人影が二人、仄暗くも広々とした下水道の中を進む。
騒がしく流れる水の音が、純粋な静寂よりも却って陰鬱な気配を漂わせていた。
おっと、ここは右に曲がってください。
道に詳しいんだな。
そりゃもちろん。
それも密偵で培った基本か?
基本中の基本ですよ。
なら貴殿はアーベントロートで何年も密偵を続けてきたのだろうな。
お近づきになりたくなったんですかい?
いいや、気になってな。
まっ、機密事項でさ、残念ながらそれは言えません。
フンッ、けち臭い。
……
どうしたんです?進んでください?
何かいる。
そんな常套な小芝居で逃げようたって無駄ですよ。
いや違うんだ――そこを見ろ、何かが動いている。
ベルクは武器をウルティカ伯の背中に宛がったまま、彼の指さす方向に目を向ける。
ただのオリジムシじゃないですか、ムシを見たのも初めてで?
あれは本当に……ただのオリジムシか?
ウルティカ伯たる者が、たかがオリジムシに怯えて足すら動かなくなるとは、御見それしましたよ、まったく。
いや、やはり何か様子がおかしいような……
いいから、さっさと進め!
……わ、分かった。
おい、ちょっと待て。
なんだこのムシの数は……
……普通じゃ絶対ありえない数だ!こりゃ上に吹き出たら一大事だぞ!
逃げるぞ!はやく!
おい、何を――
いいからはやくしろ!
ベルクはエーベンホルツの腕を力いっぱい掴み、二人は下水道の中を逃げていった。
ハァ、ハァ……
なんでそんな、スラスラと下水道を走れるんだ……頭に、地図がまるごとインプットでもされているのか……?
俺を疑ってる暇があるなら、少しでも息を整えておいたほうがいいですよ。
う、疑ってるわけじゃ……ただ本当に、どの道もまったく、同じように見えるものだから……
休憩はもういいですかい?
いや、まだ休んで――
よし行くぞ!遅れるなよ!
(エーベンホルツ達が走り去る)
(激しい息継ぎ)
本当に、もう……ダメだ……
心配しないでください、ちょうど探す人も見つかったもんですし。
Guten Abend、ラッヘマンさん。
やあ、ベルク店長。
店長?
まったく、自分は何も憶えちゃいないのに、なんでもかんでも首を突っ込みやがって……ホント面倒を起こしてくれる。
そっちもそう思いますよね、ベルク店長?
ごもっともだ。
だが何よりも面倒を起こしたのはあんたのほうさ。
ここにいるオリジムシたちがあんたに刺激されて、今地上に向かっている。
分かってるはずだが、下水道にいるムシたちは有毒のガスを放出する。あんたがやったことはアーベントロートに毒ガステロを起こしたようなもんだ。
毒ガステロだと?私たちはなんともなかったじゃないか?
あのガスはもっぱら感染者に対して強い効果を発揮するんですよ、ウルティカ伯。
じゃあ、上にいる人たちは……ツェルニー殿も、ハイビスカスも……
まさかクライデも……!?
理解できて助かります。
そういうわけだラッヘマン、今すぐムシたちを鎮めろ、元通りにするんだ。さもないと今ここであんたを撃ち殺す、そういうお達しが出てるんでね。
それは無理な相談だ。
火災ってのは一人でも簡単に引き起こせるものだろ?だがいくらその人の首元にナイフを突き立てて消すように脅しても、火を消すことは無理な話さ。
こんなことをしてなんのメリットがあるんだ?
メリット?おいおい、そんなことも知らないで言ってるのか?
勿体ぶるな、さっさと教えろ。
“影から蟲は這い出て、意のままに滅びの前奏を吐き出す。”
これ以上言わんでも分かるだろ?
……その予言を叶えたところで、あんたらになんのメリットがあるって聞いてるんだ。
まあまあ、そういちいち気にしなさ――
(エーベンホルツがラッヘンマンを気絶させる)
なにやってるんだ!?口封じのつもりか!?
ただヤツを気絶させただけだ!いい加減目を見開いたらどうなんだ!
それで、あのムシたちをどうにかする方法はあるか?
あったらコイツと話なんかしていませんよ。
ならさっさと外に逃げるぞ、逃げ遅れたら一巻の終わりだ!
(鋭い眼光)
人ってのは見かけによらないもんですね、ウルティカ伯。
そうと決まれば、こいつは俺が担いでおくんで、貴方はしっかり俺のケツについてきてくだ――
待った、あれは――
ベルクが目を向けるその先に、エーベンホルツはそれを見た。
ラッヘマンが倒れた場所、その下水道の壁に、銀色に光るナニかがあった。
これは……鍵穴だ。
きっと中にオリジムシを操ってる装置なりなんなりがあるはずだ!どけ、私がこの壁を――
いや、まずは開けられないか試してみよう。
万が一中にある物まで吹き飛ばしたら、それこそ一巻の終わりですよ。
(ベルクが鍵穴の前に移動する)
どうだ、開けられそうか?
そこそこの難易度ですが、こんな鍵、俺にかかればどうってことありませんよ。
なら鍵を開けるついででも構わないから、私に予言の内容を教えてくれないか?
ありゃ、知らないんですかい?
……まあいいか、どうせもうそこら中に広まってるもんだし。
高い山嶺を超えて、悪魔が黄昏に踏み入る。
血に潜む病は隠れ、徐に死の蔓延を招き入る。
影から蟲は這い出て、意のままに滅びの前奏を吐き出す。
そしてフィナーレの合奏は止み、最後の太陽も災いに攫われていくだろう。これが予言の全文です。
……フィナーレ……災い?
ええ。
正直言って、今でも最後の一文が何を言ってるのかてんで分からなくてね。
それ以外の部分ならもう解析はできてるんですよ。
一段目はロドスのハイビスカスがアーベントロートへやってくること、二段目は鉱石病の潜伏現象が広がること……
そんなことが分かってきたのか?
おいおい、密偵をなんだと思ってるんです?
……
そんで知っての通り、三段目もついさっき叶えられた、残すは最後の一段だけ――
よし、開いた。
これは……
実験室!?
(礼儀正しい感染者が部屋に入ってくる)
ああ、あなたですか。司会をして頂いて本当に助か――
ツェルニーさん、外がとんでもないことになってます!
下水道からガスを出すオリジムシたちがわらわらと……!すでに大勢の人がそのガスにやられて、もう町が滅茶苦茶です!
これを予言として見ている人たちも大勢います、アーベントロートは今やパニック状態ですよ!
一体何があったんだ?
パニックはともかく、ガスにやられた人たちは今どうなっていますか?
酷い状況ですよ……特に近頃鉱石病の症状が改善した人たちが、急激に発作を起こしまして……
すでに各病院方面に連絡を入れたのですが、アーベントロートと聞くや否や、まったく動いてくれそうになくて……
動いてくれないだと!?
分かりました、今すぐ病院と交渉してきます。
でしたら再度電話しましょう、外は危険ですよ!
あなた方が電話しても動こうとしてくれなかったんですから、私が電話したところで結果は同じです。こうなった以上、本人があちらに出向くしかありません。
しかしコンサートはもう明日ですよ、万が一あなたまでガスにやられてしまったら……
コンサートを開いたところで、こんな訳の分からない事件で死傷者を出してしまった時に演奏を楽しんでもらえる人がいると思いますか?
そんなコンサートなど、こちらからゴメンだ!ましてや何も知らないフリを装って、自分を騙し、無理やり笑顔を引きつりながら音を弾くつもりは毛頭ない!
(悲鳴)
なんなのよこのオリジムシたちの数は!
くっさ!なんだこの匂いは……
ほら立って、アタシが支えるから、はやく逃げるわよ!
どうやら……予言が当たったようだな……
(神経質な感染者が倒れる)
こんのムシ風情が!近寄るんじゃないよ!
クラウゼ、クラウゼったら!はやく立って――うッ、ゲホゲホッ……
誰か!助けて!誰かァ!
(チェロの音)
チェロの音……ムシたちが音の聞こえてくる方向に向かっていってる?
ともあれ、助かったよ、見知らぬあんた!
ほらクラウゼ、立って、アタシの肩に手を回すんだよ……
……
ほら、アタシが支えてあげるから、はやく逃げるわよ!
(感染者達が走り去る)
(小声)どういたしまして。
クライデを中心に、チェロの音がアーベントロートの狭い街並みを縫っていく。
チェロの音色が届く場所で、オリジムシたちがこぞって向きを変えた。
毒ガスをまき散らすムシたちはチェロの音色に導かれるまま、あの暗い下水道に帰っていくのだと、半ば包囲された人たちはそう思った。
だがそれは間違っていた。
彼らの目が届く場所に限らず、それ以外の場所にいたオリジムシたちもこぞってクライデのいるところに向かっていったのだ。
ハァ、ハァ、ハァ……
やっと……外に出られた……
これから……どうするのだ?アーツでこのムシたちを残らず駆除するのか?
――何かがおかしい。
今度は一体なんだ?
ムシたちが同じ方向に向かっている。
これは……チェロの音?まさか!?
何をやっているんだ、クライデ!はやく止めないと――ゲホッ、ゲホゲホッ!
無駄ですよ、いくら叫んだって自分の喉と肺を潰すだけです。
手を貸せ!音のところに向かう!
だから叫んでも無駄ですって。
叫んだところであの音が止まるわけがないじゃないですか。まっ、俺だけ見てるってのも忍びないんでね、手は貸しますよ。
二人で道を開ける、クライデのところに行くぞ!
いや、俺は遠慮させてもらいますよ。
カフェに戻るのか?
ええ、だからここで道をこじ開けたらお別れです。
カフェに戻って、あの実験室にあったボロ紙を解析するんだな?
ならありがたく思うことだな、ヴェルトリッヒ・メロディエンの研究ノートはこの毒ガスにやられた被害者なんかよりもよっぽど興味が湧くものだぞ。
クライデのことは貴方がやらかしたことなんですから、自分でケツを拭いてくださいな。
それと、もしあの研究ノートと計画資料に少しでも貴方が書き記した痕跡を見つかった暁には、覚悟してもらいますからね。
フッ、それは楽しみだな。
無駄話はここまでにしましょう。
三つ数える!合わせるぞ!