父さん、なんで壁に刀なんか掛けてあるの?
これは父さんが若かった頃に一緒に生業を立ててくれた相棒なんだ。
じゃあなんでその刀の下に空の棚があるの?
そいつはある先達のために残してあるものなんだ。
その先達はどこに?
別れてしまったよ。
どうして?
それは……
朝方、曇り。
炎国の尚蜀、そこの応峰路にはとある旅館が構えている。
今の炎国で、まだ旅館などと呼ばれる店はそう多くない。
しかしこの旅館は酒も茶もいいものを揃え、尚蜀随一の風情を持ちながら昔ながらの姿を保っている。
赤い看板には、金色で書かれた文字がこう書かれていた。
“行裕”と。
湖松酒が10壷、雲遼酒が3壷、それと帰老酒が6壷……ふぅむ……
リュウジ、お前さんとこの業績だが、船の渡り場のところよりもかなり稼ぎが少ないようだが?
私のせいにしないでくだせぇ、渡り場のほうはなぜか知りませんが、月初めにわんさかと何度も宴席を設けてたんです、ウチより商売が上がってるのは当然じゃないですか!
宴席と言っても何度か設けただけだろ、こうも差が出るはずがあるか?
まあまあ、立って話されては腰を痛めてしまいますぜ。
あなたは数日の間尚蜀を留守にしていましたから、あの宴席がどれだけド派手だったか分かってねぇんです……あれが半年分の宴席だって言われても、おかしくはねぇほどでしたからね。
それに、ついこの前の数か月分の業績は明らかにウチのほうが上だったじゃないですか、この二日で越されただけですぜ。テイ総支配人、目先のことだけで判断しちゃいけませんよ。
それになんと言っても、一番早くこの生業を始めたのも、一番早くヒットしたのもウチらじゃないですか。オレに言わせりゃ――ほかの店は全員ウチらのことをお爺様と呼んでもらわなきゃ失礼ってもんですぜ。
孫ができたからと言って、自分の子のことを蔑ろにしちゃいけませんよ。
なにをしょげておるのだ、まだなにも話しちゃいないだろうが。それにお爺様と呼ばれる筋合いもない。
あなたにいざ指摘されたら、反論の余地も何もないじゃないですか。
うちはただ運が悪かっただけですぜ、まだ太っ腹な客に会えてないだけで……
そう言うわりにはお前さんが太っ腹な客に会ったところを一度も見ちゃいないが?
いやいや、そりゃ太っ腹な客なんてそうそうお目にかかれないってだけで……
うちらはずっと常連客にありきで、広告だって打つつもりもないじゃないですか、綺麗な娘っ子か色男を何人か雇えば少しはマシになると思うんですがね……
(ジッ)……
オレぁなんにも言っちゃいませんよ。さっきのはただの独り言ですぜ。
旅館が貴客と今まで関わってきた人たちを頼りに生計を維持することは当然だ。だが誰が貴客で誰が貴客でないかなど、見当がつくはずもないではないか?
オレがそんな何でも知ってるヤツでしたら、とっくに支配人でもやっていますよ。
ならしっかり学ぶんだな。
金も素質も身分のあるようなお偉い方というのは、分かる人には一目見れば分かるものだ、いつまでも愚鈍なお前さんに見分けがつくとでも?
うっ……
世を渡り歩く者であろうと、町で生業につく者であろうと、生きてる限り、他人との交流は避けられん。
交流するのであれば、人を見る目は欠かせない。人を知り、事を識る、それがあってこそわしらは真っ当な暮らしにありつけているのだ。
毎日真面目に仕事もせず、店を仕舞えたと思えばすぐ麻雀館に行くようなお前さんが、出世なんぞできるものか……
……
……あれ、もうお説教は終わりですかい?
お客様が二人いらしたのが見えんのか!さっさとご案内せい!
ありゃ……マジで気付かなかった、はいはい、こちらへどうぞ!お二方は本日初めていらしたお客様ですので、塩ピーナッツ二皿と菊花茶をおまけにつけてあげますよ!
おや、こりゃラッキーですね?
……時間が押してるので、ひとまずリョウ様に代わって、ここで些細ながら宴席を設けようか。
どうぞお好きなところにお座りください、すぐお茶をお持ちしますんで!
このまま梁府に直行すると思っていたんですがね。
あんたのその“ご友人”は、仮にも地方官を務めておられるお方だ、ご多忙なのさ。
友人を軽んじるほどねぇ、確かにご多忙なもんで。
……
(総支配人、ほら見てくださいよあの二人、気前のいい客に見えませんかね?)
……フッ。
ならよくよく観察しておくんだな、人を見かけで判断してはならんぞ。
尚蜀姿高し、雲を抜いて月を弄する。
この地は、古来より山に囲まれてきた。であるとすれば、移動都市を建設する際にこういった険しい山地は邪魔になってしまう。
しかし尚蜀の人々は自分たちが長らく住んできた故郷を見捨てずにはいられなかった、山を運ぶのには手間がかかるのであれば、いっそのこと都市を山に移せばいいとのことだった。
そのため、ほかの都市とは異なり、尚蜀の都市区画は連なる山々を縫いように点在していて、数百数千メートル離れただけで、それぞれまったく異なる風景が広がっている。
幸い尚蜀は傑出した人たちが集っているのか、ここ最近は一度も天災に見舞われずに済んでいる。そのためか、尚蜀人は山の上に次々と新しい町を造り、山に穴を開けては山道を敷いたり、トンネルを開通させてきた。
さらにある者は、土木天師の助力のもと、名だたる山や峰を直接移動都市のプラットフォームに移したとも言われている……
……ねぇちょっと待って、土木天師ってなに?
恩人様はご存じないかもしれないが、炎国には各地に天師府という機関を設けているんですよ。アーツの才能をほんの少しでも持っていれば、誰だって数々の試験を経れば加入できる、国へ貢献するための力になるためにね。
アーツの応用も多種多様な上、アーツ科学も日進月歩してる中、炎国の天師たちも自ずと分野を細分化してきました、いわゆる専攻ってやつです。
そういうかっこいい呼び名って、全部レイズさんみたいな戦いにも長けたアーツ使いのことを指してるのかと思ってたよ。
レイズさんとは恩人様が以前ロドスで話されていたあの炎国の官僚のことですかな?確かに、昔はそうだったのですが、今は生活向上のほうが重要な時代になってきましたからね。
アーツは生活を豊かにしてくれる、そしてそのアーツと源石研究に心血を注いでくれるのが、すなわち炎国工部省と各地に置いてる天師府なんですよ。
山を移動都市に置くなんて……ほかの国からすれば、きっと想像もつかないんだろうね……
そりゃそうとも。ただ山水にも情あり、日常生活に響くような山移しです、本来ならそんな大それたことをする必要はないんですよ。
ただある土木天師たちがあまりにも故郷を恋しがるせいで、無理やり現地にいる行政官から許可を押し通したんですよ、やれ山を移すことなど造作もないとか、やれ山々にある村落を見捨ててはならないなどと言って……
炎国には、水土人を養うという言葉がありますからね。
残念ながら私はアーツに関しては門外漢です、ただもし私が移動都市を作った人であったのなら、きっと天師たちと同じような考えを抱いていたはずですよ。
君たち炎国の人ってみんなそうなの?
目の前にこんな山水が広がっていたらそうなりますよ――
風光明媚に限りなし。早春に雪を聞く、なんとも風情があることか。
もし恩人様も小さい頃からここに住まわれていたのなら、きっと同じような考えを抱いていたはずだよ。
……そうかもしれないね。
ふぅ――気持ちいいね。
“尚蜀姿高し、雲を抜いて月を弄する”、まさにその通りの光景だ。
尚蜀区画には“三十七峰”というたくさんの観光客が訪れる景勝地があるんですよ、しかも外国の貴族もわざわざ観光しにくるほどの。
はぁ、普通の庶民にとって旅行というのは贅沢なものですからね、さもなければその景勝地も、今頃は人でごった返していることでしょう。
……気持ちいい風だね。今日は雨が降って山道が歩きづらくなるんじゃないかって心配してたよ。
そうですね。春風顔を撫で、細雨紛々と、潤物に声なし。
ずっと聞きたかったんだけど、君って武術の修行をしてたんだよね?どこでそんなお上品な詩文を学んできたの?
武を鍛錬するにしても文学を疎かにしてはならない、お師匠様からよくそう言われました。武を習うは伝統、されど文を学ぶもまた伝統、勉学に励むのは、現代人の務めですから……
……それに、話術を習ったところで損はありませんよ、金稼ぎに仕えますからね。
恩人様、よかったらついでに景勝地を回ってみませんか?この二年の間、山里にも人が集まってきて、たいそう賑やかになったと聞きますので。
いや、町に入っても一日二日休憩したら、あの姉妹と合流して先を急がなきゃならないからいいよ……
はぁ、でもこんな景色をじっくり見れないのは残念だなぁ、こんな気持ちは初めてだよ。
恩人様は元来より志を保ち、雑念を振り払っては目標のみに突き進んできました、つまり仕事熱心で、まったく怠けないお方というわけです。
……怠けないって……この私が?
もちろんですとも!
そういう甘い言葉ならいくらでも好きなように喋っていいけど、私は信じないからね。
しかし恩人様、今回はあくまで私を事務所まで連れて行くだけじゃないですか、その程度の仕事ですので急ぐ必要もないかと。
ラヴァ殿からも聞きましたよ、今回は休暇がてらこの外勤を受けられたらしいじゃないですか、ならなおさら恩人様の観光を台無しにするわけにもいきませんよ、ね?
はぁ。
ラヴァちゃんも来てくれればよかったなぁ……だったらこうして一人であれこれ考え込まずに済んだのに。
ラヴァ殿も急遽ほかの委託を引き受けてしまわれましたからね、彼女もきっとじっくりと楽しんでおられると思いますよ。
ラヴァちゃんがそんな足を止めてまで景色を堪能するような人とは思えないけどね。
はは、確かにラヴァ嬢はずっとそういう方でしたな。
……昔の彼女はあんな感じじゃなかったんだけどね、私もだけど。
……気にしないでください恩人様、事が変れば人も変わる、この世は諸行無常ですから。
ささ、先を急ぎましょう。
ドゥお嬢様、見つかりました。
間違いない?
間違いないっす、争山から町に入って、すでに未長区の応峰路まで来ているっす、尾行なら信用できる人につけさせたんで問題ないっすよ。
古臭いアタッシュケースだけを持った龍門人、で間違いないのよね?
はい、ばっちり確認できました。
もし違ったのなら、相応のツケを払ってもらうからね。
お嬢様から言われたことですから、間違いなんて犯しませんよ。
……よし!
ならあの肝の小さい老いぼれに代わって、アタシらがその大泥棒に会いに行ってやるわよ!