誰だ!?
(ラッへマンが走り去る)
だから振り向かないでって言ったじゃないですか、逃げられちまいましたよ。
質問に答えろ!
どうどう、まあまあ落ち着いて。
身を明かしちゃあちと厄介でしてね、だから密偵とでも思ってくださいな。ベルクです、よろしく。
なぜ……こんなタイミングで現れたんだ?貴殿のせいで逃げられてしまったではないか!
下水道から別の出口に出るにはそれなりに時間がかかります、放っておいても問題はないですよ。
それに分かったもんじゃないですよ?俺に芝居を打ってる可能性だってあるんだ。状況が不利と見て、下水道に入る前にあいつを呼び止めたんじゃないんです?
私とヤツが芝居をするはずがないだろ!
この前ゲルトルートんとこに行ったのは脅されてたからって言いたいんですかい?そんな冗談通じませんよ。
……
あいつなんかより貴方のほうが価値はぐんと上なんです、ウルティカ伯。
私を止めようたって無駄だぞ。
確かに荒事になったら貴方には敵わないでしょうね、けどオススメはしませんよ?
ほらこれ、女帝陛下からの勅旨、疑ってんなら見てくれても構いません。
……フッ、こんなもの、六歳の頃からもうすでに見慣れているさ。
俺をとやかく言うのは結構ですが、くれぐれも女帝陛下に対してだけは言葉を慎んでくださいね。
慎めだと?誰に口を利いているのだ?密偵であるにも関わらず、捕まえる人を間違えた貴様には責任とやらを取ってもらわねばならないな。
はぁ……まだご自分の立場が分かっていないようですね、我らが親愛なるウルティカ伯。
まあいいや、ここで時間を費やしても埒が明かない、ひとまず俺について来て下さい。
どこに行くんだ?
貴方が向かうべき場所ですよ。まあ心配しないでください、容疑者には各ご身分に沿った留置所を設けてられていますから、貴方には最上級のおもてなしでお迎えしますよ。
ベルク殿、と言ったな。
なんです、命乞いですかい?それとも賄賂かな?後者だったら喜んでお受け取りしますけど。
貴殿に金をやれば逃がしてくれるとは甚だ信じがたい。金をやってもどの道捕えられてしまう感じがするのは錯覚だろうか?
ご明察。
貴殿とこうして話していると愉快にすら思い始めてきたよ、ベルク殿。貴殿は私のよく知るあのウルティカの地を思い起こさせる、そこにいる連中はどいつもこいつも貴殿と同じように“高尚な人間”でな。
それは光栄の至れり。
だが、あの人が下水道で何を企んでいるのかがどうして気になってしまうものだ。
けど貴方は俺が見てる間にあいつを呼び止めたじゃありませんか。
そうだな、本当なら地上でこの件を片付けてやりたかったのだが、まったく悔やむばかりだよ。
私のとある伯爵代理は悪趣味な話を集めるのが好きでな。飯が喉も通らないほどの話の中で、下水道での話が大のお気に入りなんだ。
喉にメシが通らないってんなら、コーヒーでも飲んで箸休めするのは如何です?
私もできれば貴殿について行きたいものなのだが、生憎ヤツのほうに興味があってな、不本意だが私も下水道に潜らせてもらうよ。
悪く思わないでくれ、これも全部貴殿のせいだからな、ベルク殿。
ずっと私にアーツロッドを向けて貰っても構わない、逃げはしないさ。だから行かせてくれないか?
……
先に言っておくが、俺の目から消えれば、どんな言い訳をしたってきつ~いお仕置きが待っていますからね。
どういうお仕置きだ?私の首でも刎ねるのか?
一番優しいやつでも陞爵ですかね。どれだけ清廉潔白だったとしても、金輪際ウルティカの塔に足を踏み入ることができなくなってしまいますよ。
それはいい、却って足が軽くなった気がしてきたぞ。
やれやれ……
ともかく、下水道に潜りたいのならお好きにどうぞ。
俺もご同伴させて頂きますけどね。
ハイビスカスちゃん、気持ちは分かるけどね、先生にあんな口を利いちゃダメだよ。
でもツェルニーさんは……
先生だって色々と言いたいことがあるさ、自分じゃ口が裂けても言わないけどね。だからあたしが教えてあげるよ。
……お願いします。
アーベントロートって名前の由来は知ってるかい?
いえ。
昔先生がこんなことを言っていたさ。
「日が暮れるからこそ、夕焼けは尊いものなのだ。もし夜に終わりがなければ、一体日暮れの暖かさよりも目と心が奪われるものはあるのだろうか?」ってね。
確かに聞こえは素晴らしいですけど、でも……
おーい、そこのお二人さーん――ありゃ、ウルスラの姐さんじゃないか、それにハイビスカスまで。
立て込む話かい?だったらこっちの席に座りなよ、ほらほら、こっちおいで!
なんだいハイビスカス、まだそんなしかめっ面をしてるのかい?何があったのか教えてくれないか?
うちの料理が健康じゃないって言うんなら、ほれ!炭酸飲料でも飲んでリラックスしな!
いえそんな、お邪魔するわけには――
じゃ、お言葉に甘えさせてもらうよ。
姐さん、ハイビスカスが悲しそうな顔をしてるけどどうしたんだい?誰かと喧嘩しちまったとか?
いや~ね~、喧嘩なんかじゃないわよ。
ちょっとアーベントロートの昔話を教えてた最中さ。
アーベントロートの昔話だって?ヘッ、それなら誰よりもアーベントロートを知り尽くしてるこのわしに任せろ。
ホラなんか吹いちゃいないぞ?姐さんの知らないことだって知っているからな。
元々ここアーベントロートは、感染者の居住区域なんかじゃなかったのさ、本来はヴィシェハイムの工業区画の一つでな――
今はこんな小さな露店を構えてるジジイでしかないわしだが、当時は何百人もの労働者のメシを作ってやっていたものさ。
工業区画……じゃあ、ここが感染者居住区域になったのは、その工業汚染による鉱石病が伝播したからなんですか?
確かに感染者はたくさん出たよ。でも昔のリターニアは、こんな感染者専用の居住区域なんてものはなかったよ……まあいいや、この際全部教えてやろう。
ある年のことだった、先の陛下のツルの一声で、ヴィシェハイムにはそれはそれは大層立派なザールが建てられた……それがアーベントロートザールなんだが、当時はそんな名前じゃなかったんだよ。
先の陛下って……どの陛下のことなんですか?
そこは察してもらえないかい?あたしらもそう気安く口に出せないもんでね……
“先の”って言うぐらいだから、それで分かってもらえると助かるんだけど……
……分かりました。
あのザールが出来た頃は、まだ先の陛下はご存命でな、だから誰も口出しできなかったさ。
けどその後すぐにお隠れになられてしまったんだが、ヴィシェハイムを受け継いだシュトレッロ伯はそのザールが大嫌いでね。
それはもしかして、嫌っていたのではなく……女帝陛下に忠誠心を示そうと焦っていたからなんじゃないでしょうか?
シーッ!その冗談はシャレにならんぞ!
とまあ、その数年後にまた上から指示が出てな、感染者への待遇を大幅に改善するってヤツだ。そんで当時の伯爵が勢いでザールを工業区画に組み込んで、感染者居住区域が区画整理されたってわけさ。
それより前は、リターニアのどこを探しても“感染者居住区域”なんてもんはなかったよ。
当時の伯爵って……今のゲルトルート伯じゃないのですか?
彼女の父親――いや兄だったかな……まあ忘れちまったが、とにかく彼女じゃない。
当時の伯爵はここの区画を丸ごと感染者の区域として整理してくれたんだが、わしらの生死は眼中になかったみたいでさ、区画にあった工場なりなんなりの施設を尽くバラしちまってね……
ありゃ明らか生きるも死ぬも勝手にしろって言ってるようなもんだったよ。
まあそんなこんなで、貴族たちがここを“アーベントロート”って言うからここは“アーベントロート”になったし、あのザールも“アーベントロートザール”って呼ばれるようになったわけだ。
夕焼けのように、もう今すぐにでも沈んでしまいそうな連中であるわしらを指す言葉、それが“アーベントロート”さ。
そんなの――あまりにも酷すぎます。
酷いよなぁ。
でもあの頃を思い返すと、なかなかお似合いな名前だったよ。
生きるために、みんな必死に藻掻いていたさ。少しでも太陽を地平線に留まらせるためにな。
店を開いたり、使い走りにされたり、ほかの区画にいる金持ち連中のヒットマンをやったり……いや~、あの頃は本当に滅茶苦茶だったよ。
それからして、あのツェルニーさんが立ち上がったってわけさ。
立ち上がった、ですか?
ああそうさ。最初の頃のツェルニーさんは、まったく無名の音楽家だったんだよ。
何個も曲を出すも、感染者だからって理由だけで、匿名で出さざるを得なかったのさ。
あの頃からいい曲を作っていたよ、それで塔にいる貴族連中の注目を引いていたんだが、ツェルニーさんがアーベントロートの人間と知るや否や、すぐ掌返して態度を変えたもんだ。
まあ、彼が『朝と夕暮れ』って曲を作るまではな。
『朝と夕暮れ』なら姐さんのほうが詳しいから、彼女に聞きな。
そうなんですか、ウルスラさん?
フフッ、そんな難しい話でもないさね。
むかし先生にピアノを教えていた教師に娘さんがいてね、先生とは大の仲良しだったのよ。
仲はいいし、実力も互角だし、互いが互いを目指すいいライバルでもあったさ。
けど、先生が二十歳になった年、その娘さんが亡くなってしまってね……
……
すごいショックを受けていたわ、あの頃の先生は。まったく喋らないし、日に日に痩せてっていくしで。
そんで突然ある日、あたしらにある楽譜を見せて、自分で作った曲だがこればかりは実名で発表するって言い出したのさ。
あの頃はもうすでに――ゲルトルートが伯爵様になっていた時期だったよ。
なぜだか知らないけど、伯爵様が先生のところに行ってね。
先生のスポンサーになっただけでなく、先生の考えまで全力で支持し出したのよ。そしてあちこちに金を渡したおかげで、『朝と夕暮れ』には先生の名前が載るようになり、アーベントロートから世に出られたってわけ。
そんな裏話があったんですね。
ようやく理解した気がします、ツェルニーさんの言っていた“意味”を……
『朝と夕暮れ』の出来があまりにも素晴らしかったからね、塔にいる貴族たちも流石にこれ以上ないもの扱いするわけにもいかず、渋々先生の才能を認め始めたのよ。
それでツェルニーさんはアーベントロートにいる音楽の才能を持つ人たちへの支援を始めたってわけですか?
ああそうさ、なにせここはリターニアだからな、音楽家だけは欠かせないよ!まあわしに音楽をやれる才能はないが……
何を言ってるのよ、あんただって十分すごいわよ。
数年前までアコーディオンを弾きながら、露店で売り文句を歌っていたじゃない。
ははは、昔工場で連中にメシの時間を知らせるためにアコーディオンを弾いてたおかげさ、声を出すよりも色々と便利なんだよ。
まあともあれ、音楽がアーベントロートで欠かせないものになってから、ここも危機から抜け出せたわ。
作曲に演奏、教育に楽器製造……
まだまだ匿名で曲を出してる人もいるし、アーベントロートから出られない音楽家がたくさんいるけど、音楽がもたらしてくれたお金で、ようやくアーベントロートも地に足をつくことができたってわけよ。
でもそれから暫くしないうちに、先生と伯爵様が大喧嘩しちゃってねぇ。
大喧嘩?
思想が異なるからとかなんとかで……とにかくあたしには分からないね。
スポンサーは続けられたけど、あれから二人の交流はめっきり減ってしまったよ。
(無線音)
アンダンテさん?急にどうしたんですか?
えっ、クライデさんのお爺様が――いなくなった?
はい、今すぐ戻りますね!
(ハイビスカスが無線を切り、走り去る)
(ドアベルが鳴る音)
ありがとうございました!
はいよ!どこから合わないところがあったらまた持ってきてね、すぐ合わせるから!
(もうこんな夜遅くになっちゃった……エーベンもお家に帰ってるかな?)
あれ、なんだろあれ……
オリジムシ?