旅館は尚蜀に十数もの支店を持つ。行禄と呼ぶ支店もあれば、行福と呼ぶ支店もある、だが行裕と呼ばれるのはこの一軒だけである。
当然ではあるが、間近で高層ビルや夜景を見れて、双月が映る湖を遠方から眺められるのはこの一軒だけである。支配人が立地を選ぶ際は、いつだって周りの風景しか見ていない。客の流れや賃貸料などは、まったく意に介していないのである。
景色がよければ、客人の気分もよくなる。景色さえよければ、自ずと天地と一体となる、金を稼ぎたくないと思う方が難しいのだ。
うん……茶も景色も、実にいい。
初めて来た場所なら、いいところを選んでそこに落ち着く。尚蜀にもいい印象を抱くはずだ。
行裕旅館、雅な名ですね。
ここは名店だ、当初はこういった飲食業はやっていなかったんだが、ここ最近急にサービスを変えてきてな、支配人も実力があったから、商売も順風満帆なんだ。
家も稼業も栄えたら、自ずと支配人本人も……
……あの忙しなくしているのがその人ですか?
そうだ。
店主といった感じにはちっとも見えませんね、せっせと働いてる様には尊敬の念を抱かざるを得ないよ。
ただあの旧友のリャンのことを思うとな……今頃なにをやっているのやら。
自分でも言ってただろ、せっせと働いてるさ。
……官人としては真っ当にやってるんですか?
街中を適当に聞いて回れば分かる、靴磨きも、山芋売りも、タクシードライバーも、リャン様のことを聞かれれば誰だって親指を立てるもんさ。
……はは、そりゃ役得ですね、羨ましい限りだ。
リャン様から聞いたんだが、あんたと彼は、かれこれ十数年も顔を合わせていないようだな?
ええ。
だがそれでもリャン様は例のブツを、あんたに送ったと。
そうですよ。
ならお二人の関係も、親指を立てるほどのものだな。
生憎私に審美眼はなくてな、これのどこがいいのかはさっぱりだ、だがリャン様の顔を伺えばわかる、一大事なんだとな。
いやいや、こんな俺が“リャン様”と親しい関係にあるなんて恐れ多い、だがリャン・シュンという人物なら、確かに友人ではありますよ。
友人?
親友さ。
親友は得難い。十数年も会ってないにも関わらずまだ親友でいられる人はなおさだ。
そっちはどうなんです、シェンさん?
私か?
渡り場にはあんなに水夫がたくさんいたんです、なのによりによって俺はあんたの船に乗った、奇妙には思いませんか?
思わんな。こっちはリャン様から事情を伝えられている、ならそっちにも大方伝わってるはずだ。だから具体的なことについてこちらが聞く必要はない。
こいつはリャン様に代わって闇取引のところから奪ってきたものなんですよ、そりゃもう手間がかかったものでして。
……聞いてもいないのにそちらから言い出したということは、さほど我慢していたと見受ける。
遠路はるばるここに来るまでの間、ずっと話し相手が欲しいと思っていましたからね。
というかそっちもかなりリャンのことを信用しているようじゃないですか、あっちはあんな近づきがたい冷たい顔をしてるのに。
あんたが彼を信じてるのは、彼があんたの友人だからだろ、私が彼を信じているのは、彼が尚蜀の地方官だからさ。
二人は知り合いなんですか?
そうかもな、リャン様は私たちによくしてくれてる、なら知り合いだと言っても過言じゃないはずだ。
シェンさんはこの仕事はどれぐらい続けてるんです?
もう憶えていないな……自分が何年川に漂ってきたかを数える人なんていると思うか?そうだな……二三十年ぐらいか?
シェンさんもすごいお方だ。
ただの船漕ぎだよ、すごいも何もない。この数年でエンジンを付ける船まで出てきたんだ、あと数年もしたら、私も職を失ってしまうさ。
だとしても道案内だったり、その日の状況とかを確認してもらう人は必要でしょうよ。水路を行き交う水夫も、水路が長かったり、あるいはその職に長く就いていれば、天災トランスポーターとなんら違いはありませんって。
……天災か。
めったに遭えるものではないが、遭ってしまった暁には、生涯脳裏に焼き付いてしまうな。
天災に見舞われたことがあったと?
あった、だが天災よりも恐ろしいことに遭ったことがある、まあ川で遭ったわけではないがな――というより、こんなことを知ったってどうするんだ。
……おや。
どうしました?
……珍しい、外国人のようだ。
(ウユウとクルースが旅館に入ってくる)
おや、お客さん二人ですかい?
二人だ。
ここが君が言っていた“名は外にも轟き、料理は絶品、サービスは献身”な行裕旅館?
そうですとも、私のお師匠様も過去にこの“行裕”を絶賛していたんですよ、ただなかなか尚蜀に赴き機会がなかったものなんで、こうして恩人様に紹介した次第です。
はぁ、ただ……
ただ?
あはは、恥ずかしながら、師匠はただ絶賛しただけで、旅館の何かを絶賛したわけじゃないんです。ですので私もこの旅館のどこがすごいのか分からなくて。
……
どうぞ、お茶です。
お二人さん、お食事ですか、それともお泊りですか?
おお、典型的な旅館の聞き台詞だ。
ヘッ、ウチはまだ開いて何年しか経っちゃいませんが、“行裕”という名を語るのなら、百年にもなる老舗なんですぜ。
恩人様、どうせどこかで休憩するつもりだったんですからここにしましょう。値段もいいし、北にある船の渡り場からも遠くない、どうです?
私は別になんでもいいけど……
では部屋を二間頼む。
はいよ、食事はどうします?
どんな料理があるんだい?
おすすめのセットメニューなら壁に貼ってありますぜ。今は昼時のメニューになってます、もしなにかあれば、一声かけてください。
わかった、どれどれ……
あれとか美味しそうだね、炎国って感じの。
……恩人様、あれは激辛料理ですよ……もっと他のものにしませんか?
なんで?郷に入っては郷に従えでしょ、試してみようよ?
私の経験から言わせれば、ああいった料理は、あなたのようなレム・ビリトン人のお口には合わないかと。
そうなの?でも私結構辛いのいけるよ。
……
……なに見てるの?
あちらの店主さんを見てください。
あの人がどうかしたの?
すごい。
なにが?
これだけ大きな稼業を築き上げたのもそうですが、それよりもすごいのが……
……手にマメができてること?
さすが恩人様、いい目をしております!
それよりもここに入ってきた時、二階にいるお客さんが私たちのことを見ていたよ。
え?
彼らをジッと見てどうしたんだ?
いや……あのコータス、なーんか見覚えがあるような……
……
支配人、今日はウチにいるんですかい?渡り場のところは見に行かなくていいんですか?
いい、今日は人と会う約束があるからな、ここで待ってるんだ。
ヘッ、支配人自らがお迎えする人なら、きっとお得意さんなんでしょうね。じゃあここも宴席ですかい?いくらぐらい儲けられるんですかね?
儲けについてはどうだろうな、まあそれなりに忙しくはなると思うぞ。
……アッチの商売ですかい?
どちらとも言えるな。
と言いますと?
いちいち聞くでない、さっさとお客様を案内せんか。
ちぇッ、ケチ臭いですね。
いらっしゃいませ、何名様で――
(ドゥ嬢と複数の男達が入ってくる)
……フンッ。
ドゥお嬢様?これは一体――
あんたには関係ない、あっち行って。
……
そこのッッッ!
うわッ――女子でありながらすごい声量だ、私になにか?
……そのちゃらんぽらんな恰好にメガネ、平気でウソをついては人を騙す詐欺師。
あんたがそうでしょ。
……いや、あの……その評価はちょっと何というか……
ウユウちゃんの仇?
いや、仇とは言えいくらなんでも小娘を寄越してくるような連中では……
誰が小娘よッ!
(ドゥ嬢がウユウ目掛けて木椅子を蹴り飛ばす)
――!
(一蹴りで木椅子を蹴り飛ばしてきた――いい脚力だ!)
フンッ。座ったまま避けるなんて、いい反応してるじゃない。
お嬢様、お嬢様!
なによ、こっちは今忙し――
こいつはリーベリですよ、確か手紙では、あいつは龍だって……
……
……
……じゃあ二階にいるそこのあんた、あんたがそうでしょッ!?
ちょっと、せめて謝罪ぐらい言ったらどうなんだ!
まあまあ……ん?
……自分の恰好はまだ割と品があると思ってるんですけどね。
あの娘、どうやら訳ありで来たようだな。
店に入ってきた途端に木椅子を蹴り飛ばすとは、あのお兄さんもあやうく無駄に一発もらうところでしたね、可哀そうに。
このアタシに見つかった以上、大人しくブツを渡してもらおうじゃないの。
フンッ、白昼堂々と町に忍び込んでくるとは、いい度胸してるじゃない。
……ドゥお嬢さん、なんか誤解しちゃいませんかね?
あんた、龍門から?
えっ、そうですけど。
古い盃を持ってるでしょ?
……
一分間だけ弁明の時間を与えてあげる。時間が過ぎたら、大人しくそれをこっちに渡して、一緒に来てもらうわよ。
今どきの娘っ子はみんな言うことを聞かないんですかね……うちのガキたちに会いたくなっちまいましたよ。
……そんな目で私を見なくていい。リャン様から話は聞いている、その盃はわざわざあんたに頼んで龍門から持ってきたものだと。
リャン様がそう言うのなら、そう信じよう。
そりゃどうも、信じてくれ。
しかし妙だな……リャン様から頼まれたブツだというのに、あの小娘はよく堂々と奪うなんて言えたものだな?
はぁ。
この盃は、うちのガキが闇取引してる連中から奪ってきたものなんですよ、合法的な手続きを経て貰ってきたかどうかと言うのなら、まあそういうことです……あはは。
そんなに珍しい盃なのか?
一通り調べたが、出どころ不明の噂しか分かりませんでした、その噂も闇取引してた連中が現地の人から聞いた話らしくて……
はぁ、なんでこんな面倒臭いことに遭っちまうのかなぁ。
(ウユウちゃん、映画とかでこういうシーンを見たことあるよ!)
(私もです!しかし一般的にこういう場面は警察を呼ばなきゃなりません、映画とは訳が違うんですから……)
ちょっと、なにヒソヒソしてんのよ、言い訳はもう思いついた?
(あのお嬢さん、声量だけでも気勢がありますね……二階にいるあのお二方に目を付けているのでしょうか?)
……
(恩人様?)
(ウユウ君……あの人……なんか見覚えある……)
(え?あの私と七割は似ていて二割は酷似してるようなお方がですか?)
(そうじゃくて、彼は……えっと……ロドスの協力者って言えばいいのかな……ていうか残りの一割はなんなの?)
こうしましょうお嬢さん、どうせあなたに掴まっちまってこっちはもう逃げられないんです、だから警察でも呼んで……
時間稼ぎのつもりね、いいわよ、いつまで持つか見てやろうじゃないの。
やれ!
あいつを逃がすな!
待たれよ!
……なによ、さっきの謝罪がほしいわけ?
こっちの用事が済んだら、あんたがこの店で出した二日間の支出は全部ウチが持ってあげるわよ、これでどう?
恩人様、よ~く確認してくださいよ、もし人違いだったらこっちは大損です。
……リーさん?
……あっ。
君……その金髪、そしてその開いてるのか開いてないのかよく分からない目をしたウサギちゃん……ロドスのオペレーターか?
天下も炎国も尚蜀も広しと言えど、恩人様が偶然こんな旅館で知り合いと出会うなんて、なんという奇跡的な確率……
皆様方、ひとまずどうか手出しご容赦を、この奇跡的な再会の興を冷まさないようにして頂きたい。
――次から次へと訳の分かんないことを、やっぱりあんたたちもそいつの仲間だったのね!
全員囲め!ブツを渡さない限り、ここから逃げられると思うな!
(アーツ音)
ほう?なぜ急にそう思ったんだい?
罔両影に問う、自ずと理解しているはずだ。
であれば見てみたいものだな、この常日頃から身近にあるな品々をどう霊験させるのかを。
まあ気まぐれというやつだ、あとで私のことをあれこれと笑わないでもらえればいいよ。
……!
なんだ……今のは……
(ウユウが町の青年を倒す)
恩人様、危ない!
(クルースが町の青年を倒す)
みんな一般人なんだから、手加減してよね。
あのリーベリは手馴れだ!気を付けろ!このコータスは俺に任せて――あれ?どこ行った?
もう、言った傍から手を出してくるんだから……
なッ、いつの間に二階に行きやがったんだ!?
流血沙汰は無用だよ、ウユウ君、手加減してやってね。
リーさん、こっちこっち。
はぁ、君たちを巻き込んでしまって、申し訳ないね。
ここでリーさんと会えたんだから、不幸中の幸いってとこかな。ほら、そんなことよりもここを出よう。
コラァ――!なにアタシをいない者扱いしてんのよ!?逃げられるとでも思ってるの?
すまない、ここを通すわけにはいかないんだ。
それでアタシらが大人しく従うとでも!?
(ウユウとドゥ嬢が殴り合う)
……扇子?あの詐欺師……あいや、あのお客さん、珍しい武術を使っていますね?
……
ジェン支配人?支配人?これ以上あいつらを止めないと、一階の椅子と机が全部おじゃんになりますよ。
……はぁ。
あの扇子使いの兄ちゃん、余裕綽々ですぜ。でもお嬢様もまだ全力を出していない、今ここで二人を止めたら、和を以て財を生ずですよ。
それに彼女、結構机とか気にしてるようですし……
まったく!
気前のいい客とはよく言ったものだよ!
早春、夕方、風は望まれてこそ来れば、雨は未だに来ないままである。尚蜀の春は、いつもこうなのだ。
男は顔を上げて空を眺める、雲は絡まり合い、黄昏ていて仄暗い、しかし遠くには、まだ斜陽の光がわずかに見えていた。
春風料峭、軽風衣を撫でる。
そろそろ彼が来る頃合いだな。
……ふむ……
無事にことが済めばいいのだが。