

果てが見えない……濃い霧が覆っている……
光を放った霧が底なしの深部から昇っていき、全身を、彼女を包み込んだ。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、瞬時に、彼女は外界への一切の感覚を失った。
彼女は目の前に何かがあるように感じた。
それは海だった。
彼女は全身の力を振り絞り、その広大でほぼ無形な海に、一撃を振りかざした。
だが彼女が感じ取っていた一切合切が轟然と崩壊していった。
冷たく熱い液体が彼女を呑み込む、それは潮の流れであり、海の血であった。
最後の舞はすでに終えていた。海は静まり返り、彼女ももはや僚友の歌声を耳にすることはなかった。
彼女は救ったのだ……いや、彼女は何を救ったのかが分からないでいた。
同じく自分は何に打ち勝ったのかも分からないでいた。
彼女は必死に両足、両腕を藻掻いた、しかし海は彼女の意思に反し、冷たく硬くなっていった、まるで凝固する鉄のように、四方八方から彼女に押し寄せ、四肢を重くした。
もう動けない、彼女は自身を海に託した。
海に落ちる彼女。漆黒の影が彼女に纏わりつく。
無数の声が実体を持ち、彼女の周りを取り囲んだ。その中には慟哭、悲鳴、そして……さえずりが混ざっていた。
海が彼女に話しかけていたのだ。
深海はその冷たくて暗い本来の姿を取り戻した、彼女の目もまた同じく。しかし彼女は上への道が見えなかった。彼女はまた落ちたり、昇ったりを繰り返していった。
深海よりさらに深い場所で、温かな海水が彼女を支えていた、まるで数多の血族の腕かのような海水が。
彼女は唇を開き、海水がその喉を貫き、徹底的に融解し、また組み合わさった。
そして彼女はまた新たに歌声を得た。


ふんふん~ふん……♪

うぅ……

詩人さん、起きたのね!おはよう!

誰が歌ってるの?

こ、これって歌なのかな?私は歌えないよ。あなたが眠ってる時、いっつもそのフレーズを口ずさんでいたからさ。

私が……

痛っ!詩人さん……そんなに強く掴まれちゃ痛いよ……

あなた……
女の子の姿がぼやけてきた。まるで海の中にいるかのように。
いや、海にいるのは彼女のほうだった。
あの夢が彼女の精神を引きちぎっているのだ。
音符が連なって躍動し、彼女の血族たちの慟哭へと織りなった。

お母さん……
彼女たちは彼女の目の前で死んでいった。成す術などなかった。

バケモノ……

バケモノ。

バケモノ!
彼女たちは叫んでいた。彼女の傍にいる人たちはみんな叫び声をあげていた。
彼女は自分の武器を握りしめた。
(打撃音)

キャッ!

ゴホッゴホッ……詩人さん、箱……胸を押し付けられて苦しいよ……
彼女は一刺しで人を食らっていたバケモノの身体を貫いた。
振り向くバケモノ。
それは彼女が鏡でよく見る顔だった。

私は……
箱が地面に落ち、揺さぶり、中身が音を奏でた、だが溢れ出ることはなかった。

て、手を緩めた?ビックリしたぁ……

詩人さん、てっきり私を殺すのかと思っていたよ。

……

殺そうと思えば殺せるわ、簡単にね。

でも殺したくはないんでしょ。

分かるの?

分かるよ。

でも、私には分からないわ。
(スカジが走り去っていく足音)

え?

ま、またなの?また急に外に飛び出ちゃって……詩人さん、どこに行くの!


……長官、もうすぐ満潮になります。

海の色が……あそこ一帯の色がもうすでに変化しています。

海の中に何かがいます……あ、あれは貝類と鱗類でしょうか?どうして海の中に突然あんなものが?しかもじりじりと岸へ向かっている?

本来存在しない海流に沿って、より深い場所からやってきたんだ。

なんですって!?

私はてっきり……住民たちが海に向かおうとしてたのは、食料を得られるという、ただ単に迷信の類かと思っていました。てっきり、彼らは絶望の淵に何者かに惑わされ、ウソを仄めかされたのかと……

まさか、彼らは、本当に海と取引していたのですか?自分たちを餌にして、海のバケモノたちに自分たちを分け与え、バケモノたちも彼らの飢えを凌がせていたと?

なんて恐ろしく不気味な共生関係……どうりで、ここの恐魚の数が多すぎると思ってましたよ!

私は昨日……昨日阻止してやったんだとてっきり!

すべての矯正に結果が伴うわけではない、今ようやく学んだな。

私は……

私が間違っていたのでしょうか、長官?私はただ彼らを助けてあげたかっただけなのに。

その過ちを正すか、もしくは過ちを正しさの道に戻すしかない――

しかし……彼らにとって、正しい道とは一体何なのでしょうか?

塩風町は……この土地と海岸は、もうどんな食料を育むことはできません。

結末なんてとうの数十年前に決まっていました、どんなに足掻こうとただの徒労です、移動都市も、文明もここに住まう人々も、みんなゆっくりと死の道を辿っているんです。

彼らは私に聞いて来たんです。もし……もし行く道がすでに途絶えていたのならば、どうやって正しさと過ちを判別できるのか?

――ならば過ちを存在しないものにしてやればいい

長官……!それってつまり……

疑っているのか。

私は……いや、そんなつもりはありません。私はただ……

今の彼らは……こんな風になってしまいました。でも彼らだってイベリアの民でした。彼らを守りたい、ここの人たちを……この国を良くしたんです。

ならば疑え。

え?

それを決めるかどうかは、お前次第だ!

はい、長官……

お前はあの海を見て、何がわかった?

脅威が……見えました!

答えを暗唱せずお前の見たままを言え。

海が……動いていました。形をどんどん変えながら。

自分が見たすべてを忘れるんじゃないぞ。

変化はすでに過去、現在、未来で起こっている。もし見定められていないのなら、お前は自身を見失ってしまうぞ。
(斬撃音)

長官、その足元にあるのって!?

何だと思う?

恐魚……昨晩街道を襲った討ち漏らしたヤツ!?いや、違う……コイツは海岸を彷徨って……街道の奥まで進んできた……見た目も違う……

これが何なのか……私も、くっ、分かります……
(斬撃音)

これは浄化すべき悪だ。

……そうか。取り引きの全貌が……やっと理解しました。

海に入った人はみんなこんな見た目になってしまうんだ……ここはただのバケモノ巣窟じゃない、温床だったんだ。

くっ……

じゃあ、ここの住民たちはいずれ全員バケモノになってしまうということですか!

……

(鞘を握りしめる)

長官、もう一度町を見てきます。
(審問官が走り去っていく足音)

スカジは海辺で腰を下ろして座っていた。
潮の匂いを帯びた風が吹いていたが、彼女のスカートに触れることは叶わなかった。
(アニータの駆け寄ってくる足音)

はぁ……はぁはぁ……し、詩人さん……走るの速すぎるよ……

まだ速さが足りなかったようね。

え?

またあなたに追いつかれてしまったもの。

あ……あはは……詩人さん、ここは私の地元なんだよ……ここの地形なんて、あなたよりよっぽど熟知してるんだからね。

もう行くわ。

行くってどこに?

ここを離れる。

え、もうお仲間さんの在処がわかったの?

……せめて、あなたたちから遠ざかりたいから。

え?どうして?

あの審問官、一つだけ正しいことを言っていたわ。

色々言っていた気がするけど……

あなたたちにとって、私は危険そのもの。

昨日の夜の出来事?私たちを助けてくれたじゃない、詩人さん、みんな感謝してるよ。

助けた?あなたはそう思ってるの?

もし、あの恐魚のうち、一匹でも私が殺し損ねたら。アイツはこの町を這いずりまわって、あなたを食い殺していた。

あなたはそいつに殺されてたかもしれないのよ。

アレは私がもたらしてきたもの、だから私があなたを殺したことになるわ。

いや、そんなことないよ……

そうじゃなければ何なの?こんなこと、一度や二度起こったわけじゃないのよ。

みんな私のせいで死んだ。みんな私を恨み、恐れ、私を責めた。

それは……その人たちが間違っていたんだよ!

だって詩人さんはわざとじゃないんでしょ。

わざとじゃない?

私には分からないわ。

え……

あれから、もう何も分からなくなった。
彼女はまたあの夢を思い返した。
最後の一戦を経た後、彼女は何度もその夢を見てきた。
アビサルハンターはその場に留まることは決してない。彼女たちは先へ先へと進むからだ。
しかしスカジはそこに閉じ込められていた。
スカジは自分がどうしてしまったのか分からなかった。

アレを殺せば、答えが出ると思っていた。
一番大きいバケモノを殺した。
そうすればすべていい方向に向かう。誰も泣かずに、悲鳴を上げずに済む。
アレを殺せば。
そして殺した……
それによりさらに大きな問いが彼女を覆い被さった。
アビサルハンターはなぜを求めることは決してない。彼女たちは考えるよりも先に動くからだ。
しかしスカジはそのなぜを知りたかった。
スカジは自分がどうしてしまったのか分からなかった。

詩人さん……顔色が悪いよ。

さっきの怪我もあるし、それにあれだけ体力を消耗したんだから、まだ完全には回復できていないんだよね?

やっぱり私と一緒に戻って休もうよ、少しでも寝たら、よくなるからさ。

……

あなたはどうして私を怖がらないの?

え?

あなたのお婆さんは私をバケモノと呼んでいた。あなたの仲間は私を敵意まみれの目で見ていた。

どこに行っても……そんな視線ばかり。もうとっくに慣れたけど。

あなたはどうなの?私はあなたの目に、どう映ってるの?

あなたは……あなたは詩人さんだよ。

詩人ね。私がそう言えば、あなたはそう信じるのね。けどあの審問官のことは信じようともしなかった。今私が自分はバケモノだと言ったら、あなたは信じるの?

……信じない。

……

なんでずっと私についてくるの?

え?

こっちがあげられるモノなら何だってあげる。でもあなたはいらないって。

ならあなたも私を殺そうとしてるのかしら。

こ、殺す?違うよ、詩人さん、そんなこと考えてるわけないじゃん?

私が仕事をこなせば、相手は報酬をくれる。その逆もそう。陸の人たちはみんなそうしていたわ。

トレードがあるから、約束が生まれる。約束があるから、信用が生まれる。

やくそく?

約束が何なのかが分からないのね。

(首を横に振る)

じゃあ教えてあげる。約束っていうのは、あなたが私の手伝いをしてくれたら、私はあなたの欲しいものをあげる。これが約束よ。

……別に何も欲しくないけど。

ウソ。

ハン……私の鼻と目はよく利くのよ。

うぅ……

ここはあなたの地元、だからここもすぐに見つけられると言っていたわね。それもウソ。

本当のことを言わないのなら、私はあなたを信用できないわ。

いや、詩人さん、行かないで!

本当のことを言いたくないわけじゃないの。私はただ……分からないんだよ。

詩人さん、私たちにとって……私にとってあなたは謎の人なの。あなたは外から来た人、あなたみたいな人を見たのは初めてだから……

なんで詩人さんの居場所がわかったのかが知りたいんだよね、本当のことを言いたくないんじゃないの、ただ……ちょっと申し訳ないかなと思ってるだけなんだ。

ここは……縁なの。町から一番遠く離れた場所なんだ。

あなたが私たちを避けてることは理解してるよ。だから、ここから出たかったら、多分あなたもここに来るんじゃないかって、そう思っただけ。

も?

私もよくここにこっそり来るの。もちろん、プランチャたちに知られずにね。私がこんな遠くまで行ってることを知られたら、あの人たち機嫌を悪くしちゃうから。

あそこを見て、すごく高いでしょ。たまにそこに登るんだ。風が強ければ、遠くまで見れるからね。

外が気になるのね。

どうなのかな。私……よく外の世界を考えるの。無意味なのは私にも分かるよ、みんなもそう言うから、一人でこっそり考えるしかないんだ。

外で拾い物をする時とか、一番遠くに行くにしてもここまで。これより外に行っても……使えそうなものはなさそうだからね。

気になるのなら、もっと遠くまで行けばいい。

昔一番西側に行こうとしたら、プランチャに脅されたことがあるの。外はバケモノだらけで、外に出たら一瞬で死ぬって。

詩人さん、あなたは外からやってきたんだよね。あなたについて行ったのは、色んなことを……知りたかったからなの、プランチャが言ってたことは本当なの?

多分ね。

外に出たら、あなたは死ぬわ。

ふーん……本当にそうだったんだ……

失望しないのね。

詩人さん、いつかチャンスがあったら、見てみたいんだ。

バケモノがいたって大丈夫……私もそんなに怖いとは思ってないし。

ん?

審問官さんが言ってたじゃん、私はバケモノを怖がっていない、なぜなら私はバケモノが何をしてくるのかが分かっていないからだって。

たぶん彼女の言ってたことは合ってると思う。

あんなのデタラメよ。

……

私も怖くないもの。

あはは……そりゃだって、詩人さんも分かってるじゃん、バケモノがあなたに何かできるわけじゃないんだしさ。

でも私は違う。昨日の夜、あんなバケモノを見たのは初めてなの。自分はどうなっちゃうんだろうって、心臓もバクバクだった、初めてだったよ――あんなに激しく飛び跳ねたのは。

その後、朝目を覚ますと、こんな天気でもすっごく気持ちがいいように感じるようになったの。風の流れや、漣の音も感じ取るようになったんだ。

こんな日って、今まで過ごしてきた日々とまったく違っていたわ。これから何が起こるのかが分からないからだと思う、ただただボーっと明るい空が暗くなるまで眺めてるんじゃんくて。

興奮してるのね。

これが興奮?

恐怖、興奮。この二つに違いはないわ。どれも心臓の鼓動は速くなるし、血は熱くなるから。

じゃあこれって病気なの?

病気ではないわ。一部の人間にとって、これが生きてるってことよ。

生きてる感覚ってこんなに素晴らしいものだったんだね。外にいる日々って、毎日こんな感じなの?

少なくともここよりは。

……私って本当に外に行けるのかな?

宝箱……私の宝箱が満杯になったら行こうかな。

いっぱい……食べ物を蓄えなきゃだね。ペトラお婆さんのことも安心させなきゃ。

それから……うわぁ!
興奮した女の子は足を踏み外した。
彼女がまさに海に落ちてしまおうとした時、一本の腕が彼女を掴んだ。

気を付けないと、バケモノに食べられちゃうわよ。

詩人さん……また助けられちゃったね。

……ついてこなかったら、こんな面倒事は起こらなかったんだけどね。

あはは……ご、ごめんね……

ん?んん?

私の足……また何かが私の足を掴んでいるみたい。

ぬ、ヌメヌメしてて……それに重い!

……また来た。そこかしこね。ホント面倒臭い。

うっ……詩人さん、私、もうあなたにしがみつけない……

目を閉じて。

え?

それから手を放すのよ。

……本気で言ってる?

私を信じようが信じまいが、あなたの勝手になさい。
