(クライデが駆け寄ってくる(
ごめん、遅れちゃった……
遅い!今日は選抜会だろ!あともう20分も遅れていたら、私たちは仲良く手を繋いで退場おさらばだったんだぞ!
ご、ごめん……
言い訳もなしか?
実は……今朝、お爺ちゃんがいなくなっちゃって……
いなくなった?
でも大したことじゃないよ、アーベントロートの街でお爺ちゃんを見つけたから。はやく目が覚めたから、街をぶらついてたって言ってたよ。
貴殿がここに来るまでずっとぶらついていたのか?
いやいや、今朝はロドスの事務所に行って入院手続きを済ませただけだよ。
貴殿の祖父がロドスの事務所で入院だと?
ヴィシェハイムにあるロドスの事務所は患者を受け入れられないほど小さい場所じゃなかったのか?
できなくはなかったんだよ、ハイビスカスさんって人がわざわざ自分で使うはずだったベッドを譲ってくれたんだ。それにお爺ちゃんの治療を最優先にしてくれるって約束してくれて。
フンッ……聞こえはいいが、実際は相当むしり取られたんじゃないのか?
ううん、お金なら昨日君が渡してくれた半分以下しか取られなかったよ?
ほう、なら時々祖父へお見舞いしに行くんだな。貴殿の見えていないところで色々と省いているかもしれん。
“省いている”?
所詮ヤツらは一般企業だ。低価格で受け入れてくれたとは言え、稼がなければならない以上、必ず受け入れた者にそのツケがついてくるはずだ。例えば、病院食の献立を減らしたり、あるいは投与する薬品を質の悪い安価なものに挿げ替えたり――
……それはないと思うよ。
なぜそう言える?
だって昨日午後、まだお代を払ってもないのに、お爺ちゃんに内服薬を渡してくれたからさ。
今朝なんか一緒に朝ご飯を食べようって呼び止めてくれたほどだったんだよ?まあ、時間がなかったからお断りしちゃったんだけどね。
そうなれば貴殿の祖父も街をうろつくわけだ。あんなわざとらしい演技を見てしまったら、居ても立ってもいられなくなる。
……分かったよ、定期的にお見舞いしに行くから。
ありがとうね。
何をだ?
だって、ボクとお爺ちゃんが損をするんじゃないかって心配してくれてたんでしょ?
……
この話はもういい。
昨日もらった譜面だが、どうだ?
そうだねぇ――
次、エーベンホルツさんとクライデさーん!
私たちの番だ、行こう。
今日の選抜会はツェルニー殿が直々に審査してくれる、気を抜くなよ。
ご機嫌麗しゅう、ツェルニーど……
堅苦しい挨拶なら結構だ、始めてくれ。
観客席が人で押し寄せていた申し込み期間とは違い、選抜会ではツェルニーと選抜に参加する奏者たち、そして数えるほどのスタッフしかいなかった。
もし昨日の観客たちがこの場にいたのなら、きっとその大半がこの短いセッションにも拍手を送ってくれていただろう。
だが今、最後の余韻が消え失せても、顔色を良くしないツェルニーがその場で鎮座するだけであった。
如何かな、ツェルニー殿?
……二人とも、あまり練習していないな?
仰る通りだ、しかし――
お互いがそれぞれの音を奏でていただけで、併せてる感覚がまるでなかった。
特に君、まったくチェロの感情表現について行っていない。ずっと自分のリズムに合わせてるだけで、むしろチェロの足を引っ張っている。
最後に併せていなければ、ここの一段は完璧に君のせいで台無しになっていただろう。
私のせいで、台無しに?
いや、そんなことは……もっとしっかり聞いて頂ければきっと……
ここに座っている私が、しっかり聞いていなかっただと?それは私の耳に問題があるとでも言いたいのか?
いえツェルニーさん、エーベンホルツが言いたいのはそういう意味ではなくて、彼はただ……
ただ、なんだね?所詮持て囃されてきた環境に甘えてきたんだろう。
甘えてきただと!?私のことをまったく知らないくせに、なぜそんなことが言えるんだ!発言の撤回をもと――
(小声)エーベン!
ッ……
クライデ君ならまだ一考の余地はあるが、君はもう降りたほうがいい。次。
なんだと!?まさかこの私が彼にも――
――ツェルニーさん。
なんだね?
もしエーベンホルツが降りるのでしたら、ボクも今回のコンサートには辞退させて頂きます。
なぜ彼を庇うのだね?
色々と助けられましたから、ですので……
そうか、だがチェロ奏者が一人足りなくなったところで、コンサートにはなんら支障はない。ましてや冷やかしに来る貴族が減るとなれば、願ってもないことだ。
話は以上だ、次!
Scheiße!ピアノと作曲が少しできるだけじゃないか!この私を誰だと思っているのだ!
落ち着いてってば。
落ち着いていられるものか!なんなんだあの態度は!それに“持て囃されてきた環境に甘えてきた”だと?何も分からないくせに!
きっと何かの誤解だって……セッションだってそんなに悪くはなかったんだし……
そりゃそうさ、悪くないのは貴殿だけだ、私じゃない!ヤツがなんて言ったか忘れたのか?“クライデなら一考の余地はあるが、君は降りろ”だぞ!
早めにツェルニーさんに謝りに行ったほうがいいと思うよ……もしかしたらもう一回チャンスをくれるかもしれないし。
チャンスならくれるかもしれんが、ヤツに頭を下げるなんざこっちから願い下げだ!
でも、謝る以外に方法が……
(深呼吸)
とにかく、貴殿はもう帰ってくれ。私も帰って方法を考える。
どうしようもなかった時に、またツェルニーのところに行こう。
うん……わかった。
“持て囃されてきた”だと……
音楽家を名乗っているくせに何も分かっちゃいない、何もかもがデタラメだ……
ッ……!
(また頭痛が……)
役立たずの贋作め……
ッ!
お前が吹く笛の音はとんだ耳障りだ、その身に悪病を持つ下賤な平民ですら嫌気を差すほどとはな……
黙れェ!!
……
(そそっかしい貴族が近寄ってくる)
そこの貴方、面識はないが、よければ手を貸そうか?
……必要はない、ご厚意に感謝する。
そうか……
(この方は!?やはりあの方の――)
……では失礼させてもらうよ。
ところで、そちらも体調がよろしくないようにお見受けするが?
え?なっ――何を言っているんだい?そ、そんなことはないさ。
そうか?だが顔色が悪いぞ?
そんなことはないよ。はは、あはははは……
では、今度こそ失礼させてもらうよ……
(そそっかしい貴族が立ち去る)
また頭痛ですか?
ああ、でももう大丈夫だ。
……本当に申し訳ございません。
急にどうした?
本日の選抜会で窮屈な思いをさせてしまっただけでなく、頭痛まで発作を引き起こしてしまうとは……こちらの配慮が至りませんでした、本当に申し訳ございません。
配慮が至らなかった?
なぜそれを知って――いや、知って当然か。
ええ、私はこれでもあのコンサートのスポンサーの一人ですので、コンサートで起こったことならすぐ私の耳に届く形となっております、エーベンホルツ様。
……
ご心配は無用です、大したことではありませんので。
実際、ツェルニーさんは相当貴方様がたを評価しておりましたよ、そのためにわざわざあの『朝と夕暮れ』を選曲されたのですから。
それは本当か?
ええ、彼の人となりなら多少は理解しております、少々面識があるので。
今のツェルニーさんは著名な音楽家である上に、感染された身です、それゆえ少々気が立っていたのでしょう。どうか大目に見てやってくださいませ。
……フンッ。
今回のコンサートに関しましては私もそれなりの発言権を有しておりますので、ツェルニーさんのことは私にお任せください。エーベンホルツ様におかれましては、安心してクライデさんと練習に集中して頂ければと思います。
発言権を行使するよりも、もう一度選抜会をやらせて頂きたいのが私の本心だ。午前のあれは、単に本領を発揮できなかったに過ぎない。
ええ、お心のままに。
とはいえ、あまり気に留めることでもございません。
お茶は如何です?今日はオレンジ風味の紅茶をご用意致しました、頭痛に効くとのことです。
頂こう。
如何です?
とてもいい香りだな、感謝するよ。
では、少々話題を変えましょう……
お察しの通り、私が貴方様をヴィシェハイムにある感染者居住区域のコンサートへ招待したのは、他意があったがためです。
……
驚かれないのですね。
他人に利用されるのは、もう慣れているからな。
むしろ他意がないのほうが驚きだ。
であれば、単刀直入に申し上げます。
私には、ずっと昔から段取りを進めてきた計画がございます。
もしその計画に従って頂けるのでしたら、貴方様をあの“ヴェルトリッヒェ・メロディエン”から解放して差し上げましょう。
(エーベンホルツが手に持ったカップを落とす)
――なんだとッ!?
ヴェルトリッヘ・メロディエン、それは貴方様を苛む数々の不幸の根源にして、貴方様がウルティカ伯に封ぜられた法的根拠が一つ、そしてあのお方の――
ヴェルトリッヒェ・メロディエンの説明なら結構だ、ずっと脳内で私を苦しめているモノの説明など聞きたくもない。
それよりも具体的な計画内容を教えてくれ。
簡単なものでございます、知って間もないあのクライデさんと共にツェルニーさんのコンサートでデュエットする、それだけです。
……
今なら最大限の良心をもって、冗談として聞き流してあげよう、ゲルトルート殿。本当のことを教えてくれ。
断じて冗談ではございません。
あのクライデさんも貴方様と同じように、その身にメロディエンを宿いているのです。
彼が、ヴェルトリッヒェ・メロディエンを?
私が宿したメロディエンが最後であると、女帝陛下が仰っていたではないか!
それはつまり、両陛下とてご存じない事象もあるということです。それにこういったことはそれほど珍しくもありません。
……
お二人が接近し、その身に宿るメロディエンに“共鳴”を起こさせ、お二人のアーツを同時に強化するまでが、私の計画の第一段階にございます。
お二人のアーツを強化するほかにも、共鳴自体がある種の巨大なエネルギー体でございます。そのエネルギーはお二人がセッションした時にさらに増強される仕組みとなっております。
それを正しく扱い、私がその共鳴のエネルギーを利用して、貴方様に宿るメロディエンをもう片方の彼に移して差し上げましょう。
移した場合、クライデはどうなるんだ?
ご心配はいりません、適切に処置致しますので。
なぜよりによってツェルニーのコンサートなんだ?そこだけがどうしても理解できない。
私がクライデの家でセッションして、貴殿が共鳴で私のメロディエンを彼に移せばいいのでは?
共鳴を移す行為というのはある種精巧な芸術のようなものなのです。アーベントロートザールにいなければ、私一人の力だけでは移せるはずもありますまい。
アーベントロートザール?
ご存じないのですか?アーベントロートザールは巫王陛下の監修のもとに建てられたモノなのですよ。
……聞いたことがないな。
巫王陛下が統治される末期の時期に建てられたものですので、その建築素材や構造も陛下がおられた塔と似通ったところが多々あります。
本来ならあの建物は、感染者居住区域のコンサートホールではなく、陛下の敵どもに身の毛もよだつほどの悪夢を見せるアーツの要塞だったのです。
大変恐れ多く存じますが、どうしてもアーベントロートザールの力で共鳴を移す必要があるのです、貴方様の内に宿るヴェルトリッヘ・メロディエンを除去するためにも。
これが私の計画の具体的な内容です、なにか疑問はございますか?
……
除去した後、貴方様にはしばらくの間お隠れになって頂く必要がございます、クライデさんやその他諸々の瑣末な仕事はどうぞ私にお任せください。
そして頃合いを見計らって頂ければ、貴方様はようやく耐え難い貴族の身分から脱却し、晴れて自由を得た庶民に生まれ変わるでしょう。
無論、誰もが喉から手が出るほどの自由をお求めにならないのでしたら、無理強いは致しません。計画の内容を知ったから貴方様をどうこうするつもりもございませんので、どうぞご安心くださいませ。
ヴィシェハイムでコンサートをやり遂げるか、あるいはこのまますぐウルティカへ戻られるか、どちらでも構いません。
どちらでも構わない、か……
ヴェルトリッヘ・メロディエンを利用しようとするのではなく、除去しようとしてくれる人は貴殿が初めてだ。
見返りはなんだ?
強力な後ろ盾を。
後ろ盾?
伯爵とは言え、私はただのマリオネットだ。自分の封領にすら手を出せない私に後ろ盾など……
それに言ったではないか、計画が成功した暁には、私は晴れてただの庶民に生まれ変わるのだと。なおさら後ろ盾など得られるはずもないではないか?
封領も、軍も、ましてやアーツも……それらはさして重要ではございません。
重要なのは、ウルティカ伯が失踪し、あろうことか死亡宣告までさせられてしまったことにございます。
お考えになられてみてください、頃合いを見計らって死んでいたはずのウルティカ伯を復活させれば、リターニアの世間はどう騒ぐことでしょう?
“ウルティカ伯の復活”、これを行うにはどうしても貴方様が必要不可欠なのです。
……そうか。
少し……一人で考える時間を頂きたい、ゲルトルート殿。
もちろんでございます。
どこかへお出かけになられるのでしたら、何なりと外で待機してる召使たちにお申しつけくださいませ。
……では。
はい、最大限ご自分のためになる回答をお待ちしております。
(エーベンホルツが立ち去った後に電話が鳴る)
はい。
クライデがロドスと接触した、随時目を離さぬように。
必要とあれば、ロドスに干渉しても構わない。だが直接的な武力行使は禁止だ、藪なんぞ突くもんじゃない。
承知致しました。
ところで、ウルティカ伯の状況に関してご報告したいことが……
必要ない、すでにこちらも把握している。
これは君自身の計画であろう。そんな些細なことまでいちいち報告しないと気が済まぬのなら、いっそのこと直属の指導役をそちらに送っても構わないのだぞ?
……申し訳ありません、配慮が足りておりませんでした。では、失礼致します。
(ゲルトルートが電話を置く)
エーベンホルツのことであれば問題はない、しかしクライデがロドス接近したとなれば……
……
ああ、忘れていたわ。身近にいい素材があったじゃない。