スカジ、動ける?
分からない。あの感覚を抑えるのが……ちょっとキツい。あれを考えずにはいられなくなってる。
指も全然動かせないわ。ちょっとでも動かしたら、指の爪が剥がれるんじゃないかって感覚がする。
神経細胞が急速に代謝を行ってる証拠ね、けど忘れないように、あなたはハンターよ、アイツらじゃあなたをどうにもできないわ。
そんなこと考えるだけで効果あるの?
あなたが海嗣になりたくないと思ってるのなら、絶対にならないわよ。
わかった。
なら……武器を持つぐらいならいけるかしら。
武器を持たぬ雑種、重症を負った雑種、感染した雑種ごときに何ができる?
貴様のその顔はなんのつもりだ?自分は高貴な存在だと勘違し始めたのか?
私?
ちょっと待って、おかしいわね……あなた誤解してるわよ。
あの海嗣は私を悲しませることができたからって、あなたにもそれができるとは思わないで。あなたなんかぶった斬ればそれでおしまいよ。
――
あなた箱の中身が本当にサックスしかないとでも思ってるのかしら?
人魚姫さん、いつまで寝てるつもり?目を覚ましなさい。過去とてあなたを捕らえることはできないのよ。
……彼女は所詮ただの実験体よ!
スペクター、とっくに目が覚めてるんでしょ?
振り向く主教。
スペクターはガラスの培養槽を優しく撫でていた、とても好奇で……暖かな目で主教を見つめていた。
そんなバカな……あれだけ高濃度の源石液を注入したというのに……
主教はおぼつかない足取りで後退りした、しかし背後にはアビサルハンターが二人もいることをハッと思い返した。これにより彼はその場で立ち尽くすしかできない。
スペクターはなにやら呟いている。
だがいつも通りの暴虐な言葉なのだろう。
相変わらずで嬉しいわ、スペクター。
え。こっちは危うく彼女の本性を忘れてしまいそうだったわよ。
箱を蹴り開くスカジ。中には剣が横たわっていた、そう、彼女の巨大な剣が……丸鋸の形をした剣が横たわっていた。
うぅん、やっぱりまだ手が痺れるわ。
まあロドスに数年は居座ってたから、これぐらいの準備なら私にもできるけど。受け取って。
スカジは身体を少し横に曲げ、力いっぱい腕を振り、丸鋸をガラスの培養槽へと投げた。
主教は慌てて避けたが、丸鋸が帯びていた風は彼の長いマントに大きな口を開けさせた。
この見るからに凶悪な武器がガラス槽と中にいる人など顧みずに衝突しようとした瞬間、真っ白な腕がガラスを突き破った。水は培養槽から溢れ出し、手は空中に飛散するガラス片を気にもせず、破片も含めて巨大な丸鋸を握り掴んだ。
彼女の掌と丸鋸の柄の間あるガラスの破片が彼女に握りしめられた後、すべてキラキラと輝く粉塵と化し、彼女の指の隙間からサラサラと溢れ出た。
しかしスペクターは、彼女の指にはなんら切り傷は生まれなかった。
ハンターが目覚めた。スペクターが目覚めたのだ。
もう少しだけお淑やかでいさせてくれませんか?
意味ありげにニヤけるスペクター。
こんなに長い間お淑やかな修道女をしておりましたから、もうどんな顔であなた方お二人と顔合わせすればいいのか忘れてしまいましたわ。
遊んでないでいい加減出てきなさい。
こんなに時間が経ってもう分からなくなってしまったわ、今のあなたに慣れればいいのか、それとも今まで頭がおかしくなってノイローゼになったあなたに慣れればいいのか。
主教がまだ我に返っていない間、水槽にいた捕食者がその脆い檻籠から抜け出した。
そして次の瞬間、すでに丸鋸はこの黒幕の身を切り刻んでいた。
(斬撃音)
そして悲惨な叫び声が洞窟内に響き渡った。
まあ、割と硬いですわね。
スペクター、戻れ!奴はすでに海嗣になっている!
悪臭が鼻をつんざく、その時スカジはこの怪奇現象の元凶が誰なのかはっきりと分かった。
隊長、スペクター……先にここを出ましょう!
三人とも次に起こる出来事を察知していた。
¥この……汚らわしい……滅ぼしてくれる――
主教の身体が急激に膨張していく。
ぶくぶくと膨れ上がり、鍾乳洞の岩壁は鞭打つ彼の長い触手によって砕けていく。
貴様ら……うぐぁ……
己の運命を……買い被り……すぎたな……
主教の頭蓋骨が彼の目の間を境目にガバッと開いた。
瞼が彼のギョロっとした目から落ち、水晶体がハンターたちの姿を上下反転して写す。
無数の触手が素早く彼の痩せこけた身体から暴れ出し、見下してきた虫けら共に伸びて行く。
主教の身体がみるみる膨張するのと共に、海水も洞窟内へと浸水し始めた。
あらゆる装置を破壊する蠢く主教、その姿はもはや海嗣と見間違えるほどで、人間の怒りをまき散らしていた。
(荒々しく喧噪な動きの音)
随分と大きくなりますわね?どうやったらあれほど大量の肉をあんな小さな体に収めていたのでしょうか?
あは、ご覧になって、頭が真っ二つになりましたわよ。右の頭はわたくしに譲ってくださいな。
(神経が重なり圧迫した時のような咆哮)
……あなたたちってなんで皆してそう慌ただしいの?
(人間を真似た声)
動きが遅れると、獲物が逃げてしまうか、ほかのハンターに奪われてしまうわよ。
貴様……
(激しく骨格を動かす音)……貴様ら……
(液胞が破裂する音)……雑種が……!
まあ、怒り狂ってまともに話すこともできていませんわね。
あれはもうヒトではなくなった。ああいう獲物はハンターに狩られる時しか価値はない。ここから出るわよ!教会に向かいましょう!
矮小な三人の女性を追いかけるヒトから誕生したバケモノ。
未だに成長し続ける肉体。破壊衝動は抑えられず、己が認知してるものに反したすべてを破壊し尽くさんばかりであった。
バケモノも彼女たちも同じく通路の上方にある出口をと突き進んだ。
その途中、バケモノの急速に成長する身体によって通路へ水流が押し寄せ、ついには通路のてっぺんにあった教会にまで溢れ出た。
波が滾る、ハンターたちの手と足が鋭い水の花に削られていく――
彼女たちの指が海水に触れた。
彼女たちは故郷へ戻ったのだ。
……
なんだ……
なん……だ?
地面が……海岸傍にある山が揺れてる?何か落っこちったのかな?窓から確認してみようかな。あれは……教会?
イヤァ――部屋も揺れ始めた!私の宝箱、食べ物が……ペトラお婆さん!
ゴホッ、ゴホッゴホッ……
(審問官エイレーネが駆け寄ってくる足音)
みなさん、今すぐ私と一緒に外で逃げてください!屋内にいると危険――
……
……
ったく、何を言っても無駄でしたね!
ほら来てください――
あ、審問官さんが……私諸共お婆さんを抱え上げた!?
あなたたちもボーっとしないでください、話が通じてるのは分かってるんですからね!この家がどれだけ古いか、あなたたちも知ってるでしょ?ちょっとでも揺れたら崩れちゃうんですよ。
教会が今どうであれば、あの人たちが向かったことで、下手したら……もう!何が起こっても責任は取りませんから!
セニーザ、ラドリージョ、ピラール、チメネアおじさん!私の手に掴まって!セニーザはほかの人たちを誘導してあげて……
審問官さんについていこう……逃げるよ!
(審問官エイレーネの足音)
ふぅ……
とりあえず、みんな揃ってますよね。
山……教会が。
食べ物……
食べ物……
主教様……
まだあの胡散臭い異教徒を気にかけてるのですか!?
本当に誰が自分たちをこんな目に遭わせてるのかが分かっていないんですね……チッ……はぁ、もういいです!あなた、それ以上離れないでください!そこのあなたは戻りなさい!
うっ……うう……
ペトラお婆さん……目が覚めた?私はここだよ、お婆さん……
あ、危ない!
い、石!屋根から落ちて――
え、審問官さんが防いでくれた?
あなた……
弱りきった老人が審問官の袖を掴んで離さなかった。
ペトラお婆さんが審問官さんを見てる、審問官さん、あなたに感謝してるんだよ。
……じゃあそのままでいいです。
審問官さん、血が流れてる。
くっ……さっきの落石を少しだけもらってしまいましたか、少し痛みますね。
あなたはあの時一緒に恐魚を退治してくれてましたね。これで貸し借りはなしです。
結局、私はどうしてここで……あなたたちは恐怖すら理解していないのに……命が脅かされているのに逃げないなんて、そんなんじゃ生きてるなんて言えはずもないじゃないですか?
……
あの歌が……今も私の脳裏を漂ってるんです。
審問官さん、詩人さんはここにはいないよ、でも問題ないよね?
問題ですか……フッ、あなたが心配してるのは分かりますよ。
……もし彼女がいつものあの調子だったら、たとえ問題があったとしても、心配はいらないでしょうね。
結果が知りたければ、待ちましょう。もしかしたら彼女なら……いい答えを見せてくれるかもしれませんよ。
(スカジの足音)
教会に突っ込んでる!
全然止まっていませんわ!
触手が上へと伸びていく、落ちてくる岩塊を――粉々に打ち砕いた。破砕した小粒の石が岩壁に傷をつけた。
スペクターの丸鋸がギリギリと音を立てる。そして触手が彼女に迫ったその瞬間、彼女の口角がニヤリと引きついた。
あなたみたいな獲物は久しぶりです。少々楽しくなってきましたわ。
スペクターは両腕を思いっきり振り、丸鋸を岩壁へぶつけ、硬い花崗岩に大穴を開けた。
慣性の力を利用し、スペクターはひょいっと身体を翻す。それと同時に、丸鋸が彼女の身体の下に灰色の軌跡を描き出し、触手と交差した。
髪をなびかせた“修道女”が階段だった物体に手を置き、力いっぱい押し出し、教会へと駆け上がった。
触手の断面を注意深く覗くと、透明にほど近い白色の小さな芽がいくつも顔を覗かせていた。
ああ、アレの体内で細胞が悲鳴をあげているのが聞こえます。わたくしたちにそっくりですわね。
アレには感情がある、元はエーギル人……でもなくなったわね。もうヒトではなくなった。ヒトですらなかったのよ。
触手の先端にある蕾が突如と花開き、いくつもの液体が三人のハンターへと噴射された。
スカジは剣の柄を回し、大剣が盾のように彼女の身体を遮った。
液体の矢が三つとも刀身にあたり、スカジは数メートル上へと押し上げられた。水しぶきとなった液体は岩壁へ突き刺し、小さな穴を開け……そして蒸発した。
私が作業台で使うウォータージェットより速いわね。
わたくしたちを見ていますわよ。
策を考えないといけないわね、でないとコイツ無限に成長し続けるわよ?
突如として“主教”の巨大な頭にある目から異様な光が放たれた。
エネルギー!?
その時、グレイディーアの長槍が素早く“主教”の感覚器官に突き刺さった。
(斬撃音と爆発音)
しかし突き刺さろうとした瞬間バケモノの目に“膜”が覆い被さり、長槍は膜に痕をつけるだけにとどまった。
バケモノはイラ立ちのあまり吠えあがり、爆音がグレイディーアをまた上へと押し上げた。
あと少しで、建物の最下層に届く。教会の地面はとっくに彼女たちの奮闘で崩れ落ちていた、彼女たちが教会の頂に到着するのも、残り数秒。
しかしグレイディーアはあろうことか速度を落としたのだ。
ソードフィッシュをやりますの?
そんなところよ。あの体型と重量を考えると、ここらでちょうど良さそうね。
準備なさい。
歪な音を立てながら体を蠢かせるバケモノ、山のような身体から繰り出される音とバケモノの叫び声が合わさり、教会全体が震え上がった。
それでもバケモノの捕食行動が止まることはない。
なぜこんなことに……?
彼は自信に満ち溢れていた。
彼の力は海より得たものだ。向かう所敵なし。意識さえ伸ばせば、自ずと答えは手に入った。
彼の触手はすでに修道女のくるぶしを掴めそうな距離にあった、彼女を引きずり下ろし、ズタボロに引き裂いてやる――
しかし届かなかった。
自分の触手はもうこれ以上伸ばせないのだ。そのわずか残り4センチの合間はまるで巨大な海溝のように彼女たちと彼を隔てた。
旋回する丸鋸、修道女は激流の中にある海藻のように素早く身を翻し、武器を振り落とした。反撃しようとしているのか!この機会を……ヤツらのこの機会を与えてはならん!
主教は焦燥感を覚えた、今の身体に流れる血がそれを許してくれればの話だが。
進化だ。もっと進化が必要だ!内殻はまだまだ膨張できるはずだ、この身体から解き放ねば!
この身体の刺胞は血液を充満させ、高圧に噴出することができるはず……この身体の神経は電荷を大量に放出することも、触手の末端をすぐさま堅固な武器へと変貌させられるはずだ!
この身体は海底に根を張るべきではない!動けるはずだ、そうだ、動くのだ、断崖の垣根を這い、泳ぎ、頂上へ直進し、ヤツらを身体の内部へ取り込み、摺りつぶせるはずなのだ!
進化だ!進化だ!……もっともっと進化するのだ!
しかし彼はあの海嗣を“思い返した”。そして気付いた、あの海嗣は自分の命などまったく顧みなかったではないか。
一族は生き延びる、未来をも切り拓く、なぜなら進化するのは末裔たちだからだ……私たちの末裔が。私の末裔が。末裔たちが。
私ではなく。
主教の思考はすでに溶けて無くなってしまった自身の頭蓋骨にこびり付いていて死んでいた。
進化とは未来にいる一族全体が為すべきこと。そしてその未来は彼という一個体とは何ら関係はない。
彼はただ死にゆくだけだ。
彼のたった一つの結末とは、ここで絶望しながら死にゆくことだ。
違う、海嗣が絶望するだと?それとも、私はエーギル人によって育てられたから、失望落胆するというのか?
彼は藻掻いた、外部の触手で必死に藻掻き、内側にある触手は己の思考へと伸びていく。
彼はもはや理解することができなくなった。もう永遠に考えられなくなったのだ、一体何が自分を自分の同類から超越させたのかを、自分をこの姿にさせ、自分を亡き者にしたのかを。
今の彼は、ただただ成長してるだけだ。恐魚が彼のメッセージを受け取りそそくさに寄ってたかる、しかし間に合わない、間に合わないのだ……彼はその豊富な栄養たちにありつけられなかった。
海嗣は、彼らの神などではない……
彼らはただ別種の生き物なだけだ。そしてそれは自分も当てはまる。その程度なのだ。彼も死ねばやがてその死体が海を育む程度の存在。
悟った主教は恐怖により鋭い叫びを上げる、しかし彼の肺はすでに海水の濾過器官になり果てた、彼はただ無力にただただ刺胞を蠢かせるしかなかったのだ。
強烈な悪臭が彼の口から吐き出される、成長し過ぎた身体で必死に藻掻く、噴出された気体はびっしりと口の周りに生えた無数の歯に当たり鋭い音を繰り出した、彼が身体を収縮させることにより教会全体が震動した。
しかしもう逃げられない。
彼は獲物なのだからだ。
……そしてハンターたちはすでに獲物に食らいついていた。
(斬撃音)
今です!
今までわたくしにしてきた借りを、このような形で返すだなんて……これでも大目に見てあげてますのよ!
くれぐれも逃がすな。
……もううんざり。これでお終いよ。
ほかのハンターの借りはカウントしないであげるわ、主教。
けどの一撃は、この剣はあなたたちが殺した私の家族の、私の友人たちの分よ。海と、陸にいたみんなの分。
死になさい、イソギンチャク野郎。
海に咲き誇る花のような三人のハンターたちは、手に冷たい武器を携え一気に急速下降した。
主教は退き、洞窟に隠れようとする。獲物は常に自分の巣が最も安全だと考える、この本能はすでに数万年前から獲物たちの身体に刻み込まれているのだ。
巨体が退くにつれ、通路は鞭打つ彼の触手により崩落し、教会が建ってある山は餅のように地盤が沈下し、砕けたビスケットのような石の破片がボロボロと崩れ落ちていく。
逃げ惑う主教。あまりにも速い速度で逃げ惑う、もはや現存する生物の身体構造の限界をも超える速さだった、皮肉にも彼の身体にはすべての捕食者と被食者が夢にまで求めていた特質を備えていた。
巣に戻り、通路を塞げば、捕食者はもう追ってこられない、そして彼女たちがいずれ微睡に落ちた瞬間に生きたまま呑み込んでやる。
巣に戻ればやり直せる。
しかしもう間に合わない。
ハンターたちは堕ちていき、その姿はまるで――
――流れ星のようだった。
深海に身を置く人は流れ星など滅多にお目にかかれない。
欲と陰謀にまみれ、一度も上を仰ぎ見ようとしなかった主教は、言わずもがなその現象を見たことはない。
しかし彼女たちは違った。
アビサルハンターたちは策略と犠牲から抜け出そうと必至に海面に向かって浮上し、海面に身を浮かばせ、静かに果てしない夜空を見上げた時……ハンターたちはみな心の中でこの短い星々の運命を目に焼き付けていたのだ。
夜明けは必ず訪れる、と。
じゃあ、死になさい。
(斬撃音)
幽邃な通路を照らす三つの流れ星。
恐怖する主教、しかし彼には肺も、声道もすでになくしていた、その代わり彼の身体からは本来あった悲鳴を代替する新たな叫びが聞こえた。