海は黒かった。
あれはまだ四五歳だった頃、ティアゴさん、つまりグラン・ファロの町長、そして手に武器を持った大勢の大人に連れられて、ボクたちは海辺へ出発した。
どんな天気だったかさえも未だに憶えている。雲も霧も濃く、午後はいつもの夕方よりも冷たかった。この冷たさは温度を指してるんじゃない、色だ、熱を失った色だ。
それからボクは知った、あれはグラン・ファロが最後にイベリアの眼を修繕する作業だったのだ。いや、正確に言うと、しようとした。
けど懲罰軍がすぐさまある情報を伝え、大人たちは顔を曇らせた、ボクはどういう意味か分からなかった。ただぼうっと、海と空の境界線を望んでいた。
その海は黒かった。
この微塵も希望のない大地と、こんなにも色が合ってただなんて。

ティアゴ町長が来てくれたぞ!

ペドロの言ってたことが本当になったってことか、アマヤ。

私が否定しようにも、目の前の事実がそうさせてくれませんよ。

しかし、一体誰がこのバケモノを殺ったんだ?しかもこんなとこに放置するなんて……

コレの処理はどうか私に任せてください。

それは……

下手な処理をすれば、かえって危険が及ぶかもしれません。それにほら、恐魚を観察するいいチャンスでは?

……いいだろう。だが処理には俺も同伴させてもらう。

コイツの得体はまだ分かっちゃいねえ、もしかしたら血で仲間が引き寄せられる可能性もあるからな。

異論はありません。

よし、さあみんな、どいてくれ、この死体を運ばなくては――

……見た目よりも軽いな。よし、それでアマヤ、どこに行く?

ついて来て下さい。

さあお前ら、物珍しさに見てねえで、さっさと家に帰んな。

いやでも、裁判所に報告するんじゃ……ほかにバケモノがいたらどうするんだ?

裁判所なら必要ない。

でも――

いらないって言ってんだッ!!

ッ……

ティアゴさん。

……

まだ懲罰軍に介入してもらう必要はない、俺たちだけでなんとかする。

もし裁判所の連中がこんなモノを見ちまったら、それこそグラン・ファロはおちおち夜も眠れやしねえ、分かったかお前ら?

でも……いや……なんでもない。

行くぞ、アマヤ。
(ティアゴとアマヤが立ち去る)

あのままでいいのかよ?

ティアゴさんが裁判所を嫌ってるのはここ一日二日のことじゃないさ、だが懲罰軍がいない時に何かあったらどうする?誰が戦うんだ?

それに近頃はよそ者も多い。なのにティアゴさんは見て見ぬフリだ、もしあのよそ者たちがなにかしでかしたら……

やっぱり裁判所に知らせよう!懲罰軍にバレたら、それこそ言い訳の余地もないぞ!俺は異教徒なんかにされたくないからな!

……アマヤさんって……あの作家の……?

とりあえずAUSの面々にも伝えておこう……放っておいちゃいけない気がする。

礼拝堂ってばいつもこんな寂れてるの?あなたたちの神と信仰はどうしたのよ?

イベリア人の全員が全員、ラテラーノ教を信じてるわけじゃないですよ。Altyさん、この町は危険だ、ケルシー先生が到着する前に、ボクが君たちの安全を守ります。

だったらライブでもどうかしら?音楽は不安を掻き消してくれるわよ。

あはは、そういう意味じゃなくて……

まあまあ焦らないで、何が起こったのか当ててみようかしら。

えっ……

うーん……見えたわ……海の生き物、そうそう、あなたたちはそれを恐魚と呼んでいるのよね、初めて命名したのがイベリア人だったか、それともケルシーだかったかは一先ず置いておいて。

恐魚が一匹、乾いた空の下、人を寄せ付けない鱗をざわつかせている。ここは自分の住処じゃない、だって命が流れ出ちゃってるじゃないか、あの恐魚はそう思ってる。

……そうだ!あの恐魚って、あの高い彫刻に吊る下げられて、歌ってたんじゃない?一番流行りのロックを、違う?

……吊るされてはいませんでしたし、歌ってもいませんでしたよ。でもまあ、大体は合ってます。

意外ですね、Altyさん、もしかしてアーツですか?

死という概念はある種の歌みたいなものよ?私は死からそれを教わった。でもこの美学は生き物の種を超えてまで伝えられてない、大自然にとっては残念なことね。

あなたはどう思う?
(ケルシーが扉を開けて部屋に入ってくる)

だが幸いにして、生物種のすべてがその美学を必ずしも必要としてるわけではない。

け、ケルシー先生!どうして今まで一度も連絡を……

簡潔に言う、信頼を得るため、私は今もイベリア裁判所の監視下にいる。

時間が惜しい、重要な任務もまだ残っている。エリジウム、あの恐魚を運んでいった町民二名の監視を頼む、私はAltyと二人っきりで話がしたい。

……わかりました。

では通信機を渡しておきます、ボクのアーツなら先生はご存じですよね?ほかの人に配ってもらっても構いませんよ、えっと……その、協力者さんとかに。

分かった。

……先生が雑多な世辞を好まないのは分かっていますけど、それでも言わせてください――先生が無事で何よりです、ホッとしましたよ。

何かあったらいつでもこちらから報告しますので、じゃあ、行ってきます。
(エリジウムが扉を開けて部屋から出ていく)

……ああ、苦労をかけるな。

久しぶりね、ケルシー先生。

Alty。

わざわざここまで来てもらってすまない。君たちにとって、それなりのリスクもあっただろう。

イベリアに監視されてるってどうしちゃったのよ?あなたなら何とかならないの?

今は切羽詰まっている、それにイベリアで宗教の皮を被った恐怖が、私と裁判所上層部との邂逅を阻んでいるんだ。

あら……もしかしてお急ぎ中?

諸国は未だに我々がナニと臨むのかを理解していない。彼らは信じられないのだよ、強盛な時代と共にある雄大な大地がまさか静寂の中に消え果ることなどとな。

……私はその過程のすべてを見届けてきた、だから分かる。

それもそうね。

ほかのメンバーはどうした?

せっかくの旅行だから、自由にさせてるわ。欲しがってるものなら私が持ってる。

また、あの時みたいね。

もう海には何も思わなくなったわ……特にあの時、あなたから海に関する答えを得た時からね、先生。

あれから決断を下してくれてるといいのだが。

……私たちとの決断を語る前に、先生……ちょっと人情味が芽生えたんじゃないの?

例えるとそうね……挨拶の音声機能がついたX線装置とか?

……

あら、ごめんなさい、またなんか言っちゃったみたい。でもいいじゃない、あなただってもう慣れっこでしょ?

でも本当に珍しいことなのよ?だってもうあなたがあの世間を渡り歩くための普遍的な方法論――つまり“性格”を変えることはないと思ってたんだもの。

変わることならいつだってあるさ。

そ、じゃあ先生のプライベートへの深堀りもここまでにしおきますか……

……ヤツだ。ヤツがここにいる、しかもヤツだけじゃない、まだまだたくさんいる……海の気配だ、この町はいつの間にエーギル人がこんなに増えたんだ?

裁判所の謀だろう。

そうかもしれないな、今でもなお審問官たちの脳裏には、ヤツらの愚かな法が満たされていて、正義の執行へと駆り立てている……

それよりも、敵から逃れて、傷に包帯を巻く暇などあったのか?

……あるエーギル人が手当てをしてくれたんだ。

仲間か?

いいや……海好きのエーギル人なだけさ。

兄弟の遺体だが、どうする?

今はアマヤとティアゴの手にある、どうにかせねば。

弔ってやるためにも。

弔うは人の行いだ、我々のではない。

アマヤが言うには、我々は心の思うままに生きるべきらしい、純粋に憧れ、純粋な敬う、あの愚かな審問官どもがヤツらの信条を敬うように。

それだと我々も同じくして愚かになるのでは?

愚かとは我々が未だに捨てきれていない天性だ。我々はまだ愚かにはなっていないさ。

詭弁だな。

……否定はしない。だが君はみすみす、我ら兄弟の遺体が陸の畜生どもに荒らされるとこを見てやれるのか?

……

我々はいま陸にいる、使者の導きもない、だから自ら海への抱擁の手段を探さなければならない。

だがその前に……我らの兄弟を葬って、弔ってやろう。我々はどんな無為な死でも悲しむべきなのだから。

……この生き物を軽々しく殺せる人物は一体誰なのでしょうね、ティアゴさん?

あ?

もし四五名の懲罰軍が取り掛かっていれば、あるいは裁きの火を灯すランタンによるものであれば、疑うこともないでしょうが。

しかし……この憐れな恐魚、死体に傷が見えます。

噂に聞く大審問官たちがいかにして戦うか、私は見たことがありません。しかし、イベリアでこのようなことができるのも、彼らだけでしょう。

そんなバカな!誰もグラン・ファロで審問官などを見てないぞ!

ですけれど人の往来が極めて少ないこの町で、こうも立て続けによそ者が訪れてきたのは、すべて裁判所がぞんざいだから、ではないですか?

それは……

懲罰軍なら容易く人の目につくことでしょう、しかし審問官はどうです?もし彼らが装いを変え、剣とランタンを隠した場合、私たちでは見つけられるのでしょうか?

……

……つまり、審問官が紛れ込んでいるってことか?あのよそ者の中に?

おそらくは。

……ちょっと外に出る。

ティアゴさん!

あなたも理解してるはずです、ほとんどの住民たちが……審問官にこの恐魚を駆逐してもらいたいと。

分かってる、分かってるさ!俺だって謂れもなく他人を憎んだりはしねえ、だがな……審問官は別だ。
(ティアゴが扉を開け部屋から出ていく)

……はぁ。
アマヤは優しくこの恐魚の死体を撫でる、悲惨とまでは及ばない死を、この生き物は迎えた。
人の基準から見れば、この生き物は異形で、恐ろしく映る。だが別の角度から見ればどうだろうか?命の法廷はいかにしてこの美しい生き物を目に入れるだろうか?
アマヤは考えるのをやめた。この酒場は誰一人いない、少なくともそう見える、ティアゴもアマヤもそう思っていた。
しかし影が蠢く、ナニかが陰から姿を現した。微弱な光によって、その姿の輪郭が簡潔に映し出される。
人だ。エーギル人だ。

……あなたの仕業ですか?

(エーギル語)それについてはどうでもいい。

懲罰軍には見えませんが……

(エーギル語)お前たちが俺を騙すことなど無理な話だ。

あなた、エーギル人なんですか?ならなおさら審問官でもありませんね。

(エーギル語)静寂とは、この海の最も恐ろしい騒音だ。二度も耐えられん、誰だってそうさ。

何を言ってるのかまったく理解できません、はやくここから出ていって――

――(エーギル語)サルヴィエントの司祭が死んだ。

……

(エーギル語)俺の耐え性はそこまで強くないぞ?お前が思ってるよりはな。

……

(エーギル語)生きたアビサルハンターをお目にかかれるとは思いもしませんでした。

審問官だと……ありえない、ここに審問官がいるわけない……
(エリジウムが近寄ってくる)

ティアゴさん!さっきは――

……

ティアゴさん?

……さっさとこの町から出て行きな、お前も、お前の待ち人も。

お前はいいヤツだ、見てわかる、ジョディからもお前のことは聞かされてる、だが……

だがナニかがこの町に潜んでいやがる、何もかもがおかしいんだ……いや、あれ以来イベリアはおかしくなっちまってはいるが。

……分かりました、今すぐ出て行きます。

でも、さきほど礼拝堂の前で――

なあ教えてくれ、お前は裁判所の者なのか?ジョディに近づいてるのはそいつを攫うためなのか?

ティアゴさん?

俺を騙してるってんなら、こっちもそれなりに手を出させてもらうぞ、よそ者。

……裁判所の者ではありません。知っての通り、もしエーギル人を攫いにきたのなら、あんなに待つ必要なんてあります?

――

――そうさ、ただの恐魚じゃねえか、ああ違いねえ。ここは海辺だ、俺だって似たようなことを見てきたじゃねえか、十数年前に。

すまなかったな、よそ者、お前とは関係ねえことだ。

ティアゴ町長、ボクなら町の問題を片付ける事が出来ます。

お前がか?手出しは必要ねえさ……

ジョディが危険になってもですか?

……

……誰もいない?なぜアマヤもティアゴもここにいないんだ……?

――!

ヤツの匂いだ!

忌々しいエーギル人め、アマヤを連れ去ったのか!?なんてことを――

――いや違う。アマヤは戦えない、きっと大丈夫なはずだ……

兄弟の遺体だ、ここにあったぞ。

……

……どうする?

連れて行こう、こんな腐敗臭の染まった家屋では棺にも似合わない。

後で……彼に相応しい拠り所を探してやろう。見たまえ、死とて彼の飼い慣らされた下僕に過ぎない。あのエーギル人の人殺しには理解できないことさ。

行こう。

うーん……言い換えると、私たちあれかしら、保険ってやつ?

君たちが海に帰りたくないことは理解してる、あの異形と敵対することも。

君たちはこの海から生まれた、そして強い。だがいくら君たちが本来の姿に戻っても、あの泥土から逃れることはできない。

えっ、そんなにヤバいの?

君が想像するよりもよっぽど、な。

でもまあ正直に言って……私たちはあんまり気にしてないわ、私たちはただ自分たちのやりたいことをしたいだけだから。この大地にいる大勢の人も、そう考えてるんじゃない?

もしシーボーンが音楽を理解し、かつ災いがテラの大地に降臨しても、君たちは観衆には困らないだろうな。

アイツらは人類よりも完璧な存在よ、抗えない物事なんてない。もう数百年もすれば、もしかしたら源石まで適応しちゃったりして。

知ってるさ。

……それで、あなたはどうなの、先生?

私たち、エーギル人、恐魚、シーボーン――そして海の奥深くに潜んでる、あの哀れな同族たち――

――あなたにとってどういう違いがあるのかしら?

君たちの誕生は遅い。だから色々と分からないことも多いだろう。

Frostが深い断層から目を覚ました時、彼女が真っ先に考えたことはあの異形とバケモノたちから遠ざかることだったわ。

海の中じゃ交流できる同族はいないし、かといって陸にいるのも大概は姿形を隠して、大地に帰属してる。まあ音楽があったおかげで、孤独は紛らわせられたけど。

何もかも無事に終われば、君たちとも色々と語り明かしたいものだな。

それに私も、もう君たちを巻き込みたくはない……イベリアとエーギルの計画に。

どうして?てっきり切羽詰まって私たちにも助けてもらいたいと思っていたんだけど。

私とエーギルはもう長い間、関係を築いていない。それに潮汐が騒々しい、有限な情報が私の推測を妨げている。

この厄災の真の起源はまだ突き止めていない、可能性だって推測できていないままだ。

だから最悪な場合、君たちだって……ん、どうやら招かれざる客が来てしまったようだ。

……え?

まさかもう白昼堂々と町に現れるようになったのかしら?
誰かが扉を叩いている。
ケルシーは静かに礼拝堂の門に目を向ける。その重厚な扉は幾度となく騒乱を経てきた、そこに刻まれた傷痕がそれを物語っている。
彼女は扉の外にナニが待っているのかを知っている。だがまさか、アビサルの教徒がこうも大胆不敵になったとは思いもよらなかった。
もしかすれば……

……

よそ者だ。怪しい匂い、あの怪しいエーギル人からだ。
二人の邪教徒が礼拝堂に足を踏み入れた。かつて信仰されていたこのラテラーノの教会は、顔を隠した者たちを迎え入れる。
彼らの懐には、彼らの“兄弟”、恐魚が一匹――あるいは人に付けられた名称などかなぐり捨てて、ただの死した命が横たわっていた。

彼らが抱えてるあれって……

恐魚だ。だが戦う意志はないようだな。

……
兄弟を抱えた邪教徒たちはケルシーを横切る、まるでこの邪魔者二人など眼中にないかのように、振り返りもせず。
彼は礼拝堂の扉から真っすぐ進み、殉教の深淵へとたどり着いた。

(片言なエーギル語)兄弟、ああ兄弟。言葉を聞きたまえ。

(片言なエーギル語)我々のせいで君を不測の事態へ陥れてしまった、我々の情けなさで君を海へ還してやれなかった。

(片言なエーギル語)どうか許してくれ、兄弟。君の声なら聞こえているさ。

(片言なエーギル語)世の人々は死が生の終着点と考えている、だが命の一個体としての意義を超越した後、その死すらも非力なものなのだと、我々は理解した。
彼は兄弟の遺体を地面に置き、息を吸い、両膝を跪かせ、目に悲しみを表した。

(片言なエーギル語)我らが海へ戻るまで、私が君の棺となろう。そして君を深海へと帰らせよう。

(片言なエーギル語)さあ、兄弟、君の眠りに祝福を。我らは共にあるのだ。
口からタンパク質を摂取するのはある種の摂食行為だ、だが彼はなにも自分の兄弟を食らおうとしているのではない。
彼はもう一つ、原始的な方法で一つになろうとしていた。
腹を割き、文字通り“取り入れる”ことで。

あがッ、あああああ――!

彼は一体なにをやってるの?

――同化だ、恐魚の身体の一部を無理やり自分の身体に埋め込む、一番簡単なやり方だ。

私たちで止めたほうがいいんじゃない?なんか気持ち悪いし、なによりナンセンスだわ。

止めるさ。だが私たちではない。
(寡黙な信徒が扉を開けて部屋に入ってくる)

――!フアン!

ハァハァ……なんだ……まだ……生の感覚が……それで何の用だ?

裁判所だ!

なっ……ぐげッ、ぼへッ……
(聖徒カルメンが近寄ってくる)

……醜いな。

荒れ果てた礼拝堂とて、ここはイベリア裁判所にとって神聖不可侵な場所だ。なのに貴様らは、堂々と我らの法と信条を冒涜するなど。

……本当に裁判所が紛れ込んでいたんだ、なのにあのエーギル人は一体どういうことなんだ!?

おいフアン!

貴様……!イベリア人め……おえッ……忌々しい!

ヤツを殺せ!

ぼはッ!

暗き海の恐魚は黄昏時の山々のように影を伸ばして躍起となる。腐肉の匂いを伴って、反逆者たちもまた嘲りながら新たな寄る辺の玉座を簒奪する。

サルヴィエントの次が、まさかこうも目立たぬ小さな町だとは。どうやら裁判所はアビサル教会の影響を侮っていたらしい、貴様らはどこからでも潜り込んできてしまう。

フアン!この審問官め――!

貴様らは私が見てきたどの深海の蘖よりも軟弱で非力だ、なにゆえこの平凡な町に姿を現す?

答えたまえ。