……うぅん。
頭が……いてて……なんだか騒がしいね……ん?
あぁ……戯曲が始まっていたのか、チャンチャラチャンってね。
棋罷は人の世を換うるを知らず、夢から醒めてこれ何年になるや……何年……何年と……
あっ……
……また酒がなくなってしまった。
まったく悪運に尽きるね。
ショウは首に貼ってあった湿布を触る、彼の習慣だ。
十年もの間、毎日天秤棒を担いでは、山を上ったり下りたりを繰り返してきた、これも彼の習慣だ。
取江峰は高く、険しい。人煙すら見当たらなくなるほど高く、また山々を切る風の音が寂しく感じるほどに険しく。
彼にとってこれが何度目の春になったかは彼自身ですら分からなくなっていた、彼は顔を上げて遠くを眺める、人跡尽きた山道の向こう側に、ある人が立ってるのを見た。
あれは彼がずっと待ち続けていた人だ。
……ようやく会ったな。
ついこの間に会っただろうよ。
この間のお前は刀を持っていなかった、会ったとは言えねぇよ。
お望み通り、刀は持ってきたぞ。
……先に話がある。
あれがお前のせいじゃないのは俺だって分かっている。あの雨の夜、死んだのは俺の息子だけじゃないってのもな。
そうりゃそうさ。
お前はあいつの娘を引き取ったんだろ、その子は今どうなってるんだ?
……跡を継がせるつもりだ。
それは鏢局の跡をか、それとも今のお前がやってるような、真っ当な店主をか?
どちらでも構わん、あの子の好きにすればいい。
意中の人はもう見つかってるのか?
まだだ。
そりゃ残念。
ならもうあの子が嫁いでいく日を生きて見守ってやれなくなったな。
……なにもこの日に殺し合う必要はないと思うが?
それは無理な話だな、お前の性格は分かっているんだ、お前が後悔を抱いていれば、俺だって恨みを抱いちゃいる。
十年ものの恨みをな。
……だからなんだ?
だから今日お前は俺に勝つつもりがないんだろ。旅館も茶館も酒屋も、全部娘のために残してやってるんだもんな?
鏢局は人から恨みを買われる仕事だ、お前はそれをよく知っている。自分がいなくなれば、鏢局がどうなるのかも分かっているんだろ。
お前は刀を置いて去っただけでなく、規則も守らなかった、情けに免じてみんなはお前を許してやってるが、規則に則ればお前はまだ裏切者のままなのだぞ、それを忘れるでない。
あの夜の後、お前があの罪を背負い、鏢局をあのまま導いていれば、俺だって鏢局を裏切ることもなかっただろうが!?
俺の息子が鏢局に入ったのには、それなりの覚悟があったからだ、俺がそれを知らないとでも思ってんのか?なのにお前は、鏢局を離れて旅館なり飯屋なりに逃げた、あいつらの死を踏みにじる行為だと思わないのか?
お前が!なんの躊躇もなく、過去から逃げてるんだろうが!
そうだな……分かっているさ、だが話はもうこれぐらいにしておこう。
行裕鏢局総頭、問霜客、ジェン・チンイエー。
(ジェンが一歩引く)
……尚家棍、ショウチョウ。
(歩荷が一歩引く)
早春、夕暮れ時、樹影はばさばさと、落ちる雪は銀の如し。
風が一つ起き、そして刀が降り落とされた。
(戦闘音)
……くっ。
息抜きが過ぎたようだな、ジェン。
……そうとは限らん、お前は長年山を上り下りしていたものだから、それで足取りがまた一歩極まったからなのかもしれんぞ。
それはどうだろうな。
だがお前みたいな好漢が、残りの人生で歩くこともままならなくなると考えれば実に残念に思うよ。
……素早い太刀筋に、目の邪魔をしてくる雪の光、おかげでズボンに穴を開けられたが、そんなんで俺が歩けなくなるとでも?
なら次の一撃で終わらせてやる。お前が今持ってるそれは伝家の棍棒ではない、そこら辺にある天秤棒に過ぎないから防ぎようがないぞ。
……
……
――父さんッ!
ヤオイェー!?なぜここに……
……やはりヤオイェーだったか。いつの間にか、随分と大きくなったな……
ん。
(リーが近寄ってくる)
お二人ともお暇なんですね、もう日が暮れそうって時にまだ……武を競い合える時間があるなんて。
お前もいるのか。何しに来た?
いやね、ショウさんの腰にぶら下げてるその盃、それって俺の友人から探してこいって頼まれた品なんです。庵探しとは切っても切り離せない品物でして。
刀剣の目はついちゃいないんですから、お二人が切磋してる間……盃に誤って当てて傷でもつけてしまったら、弁償じゃ済まされなくなりますよ。
……
父さん、一体なにをやってるの――!
……ヤオイェー、これは……
十年前、行裕鏢局はある大仕事を受け持った。だが途中で暴雨に会い、おまけに荒野で野盗どもに襲われた。
ブツを守るために、ジェンは同行してくれた仲間たちを見捨て、それで十数人もの兄弟たちが犠牲になってしまった、その中には俺の息子と、お前の……実の父親が含まれていた。
それをジェンは見殺しにしたんだ。見殺しにしただけでなく、あろうことかブツと鏢局の名声さえ失いやがったんだ。
アタシは――
しかもそれから、こいつは鏢局の没落っぷりに目を背けただけでなく、現実から逃げる事にも失敗しやがった、お前はそれを知っているか?
そして、お前の母親はあれっきり尚蜀を出て、自分の実家に戻った。
ドゥ・ヤオイェー……これらすべて、初耳なんじゃないのか?
……
ヤオイェー。ここにお前の用はない、父さんはただ――
アンタが……ショウさんなのね。
いや。
裏切者のショウなのね。
……
アンタはアタシをなんだと思ってるわけ?何も知らずに温室でぬくぬくと今日まで育ってきたバカだとでも思ってるの?
アタシの実の両親のことなら、全部知ってるわよ。ジェンがこれまで何をやってきたか、どうやってきたかも、アンタよりもよっぽど分かりきっているわ。
……
だから、ここで二人に言っておく――
――鏢局も旅館も、いずれは全部このドゥがもらい受ける。
だからお二人とも、今は面倒事を持ち込まないでちょうだい。
……
……そこをどかなければ、お前も痛い目を見るぞ。
――!
(リーが間に割って入る)
まあまあ、ひとまず話でも聞きましょうよ……
銅銭剣?
ふざけやがって。俺の前で芸でもやるつもりなのか?
えっ、いやいやそんなことしませんよ、それに俺、戦いは不得意でして……ただ……
そんなにこんなものが欲しいのならくれてやるよ、ほら。
――!
――そうはさせん!
ジェン!気を取られるとは衰えたな!
――父さんに手出しはさせない!
くそっ、邪魔だ!
(歩荷とドゥ嬢がぶつかる)
キャッ!
ヤオイェー!
ショウ、貴様気が狂ったか、よくも私の娘に手を出したな!
――!
ガチン。
振り落とされる天秤棒に従い、刀が押さえつけられ、切っ先がズレて盃に当たってしまった。
予想外なことにその盃が割れることはなかった、この世の中に、ジェンの一太刀を受けてもなお傷一つ付かない陶器などあるだろうか?
しかしその一太刀で、そのまるで夜のように漆黒な盃を飛ばしてしまった。
――盃が!
アタシたちのことはいいから!アンタは盃を拾いにいきなさい!
しかし……
個人の家庭事情に首を突っ込むんじゃないわよ!
……わかりました。
少しだけ辛抱してください、すぐ助っ人がやってきますので。
(リーが走り去る)
ヤオイェー、そいつを行かせてはならん!
アンタこの歩荷に殺されそうになってんのよ、あんな骨董品なんか放っておきなさいよ!
ヤオイェーの言う通りだ。十年前、お前は崖の上であの盃を落しちまった。それが今やまた同じことが起こった、どんな気持ちか教えてくれよ?
ショウ……!
俺をどかしたいのなら、方法は簡単だ。
チッ。
(タイゴウが歩荷に駆け寄り斬りつける)
そこまでだ!
(サガクが駆け寄ってくる)
ジェンさん!
――盃が崖に落ちた、あの龍門人が探しに行ってる。お二人もはやく!
ありがとうございます。
タイゴウさん。
承知。
――チッ。
(ドゥ嬢がサガクの前に立ちふさがる)
……なんのつもりですか、ドゥさん?
アンタは行かせないわ。
……それはなぜ?
……リャン様とリー、それと見るからに血も涙もないような朝廷の使者のお二人さん。
人ってのはいつだってどちら側に立たなきゃならないものなのよね、だから決めたの。
それに、こっちはリーと約束してるのよ、シャバで生きる者にとって信用は一番大事、そういう掟でウチらは動いているからね。
……
ヤオイェー!今はふざけてる場合じゃないんだぞ!
……大所帯になっちまったな。
こんなに人が集まられりゃ困るんだが、まあいい……
ケジメをつけるだけなら、俺とお前だけで十分だ。
――クソォ!
(斬撃音)
ドゥ嬢、これは公務執行妨害にあたります、あなたもご存じでしょう。
アタシからすればそんなに“公務”ってほどには見えないけどね。
どいてください。
イヤ。
ならこちらも容赦しません!
――
(ウユウが割って入る)
まあまあ待たれよ、堂々たるお偉い方が、可憐なお嬢さんに手を出すのはよろしくないかと思いますよ?
――廉家の陰陽扇か、さすがの腕前。
……!
身の程知らずめ。
(タイゴウが巨岩をウユウ目掛けて投げつける)
公子、大事ないな。
……平気です。
いッ、痛ててて、あんな大きな岩を難なくぶん投げてくるなんて……恐ろしや恐ろしや……
己から痛い目を被りに来たのだ、文句は言えん。
(クロスボウの射撃音)
クロスボウか!誰だ?
……
ここだよ。見る方向が違うってば。
お前は……
邪魔をするな、子ウサギ。
ロドスは司歳台に協力するつもりはないんですね?
そうだよ。
君たちには君たちなりの理由があるのは分かる。でも私たちはニェンさんと長い付き合いで彼女がどういう人か分かっているから協力はできないかな。
獣心測り難し、人が分かったところで何になるんです?
何になるかは知らないけど、少なくとも私は彼女のことを信じてる。
私もです。シー殿が説法をしてくれたおかげで、私も少しばかり悟ることができました……私ってば結構面倒事を避けるクセがあるのですが、受けたご恩を返さないほどもの知らずではありませんよ。
……廉家の陰陽扇。
さっきは驚いてしまって手出しできませんでしたが、今度は色々とご教授願いましょうか。
……ふむ……
盃目当てならここに用はないだろ、とっととあっちに行きやがれ。
あの盃は鏢局にとって大きな意味があるモノだ、それを放っておけば私は死んでるも同然ではないか?
今だって死んでるも同然じゃないか。
……
いいねいいね、ジェンの目つきはそうでなきゃな、娘がここにいるからか、それとも鏢局のメンツのためにか?
ようやく生にしがみつく人間になったじゃないか、それでこそケジメをつける意味がある。
……ショウ。
もしアンタの息子が上でアンタの今の行いを見ていたら、喜ぶと思う?
それを持ちだして俺を誑かそうとするんじゃない、あいつがまだ生きてここに立っていようが、自分の親父を止めることなんざできねぇよ!
……シェン殿、なぜここにいる?
あの人たちを山の上まで送って、ついさっき下りてきたからですよ。すぐリャン様にも会えると思いましてね。
それでリャン様がこうして来てくれたじゃないですか。
それなりに時間が経ったからな、様子を見にきたんだ。
ネイさんのほうはどうなんです?
察していたさ、多分だが最初からずっと分かっていたのかもしれないな。
書斎でモノを失くしたのは、大方彼女の仕業なのだろう。
……ネイさんのこと、リャン様のほうからも何卒説得してやってください。
ほかの人ならともかく、あのハクという陶芸家には絶対手を出さないほうがよろしいかと。
ハク天師か……
彼が雷をここに落したおかげで、司歳台と礼部のメンツをズタズタ、天師府もどっちに就けばいいか分からずじまいですよ。
これはまたシェン殿に心配をかけてしまったな。
はぁ……私はただの船漕ぎです、心配もなにも。
以前北の辺境地で防衛に務めていた頃、寒い中なにもすることがなかったから、戦友たちと国についてあれこれ語ったことがあったんです。
みんな心は炎国にあるんですから、ちょっとした些細な過ちを犯したとしても、なにもかも台無しになる必要なんてないと思いますけどね。
すべては匹夫であるこの私の責任だ。
私は匹夫と言っても差し支えありませんが、リャン様も匹夫って言えるんですか?
大地は厚く広く、万物みな自由なり。この世を見渡せば、みな匹夫さ。
はぁ……それで私はなにをすればよろしいのですか?
シェン殿にはどうか尚蜀の太平を守って頂きたい。もし何かが起これば……あなたにはネイ殿やあの五人がことを起こす前に、事態の収拾も頼む。
人事を尽くして天命を待つって古い諺があるのはご存じですよね。
それは残念だ。
このリャンが炎国の朝堂で学んだ初めての言葉は、“天命は人にあり”だからな。