺境自治区、ダラム、ヴィンセント荘園
あれは偉大な都市だった、ヴィクトリア人なら誰だろうと一生に一度はあの偉大な都市を拝みに行くべきだと私は思うがね。
つまり、我らの尊敬すべき公爵たちは依然と結論を出していないと?
そうだ、依然とまだだ、ロンデニウムは依然として“主君なき”都市となっている。
ではあなたはノルマンディー公爵と共にロンデニウムを遊覧されたのですか?
残念ながら、大公爵は以前ロンデニウムへの立ち入り禁止を言い渡されていてね、それに公爵閣下は紳士だ、そのような僭越な行いをするはずもない、私たちはロンデニウム郊外の船舶で晩餐を共にするだけにとどまったよ。
公爵閣下はどのような英傑だったのかな?
ああ……公爵閣下は本当に温厚で優雅な貴族だったよ、経済と政治にも独自の見解をお持ちだ、それだけじゃない、話によると音楽にも精通しているらしくてね、彼のプライベート収蔵室を見れば彼が芸術にどれだけ崇敬の心をお持ちかがわかるよ。
私たちにはこれほど多くの英傑がいるおかげで、ヴィクトリアは依然と繁栄を極められるのだ!
最高統治者を有さないヴィクトリアでも、十数年もの安定を保持し続けてきた。
しかし実際には、幾つもの大公爵が裏で掣肘し合い、摩擦し合ってきた、それだけじゃなく……
仮にあれほど大勢の貴族が食中毒や狩猟での事故で簡単に亡くなられるのなら、ヴィクトリア貴族による統治はとっくに崩壊しておりますわ。
そして三年前、君の父親もそのようなことに遭遇してしまったんだな。
……ええ。
彼は足を怪我した、ウソではないのだな。
学術でお父様と諍いを起こしたある貴族の方が、宴会の後にお父様に手を出したんですの。
よく偽装できているな。
お父様はちゃんとその兆しを把握しておりましたわ、でも彼はこの事件のせいで情報が滞ることをよしとしませんでしたわ。
今この荘園の中で、トムソンの味方はどのくらいいるんだ?
たくさんいますわ、たとえばさっきあなたと話したあの方たちとか……ついこの前まで、みんなお父様の別荘で顔を合わせておりましたの。
……リチャードは先ほどまで君の父親の悪口をそれなりに言ってたじゃないか。
あはは……たぶんリチャードおじ様は半分本心で言ってるんだと思いますわ……彼とお父様はもう何年も張り合っておりますから……
しかしそれでも彼らは依然と君の父親の傍に集まってくれているんだな、君の父親は素晴らしいリーダーだ。
あなたの指導の賜物ですわ、ケルシー閣下。
誰だって思いもしませんでしたわ……あの時ヴィクトリアにやってきたラテラーノの修道士が、まさか私の最も信頼する指導者になるだなんて。
私たちは同じ目的を持ってるだけだ。
ケルシー様、彼らは、私たちは何事もなく無事でいられますよね?
……ハイジ。
それは君自身の目で確かめくれ。もし本当にこの大地を歩みたいのであれば、文明の虚像にもう目がくらませられることがないのであれば……君は自分で確かめるべきだ。
慰めの言葉に意味なんてない、君はもう成長したからな。
しかし、三流の小貴族やゴロツキチンピラ連中から、不愉快な噂話を聞いたよ……
あら、それで機嫌を損なわれたのかしら?伯爵閣下?
そうだな……見ての通り、各大公爵の礼譲と譲歩が今の平和と繁栄をもたらしてくれている。
しかし認めたくはないが、たとえクルビアにいるあの野蛮な裏切者ども、奴らでも分かる、ヴィクトリアが君主を持たなくなって久しいとな。
それがなんだと言うのかね?だったらそれは我らが自分たちのやり方で……強くなったという説明になってるじゃないか?
君の言う通りだ、リチャード、しかしこんな声もあったよ、純粋ながら、自分たちの目的を抱いている人々が集まって、荒唐無稽な問いを持ち出してきたんだ……
彼らはこんなことも言っていたよ、ヴィクトリアは新たな王を渇望する必要など本当にあるのか、とね。
みんな、ヴィンセント叔父様は頼りなさ過ぎるって言ってましたわ……
私たちは辺境に身を置きながら、現状に甘んじている……どう見ても今は明らかに権益を得られる大チャンスのはずなのに、ヴィンセント叔父様ったら自分の荘園でパーティを開くばかり。
今回のロンデニウム遠征も、実質的な成果は得られませんでしたわ。
だが君の父親はそうは思っていない、トムソンは過激な風潮で頭に血が上るほど愚かではないさ。
けど大人たちはいつもお父様にそういったことを打ち明けておりますのよ。
正真正銘の大公爵の引見を受けられる愚かな貴族などいないさ。
君は、ノルマンディー公爵は本当にヴィンセントに脅迫じみた条件を突きつけなかったと思ってるのか?
辺境に身を置き、土地は広いが人は疎ら、つまりこの誰も手を出そうとしないダラムは未だどの大勢力の影響下にも置かれていないことを意味する。
……ヴィンセント叔父様は……
ただ歌やダンスしか知らないような貴族だろうと、このダラムの平和を維持するために尽力している。たとえここの平和が……触れれば破けてしまうほどの脆いものだったとしてもな。
適度な傲慢や中庸は彼の考えを覆い隠してくれる、彼の真の意図を推し量れる人も極々少数だ。
トムソンが本当に肝も据わってない眼識もない伯爵にこれほどの信頼を寄せるはずもないだろ、彼らは互いに違う道を歩んでるように見えるが、行きつく先は同じだ。
……へへ……そう言ってもらえると、良かったです。
ケルシー、その二通の手紙を読まなくていいのですか?
ロンデニウムからダラムは、ほぼヴィクトリアを横切るほどの距離だ。
この手紙がどれだけの人の手に渡り、またどれだけ自分たちが身を置いてる事件の全貌を知ってる人がいると思う?
それはもうたくさん――
労働者、新聞配達の子供、ポップコーン売りや公園の庭師にも至る。だが彼らは手紙に書かれてる内容すら理解できていないんだ、ましてやこの文字たちが最終的に何と関係があるのかすらもな。
だが今この手紙は無事トムソンの手に渡り、そして彼の手から私に渡った。
なら何も心配することはない。
……そうですか……
けどもう一通は?あれは“カズデル”から……
……サルカズのトランスポーターが最後にその手でトムソンに渡したものだ。
彼にはトムソンへの連絡方法を教えたんだが、本来の計画に従うのであれば、彼は自らの手で私に手紙を届けるべきだった。
うん……でもそのサルカズはヴィクトリアに到着した時にはもう……
お父様はサルカズの英雄の死を弔う方法を知りませんでしたわ、だから私たちの慣例に従って火葬をして、移動都市の航路に撒いてあげましたの。
……私の口から彼の本名は言えん、だが少なくとも、彼はトランスポーターの身分として死んだ、私が彼の物語を彼の故郷へと持ち帰ろう。
彼が忘れ去られることはないさ。
……ケルシー、あなたは誰に対してもそういう風に接してますの?
なぜ急にそれを聞くんだ?
いえ、ただちょっと……へっ……へっ……
へくちっ!
あ!す、すみません、はしたないですわね……!
雪がまた強くなったな、中に入ろう。
この宴会が終わった後、トムソンを訪ねるよ。
きっと、お父様も喜ばれると思いますわ。
……
わたくしはあなたの腕に手を通したほうがよろしいのでしょうか?そうすればほかの人たちから疑われずに済むと思いますし。
その必要があると思っているのなら。
では……へへ、わたくしより背が高いのですね。
まだまだ成長期じゃないか、ハイジ。
外をご覧、ケルシー、すごい雪ですわ。こんな大雪は久しぶりに見ましたわ。
そうだな、大雪が来る。
ハイジは思った、どれだけの雲を引きちぎればこれほど激しい雪を振るい落とせるのだろうか?
白い雪は四方を飛び交い、風に吹き荒らされながらまた空へと舞い上がった。
淡い黄色のランプの光が届かない場所は、すでに靄がかかり、町を覆っていた。
今夜は星も月明かりもない。
解き放たれた黒い波が浜辺を駆けてきた。
シュコー――フゥ――
ケルシー?
……
…………
……黒い雪だ。
え?わたくしには見えませんが……
ハイジ、仲間全員に知らせろ、痕跡を残さず宴会現場を制御しておけと。
少しだけ時間をくれ。誰も裏庭には……近づけさせるな。
それは構いませんが……急にどうしたんですの?
敵が来た。
なっ……?
辺境とはいえ、ここはヴィクトリアの伯爵の荘園ですのよ、誰だろうと勝手に――
――ハイジ、もし私が荘園に戻らなかったら、君は父親と共に真実を隠蔽しておくんだ。
もうこの事件に首を突っ込むな。
しかし――
これは警告だ、命令でもある。
――!
達者でな。
(ケルシーが走り去る足音)
……
サーミとウルサスよりも北にある、サルゴンよりも南にある、あの人類未踏の地……
そこに住まう邪悪な魔物、バケモノ、あれらが通常の生物なのかすら判明できてないが、建国して久しい諸国よりもさらに古より存在している。
人類は長い間それらと対抗してきた、これは明確に心に留めておくべき数多の命題の一つと言えよう。
……今日に至るまでのな。
人はもうすでに己の国家を主宰することができた。
古のサルゴン王は強大なケシクと意気投合し、夢魘のカガンは人類文明が未だに踏み入れなかった地の征服を決意した。
あれは偉大な結果の一つだった、もはや人ならざる脅威がサルゴン文明の国土に踏み入ることはなくなったからだ。
サーミは無数の巫術と犠牲をもって雪祀を造り上げた、巫女たちは一代また一代と国境外の敵と対抗する過程で自我を失っていった。
そしてウルサス――君たちは最も強大な少数精鋭をもってそれらを引き裂いた。重装甲を身に纏ったウェンディゴ、あるいは戦争術師の精鋭を用いて。
野心に満ちた帝国だ。君たちはそれらを引き裂いただけではとどまらなかった。
君たちはあの人ならざる物が残した力の破片をも利用したのだ。
……姿を見せろ。
ウルサスの意志によってこの地にやってきたのだろう。
だが君はヴィクトリアの強大な力を見くびっているのでないか、君は邪悪な魔物の気配を帯びている、己の責務の所在を考えたことはあるか?
魔物に心を呑み込まれてしまったとは言わないでくれよ、近衛兵。
ランプの光が届かない暗闇が一瞬だけ蠢き、そこから何かが歩を踏み出した。
お前から恐怖の匂いがするぞ、反逆者よ。
私を見つけ出すのにえらく時間がかかったじゃないか。
……反乱の余波が我が身を縛っていなければ、とっくに主君を殺めた大罪人であるお前を追いかけていたさ。
無能どもがお前を見逃してしまった、何たる恥辱か。奴らにはすでに刑を執行しておいた。
もう一度君に言ってやったほうがいいな、雪は都市を丸ごと覆い尽くせるが、近衛兵の足跡を揉み消すことはできない。
君は今ヴィクトリアにいる。そして私の背後数百メートル先は、ヴィクトリアの伯爵の荘園だ。
君は自分の行いの結末を理解できて――
――結末?
その軟弱な脅迫をしても無駄だ、我が双脚が踏みしめる地、そこが即ちウルサスの偉大なる国土なり。
お前が“邪悪な魔物”という言葉を口にするまで、お前は私と対話する資格すらなかったのだぞ、反逆者よ。だが少しばかりした後、なぜお前がその暗黒の秘密を知ってるのかが判明する……
お前は“邪悪な魔物”への理解があるだけで対話できる余地を築けるとでも思ってるのか?ウルサスの大公を殺めた大罪を背負い、暗き秘密を知ってるお前ごときが。
シュー……その罪の多さで、お前は万死にも値する。
……どうやら話し合いはしばらく無理そうだ。
だがそれは……君が現状をそう評価しているだけに過ぎない。
異形の類よ、貴様の牙を呼び出せ!
私の目は誤魔化されんぞ!
……Mon3tr。
(せわしない嘶き)
Mon3tr、油断するな。
彼は普通の人間ではない。
庭に隠された……装置なのか?いや……あれは、一種の生物なのか……シュー……
貴様は“魔物”の存在を知っている、そして今、ウルサスの最も深遠なる叡智ですら知り得ないバケモノをも侍らすか……
おそらくだが、貴様が犯した数々の罪はすでに私の予想の範疇を超えているやもしれん。
それかもしくは、私は一人の近衛兵を、震え上がらせているのかもしれんな。
……シュー。
否定はしない、反逆者。
だがますます気になってきたぞ、一体何によって貴様みたいな人を祖国を裏切るようにさせたのか……いや、違うな、おそらく、こちらが貴様の全貌を解き明かすには至らなかった疎かな調査をしたからか。
どうやらそうかもしれん、サーミに逃げ込んだあの罪人たちより、貴様は確かに手強い。
だが誤解するな……貴様を殺すことなど、依然と容易い。
……ここの空間を染めている?
そうだ、だがよそ者に言われる必要はない。
(斬撃音とMon3trが弾く音)
――Mon3tr!
(悲鳴)――
シュー……何という硬さだ
仮に貴様の肉体もこれほどの強度を誇っているのであれば、こちらでは確かに手の出しようがないな。
Mon3tr、戻れ、深追いはするな。
あの黒い霧を避けろ。あれはただの霧ではない。
それどころかあれは通常のアーツの範疇を超えている……どうやら私は長い間帝国の利刃と接触できていなかったようだ、凄まじい進歩だな。
……
貴様、我らの秘密をそこまで知っているのか……?
古の儀式によるものだ、ああ、あの得道者と自ら謳う狂った助祭でないと、貴様らに邪悪な魔物を纏う資格などないからな。
君は……
君はあの落日峡谷の生存者なのか。
シュー……!
帝国の意志はそれほど多くの顔を持たない、だが君は確かにほかとは少し異なる、少なくとも、君の歳は若くないはずだ。
お互い命を賭けてまで殺し合うべきじゃない、近衛兵。私がすべき唯一のことは、君たちがすべきだったのにしなかったことだと、君なら理解してるはずだ。
権力の帰属を履き違えるな、反逆者、貴様はいつからサンクトペテルブルクの法と権威を代表するようになったのだ?
もし君はあの反乱を体験したのなら、近衛兵、君のほうがもっと理解してるはずだ。帝国の盛衰はいつ尊厳と体裁で左右されたことがある?
……
それに、先帝はひと時でも……心の底からヴィクトリアを軽視したことがあるか?
……
貴様を侮るべきじゃなかったな、反逆者。
最後に一回だけ機会を与えよう。貴様の知ってる秘密を言え、さすれば体裁ある死を与えよう。
すまないが、自身の意志と無関係な死はどんなであれ、体裁は存在しない。
Mon3tr。
(嬉しそうな咆哮)
シュー……フゥ。
膨れ上がる恐怖。利刃は利刃を抜いた。ウルサスの意志を執行するために。