チッ、おっそいわね。
スキウース、静かにしなさい、こっちは考え事してるの。
考えるもなにも、今度こそエンシオディスに彼の土地を引き渡してもらうんでしょうが。
ユカタン、アンタはどう思うの?
……ルースと同意見だ、ただ、エンシオディスもただで引き渡してくれるとは思っていないけど。
アンタは自分の嫁さんと違って話す時は頭を使ってくれるから助かるわ。
誰が頭を使わないですって!?
そりゃもちろんアンタのことよ、私の可愛い妹ちゃん。
ガサツなアークトスが霊山と関連する事態に脇目もふらずに首を突っ込んでいなかったら、こっちもエンシオディスに態度を開き直るつもりはなかったってのに。
エンシオディスはね、自分が死んでもせめて相手を半殺しにしなきゃ気が済まない人間よ、なにより……
彼が素直にうんと頷いてくれるなんて、私はちっとも信じちゃいないわよ。
ふん、私に言わせれば……
静かにしなさいって言ったでしょスキウース、それでもペチャクチャ喋りたいのなら、ここから出ていって、山に向かって好きなだけ喚き散らせばいいわ。
当然だけど、出て行ったらもう入れさせないから。
チッ、わかったわよ、黙ってりゃいいんでしょ。
(小声)自分はペラペラと喋るくせに。
……
アークトス様のご来臨です。
(大きな扉の開く音)
冬の霊山の頂では絶えず寒風が吹き荒れる。しかしアークトスの目と、彼が手に握ってる斧が時折地面を擦る時に出る音は、まるでその寒風は彼が引き起こしている――という錯覚を生み出していた。
あらあら、アークトス、ごきげんよう。
エンシオディスは?
こっちが聞きたいんだけど?
エンシオディスとばったり会って、そのまま外で今回の問題を解決してくれると思っていたわ、そしたら私はこんなところでモヤモヤせずに、ウキウキしながら家に帰れたのに。
あのラタトスが悩むとは驚きだな。
そりゃ私にだって悩みぐらいあるわよ、それもたーっくさん。
例えば、私の領地にいる人がますますエンシオディスのとこで出稼ぎに行きたいと思ってることとか。
それとそうね、アンタんとこの一番有力な大将さんのグロ、今日来てないみたいだけど?
ヤツなら風邪だ。
イェラグで一番勇猛果敢な戦士でさえ風邪を引くだなんて、嫌な兆しね。
エンシオディスの配下にいるあのノーシスに治してもらったほうがいいんじゃないかしら。
自分で治せる。
はいはい、余計なお世話だったわね。
アンタも来たところだし、あと来てないのはエンシオディスだけか。
三時を告げる鐘の音ならまだ鳴っていないはずだ。
待たせてすまなかったな、お二方。
え、エンシオディス様と大長老のご来臨です!
あら?
チッ、珍しいわね、二人が一緒だなんて……
エンシオディス、まさか議会の前に巫女にお祈りでもしに行ってたわけ?
いいや、道中で大長老に会ったため、少し話をしていた。
大長老、お先にどうぞ。
うむ、では。
正殿の正門がゆっくりと閉ざされ、殿内の雰囲気も今しばらく厳かなものとなった。
中央に大長老が座り、その片側にアークトスとラタトス、もう片方にエンシオディスが立つ。
そこに出来た境界線は、一目瞭然だった。
今までの三族議会は、いつもみんな座りながら今年の各行事は誰が執り行うのか、誰が雪難に遭って助けが必要かを話し合う場であった。
それが今回はアレについて話し合わなくてはならんとは……はぁ。
それについはエンシオディスにじっくりと聞いておかなくてはならんな。
そう急かさないでくれ、アークトス。
大長老がおっしゃったように、三族議会は双方が互いを鬩ぎあう場ではない。
盗人猛々しい言い草ね、エンシオディス。
そこまでにせい。人が揃ったのなら、ここに三族議会の開会を宣言する。
イェラガンド様と共に。
イェラガンド様と共に。
(ガヤの声)
此度の議題だが、お三方はすでに把握してるはずじゃ。
前回の議会で、アークトス様とラタトス様が要求した、シルバーアッシュ家が保有する窪地と鉱脈区の管轄権を、ペルローチェ家とブラウンテイル家へ譲渡すること。
及び、シルバーアッシュ家の三族議会からの脱退の二つじゃ。
ノーシス・エーデルワイスならすでに職務から外した、このことはお二方も把握してるはずだが。
把握していたからなんだ?ノーシスはお前の腹心だ、ヤツの行いがお前の指示によるものじゃないわけがないだろ?
ヤツを盾にすれば逃げられると思ったら大間違えだぞ!
アークトス、なぜそこまで決めつけるのだ?
エンシオディス、お前は今まで色んなことをしでかしてきたがどれも目を瞑ってやった、自分の領地で自分の工場を開くことも、自分の商売をやることも、自分の客人を招くことも。
自分の領地でやってることだからな、お前がお前の領地をどう変えようが、こっちは知ったこっちゃない。
だが鉄道を霊山付近まで敷いて、錆臭い匂いを聖地にもたらしたことは言語道断だ。さらには霊山の麓まで採掘の穴を開けた、しかも我々に内密のまま独断にな。
お前はあの霊山を、イェラガンドをなんと心得ているのだ?
検査隊に工場を調査させないために、お前はあいつらに陰から手を出しやがった、おかげで私の部下は今でも寝たっきりだ。
これもあのエーデルワイス家のクズがやったことで、自分はなんの関係もないと言いたいのか!?
ノーシスは私が最も信頼していたパートナーだったが、彼に余分な権限を与えたことは私の過ちだった。
そのことについては、こちらも遺憾に思っている。
ラタトス、お前はどうなんだ?私たちの間に、まだ挽回の余地はあると思うか?
はぁ、こっちはできればアンタに手を貸してやりたいとこなんだけどね、エンシオディス。
なんせ六年前、アンタをもう一度この正殿の門をくぐらせてやったのは私だからね。それが今じゃ私の手でアンタを追い出さなきゃならなくなってしまったわ、仕方ないことよ。
ただ、今回の一件はイェラグ全土に関わることだわ、いくら私でもカバーしきれない。
ブラウンテイル家もトゥリカムでの商売でかなり利益を得ているはずだ。
そうね、自分はガッポガッポ稼げたあげく、領民にまで還元できるんだから、喜ばないヤツなんていないと思う?まあ、アークトスみたいな頑固野郎は喜んでいないかもしれないけど。
ただね、私みたいな裏からチクチク陰口を言われてるような女でも、やっていいことと悪いことの分別ぐらいはつくわよ、エンシオディス。
アンタが外で四年留学してなにを学んで、なんで私たちの信仰を疎かにするようになったかは知らないわ。
ただ言えることとして、六年前の私はアンタを見誤った、エンシオディス。そのために私はそのツケを払うつもりだけど、その前に――アンタにツケを払ってもらうわ。
保有してる窪地と鉱脈区の譲渡、そしてシルバーアッシュ家の議会脱退が諸君らの要求だったな、ツケにしてはいささか過剰なのでは?
カランド貿易からはすでに当事者であるノーシスを除名してある。それに近頃、会社が掲げていた発展方針も緩和した、誰の目から見ても今回の一件の結論は明らかだと思うが。
それがもう遅いのよエンシオディス、今更それをやったとしてもね。
仮に安いツケを払わせても、アンタがあとでキレイさっぱり忘れちゃったら意味ないでしょ?
エンシオディス、許しを乞いているのならば、最初からあんなことをしなければよかったのだ。
だがお前は結局のところ手を出してしまった、であれば今日、今ここで、はっきりさせてもらう。
窪地と鉱脈区の管轄権は渡すのか渡さないのか、三族議会からは脱退するのかしないのかのどっちだ?
(ガヤの声)
……
私が今までしてきたことは、すべてイェラグの発展のためだ。
ペルローチェ家とブラウンテイル家とここまで関係は悪化させたのは、決して本望によるものではない。
今日のお二方との会談を経てわかったことは、この悪化した関係はもはや不可避なものとなってしまった、挽回できるかどうかではなく。
ここに来るまでそんな予感はしていたさ。その予感は的中し、互いがこの正殿の中で訴求していた間も、私の心に抱いていた悲しみは膨れていくばかりだった。
だとしても、イェラグを共同で治めていた御三家に亀裂が生じてしまっては忍びない。
御三家の分裂は、即ちイェラグの分裂と、イェラガンドの民たちが同じ我が家を失いことを意味するのだからな。
……エンシオディス、もしそう思っているのなら、もしほんの少しでもそんなことを思っているのなら……
とっととイェラグから消え去れ、ヴィクトリアにでも帰るがいい、お前が消えることでイェラグはまた安寧を取り戻せるのだからなッ!
アークトス、このエンシオディス・シルバーアッシュは、シルバーアッシュ家の当主だ。
であれば私はイェラグの未来に対する責任を担う必要があり、私の義務を果たさなければならない。
私がイェラグから消えなければならない理由は見当もつかないな。もしや両家だけで行われる議会を開く中で、自分はイェラグの実権を握ったとでも思い込んでしまったのか?
そんなことよりも、私はこの数年間シルバーアッシュ家の改革を指導してきた、この事実に変わりはない……
私がもたらした生活様式で私の領地にいる人々の生活水準は向上し、領民たちは自らその生活水準を保ち続けている。
たとえ私が去ったとしても、工場の機械は動き続け、列車も鉄道を走り続ける。
それとも諸君らは、仮に私が今日窪地と鉱脈区を引き渡し、工場と鉄道の運営を停止させたとしたら……
そこで働いている人々が、その利益を享受してる人々が素直に従ってくれるとでも思っているのか?
それはアンタが解決しなきゃならないことよ、エンシオディス。
いいやラタトス、お前は私の問題解決能力を高く買ってくれているらしいが、これは私一人が直面すべき問題ではない。
まさかブラウンテイル家の領民は、この数年においてカランド貿易からほんの少しでも利益を得てこなかったとでも言いたいのか?
カランド貿易がクルビアから仕入れた源石電気炉で、どれだけの人々が凍える冬を越えた?我々の地に天災はないが、それでも氷雪が代わりに人の命を奪っていく。
牧農家たちの電気柵、ヴィクトリアから仕入れた肥料、諸君らの気を障らせるような品があっただろうか?
今の局面はアンタが作り出したもの――自分に華を持たせようとしてることも含めてね――それにも関わらずアンタは悪びれることもなくその局面を利用して私たちを脅してるのよ。
イェラグの人たちに言ってあげればいいわ、これは全部自分の功績だ、アンタらを自給自足させてやれないけど、このシルバーアッシュ家当主を笑いのネタにしてやってください、私はちっとも気にしていないからって。
それは違う、ラタトス。
脅してるというのはただの言い訳だ。私はただ事実を述べたにすぎない。
諸君らがカランド貿易を脅威として敵視してること自体、ただの笑いのネタになってることを知っておいてほしい。
フッ……
随分意気揚々と話すわね、エンシオディス。そういえば思い出したわ、アンタって小さい頃からこういうのは得意だったわね。
無駄話はいい、エンシオディス。
今日……
今日引き渡さないのであれば、領地に付近に進駐させておいたグロの軍が直接土地を“接収”する。
なっ……
そう急いで武力を持ち出すな、アークトス。
諸君らの提議には相応の承諾と措置を施してやらんでもない。
争いは不本意だ、当主として、本来ならいかなる損失をも呑むつもりはなかった。
だがここまで心痛む事態に発展してしまった以上、雪山御三家の団結のために、イェラガンドの民として、シルバーアッシュ家は譲歩しよう。
――窪地と鉱脈区なら、要求通りすべて引き渡す。
……ホントに?
言ってることだけは達者だな!エンシオディス、ここにはお前の戯言に振り回されるような人はいないぞ!
言ったはずだアークトス、そう焦るな。
焦りはお前の弱点になるぞ。イェラガンドの守りの斧、イェラグで最も敬虔なる戦士よ。
お二方の条件なら引き受けよう。だが引き渡す相手はペルローチェ家でも、ブラウンテイル家でもない。
なら誰に引き渡すというのだ、イェラガンド様にか!
その通りだ、アークトス、さすがはイェラガンドで最も敬虔なる民だ。
シルバーアッシュ家、またはここにいるお二方が治める土地は、すべて我々の信仰心に対してイェラガンドから授かったものだ、我々はただ代わりとしてその地を治めてるにすぎない。
……ちょっと待って、まさかアンタ……
そのまさかだ、ラタトス。
お二方の要求ならすべて呑もう、シルバーアッシュの窪地と鉱脈区はすべて曼珠院に引き渡し、巫女様に工場と採掘場の処置を任せる。
なんだとぉ!?
御三家同士の衝突を避けるために、イェラグには御三家及び雪山の民の全員が信頼に置ける指導者が必要だ。
ここまでことが及んでいるのであれば、イェラガンドの代弁者が過去のようにもう一度イェラグを治めてもらうことは非常に合理的なはずだ。
問題を平和的に解決すること、平和的にシルバーアッシュ家の資産を分割すること、御三家の衝突を避けること、我々全員はそれらを望んでいるはず。
では――ここに我がシルバーアッシュ家が保有する窪地と鉱脈区の引き渡しを承諾するが、お二方はどうお考えかな?
静寂。傍聴していた貴族たちはただ顔を見合わせるばかりで、言葉にあった真意を理解しようと必死だった。
正殿の中は書記のペンがサラサラと紙を撫でる音だけが響き渡る、しかし数秒もしないうちにその音も空気の中へと溶けていった。
最初にこの静寂を打ち破ったのは、誤って地面にペンを落した音と誰かがハッと冷たい空気を吸った時に音だった。
それをきっかけにあえて小さく抑え込んでいた議論の声が続々と大きく発せられるようになった、まるで低温の油でじっくり揚げられているポテトロスティのように。
……
ねぇ、あそこにいるのってエーデルワイス家の……
ノーシスか、どのツラ下げてここに現れたんだ、虫唾が走る。
……
やだ、こっち見たわよ。
フンッ、相変わらずの目つきだな、なぜエンシオディス様はあんなヤツに重役を任せたんだ、ヤツの両親が殺したというのに……
ちょっと、やめなさい、霊山でそんなことを言ったらイェラガンド様のバチが当たるわよ!
……けどまあ、いい気になってたのもおしまいね、エンシオディス様も明らかに彼の行いに我慢できなくなってしまわれたんですもの。
それは本当か?エンシオディス様はようやくヤツを下ろすのか?
ええ、知らないの?先月の議会で、エンシオディス様がその場で彼を重役から下ろしたって……
もうすでに下ろしていただと?それはよかった!最初からそうしておくべきだったんだ!
……
ノーシス様。
言ったはずだ、ここで私に話しかけるな。
あっ、申し訳ありません。
ただ……急な知らせが入りまして。ロドス一行が乗った列車がもう間もなく霊山麓の駅に到着されます。
以前あの会社にご興味を示されていましたが、会いに行かれますか?
すでに雪山は今のような事態に陥っている、もし彼らがそれに引き寄せられた外部勢力なら、いずれ会うべくして会う、わざわざ出向く必要もない。
なにより……今の私は停職処分された一職員にすぎない、彼らに会う立場などないだろ?
……ノーシス様……
……エンシオディスが両家に配慮するために、あなたに罪を被せたなんて、あまりにも酷すぎるやり方です。
配慮?そう単純に物事を考えるような男ではないさ、エンシオディスは。
聞いた話によると、ロドスは本当にエンシアの鉱石病の悪化を抑え込んでいるらしいな?
はい……
ふむ、ならシルバーアッシュ家に重用されるほどの資本はあるということだ。
しかしエンシオディスに目を付けられたのなら、幸か不孝かわからないものだな。
それってつまり……
そのままの意味だ。
私がクビにされたと聞いて、会社内にいるあの連中もさきほどそこにいた貴族二人と同じように、みんな拍手喝采してるのだろうな。
……アイツらはノーシス様の価値をまったく理解していないだけです。
人を価値で形容するということは、その人は測れるべくして測れるということだ。
ノーシス様……
エンシオディスはきっと三族議会で彼の巫女を御三家統率のための指導者に置く考えを提示したはずだ。
今頃正殿の中は大騒ぎだろうな。
エンシオディス、やはりその駒を進めたか。
……エンシオディスを一番理解しているのはあなたです、あなたでしか彼の野望は止められません。
(辺りが吹雪始める)
……
風が強まった、雪が降るな。
大きな雪片がノーシスの肩へ落ちてきたが、すぐさま寒風によって無情にも吹き落された。
イェラグにおいて吹雪は珍しくない。雲がある一定程度の厚みまで積もれば、あとはきっかけを待つだけだ。
雲の気流がかき乱され、それを支える力が失うきっかけを――
(ガヤの声)
巫女をイェラグの王に戴く、エンシオディスはそう言いたいのか!?
エンシオディスがそんなことをするはずがないだろ!
しかし、話を聞くに本気のようだぞ……
どうであれ、巫女様のご領導によりイェラグが一つにまとまるのはいいことだ!イェラガンド様の土地は、イェラガンド様に帰属せねばならん!
傍聴者たちがヒソヒソと言葉を交わしていく。それまでの間、窓の外で吹き付ける吹雪の音すらかき消されているほどだった。
……エンシオディス、アンタ自分がなにを言ってるのはわかってるの?
鮮明に理解しているとも。
腹を割って話し合おうじゃないか、お二方。
当初は私が成果とシルバーアッシュ家の真心を見せれば、諸君らも先入観を捨て、私と共にイェラグを率いてくれると思っていた。
利益の差異など顧みずに、御三家が手を取り合ってくれれば、とな――
国家としての対外貿易と一企業としての対外貿易とでは、得られる成果は天と地の差になる。
もしや私が一人歩きしてしたため、諸君らは私がイェラグを外部に引き渡すのではないかと思われてしまったのかな?
違うとでも言いたいのか?エンシオディス、霊山はお前がおままごとしていい場ではない!お前が吐いた言葉に対してはイェラガンド様が一つ一つ神罰を下してくれよう!
では、今も私がここに立っていることは、霊山が許してくださった最もな証明となり得よう。
話しても埒が明かないな。諸君らの考えを改められないのはよくわかった、だからといって諸君らの浅はかな視野のためにカランド貿易の方針を変えるつもりはない。
カランド貿易はイェラグにある鉱山と工場を最重要視しているが、それらが企業のすべてというわけではない、工場などが影響して事業が回らなくなっても、私にとっては取るに足らないことだ。
もしまだいがみ合いを続けるのであれば、各々の意見を統一するためにお互い無駄な精力を費やし、その隙に外部の脅威に割り込まれてしまう。
そんなこと、私含めこの場にいる誰も望んでなどいないだろう。
ゆえに――
この一件に関するすべての決定権を巫女様に委ねる。
巫女様が決断なされたことなら、私は慎んで受け入れよう、諸君らもそれで納得してくれるはずだ。
戯言を!
イェラガンド様の信仰を踏みにじった者が言ったことなど誰が信じるか!
イェラガンド様の信仰を踏みにじっただと?
お前がそう捉えてるのであれば無理はない、多くの者たちはカランドがもたらした変化を偏見の目で見ているからな。
だが労働とは本来よりイェラグがよしとする行為だ。
忘れられては困る、正午の時に仕事が残っていたら、ブラウンテイル家の者も同じく霊山に向かって礼拝しないはずだ。
仮に繁忙期に入れば、毎月霊山に赴いて聖訓を頂くことすら憚れざるを得なくなっていたではないか。
ハッ、エンシオディス、そんな無理やり考え方を捻じ曲げても説得力ないわよ。
なに?まさかアンタ、自分がしてきたことはすべてイェラガンド様の教えに従ってるとでも言いたいわけ?
『イェラガンド』、1ページ目第一節。
「あのお方の涙は溶けることのない氷、背は砕かれることのない山岩、呼吸は冬の寒風、笑みは春の温かなる日差しである。」
「あのお方が目を覚まされた時、山々はそれを報せ、空から五色彩る光を降り注ぐ。」
霊山がイェラガンド様の代わりであるとはどこにも言及されていない。
カランド山が特別である由縁は、曼珠院がそこに鎮座しているからだ。
私が曼珠院の権益を損なったと叱責するそちらに対して、私は事実を認めた上に誠意も見せてやった。
そのほかにも、「勤め働く者の手はついに人を治める、怠る者は人に仕えるようになる。」という教えがある。
私はその教え通りに従ったまでだ。
根も葉もないことを!
曼珠院はこの大地におけるイェラガンドの代表者、曼珠院の巫女はこの大地におけるあのお方の代弁者だ、お前があれこれ適当に解釈していいことではない!
大長老、曼珠院がこのような戯言を聞き捨てにしていいのか!?
わしはもちろんエンシオディス様がおっしゃったことに頷くつもりはない。
しかし、大学院ではイェラガンド様がおっしゃられたお言葉の解釈違いで毎日絶えず討論が行われておる、曼珠院は決して異なる見解を排斥するつもりはない。
誰の言ってることが正しくて、誰の言ってることが間違っていることなど、一個人が決めつけられることではないぞ、アークトス。
3ページ目第五節。
「その始め、あのお方が山々からお顔をお上げになられるまで、イェラグには野人のみが住み着いていた。」
エンシオディスが顔を上げたことをきっかけに、その場にいた一部の貴族たちもこぞって経文をスラスラと暗唱し始めた。
「あのお方は人の形になられて、野人たちと共に過ごされた。野人たちはあのお方のお力を恐れ、あのお方を神と敬った。」
「あのお方の下に集った人々がますます増えていき、そしてイェラグが誕生された。あのお方が、イェラグ最初の王となられた。」
「あのお方のお導きの中、イェラグは栄え、繁栄を謳った。」
……
アークトス、321ページ目の第一節にはなにが書かれている?
「……あのお方が王になられた三百年後、突如とある日、あのお方は王位を腹心へと禅譲し、吹雪の中へと消えて行かれた。」
「それから、イェラグは人の手に譲られた。」
諸君、我々はみなイェラグの、イェラガンド様の子だ。
私がさきほど申したように――
仮に我々の行いの正否を決められる人がいるとすれば、その人は私でもお前でも、ましてやラタトスでもない。
その人は、必然としてあのお方の代弁者、巫女様であらせられる。
我々が互いを信用していようがいまいが関係ない。
巫女様が我々のために決断を下され、我々のために未来を指し示してくださる。
それとも、お前はあのお方の代弁者である巫女様が下される最も公正なる裁決を信じないと言いたいのか?
その瞬間、正殿内にいたすべての貴族の目が、アークトスに向けられた。
貴様ッ……!エンシオディス、よくもッ!
……
エンシオディス、その程度の挑発で私たちが反応すると思ったら大間違いよ。
……
巫女様がシルバーアッシュ家から出てることなんて、周知の事実じゃない。
ただ巫女様が真摯に神事を執り行ってるのも事実。
巫女はイェラグの聖女、彼女がイェラガンド様の栄光と責務を引き受けたその時から、彼女の一挙手一投足は全イェラグ人がその目で見届けることとなっている。
巫女様が就任なさって以来、一度たりとも神事を怠ったことはないわ。であれば、私たちがその世俗の出身で懐疑的になるのもおかしな話よね?
……
アンタがさっき言ったように、イェラガンド様はお心が広い、ご自分の子らにイェラグの未来を譲ってくださった。
しかしね、エンシオディス、あえてこのタイミングこの場所を借りてイェラガンド様を、あのお方の美徳と慈愛を持ち出したのは、なにかほかに企んでるんじゃないのかしら?
エンシオディス、アンタこそ美辞麗句を語って巫女様を利用しようとしてる不届き者よ!
それは聞き捨てならないなラタトス、カランド貿易に対する叱責以上に聞き捨てならない。
どうやら我々がいくら話し合われても徒に憶測を増していくだけのようだ。であれば、ここは巫女様にお越し頂き、彼女の御前で話をつけようじゃないか。
フンッ、異議はない。御三家がここに集ってる以上、貴様がどんな小細工をしようが無駄だ。
では、公正の下に、巫女様にお越し頂きたい、頼めるか大長老?
よかろう、ならわしがお迎えに上がろう、それまでお三方におかれましてはくれぐれも一線を越えないように。
……
おや、雪が降ったのでしょうか。
なにか気掛かりなことでも?この山ではずっと降り続けてることじゃない。
今までと様子が違います。
……
……ということは、エンシオディスは三家が共同で権限を私に譲渡し、私にイェラグの未来を決めてもらおうとしているのですね?
ええ。
エンヤ、どうするの?
私は……
(大長老が近寄ってくる)
ご機嫌麗しゅう、大長老様。
(大長老がエンヤに近寄る)
エンヤ、ここにいたか。
議会でのことなら、さしずめすでに耳に入っておろう。
権限を私に譲渡する話ならすでに耳に入れています。
大長老がここにお越しになられたということは、進展があったのですか?
……お前は小さい頃から聡い子じゃったな。
御三家の間の関係がすでに一触即発する事態にまで発展してしもうた。
議会が開かれる前に、エンシオディスから仄めかされてはいたが……今の状況下を見るに、彼の提示した策は緩和策として悪くないと思っておるよ。
……
どうやら大長老はまだ前回の議会で私がした行いに賛同されていないようですね。
はぁ、エンヤよ。
こっちに来なさい……外を見なさい、この雪はあとどれくらい降り積もればこの山肌を覆い隠すのだろうか?
あと幾年月を経れば、わしらの足元に神聖なる山の頂が覗いてくれるのかはお前もわかっておろう?
……わかっていますよ。
しかし――「あのお方の涙は溶けることのない氷、背は砕かれることのない山岩、呼吸は冬の寒風、笑みは春の温かなる日差しである。」
ここに存在する森羅万象がイェラガンド様から賜った贈り物であるのなら、そのイェラガンドの民である私たちがそれらを恐れる理由などないはずでは?
……
……そこに関してはお前も彼に似ておるな……似ていないとも言える……
なにかおっしゃいましたか……?
いや気にするな、ただの老いぼれの独り言だ。
巫女様の言われた通りじゃ。
巫女様はずっとこの山頂におられる、山々もイェラガンドの代弁者に首を垂れておられる以上、そうなのであろう。
しかし、こうも長年降り積もった大雪がもし仮に崩れてしまったとすれば、どれだけのイェラガンドの民が埋もれてしまうのだろうな?
……
わしにとって、イェラグの安寧が常に最優先事項じゃ。
巫女様もきっとわしと同じことを考えておろう。
ふむ……そろそろ向かわねばな。
お三方が巫女様を待ちわびておる。だからといってしっかりタイミングを考慮しながら姿を見せなければならん、今がちょうどそのタイミングじゃ。
ではこちらへどうぞ。
……わかりました。
イェラグの安寧……
雪を掻き分けることもせず、ありのまま積もらせていたら、イェラグに安寧は訪れるのでしょうか?
……イェラガンド様、どうか見守ってください……
(鈴の音)
「巫女様のご来臨です。」
吹き荒れる吹雪の中、清い鈴の音がまるで空から響き渡ってきたようにイェラガンドの民たちの耳へ伝ってきた。
彼女が通った場所で、身を起こさない貴族などいなかった。みな最上の礼節を用いて、敬虔な祝詞を唱えていた。
(鈴の音と大きな扉が開く音)
「霜雪はあなた様の意のままに降り積もり、イェラグに祝福をもたらさん。」
ご無沙汰しております、巫女様。
近頃お忙しくされてる中、長らく礼拝に来られていないエンシオディス様におかれましては、確かにお久しぶりでございますね。
巫女様自ら窪地と鉱脈区の調査に乗り出される以上、怠慢でいる度胸もございません。
この一件を終えた暁には、私自ら関係者を率いて礼拝に参りましょう。
あなたの信仰の篤さなら周知されておりますから、煩瑣な礼節を用いて今更証明される必要もないでは?
ご冗談を。
……
あなたの妹君がイェラグに戻られたと聞きました。
お耳が早い、彼女なら今頃賓客と共に霊山に向かわれてる道中かと思います。
賓客?
はい。愚妹は今ロドスという医療企業で鉱石病の治療にあたっています。
祭典も近づいておりますゆえ、感謝の意を込めてその会社のトップの一人をイェラグへお招きした次第です。
エンシオディス様は妹をすごく大事にされているのですね、とてもとても感心しました。
……恐縮でございます。
私がさきほど提示した案については、すでに巫女様のお耳に届いていると思いますが如何でしょうか?
……アークトス様とラタトス様はどうお考えですか?
……このアークトス、元よりイェラガンド様への信仰の篤さは火を見るよりも明らかなものです、巫女様が我ら三家の調停者になろうものなら――
お待ち、アークトス……!
――彼の当主の座を巫女様に譲られても、誰も文句は言いますまい?
ではラタトス様は?
この場で否定しようとする人などどこにいようか?
否定できる人などどこにいようか?
……
巫女様が御三家の調停者になられることでしたら、目下の状況を鑑みれば最善の選択と言えましょう。
……
わかりました。
では当主様のお三方が私に信任を置いて頂けるとおっしゃるのでしたら……
私は――
みなの期待に応え、イェラグを担う責任を負いましょう。