……では続いて、教科書132ページ目を開いてください。
テラ歴31年、ヒッポグリフ帝国は正式に名をウルサス帝国と改めました。この部分はすでに二時間もの授業を使って理解を深めてきましたね。
現在学会では、支配階級の腐敗と権力の衰弱によってヒッポグリフは主君たる資格を失い、また社会の基盤になる労働階級に属するウルサスの台頭によって革命はもたらされたという学説が広く有力視されています。
ですのでこの戦争はウルサスの決起、先民と神民の権力闘争として描かれています。
また神民のテラ諸国における支配地位の正当性も、この戦争で徐々に失われていくことになりました。
しかし、別の角度でこの戦争を振り返った場合、ある一連の疑問が容易に浮かび上がってくることが分かります。
もし当時の社会情勢下で、仮に支配地位についていたのがヒッポグリフでなく、ほかのウルサスであった場合、はたして革命はどうなっていたのでしょうか?
もし統治者であるヒッポグリフが、種族優遇政策に拘らず、ウルサスたちの私財をも没収することなく、彼らにも同等の地位向上のチャンスを与えていれば……
ヒッポグリフ帝国の滅亡は避けられたのでしょうか?それともより早めることになっていたのでしょうか?
もし……ハガンの騎馬隊がこの土地に踏み入っていなかった場合、またどうなっていたのでしょうか?
……
こんにちは、君もカシェーナ先生の授業を聞きに?
カシェーナ……先生?
ええ、先生が担当してるウルサス帝国史はずっと人気がありましてね。
最近じゃよく君みたいな若い人がこぞって廊下で聴講してるのを見かけますよ。君はうちの学校の学生じゃないんですよね?大学生に見えないもんで。
もし気になるのでしたら教室の中に入っても構いませんよ、教室の後ろに立ってもカシェーナ先生は気にしませんから。そっちのほうがもっと内容も聞き取りやすいと思いますし。
いや、必要ない。今のままでもはっきり先生の声は聞こえている。
ならよかったです、まあこの授業もそろそろ終わりそうですしね。私はまだほかの授業があるので、ここで失礼します。
足を止めてしまってすまないな。
これらの歴史的な疑問は、おそらくどの教材でも見つけ出すことはできないでしょう。
しかし皆さんにはぜひとも思考を巡らせて頂きたい。食事の時でも、お風呂の時でも、寝る時でも……いつでもこの疑問を脳内に巡らせておくのです。
もし考えがまとまったら、ぜひ文字に書き起こしてください。皆さんの面白い観点を楽しみにしていますよ。
はい、では今回の授業もここでおしまいです。次の予鈴が鳴るまで、しばしの自由時間をくつろいでください。
(扉が開き、ヒッポグリフの教師が現れる)
あら、そこの学生さん、なにかご質問でも?
――
見つけたぞ。
なんであいつは市内に入ったんだ?
会いたい人がいるとのことだ。
そいつは俺たちがリスクを犯すまでの人なのか?
ナイン、お前言ってただろ、ウルサスにいる段階ではどの移動都市にも接近しちゃならないって。
――
ずっと彼女を裁いてやりたいと思っているのだろ?なら彼女が口を割る前に、まずは彼女に答えを探させてやれ。
もしその答えがなければ、彼女は自分が吐いた言葉すら信じられずにいる。彼女が自身を信じられないのなら、私たちはなおさら彼女を信じられないだろ。
んなもん最初からあいつを信じる筋合いなんかねえんだよ!
もしあいつが市内に入って、そのまま逃げられたらどうするんだ?この前あいつを攫い出した俺たちの努力も、これからあいつに関するどの計画も、それで全部パーになるんだぞ!
……逃げやしないさ。
彼女自身でも分かっている、もう逃げ場も行く宛てもないとな。
それに、お前たちが私を信じてくれる限り必ず約束する。彼女がどこに逃げようが、必ずとっ捕まえてやるとな。
信じているさ……お前はこの一年余り、ずっと俺たちを導いてくれたからな。
お前はあいつと違って、お喋りじゃない。そこは気に入ってるぜ、ナイン。だからできればそのままでいてくれ。
私が彼女に影響されると?
そう言われると困ったものだな。
ナイン、監視隊が近づいてる――
このまま身を潜めるんだ。
予想通りだな。あと30分もすれば、このルートも安全じゃなくなる。
……それまでに帰ってきてくれればいいんだが。
もっとはやく会えると思っていたぞ――
――タルラ。
……カシェーナ。隠すつもりもない、安直な名だな、コシチェイ。
ふむ……名前か。名前は所詮ただの記号だ、もしこの名前の音節で不快感を覚えたのなら、フィオリットと呼んでくれても構わないぞ。
貴様を何で呼ぼうがどうだっていい。貴様の名はその皮袋同様、記憶に留める価値すらない。
では何しに来たのだ、タルラ?
私の口から明確な答えを求めにでも来たのかな?コシチェイはすでに消え、今のお前はタルラだと、そう私の口から聞きたいのか?
ならその答えはもう得ている。お前が求めるがままの答えを与えてやろう、一文字も違わずにな。
だが――お前はそれで信じるのか?
黒蛇の言葉に耳を傾けろだと?
それが貴様の新しい戯言か、コシチェイ?
貴様は私にこれでもかというほどの情報と手がかりを撒いた、私が短時間内で貴様を探し出せるためにな――貴様はあえて私に探させた、そうとしか思えない。
では、お前はそこには戻ったのか?我々の共同の住処まで戻って確認したか?
あそこは私の住処などではない。陰謀の震源地、毒蛇たちの巣窟だ。
そう言われると悲しく思うよ。
しかし、それでもお前は私からの手紙を読んでくれたではないか?口ではそうは言ってるが、お前はコシチェイ公爵がウロコたちから密書を受け取る際に用いたルートを憶え、そして使った。そうすれば公爵領を奪った秘密警察にバレることもないからな。
――十年も前に出された手紙、この学校に在籍しているその手紙の送り主。
貴様の深慮遠謀っぷりを褒めてやるべきか、それともウロコたちがとうに朽ち果ててもなお、十年も存在を隠し続けたルートの精巧さを祝うべきなのか分からなくなってきたものだ。
なんだ、領地が荒廃したことで嬉しく思っているのか?タルラよ、そこの者たちは本来ならお前の統治によって更によい生活を享受できたはずだ、第四師団に蹂躙されるのではなく。
私以上にあの者たちを気遣ってるフリをするな。
言え、なぜこんな最北端に位置する小さな都市に隠れた?
貴様はもっと南にある都市を好んでいたはずだろ、コシチェイ。
そこの湿度がちょうどよく住みやすいだけでなく、一代また一代と権力の種を育ててきた土壌が貴様の陰謀を助長させてくれるからな。
しかし――凍原は違う。ここにいる人々の生活は苦痛だ、単に食料を心配するだけで頭がいっぱいになってしまう。
貴様の誉高い弁舌も、そこの者たちからすればただの造り花に過ぎない、見てくれだけで、なんの役にも立たん。
タルラ……タルラ。
もし私がここにいるのは、お前が凍原に足跡を残したからだと、言ったらどう思う?
ただの嘘八百、そう思うだろうな。
“人類の歴史とは、即ち戦いの歴史でもある。”
お前はそれを憶えているはずだ。
あの頃、私がお前に教えたすべては、後に起るお前の戦いに用いられた。
それらを憶えているのであれば、凍原に住まう感染者の闘士としてのタルラと公爵の跡を継ぐタルラ、この両者は私にとってなんの違いがあろうものか?
私が凍原で建てたすべては貴様によって滅ぼされた。
本当にそれは私が滅ぼしたと言えるのか?
自分の心に訊いみるといい、その一連の致命的な過ちを犯したのは、一体誰なのかを。
仮にもしお前は無罪だったとしたら、一年半もの時間をかけて自分はどのように死を選ぶべきかなど考える必要もない。
そのまま開き直って次なる苛烈な戦いに身を投じればよいではないか。
……
タルラ、お前がなぜ私の前に現れたかは分かっている。
私に用いた裁きで自分を裁き、私の懺悔からお前自身の懺悔を引き出したのだろう?
お前が欲しているのは――ただちっぽけで哀れな心の慰めと安らぎだけなのだよ。
……続けろ。
続ける?おや、てっきり――
私が怒髪天を衝くとでも思ったか?貴様なんぞが私の怒りを受ける資格など毛頭ない、コシチェイ。
今のところ、貴様が吐いた一言一句はすでに脳内で事前に予想してきた。一年半という時間は短くない、かく言う私もロドスに捕らえられてはやることもなかったのでな。
私の手の内から生き残りたければ、もう少し新鮮なことを言ったらどうだ?
いいだろう。まあ見て取れるよ、監禁されていた時期を経てお前は随分と我慢強くなったみたいだな。
だが凍原を言及したのは、なにもお前を刺激するためではないぞ。
タルラ……この学校を、ここにいる学生たちの輝かしい目を見てみなさい。
五月の太陽は凍原の雪を溶かしてくれる、凍原よりも冷たく堅固なウルサスはきっと自分たちの足元で変革を遂げると、彼らは信じてやまない。
そして貴様はまたその卑劣な思想をもって、その者たちの純粋を汚すつもりか?
私は彼らの中から別の継承者を探している、とでも思っているのかな?
違うさ、タルラ、今の私はただの取るに足らない至って普通の大学教授だ。私が伝えてるのは知識と思想だけ、いかなる権力や富とて手中に収めてはいないさ。
仮に学生らが権力を欲しているのであれば、自分たちの力で勝ち取ってもらいたい。仮に陰謀を望んでいるのであれば、また同様に私が授けた知識から最適な策を練ればいいだけだ。
――貴様は私の失敗を経て、挫折の末に人を改めたと?
失敗?あれが失敗だとは一度も思ったこともないさ。
コシチェイの計画は滅んでいない、レユニオンがチェルノボーグの中枢区画で完全に瓦解しなかったようにな。
確かに、お前たちは見事コシチェイを阻止できた。コシチェイはウルサスを変えうるような戦争を待てずに終わった。
だがそれでもウルサスは、コシチェイが敷いたレールの上を歩んでいる。
戦争はどうしようもなく起ってしまったのだ。議会と軍の関係は擦れに擦れ、人々の意志も続々と起こる衝突から新たな火花を散らす。
そして私は、最も活力に満ちた土壌で、為せる限り種を蒔く。
これらの変革はいずれこの私が導く……あるいは発芽を促してやろうじゃないか。
以前は大衆への教育には否定していたはずだが?
世の中は往々にして変わりゆくものだ、統治者が過去の方法に拘るばかりでは、自ずと破滅へ向かってしまう。
……まだ自分を統治者扱いしていたとはな。もういい、理解した、貴様は何も変わっていない。
忘れていたよ、お前は確かこの言葉を嫌っていたはずだったな、コシチェイの掌で踊らされるぐらいに。だがとうの前から言ったはずだぞ、誰が統治しようが私は気にも留めん。
ウルサスがヒッポグリフからこの地を奪ったあと、幾度と権力が移り変わってきたと思っている?
タルラ、お前は私であり、私はお前だ。
我らは同じくして、ウルサスが私たちの掌で火花を散らしてくれることを望んでいるのだよ。
そしてその火花は……いずれ必ずウルサス全土を燃え上がらせる。いや、ウルサスだけではない、ヴィクトリア……ひいてはほかの国々、すべてがその炎に巻き込まれていくだろう。
そしてその炎が過ぎたあと、はたしてこの地は繁栄も迎えるのだろうか?それとも滅びを迎えるのだろうか?
ウルサスはすでに千年を歩んだ――であれば私が第二、第三の千年を歩ませてやろう。それが黒蛇の存在意義なのだから。
黒蛇は死なん、私が自我を存続せしめんとする意志を持っているからではない、ウルサスは生き続けなければならないからだ。
アスランの嗣子がロンディニウムに戻っただと?
そうみたいね。
サルカズからわざわざ教えてくれた情報よ、私たちがあのサルカズのトランスポーターたちを返してくれたお礼だってさ。
礼?
フッ、ヤツらは我々の手を借りたいだけだ、公爵同士の争いをさらに助長させるためにな。
ま、そうだよね。けどロンディニウム市内の局面は変わった、彼らのやり方から見て取れるよ、サルカズも焦ってるみたい。
サルカズはまだ何か言っていたか?
使えそうな情報はもうないかな。
チッ、“スパイ”の存在がバレてから、取集できるロンディニウムの情報も極端に少なくなってしまったわ。
惜しいことをしたな。
そうね……ホントに惜しい。けど損失がまだ取り返しのつく範囲内に収まってくれて助かったわ。
そうそう、もう一つ重要になり得るかもしれない情報があった。
私たちに協力してくれてるクルビアの武器商人が明かしてくれた情報なんだけど――
一か月前、あのレユニオンって組織が昔の“リーダー”を迎え入れたみたい。
そのリーダーとはつまり……
タルラ。
仮に以前の情報も本物だったとしたら、彼女も……おそらくはドラコである可能性が高いわね。
えええ!?ほ、ホントだべか?うううウソじゃないよね!?
……お前にウソついてどうする?
一発ぶん殴って。
頭おかしくなったのか?
はやく一発ぶっ叩いてよ、じゃないと夢のなのか現実なのか分かんなくなっちゃう!
壁にでも頭をぶつけていろ。ただし、勢い余って他人ん家の壁を壊すんじゃないぞ、この町の騎馬警官との事情聴取で時間を無駄にするハメになるんだからな。
ウチ……ホントになんて言えばいいのか、言葉が出ない……
そんなに驚いてるのか?毎日隊長は絶対に死んでいないって喚いていたのはそっちだろう。
だって……だって……
まだどこかでお前が助けに来てくれるのを隊長は待ってるかもしれない、だろ?
うん。
でも隊長があそこから逃げ出せていたって知ったら、なおさらビックリ仰天だべさ!
ありがとう~~~、チェンちゃん、チェンちゃんがウチをロドスに誘ってくれなかったら、彼らも隊長を助けてあげなかったはずだよ~~~、本当によ゙がっだァァァァ、ううううう……
……おい、抱きつくな!
ううぅぅ、本当に嬉じいんだも゙んんん!
だったらせめて……腕の力を緩め……うぐッ……
ちょっと待った、じゃあチェンちゃん……もう行っちゃうの?隊長を助けるって約束も終わったことだし……
こういう時に限って頭の回転が速いな、お前は。
まあ、考えなかったこともない。彼女がロドスから逃げ出したって知ったあと、彼女を追うべきかどうか。
そうだね、見たら分かるよ……
だがチェン・フェイゼはやると決めたらやる人間だ。
ここまで来て、ようやく手がかりを掴めたものだしな。
バグパイプ、お前から頼まれた調査には引き続き手を貸そう。“亡霊が再び日の目を浴びるその時まで”な――それが終わったら私は私のやることに戻らせてもらう。
タルラを探しにな。
タルラ、コシチェイから授かった技のすべてを用いて、見てみるといいさ。私が発した言葉の数々がはたして本心なのかどうかを。
結構だ。
ならここで私を殺すつもりなのかな?市内にいる衛兵に狙われないよう、お前は剣を携えていないようだが。
であれば炎で私を焼き殺すほかあるまいな。お前は私を慕っている学生たちの前で……かような恐ろしい蛮行に走るつもりか?
貴様を殺すのに、周りを脅かす必要などない。
忘れてくれるなよ、コシチェイ、これも貴様から教わった知識だ。
私を殺せば……お前は満足するのか?
仮に満足できなかった場合、第二第三もの名前をお前に教えてやってもいいぞ?
……ウルサスにいる黒蛇は、お前一人だけに留まらず、と言いたいのか。
お前から逃れるためについたウソと見なしてもらっても構わんさ。
(タルラがカシェーナに近寄る)
貴様の新しい身体……実にひ弱だ。
今のお前を殺すことは、あのフィディアを殺すことよりも容易い。
では何を待っているのだ?さあ、この身体を灰燼に帰し……この薄暗い廊下にまき散らすといい!
“恐怖の感染者殺人鬼、再び大学構内に現れる”――二日目にはトップ記事として新聞の一面を飾るだろうな。
……その汚名を気にするお前でもない。
ついでに言うが、三分後ここに駆けつけてくる監視隊とて私の相手には務まらん。
しかし……外で待機してるお前の昔ながらの仲間たちは……皇帝の親衛の相手には務まらんだろう。
いくら彼らがリーダー格の指示に従い、お前がウルサスに戻ることに耐え忍んでも……お前がウルサス内で殺人を犯すことは断固許されないだろうな。
……コシチェイ。
もし親衛たちが不死のバケモノ――チェルノボーグの首謀者がここにいると知れば、私を捕らえるよりも先に、視線と共に刃物をお前に投げつけてくれるだろうな。
……
では、なぜまだ手を下さない?
……そろそろ時間だ。
戻ってきてないぞ。おいナイン、やっぱあいつを見誤ったんじゃないのか?
もし時間になっても彼女が現れなかった場合、お前たちは予定通り先に撤退しろ。
お前はどうするんだよ?
彼女が私の枷をつけてる限り、私の罪人であることに変わりはない。そのままとっ掴ませて裁いてやるさ。
……ならその気力は取っておくといい。
(タルラが戻ってくる)
――タルラ。
時間通りに戻ったな、一分も違わずに。会う人とは会えたのか?
そんなところだ。
それで?
収穫を聞くつもりか?あの臭くて長ったらしい愚痴話でお前の耳を汚したくないのだが。
ふふ、少しは元気なったようじゃないか、冗談を言えるぐらいにはな。
それであの悪神はどうした?殺せたのか?
もうあの人ではない、ヤツはそう言った。
それを信じるのか?
信じはしないさ。だが私も、ヤツを殺せば問題は解決できると思っていたあのタルラではなくなった。
とはいえ、ヤツが私の視線から消えることは許さん。必要とあらば、即座に斬る。
それに、予感がするんだ……
予感?
不死の悪神は……いつか死ぬ。ヤツを殺すのは、きっと私ではない。
――ウルサスがヤツを殺してくれるだろう。
今になってもヤツはまだ人心を操れると高を括っていた、だからヤツに証明してやるのだ――
いつか必ず、目覚めた民衆たちは愚昧な統治者を地に叩きつける、とな。
そうすれば、ウルサスにもはや黒蛇は存在しない。
ではこれからどうするつもりだ?
最後にまたここに戻る前に、今はまずヴィクトリアに向かおう。
ようやく我々と共に行くことに決心してくれたのか?
私はお前の罪人なのだろ、お前たちについて行く以外、もう行く宛てなどないさ。
それに言ったじゃないか……そこにいる感染者たちが、私たちを待っていると。