海岸にはすでに食べ物で埋め尽くされていた。
人々の願いが海の応えを得たのだ。
(男性住民達の足音)
……
鱗。
……殻。
食える。
食える。
もっと、もっとだ……口を塞ぐほどに。
溢れた。
拾え、呑み込め。もっとだ……
持って行こう。持って帰ろう。
持って帰ろう。腹に詰め込もう。詰め込めなくても詰め込もう。
司教様……
司教様だ。
住民たちはしばらくの間立ち止まった。みな頭を上げ、彼らの兄弟を見上げた。
(司教とグレイディーアの足音)
兄弟と姉妹たちよ、存分に君たちの朝食を楽しむといい。
これは善行への褒美だ、飢えと病は我らを撃滅するのではなく、むしろ我らをより真摯に、より団結に、より友愛にしてくれる。
……
こんな長ったらしい演技を都市から都市へ続けて、よく飽きませんね。
その演技とはなんのことだ?あの方の偉大さと仁愛を陸に持ち運び、無知なる者たちに授ける、私にとっては本望だよ。
彼らは一文たりとも理解できていませんが。
それでも我らの海は誰それ隔て分かれず受け入れてくれる。
主教は慈しみ深く目の前で嚥下する男性の肩を叩いた。
さあ、兄弟たち、いま手に持つ鱗肉をなおも苦しむ兄弟たちに分け与えよう。信じよ、そのほんの少しの肉だけでも、彼の満足によって君たちの心はより満たされるのだ。
……
そして、その兄弟たちに礼を言おう、彼らが本来所有すべきものを分け与えてくれたことに。
君たちは互いに傍に立ち、手を携わり、足で足を支え合い、互いの命を共有し合っているのだ、さすれば君たちはより偉大なものとなる。
感謝を……主教……様。
いい子だ。
約束は彼らとアレの間のものです。あなたはただその両者を繋ぎとめている存在にすぎはず。
約束?いいや、約束というのは双方性のものだ、この受難の者たちはまだ海が求めている段階にはない。
彼らは願い、海がそれに応える。そして我らが彼らを助けるのは、彼らの声を届けさせるためだ。
すでに我らの一部と見なすようになった君なら、自ずと分かるはずだ。
こちらの不慣れをお許しくださいませ。もう少し妥当な言い方がありましたわね――あなたは彼らの血肉を利用して、教会内部からあなたの欲しがっているものを得ようとしている。
私が何を欲しているのかが分かるのかね?
上位者の悦楽は容易く人を溺れさせますのよ。
それは誤解だ。
海のもっとも敬虔深き創造物あるこの私の地位は、偽りなどではないよ。
私がここに立っているのは、本心から彼らを救いたいと思っているからだ。私がいなければ、彼らはとっくにこの陸地に上がった薄汚い腐肉と化していただろう。
病、飢え、この具体的な敵がもしまだ抵抗しうる存在であるのなら、まだ最も深い苦痛とはいえん。最も深い苦痛は人の心の奥からやってくるのだよ。
もはや抵抗できない災難がやってきた時、どんなに抗おうと避けられない滅亡に導かれてしまう時にこそ、真なる苦痛はやってくる。
そのような町など、このイベリアにいくらあると思う?
この広大な国土はとっくに人々のソレに対する陳情を受けきれないでいる、却ってここの人々は未だに狭苦しい身体の中に、互いを隔て合い、互いに争っている。
あなたのイベリアへの関心はつくづく讃嘆しますわね。
また誤解しているな。私が関心を寄せているのは人々の苦しみだ、取るに足らん陸との境界線ではない。
みなもそう思っているさ、違うか?
己の肉体の制限に縛られること、自我と種族への執着を己の力のみではこじ開けられないこと、ひたすらに理解ではなく対抗を選択すること。
このままでは、いくら強大な者でも撃ち滅ぼされ、肉体の隅々までが苦痛により呑み込まれてしまうだろう。君はかつてそれを見て、それに動揺していたではないか。
私にそんなことを言う必要などあるとお思いですか?
その様子だとまだ言い足りてないようだな。
真理とは常に伝えるに値するものだ、聞く者が君のように愚鈍であろうがね。
……
ならば、しばらく協力してくれたことに免じて、暇つぶしがてら面白い話をしてやろう。
さすが口八丁なことだけはありますね。どうりで人々があなたに傾聴してしまうわけです。
君はまだ理解できないかもれんが私は真実よりも誠なのだよ。私は彼らに見返りなど求めておらん、強迫に力があるということも信じておらん、私はただ彼らに新たな可能性を示しただけだ。
脆弱な肉体は永遠に人々の認知を狭めてしまう。私は言葉巧みに彼らの心を操ってると君は思ってるが、むしろその逆だ。
私は彼らの心を己の身体の最も基本的な訴えに従わせるようにしてるだけだ。聖人の説教は一時的な妄信をもたらしてくれるだけだ、強大な肉体がなければ彼らにより多くの物事を見させてやれんのだよ。
海に生き物がいることは知ってるだろう。ソレらに目はなく、身体もすこぶる小さく、泳ぐこともままならない、ただ潮の流れに従い揺蕩うことしかできん。
だがソレらが目にする海と、私たちが目にする海にはどんな違いがあるのだろうな?目を持たぬ生き物たちはどうやって海の神聖さと奥深さを知れるのだろうか?
ソレらがどうやって粗悪だが堅固な肉体を得たかなど、君や君の僚友には分かるまい。君たちはあの弱き者たちがどう藻掻いているかが見えておらんのだ。
そして問おう、真に傲慢なのはどっちだ?
彼らを助ける私か、それとも広がる危機を、言葉を利用し、真なる絶望を虚偽の希望に置き換え、悲惨な弱者を騙し、操り、そこから権益を盗み取ろうとしている偽りの神を祀る信者たちか?
それとも――なおも海と向き合おうとしない愚かな君たちか?
私は私が見たモノを彼らと享受したい、彼らの視野を広げ、自分にも本物の希望があるんだと知らしめたいのだ。彼らに選択肢を与えたいのだよ、陸とともに衰退していくか、それとも海と共に新生へと向かうか。
この可能性は彼らを飢えと病の絶望から、同時に海が陸に対して妥協せず摩耗していく憤慨をも解放してくれる。
これが私の為すべき偉業だ。君の誤った肉体は君の心を縛り付け、君の視野を狭め、真なる偉大さをも見えなくさせているのだよ。
だが私は君を赦そう。
フッ。心酔してるのは何も彼らだけじゃないと思いますわよ。
ふぅ、詩人さん、来るのがちょっと遅れちゃったみたいだね。
食べ物がたくさんだ……みんなお腹を空かしてたけど、ようやく食べ物を食べられるんだね。
一つ、二つ、三つ……これは持って帰ろう、細かくして、スープにしてペトラお婆さんに飲ませてあげよっかな。今日の夜はこれのスープを飲もうね、バンコ?
うぅ……あむ……
ちょっと、直接食べちゃダメだよ!
殻が硬すぎるから、歯が欠けちゃうよ。帰って柔らかく煮込んでから食べようね。
詩人さん、あなたも少しは持って帰ったら?
……
し、詩人さん?ボーっとしちゃってどうしたの?
スカジはセニーザという男を見つめていた。彼は海岸に膝をつき、とにかく口に入れられるものなら何でも口に押し込んでいた。
彼の目は赤くなっていて、涙はとっくに枯れていた。
彼は飢えていた。ここにいる人たちは、みなとても飢えていた。
スカジは女の子の手を放した。
彼女もまた目をギラつかせ、待ちわびたかのように人混みの中へと突っ込んでいった。
ゆっくりお食べ、兄弟たち、ここにあるものは全部君たちのものだ。前を見てみなさい、この海岸にあるものは、すべて君たちのものだよ。
さあ、心を開き、己を受け入れなさい、隣人を抱擁しなさい、信じることを学び、犠牲を知りなさい。
紛争はとうに終えた、苦難もやがて消え去る。私たちは共に寄り添えば、私たちの心は、肉体と信仰はより強靭なものとなろう、私たちの眼下に広がる海の如く。
少しばかりあなたから距離を置かせてくださいませ。
どうかしたのか?
近頃少しばかり……消化不良を起こしたようでして。我慢できず、あなたの顔に吐いてしまうおそれがあります。
(グレイディーアが離れていく足音)
――兄弟よ、貝殻を落としたぞ、力が出ないのなら代わりにほかの兄弟に持ってもらいなさい。
面白い。今日の君はいたくご機嫌だな。私にそのような言葉を使うとは。
お好きなようにご解釈を。
君は海からのメッセージに興奮しておるのだな。我らの宴会を待ち望んでいる。
なら行くがいい、彼女を探しに。君の旧知を探し出し、この喜びを彼女とも享受するといい。
(スカジが駆け寄ってくる足音)
……見つけた。
スカジは素早く人混みを掻き分けた。彼女の目に映るはただ一人。
その人もまるで彼女を待ちわびていたようジッと彼女を見つめていた。
何のつもり?
シーッ。
こっちへいらっしゃい。彼をご覧。
匂いで分かったかしら?
……
スカジは懐から貝殻を取り出した。
その貝殻を、思いっきりグレイディーアへと突き刺した。
最初からそれを予期していたかのようだが、グレイディーアは避けなかった。
貝殻は彼女の手に、余計な傷痕を一つも残さないように刺さった。
姿勢が美しくないわよ。私が教えてあげるわ。
グレイディーアは貝殻をスカジの胸元に押し当て、彼女を壁へと追いやった。
私はあなたと何回ダンスを踊ったのかしら、スカジ?二回、それとも三回?
あなたは素晴らしいパートナーだったわ。
彼女はどこ?
彼女が心配なのね。
そうじゃなかったら何なの?
彼女なら今のところは安全よ。
証拠。
そんな無意味なものが必要なのかしら?
陸で過ごすあまり鼻が鈍ったんじゃないかと本気で疑ってるわ、ハンターさん。
あなたは全身から嫌な臭いがするわ。
ごもっとも、自分も吐きたいぐらいよ。
……
彼女はあなたのところにいるのね。
どうやら鼻はまだ鈍りきっていなかったようね。
あなたが陸生の幼子同様、どうして彼女を連れて行ったと、どうしてここにいるんだと、しつこく聞いてこなくてよかったわ。
……
問うなんて行為は私たちのやり方じゃないわ。
私たち?
あなたがまだ私たちなのかどうかなんてもう私には分からなくなったわ。
どうやらあなたの心の内はまだ疑問でいっぱいのようね。
(箱を触る)
確信していないのなら、まだ抑えてなさい。
でなければ、ただ徒に敵に機会を与えるだけだわ。
私のターゲットはあなたじゃない。
じゃああなたは何をしにここに来たの?
知ってるくせに。
あなたはずっと彼女を探してきた。けど彼女を見つけ出せば、あなたの疑問はそれで解消するの?
……
彼女は記憶を失っている。私に事情を教えることなんて不可能よ。
自分の姿を見てみなさいな。籠に閉じ込められてる連中より少しだけマシな程度じゃない。
よく覚えてなさい、ハンターが獲物を追うのは、追う行為に酔いしれるためじゃないのよ。盲目に追ってもただの慰めにしかならない。
そんな虚ろな幻覚を渇望するほどに軟弱しきってしまったのかしら、スカジ?
……
ダンスを踊らなくなってどのくらい経つの?道を歩みすぎよ、皮膚だって乾燥しきってるじゃない。それとももう呼吸のリズムすら忘れてしまったのかしら。
もう一度聞くわ。何をしに、ここに来た?
スカジは主教に目を向けた。
主教との距離はそう離れていない。彼の目も人混みの先に居るスカジを見つめていた。
箱の取っ手を握りしめるスカジ。
主教は礼儀正しく優し気な笑みを見せた。彼はある方向を指し示し、招き入れるようなハンドサインを見せた。
手を出さないの?
彼についてるんでしょ?
私は気にしてないわ。
むしろ気にしてるのはあなたのほうね。心の蟠りを解こうとしているのはあなたであって、私ではないもの。
食べ物をどっさり抱えた住民たちが一人一人主教の傍を通り過ぎていく。彼らはみな主教に挨拶を交わしていた、まるで本当の兄弟、本当の友であるかのように。
――イベリアにあるごく一般的な町の午後の一刻のように。
スカジは手を徐々に緩めた。
一体何を企んでいるの?彼は一体なんなの!?
言ったら信じてくれるの?
スカジは丘の上にある教会に目をやった。
その下で、主教は住民たちに手を振りながら別れを告げていた。
うっ……うあ……
慌てなくていい、コケないように気を付けなさい。
聞こえるだろうか?この波の音を。ドクン、ドクン、ドクンと、まるで私たちの心臓の鼓動のようじゃないか。
君たちが喉を通しているものはすべて海からの恩恵だ。兄弟たちよ、満ち溢れる力が今まさに腹の底から湧き上がり、手足を通じて、心臓に届こうとしてるのが分かるかい?
なら君たちの目の前にある広大さを抱擁するといい!それこそが新生なる希望なのだ!
スカジは岸にいる人の群れを見ていた。
散っていく人々。一人の女の子がこれでもかというほどの海の恩恵を抱えていた。彼女もようやく首を上げ、茫然と空っぽになった海岸の上でスカジを探していた。
あれ、詩人さんは?
いつの間にかまたいなくなっちゃった。
はぁ。
まあいっか。詩人さんも道は憶えてると思うし、お仲間さんを探しにいったんだろうね。
行こう、バンコ、食べ物を持って家に帰ろっか。
うあ……
バンコ、私歌を歌いたくなっちゃった。一緒に歌おうか。
詩人さんの歌でも歌おう。憶えてるかな?でも憶えてても仕方ないね。だってあなたまだ言葉も話せないんだもん。こうしよっか、私が歌ってあげるよ。
故郷を背に♪
いぃ……
道は目の前に♪
いぃ……やぁ……
爪で引っ掻かないでよ。はぁ。下手?私もそう思う。
詩人さんとは比べ物にならないね!
でも、何回も歌ったら、きっと上手になれるよね?
ふんふふん……道は目の前に……
私はもう行くわ。でないと彼に疑われてしまうからね。
二番隊隊長!一体何を企んでいるの?
戦友が必要なの?もし必要なら、どうして言わないの!?
それともあなたは敵なの?もしそうなら、私がさっき貝殻であなたを殺そうとした時、どうして私を返り討ちにしなかったの!?
……
グレイディーアは首を横に振った。
あなたはまず自分が欲しているモノが何かをはっきりしなさい。彷徨うハンターは罠ですら判別できなくなる。知らず知らずのうちに他者の収穫になるのがあなたの望みなわけ?
詩人さん、目つき、変わったね。
ん?
以前だったら私たちを海から来たバケモノと同じ目で見ていたんだよ。
……
でも今は、私に海藻酒の作り方を教えてくれた、私たちに歌を歌ってくれた。
……あなたたちは、あのバケモノとは違うから。
バケモノは私に歌ってほしいとしつこくせがんだりしないから。バケモノは言葉すら話せないから。アイツらは普段から愚かしく汚い、ただ貪り食うことしか知らないから。
じゃあ……じゃああの海のバケモノたちは、私たちを食べようとしているの?
腹を空かせていれば、ね。
バケモノたちが岸に上げってくることと、私たちが海に行くことって、同じように食べ物を探すためだったんだね。
バケモノに同情してるの?
お腹が空くことって、とても辛いことだからね。
アイツらに食われる人はそう思ってないと思うわよ。
そうだね……私も食べられたくないし。
昔はこんなこと考えもしなかったよ。でも今は、えっと、もう少しだけ……詩人さんの歌が聞きたいかな。バンコに歌を教えないといけないからね、ペトラお婆さんが私に色んなことを教えてくれたように。
じゃあペトラお婆さん同様、長生きしないとね。
うん!少なくとも今は、全然心配なんかしてないよ。
だって……詩人さんが、まだここに居てくれるから、私たちを助けてくれるから、ヘイヤー!ってアイツらをやっつけてくれるからね!
グレイディーアは去った。
海を見下ろすスカジ。
前日の静寂と違って、海の中はたくさんの生き物で蠢いていた、連なり合い、重なり合い、一番上にいるバケモノは、自分の触手を伸ばして、波の一部に偽装しようとしていた。波に揺蕩いながら、岸部の岩礁を打ち付けていた。
未だ門を開けている教会。
ぞろぞろと帰っていく海岸にいる人々。
海のバケモノがこちらを“見ていた”。
……私の鼓動が、早くなっている。
速くなっているのは心臓の鼓動だけではなかった。自分の両手を見るスカジ。ハンターにしか分からないことだが皮膚がぞわぞわと震えている、血液の衝動に耐えきれないためだ。
音ズレした歌声が彼女の鼓膜に木霊していた。海の匂いも絶えず彼女の鼻腔を刺激していた。
ええ。そう。そうね。
……私はまだハンターだったのね。
ハンターは獲物を追いかけ、獲物を狩る、しかしアビサルのハンターは獲物の牙を前にして舞を踊る、パートナーを失ったハンターが孤独を感じるのは至極当然のことだった。
自分はハンターだ、賞金など必要ないはず。これ以上逃げても意味はない、彼女が為すべきことは、身を翻し群れの中へ飛び込むこと。
バケモノたちが彼女を恐れるべき立場にある。
その時、スカジはようやく自身を許せるようになった。
恐魚が蔓延る潮へと飛び入るスカジ。
匂いがした。あの教会は怪しい。