
頑張ってね、観客席で応援してるから!

でも……ずっと今日まで練習し続けてきたが、やはり自信がないというか……

ほらあの予言、合奏のことも言っていたじゃないか、だからもしかしたら私が……

もう、平気よ!昨日影響を受けた人たちだってもう治ったんだから、今日はきっと大丈夫よ!

こんな大勢の感染者と共にするのは初めてだ、願わくば私が評論するほどの価値があるコンサートにしてもらいたいものだね。

して、ツェルニー殿はもういらっしゃるのかな?

開催組織の者に聞いたところ、昨晩のオリジムシ騒動の影響を受けましたが、今日の出場を取り消すには至らなかったと。

フンッ……まあよかろう。

では先に会場へご案内致します。ツェルニーさんにおきmさいては後ほどお越し頂きますので。

それは本当かね?もしや我々が会場へ入った後に閉じ込めて、ツェルニー殿が来ることはないと宣うつもりじゃ――

ご安心を、そんなことはございません。ツェルニーさんなら少々風邪を引いてしまっただけですので、もう間もなくアーベントロートザールまでお越しくださいますかと……

あのジジイめ……あの資料がうっかり紛失するはずもないと思えば。

いや、ヤツの処分ならまた後だ。資料はどうだっていい、いま肝心なのはメロディエンの研究そのもの。

――なに、コンサート会場に向かっただと?

まあいい……好きにさせろ。
(ゲルトルートが近寄ってくる)

どうやら密偵の仕事も苦労なものですね。

フッ、俺を心配するより、まずは自分を心配したらどうなんです、ゲルトルート。

自分の領地内で巫王の残党を匿い、あまつさえ裏でメロディエンの研究に加担した、重罪ですよ?

ところでベルク殿、あなた方の記録の中で、私の父と兄はどのように死んだと記載されていますか?非常に気になったところでして。

話を逸らすな。

残党たちと密接な関係があるのですが。

……

あんたの親父は十五年前、メロディエンの研究を匿っていたんだが、俺たちに見つかってしまった後、裏で糸を操っていた人を供述しようとする前に殺された。

もしこの内容も知っていたのなら、罪を重ねて重くするだけですよ、シュトレッロ伯。

フッ、私が知らないフリをしているとでも?

……

時間が経つにつれ、私の父への見方はだいぶ変化しました。

小さい頃は常にこう思っていましたよ、この世で一番恐ろしい人は父なのだと。父の意志は絶対的で、誰も父の意見を変えられませんでした。

辺りをうろつこうものなら、父に幽閉される。食事の際に話をしようものなら、父に食事を抜きにされ、一時間も壁に向かって喋らされる……

歳を重ねても、父に対しる畏敬は減るどころか増すばかりでした。小貴族が我らシュトレッロに媚びへつらうも、一見の価値すらないと一蹴した情景を何度見たことか。

たとえかの巫王の特使がシュトレッロの塔を訪れたとしても、地上にいる時みたいに威張ることもなく、声を押さえてしまうほどだった……

それがシュトレッロ家、我らが領主にして、かの選帝侯、かつて最も重要視されてきた一族。

しかしそれら全ては、巫王の失墜によって失ってしまいました。

先に言っておきますが、今の身体状況は極めて劣悪です。

医者として、演奏するためにコンサートへ向かうあなたを阻止しなければなりません。

だが、私を止める様子には見えないが。

……あなたが命を燃やしてまで書き上げた楽曲がこのまま埋もれてほしくないと思ったので。

どうやら君も少しは融通が利くようになったな。

何事にも緩急をつけなければならない時がある、それを理解しただけです。

今でも思わず笑ってしまいますよ、まさか我が父は本心から巫王の統治を擁護するまで愚かになってしまったのかと。

父のあの愚かさには心底仰天してしまいましたよ、己の考えをひた隠すことすら拒むほどでしたからね。

シュトレッロ家はそんな父が率いる中、急速に選帝侯としての支持を失っていきました。

それ故に私たちは二つもの移動都市の領地を失い、この巫王の故郷に近しいウルティカの地へ、目ぼしい場所など微塵も存在しないヴィシェハイムへやってきたのです。

ヴィシェハイムを治めるシュトレッロ伯など場違いにもほどがある、あなたもそう思ってしまうのでは?

そのため、あんたの父は不満を募らせ、巫王の残党と接触したということか。

ハッ、当時の私ならそう考えていましたが、そういうあなたは当時の私ほど考えが甘いわけではないですよね、ベルク殿?

あなた方密偵ならきっと私よりもよくご存じなのでは?老シュトレッロは最初から巫王の残党と接点があったと、違いますか?

そうだ、密偵殿、先ほどの回答がまだでしたね、私の兄はどうやって死んでいったのですか?

あんたの兄なら食中毒で死にしましたよ、これが公式の見解であり、我々の最終的に至った結論でもあります。

食中毒ねぇ、フフッ。

ではこうしましょう、あなた方は私の父をどこまで理解しているのか教えてくれますか、密偵殿?

その代わりとして、私の兄の本当の死因をお教えしましょう。

俺たちの中じゃ“巫王の残党”って言葉はあんまり使われていないんですよ、括りが大きすぎますからね、この言い方。

巫王を蘇らせようとしてるクソ野郎連中の中には、力としてヤツを崇拝する者もいれば、ヤツが在位していた期間に得ていた政治利権諸々に未練を残してる者もいるもんですから、ピンキリですよ。

そんなあんたの父親は、その後者だった。

そしてそんな後者の背後には、とてつもなく巨大な網が張られていたんだ、あんたの父親はそのほんの一部に過ぎなかったのさ。

それとシュトレッロ伯、今は俺があんたを尋問してる番だし、あんたと取引をするつもりはない、そこをお忘れなく。

だからこれだけは教えてやりましょう、我々があんたの兄の死因をぼかしていたのは、調べられなかったからです。

……ほう?

見て、ツェルニーさんとあのお医者さんよ!

ツェルニーさん、大丈夫なんですか?

オホン、問題はありません。

聞きましたよ、今日新曲を演奏してくれるんですって!?

ええ。

会場の席は限られているため、全員一斉に聞かせてあげることは叶いませんがご安心を、今後必ず皆さんのために新曲を披露して差し上げますので。

それはよかったわ!

ゴホッ……

無理しないでくださいね、ツェルニーさん。
ツェルニー宅からアーベントロートザールまでの道はそう長くはないが、今のツェルニーの足取りは非常に遅いものであった。
ハイビスカスもまた、ツェルニーが本番でピアノを弾けるのかどうかすら分からずにいた。
鉱石病は実在する疾病だ、決して意志などで打ち消せるほど漠然とした存在ではない。
だがこの時ばかり、彼女は音楽家の意志を信じようとした。
ハイビスカスには分かる、ここで倒れないために、ツェルニーは全身の力を振り絞っているのだと。
ただ彼女にできることと言えば、力み過ぎて却ってバランスを崩さないように、ツェルニーを支えてあげることだけだった。
これは彼自身との戦いなのだから。

……そうだ。

はい?

思いついたんだ、新曲の題名を。

題名は――

待ってください。

どうした?

私よりも、先にあの二人に知ってもらったほうがいいんじゃないんですか?

フッ、それもそうか。

密偵殿、こちらへ。アーベントロートの大英雄、我らの大音楽家、ツェルニー殿が見えましたよ。

あなたがヴィシェハイムにどれだけ潜伏してきたかは存じませんが、それでもツェルニー殿に対してはそれなりに理解していることでしょう。

こんな一族が治めたこんな都市から、あんな音楽家が傑出してきたことには確かに驚きです。

どうやらツェルニー殿に対して高い評価を有しているようですね。それもそうでしょう、純然たる音楽家が気に入らない者などどこにいましょうか?

こんな私とてずっと彼のことは好いておりましたよ。

ああ、誤解しないでください、好いているというのはそういう意味ではありませんよ。それに、そういう意味であったとしても、私にそんな機会はありませんでしたから。

あなたもきっと、彼とその親友にまつわる話を聞いたことがあるのでは?

ええ、その話にゲルトルートとかいう女が登場していなくて本当によかったと思いましたよ。

フッ、よくもまあ……

まさか知らないのですか?彼の曲と彼の物語をこの国に知らしめたのは、この私であることを?

もし私がいなければ、彼はとうに野垂れ死んでいたことでしょう。

だからあんたは“感染者区域から誕生した感染者の大音楽家”を宣伝文句にして、いつもその名を聞いて駆け込んできた貴族共のために、彼をピエロのように楽曲を演奏させてたと言いたいのか!?

どうやら私が想像するよりも、あなたはこの都市に強い思いを抱いているようですね、密偵殿。

正直、私の本来の計画はそこまで優しいものじゃありませんでした。我らシュトレッロ家を再興させるためなら、一人の音楽家の尊厳など取りに足らない。

ただ――

リターニアの貴族として、音楽は私の幼年期における必修科目でしてね。

いくら私とて、彼の音楽には膝を曲げるほかありませんでした。

聞こえますか?そろそろ会場内で演奏が開始されますよ。

今の演奏と彼の演奏とでは、どう足掻いても雲泥の差のそれなのです。

……

さっきからずっと話題を逸らしてばかりだな。

一体何を企んでいる?

おや、これは失礼、ツェルニー殿の話をするとつい止まらなくなってしまいました。

私の身辺にいる者たちは私が彼のことを嫌っていると、彼の身辺にいる者も彼は私を嫌っているのだと、互いにそう思い込んでる節がありましてね。そういった悲しい誤解があったせいで、私はずっと彼のついて語れる相手がいなかったものでして。

えっと、どこまで話しましたかな……ああそうそう、私の兄の話でしたね。

はぁ、この話題、ツェルニー殿を語った後だと実につまらなくなってしまったものです。

しかし、あなた方が彼の死因を調べ出せなかったのも当然でしょう。だって、兄は私が殺したのですから。

……!?

ふぅ……どうだ?

……これ以上にないぐらい完璧な仕上がりだよ。

この曲はボクたちのために作られた曲だけど、それでも色濃くツェルニーさんの個性が現れているね、『朝と夕暮れ』にも劣らないほどだよ。

それをたった一晩で描き上げてしまうだなんて……本当にすごいお人だ。

創作とは長い積み重ねの中で起こる一瞬の閃きだ、きっと彼はただそのきっかけを得たのかもしれないな。

……

なんだ?

珍しいね、君は人を褒めるなんて。

言っておくが、私は一度も彼の音楽に対する造詣の深さをバカにしたことはないぞ。

ふふ。

そんなことより、はやく会場に間に合ってほしいものだ。

大丈夫、きっと来てくれるさ。

楽曲を書き上げたのはほんの第一歩だよ。書き上げた楽譜からきちんと音を奏でてこそ、曲は完成しないからね。

切前の楽曲を変更する報せも告知しちゃったんだし、きっと諦めずに来てくれるよ。

そうだといいんだが。

そうだ、見てもらいたいんだけど、ボクのこのスーツ、フィットしてるかな?こんな高価な衣装を着たのは初めてだから、合ってるかどうか分かんなくて。

……似合ってるぞ。

そっか。

そうだ、あともう一つ。

今日はやけに口うるさいな……

それって普段から口うるさいってこと?

……少しは。

我慢我慢、今回がボクたちの最後のセッションになるかもしれないんだよ?

そんなまさか。

そのまさかかも。

ことを終えれば、君はウルティカに戻り、そしてボクは、また流浪の旅を続ける。

あの伯爵さんの策略があったおかげとは言うけど、ボクたちの出会いは、最初から単なる偶然だった、違う?

でも――

でも私たちはもう友だちじゃないかって、そう言いたいんでしょ?

……ああ。

でもね、友だちだったとしても、別れがなくなるわけじゃないんだよ。

今回の別れは、すごくすご~く長いものになるかもしれない。

でもさ、ボクの言ってたこと憶えてる?忘れないために、お互いプレゼントを贈り合おうって。

……ならこのサイコロをやろう。

それって君の武器なんでしょ?一つなくなっちゃうことになるけど、それでも使えるの?

どうだろうな、私にも分からない。

じゃあ遠慮するよ。この前言ったように、コイン一枚もらえればそれで十分。穴を開けてペンダントにしたら、素敵だと思うよ。

……貴殿はどうなんだ?私に、何を贈ってくれるんだ?

うーん、まだ考え中。

ならゆっくり考えてくれ、今日のコンサートを成功させれば、まだまだ時間はあるからな。

……そうだね、時間ならまだまだある。

ふざけるな、ゲルトルート・シュトレッロ!

今自分が何を言ったのか分かっているのか!?

兄を殺したのはこの私、と言いましたが。

イカレてやがる。

イカレてる?いえいえ、考えてもみてください、密偵殿。

かつてお高く留まっていた父は、裏で人に見せられないような研究を援助し、その一件が露呈してしまって、二股をかけようとした結果、非業の死を遂げてしまった。

その後、兄はヤツらに持ち上げられて爵位に就くも、恐怖によってヤツらの言いなりになる他なかった。

しかし兄はあまりにも能無しだった、何をやってもダメな上、危うく兄の背後にいる連中を晒し出してしまうほどの大失態を犯してしまった。

最初から兄に不満を抱いている者たちの手によって兄を死なせるぐらいなら、兄を後継ぎのための土台にさせたほうがいいと、あなたはそう思わないのですか?

……その背後にいた連中とは、一体誰だ?

おやおや密偵殿、ご存じないのですか?こっちはあなた以上に知りたいと思っているというのに。

となれば、あなたと取引する余地もまだまだありそうですね。

できることならもう少しはやく外に言いふらしておくべきでしたよ、私は巫王の残党の情報を握っているとね。

検察側の証人、と言うらしいですね。確か最近のクルビアでこういった言葉が流行っているのでは?

俺たちと取引ができると高を括っていた連中なら今までたくさん見てきたさ、シュトレッロ伯。

みんなロクな末路を辿らなかったぞ。

ツェルニーさん、大丈夫なんですか?

問題ないと言えば、ウソになる。

なら、もし本当にダメだったら――

エーベンホルツ、このコンサートを頑なに開催させようとしていた人が誰なのか忘れてしまったのか?

……

そこまで言うのあれば、こっちも遠慮なく言わせてもらおう。

私たち二人ならもうすでに貴殿が書いてくれた曲を完璧なほど仕上げてきた、もし作曲者である貴殿が身体不調を理由に実力を発揮できなかったのなら、それは貴殿個人の責任だ。

フッ、偉く出たものだな。この曲はもうすでに私の脳裏に刻み込まれているんだ、君たちは私の後についてくるだけでいい。

貴殿も中々ものを言うじゃないか。

はいはい、ツェルニーさんも到着されたことだし、はやく舞台に上がろっか。

自分たちのためだろうと、観客のためだろうと、ベストを尽くすよ。

クライデ、やはりなんだか、今日は随分と……興奮してるようだな?

そう?

でもまあ、そうかもね。だってこんなに感じたのは初めてだからさ……

“生きてる価値”ってのを。

……よく分からんヤツだな。

ツェルニーさん、そろそろ出番です。

そうだ、それともう一つ、ツェルニー殿。

この曲名はなんて言うんだ?まだ命名していないだろ。

心配するな、ここに来る途中に思いついた。

曲名は――『光と影』だ。
(拍手)

お待たせしました。ではこれより、ツェルニーとエーベンホルツとクライデによる本日の切前でございます。

皆さんもよくご存じかと思いますが、この曲はツェルニーさんの最新作にして、本日初公演になります。

曲名は――『変ロ長調、フルート、チェロ、ピアノによる三重奏“光と影”』。
三人が観客席に向かって一礼し、観客席に座る観衆たちが熱烈な拍手で彼らを迎えた。
(塵影と余韻のテーマBGMが流れる)
音楽が鳴り響く。
ほんの短い何小節か奏でられただけで、観客席からボックス席に至るまで、先ほどから期待かそれとも懐疑の表情を浮かべていようがいまいが、観衆はみな誰もが背筋を伸ばして静聴し始めた。
そこには囁きもなければ咳払いもなく、ましては衣服が擦れる音すら聞こえてこない。
誰もがこの純然たる素晴らしいひと時を無駄にしたくはなかったのだ。
ツェルニーの額に汗が微かに浮かび上がる。
なにも演奏にミスが起こったからではない。ただ、彼が必要とする先導とコントロールがあまりにも正確性を要するためであったからだ。

ツェルニーたちの演奏が始まりましたね。

ツェルニー殿、やはりあなたは私の期待に応えてくれる。彼ら二人を手助ける方法を見つけてくれたのですね。

ああ、この新曲……観衆たちが理解するはずもないでしょう、この曲のイントロがまさか巫王のそれに由来するものだったとは。

当然観衆が理解することはないですとも、なぜならこの曲は、すでにあなただけの曲なのですから。

……?

ほう、この旋律……なるほど。

メロディエンを二つまとめて引き剥がおつもりですか、なんて勇ましい。

しかし、その後はどうするつもりなんでしょうね?まさか自分をその器にするおつもりで?
ベルクから見れば、今のゲルトルートはまさに気がふれているようであった。
まるで親友に対して語りかけているかのように、彼女はコンサート会場に向かってブツブツト独り言を連ねる。

密偵殿、この際私の演奏も如何です?
そうベルクに話しかけたゲルトルートだが、しかしそれもまるで独り言のように、言葉を呟きながら、部屋の一画に置かれたハープのもとへ近づいて行く。

ご勘弁願おうか、シュトレッロ伯、こっちはもう堪忍袋の緒が切れそうなんだ。

この部屋はわざわざ私が買い取ったものでしてね。

アーベントロートの外にいながらも、はっきりとザールから伝わってくる音楽が聞こえてくるように設計されています、いい部屋に思えませんか?

ここでコンサートを静かに聞くのが、何よりもの楽しみでして。

こうすれば、彼は私に会わなくて済むし、私も彼に会わなくて済む。
そう話す合間に、彼女もハープを奏で始めた。

シュトレッロ伯、この部屋に施されたアーツユニットならすべて取り外されている。

そういうつもりがなかったとしても、俺にアーツを撃つなんてことは考えないことだな。いとも簡単に音楽に感化されちまう人間は密偵なんざ務まらないんでね。

私はただハープを弾きたいだけですよ、密偵殿。

ツェルニーは私を憎んでいた、音楽に邪だった私を、音楽を道具にしていた私を憎んでいた。

私も最初は言い返そうと思っていたんですけれど、後々気付いてしまいました、おそらく私は本当に彼が言うような人間なんじゃないかと。

いくら良心を曝け出したとしても、きっと私は音楽をよく扱おうとは思えないのでしょうね。

ねえ、密偵殿、親殺しが、自分を十何年も操ってきたクズに報復しようとしてる人が、良く扱おうなんてできるはずがないとは思いません?
いくらベルクにその気がなかったとしても、彼は認めざるを得なかった。ゲルトルートの演奏はとても素晴らしい、ましてや窓の外から伝わってくる演奏とも一種の呼応を見せるほどであった。
疑いようもなく、これは優秀であるべきリターニア貴族が持つ実力なのだろう。
だがゲルトルートの口から吐き出された言葉の数々が、却ってベルクを悍ましく思わせてしまった。

待て、報復とはなんだ!?

バカではないのですから、あなたなら分かっているはずでは?昨晩のあんな無謀で、あのゲルトルートが惨めに失敗を犯すはずがないと。

しかしあなたは私が何をひた隠しているのか分かっていない、私にまだ企み事があると思っているからこそ、こうしてここに座って私との話し相手になってくれている。

しかし実際、私はただ時間稼ぎをしたかっただけ。とはいえ、あまりにもずっと喉につっかえてしまっている話もあったものですから、こうして口うるさく聞かれてもいないこともつらつらと吐き出してしまいましてね。

お見苦しいところをお見せしました、どうかご容赦を。

それと、もう一つだけお詫びをさせてください、あなたはここで私と一緒に死んでもらいます。

一体なんの話をしているんだ!?
あれは疑いようもなく目を見張るほどの楽曲であった――少なくともイントロの段階では。
題名の如く、最初は破滅を覚えてしまうほどの感覚に、谷底に沈み込むような、空が暗雲に覆われ、陽が一筋も差し込んでこないほどの陰鬱な感覚に見舞われた。
しかし、すぐに曲調は一転し、重厚なチェロの音色を基盤に、明瞭なフルートがピアノと共に翳りの層を払い、雲を突き抜けた先の陽の光を目にした際の喜びを表現した。
ああ、光だ!
その場にいた全員が心の中でそう思った。
彼らは一瞬にして『光と影』にある“光”を理解したのだ。
それから聴衆たちは“影”のほうに期待を寄せていく。
しかし、聴衆らは徐々に違和感を覚え始めた。
なぜなら、三人の奏者の顔から、苦痛の色が見え始めたからである。
まるで三人の内側をナニかが食い荒らしてるかのような悶えた顔色だ。

ああ、なんて素晴らしい楽曲なのだろう。

優れた音楽家が命を賭して巫王が残した力と対峙する楽曲。

まさにこの敗北が定められていたはずの対峙を引き分けに持ち込み、巫王にも負けず、また己にも負けずに終えられたはずなのに、結局は旧知の執念に敗れてしまうとは。

君、一体なにを話しているのかな?

ハープの音色が聞こえないのかい?

なに?ハープの音色だと?ハープなどどこにいるのだ、フルートとチェロとピアノの三重奏だろう?

フッ、低俗なものだね。

キミたちは遠くにあるあの小さな建物から伝わってくるハープの音色に、もっと耳を澄ませるべきだよ。

絶望の奥底から発せられるけたたましい笑い声も、また心を突き動かされるものだからね。

それとキミだ、私のかつての学生さん……

チェロでの会話を教えてやっていた時から、君の運命の主題曲が耳に伝わってきていたよ……なんて残酷な旋律だったんだろうね。

しかし、それをこうも輝かしい楽章にすげ替えられたとは驚きだ。

キミたちに敬意を表しよう、私のよく知る、そして見知らぬ人たちよ。

さあ、ご静聴あれ。ただ一つ、私がキミたちに捧げられる敬意の表れだ。

メロディエンの計画を再起させたのはこの私だったのですよ、密偵殿。

……あんたが?

まず、メロディエンはあまりにも稀有な存在であったため、あの計画の後、必然的にあなた方の管理下に置かれました。

そして、過去の研究が証明するように、もし実験体に巫王となんら血縁関係がないのであれば、あのような実験を耐えることは到底できません。

そのため、あの計画があなた方によって破綻してしまった後、徹底的に遺棄されることはありませんでしたが、それでも停滞状態に陥ってしまいました。

つまるところ、メロディエンという計画は元より巫王への崇拝を源流に持ちます。しかし恐怖そのものを内心崇拝しようとする者などそう多くはありません。

その者たちはただ双子の女帝を転覆し得る武器を求めていただけだったのです、双子の女帝が巫王を覆したように。

そこで私は、兄の無能さで一族が滅びかねないと気付き、やむを得ず行動に出たというわけです。

だがしかし、それでも私はあの者たちに私の価値を見出してもらえる方法を見つけずじまいでした。

音楽も、アーツも、金銭も、権力も、ましてや私の身体でも……すべて無駄でした。

けどついに、私は父が残した古い書物の山からあの埃を被って久しい計画を見つけたのです。

その計画を再起することで私はようやく息継ぎすることが叶い、あの者たちも私なら何か成し遂げてくれそうだと思い始めるようになってくれました。

とはいえ、私はもうこりごりでした、それをあの者たちは知らずにいる。

もうヤツらのお飾りになるのはゴメンだと。

そのため、私はこの計画を決行したのです。ただ残念ながら、計画の目的はどなたかの統治を覆すことではない。

私はただ、あの者にも苦痛を味わってほしかっただけだったんです。

だから極力あの者たちに媚びへつらって招待状を送りましたよ、私の研究成果をどうぞ楽しんで頂けるようにと。

今からコンサート会場へ行かれたら、きっと見つかるでしょうね。あなたがとっくに疑いを持たれてる対象の面々を。

……下水道にあった人体実験室からメロディエンの計画書まで、全部あんたがわざと俺やエーベンホルツに見つかるように仕掛けたっていうのか?

元々あれは、あなた方密偵のために用意したものだったんです。ただ、ウルティカ伯があなたのもとに現れたのは想定外でしてね。

あんたがわざと現れたのも、コンサート会場に施した本当の仕掛けから彼らの目を逸らすためだったんだな?

ええ、メガホンは単なる目くらましに過ぎません。

しかしメガホンがあれば、アーベントロート全域は災難に見舞われる。

だからメガホンを取り外せば、アーベントロートは救われるでしょう。けど、コンサート会場内にいる人たちまでもが救われるとは限りません。

コンサート会場の改造は私がよりメロディエンの研究を理解した段階に始めたものでしてね。

ツェルニー殿が今やっていることは即ち、自分が創造した楽曲であの二人に宿るメロディエンを引きずり出すこと――

そして私がやることと言えば、それよりもなお単純なことです。メロディエンを引き出そうとした瞬間にも、彼らは知るでしょうね、もはや自分たちの制御は効かなくなっていることに。

メロディエンの旋律と共鳴はすでに私によって攪乱されました。ですので、たとえ誰がメロディエンの器になるための犠牲になろうと、必ず通常時より数百倍は増幅された混沌、及び無秩序と相対しなければなりません。

そして器を見つけられなかったメロディエンは、あの巫王が建てられたコンサート会場を奈落の穴と化し、会場内にいる全員を呑み込んでしまうことでしょう。

無論、先ほどの演奏で私も奏者に部類されてしまいましたから、私ももう逃げられません。

そこで不幸なる密偵殿よ、今のうちにここから脱出しなければ、己の不幸を嘆くことになってしまいますよ?

おや、密偵殿、目つきが恐ろしくなりましたね。ただ、あなたの考えなら分かりますよ。

けど申し訳ありません、先ほど言ったように、私はもうあの曲の奏者になってしまいました。

もしここで私を殺したとしても、舞台にいるあの三人のうちの一人を殺したのと同じように、会場内にいる全員の死期を前倒しにするだけですよ?
今、ツェルニーはなんとしても演奏の手を止めたがっている。
だがそれができない。
彼がメロディエンを牽引し出したその瞬間から、すぐさま微かながら異様を感じ取っていたが、すべて時すでに遅しであった。
このコンサート会場はまるで超巨大なアーツユニットのように、彼らの演奏を吸収し始め、そして反射していく。
共鳴、これこそが真の共鳴なのだ。
そこでツェルニーはすぐさま知覚した、ゲルトルートが施した改造はメガホン如き単純なものではないのだと。
このコンサート会場はもはや、すでに一種の兵器と化してしまっていたのだ。

ゲルトルート、なぜそこまでのことを……

ツェルニーさん、このままじゃ……

手を止めるな!

会場の干渉で、メロディエンはもう乱れてしまった。

今手を止めてしまえば、君たちが命を落とすだけでなく、ここ会場内にいる観衆たちも器を失ったメロディエンの暴走によって殺されてしまうぞ!

(しかし――)
彼らは分かっていたのだ、この楽曲はエーベンホルツのメロディエンを始めとし、クライデのメロディエンを終わりとしている。
彼らがここで手を止めなかった場合も、曲が終了すれば、クライデのメロディエンが完全に引き出されてしまい、取り返しのつかない事態は依然と発生してしまう。
詰みだった。

この不安を煽るような、そしてアーツを抑え込まれているような感覚は、一体……

そこのあなた!

あなたはロドスの……

はやく会場にいる人たちを避難させてください!

はい?

緊急事態なんです!

はやくしないと、大惨事になってしまいますよ!

あれがゲルトルートの研究成果とやらか、実に面白い。

如何でしょうか?

たかだが一地方の伯爵からしてみれば、大したものだろうな。

後で私のところに来るように伝えておけ。

はっ。

なぜ彼らが今日コンサートを使用すると確信していた?

密偵殿、一つ誤解をされているようですね。

私は何も確信など得ていませんよ、これから起こる何もかもに対して。

ただ唯一確信できることと言えば――彼らがまだあの会場内でクライデを救おうとしいるのなら、私の勝ちです。

クライデの容態は私の最後の切り札だったんです、もしそれすらも彼らに片付けられてしまえば、私のこの計画も失敗に終わっていたでしょう。

単純なことですよ。

なっ……そんなバカ……そんなの確証も得ていないだなんて……そんなの計画とは呼べないだろ!

そうだとも!最初から私の計画は失敗していたのだ!

私がここに座って君とのお喋りを楽しんでいたのは、私にまだ勝算があったからとでも思っていたのか?そんなわけがないだろ!

もしツェルニー殿が私に従ってくれなかったら、もしあんなウルティカ伯風情まで己の矮小な運命なんぞに抗おうとしなければ、私もこんな賭けみたいなやり方を取らずに済んだ!

きっとツェルニー殿は永遠に理解しないだろうな、自分がいかに幸せ者か。充分他者から認められるだけの才能を持ち、私から提供された舞台を得ていることを。

彼がもう少し私に引き下がっていれば、彼をもっと音楽の高みへ、さらには女帝陛下の御前まで連れて行けたはずだったのに。

そんな彼は、それを拒否したのだ!

それにウルティカ伯もだ、ヤツはまるで自分は花瓶のようにウルティカに飾られ、少しばかりの嘲りと侮蔑を受けたら、それを極めての恥辱だとほざく。

なら私はどうなのだ、この都市で十五年もあの連中の操り人形にされてきた私はどうなのだ!

私は成果を出さなければ殺される運命にあるというのに、なぜヤツらだけのうのうと生きていられる?なぜ私は死ななければならないのだ?

巫王も双子の女帝もどうだっていい、私はただ生きていきたいだけだ!

私はただ、最初から生きていきたいだけだったのに……

……
ヴィシェハイムに来て、エーベンホルツにはやりたいことが増えた。
アーベントロートを散策し、この活気に満ち溢れた街並みを目に収めること。
もっとほかの楽器にも触れ、本当の音楽の魅力を体験すること。
ツェルニーに謝り、彼の音楽が自分にどれだけの力を与えてくれたかを、本人に伝えること。もしツェルニーさえよければだが、彼を自分の本当の師としておきたかったこと。
クライデともっと一緒に過ごしたかったこと。
もっと長く一緒にいた場合、何をすればいいか彼には分からなかったが、会話にしろ口喧嘩にしろ、ましてや手を出すほどの喧嘩に発展してでも、ただ彼ともう少しだけ一緒にいればそれで十分だった。
だがもし自分がこの都市に来たらず、ゲルトルートの招待を受けなければ、きっとこんなことは起こりえなかっただろう。
自分の軽率さゆえに、ここまで事態を発展させてしまったのだ。

……
どうすればこの詰みの局面を打破できるか、エーベンホルツには分かっていたし、今はそれを実行しようとも考えている。
事実、ツェルニーが彼の方法を閃かなかった場合、エーベンホルツはゲルトルートの計画を実行しようとさえしていたのだ。
もし、過去の彼がそうしようとしていたのは、心にある罪悪感を軽減させるためだとしたら……
今の彼ならきっと、これは贖罪のためではないと、そう言うはずだ。
エーベンホルツはツェルニーとクライデを一瞥する。
傑出した大音楽家、そして新しくできた親友。
彼らのほうが自分よりも生きる価値があると、そう思った。
だが彼は気付いていなかったのだ、彼が音楽に対して心の扉を開ききった時、もはや自分の感情を隠し通せずにいることを。

エーベンホルツ、馬鹿な真似はよせ!

ハッ、ウルティカ伯よウルティカ伯、君こそがこの曲の起点だ。

いくら曲を無理やり逆走させ、自分の脳内に収めようとしたところで、そのうちにある矛盾と反発はどう処理するつもりだ?

それをするぐらいなら、さっさと野垂れ死ぬがいいさ!

どいつもこいつも、己が運命から逃げ出そうとしている――どう逃げる?なぜ逃げる?

私はあの連中たちの陰に隠れながら十五年は生きてきた。その最後、最後の最後に、勝ったのはこの私のほうさ!

勝ったのは私だ!運命が私に微笑んでくれたのだ!

誰も逃げられるとは思わないことだな、誰だろうとッ!

フッ、なんとも醜い有り様だ、奏者自らが演奏する音楽に抗おうとしているとは。

これもゲルトルートの段取りの内なのか?

恐れながら――それについてはこちらも把握しておらず……

観客の皆様にお知らせ致します、コンサートの演出に少々問題が発生してしましたので、しばしの間会場からのご退出をお願い申し上げます。

どうか急いで退場頂きますようお願い致します!

先ほどから司会を務めている者が聴衆たちに避難を促しております、如何いたし――

黙らせろ。

はっ。
(アーツ音)

むぐッ……
(礼儀正しい感染者が倒れる)

そこのあなた、何をしたんですか!?

感染者の平民に少々口を黙らせただけだ。

今の状況が分からないのですか?

貴様も黙らなければ、こいつと同じ目に遭うことなら分かっているぞ。

やめるんだ、エーベンホルツ!

(貴殿らのために少しでも時間を稼げるのであれば……)

……
もしクライデに過去から逃れたいかと尋ねれば……
彼の答えはきっと――“Ja”だ。
自分の身体は非常に特殊だと、お爺さんから教えられたことがある。彼も徐々にそれを分かってきていた。
自分の傍にいればみんなを傷つけてしまう、善意によって近づくもいつしか人々は自分から距離を取るようになった――そのため、今では自分から距離を取るようにした。
けど彼はこんな生活を嫌ってはいなかった。
彼が長い流浪の暮らしで初めて学んだことは即ち、運命を呪っても暮らしがよくなるわけではない。
今やれることから自分の生きる意味を見出すしかないのだ。

……
そして今、ようやくそれを実行する時が来たと、クライデは考える。
誰々のほうがより生きる価値があるなんてことはない。ただ、クライデはすでに友人と友情を手に入れた、これ以上のことはもう求めないさ。
今日は暖かないい日だ、死ぬにはとってもいい日和だ。

ん?

――!?

チェロ……クライデ、ヤツもエーベンホルツと同じことをする気か!?

クライデ、君まで……

ツェルニーさんが命を燃やしてまで書き上げてくれた曲なんだ、このまま台無しになんかできませんよ。

それに、この曲の終わりはボクですもんね?じゃあ、こういうことはボクが適任じゃないですか、違います?

自分が何をしようとしているのか分かっているのか!?

……!

エーベン、手を止めないで。あと、ボクのリズムについてきてね。

(でもそれだと貴殿が――)

最後のセッションを無事に終わらせよう、ね?

(でもッ!)

信じて、エーベン、ツェルニーさん、ボクがなんとかするから。

クライデ……

(ああ、貴殿を信じよう。)

曲が……戻った?

いや違う!あれはクライデさんが……
(ハイビスカスが走り去る)

旦那様、あの女の感染者、なにやら只者ではないようです、如何致しますか……

構わん、所詮はただの平民だろ、今は音楽鑑賞に集中したまえ。

見ろ、また曲が元に戻ったぞ。

どうやら先ほどのは、細やかなサプライズみたいだったな。

ゲルトルートはきっとメロディエンを制御する難しさを示して、己には高い利用価値があると我々に見せかけているのでしょう。

フッ、なら彼女も中々のやり手だな、ますます気に入ったぞ。

我々にこうも趣のある技術を示してくれただけでなく、これほど雅な楽曲を聞かせてくれているのだからな。
交差する光と影は、フルートとチェロとピアノの三重奏の中から仔細な体現していく。
そしてついに、チェロとピアノの合奏と共に、曲もいよいよフィナーレへと近づいていった。
聞こえてくるのはきっと寒夜の喋々喃々、暗闇の抱擁と、深淵の呼吸だと、聴衆たちは思ったことだろう。
だが彼らに聞こえてきたのは虚無の中から伝わってきた、長い長い感嘆であった。
やや暫くして、観客席からようやく徐々に拍手が鳴り始め、やがて大きなっていく。
然して、会場全体が拍手に席巻される前に、悍ましい叫び声によって打ち切られてしまったのだ。
(拍手)

終わった……やったぞ!クライデ、成し遂げたぞ!

いや、まだ、やらなきゃならないことが……

クライデ、どうした――なんだその身体は!?

エーベン、外に出よう。

ツェルニーさん、ハイビスカスさんと一緒に観客たちを避難させてもらえますか?できるだけ遠くへ避難させてやってください。

クライデ――

クライデさん、身体が……

ごめんなさい、ツェルニーさん、ハイビスカスさん。

色々もっと話したいことがあるんですけど、今じゃないみたいですね。

さあ、行こう、エーベン。ボクがまだ自分を押さえつけられてるうちに。

ボクの頭の中にある旋律が……どんどんうるさくなってくる……

二つの旋律が……のこぎりのように、ボクの頭の中で……

はやく、エーベン、ボクを外に……

コンサート会場が二つの旋律を同時に増幅させているんだ……もう、持ちこたえられそうにない……

分かった!

エーベンホルツ……

クライデのことは私に任せてくれ。

でも――

任せろと言ったんだ!

ハイビスカス、はやくツェルニー殿と一緒にみんなを避難させてやれ!
舞台上で起こった異変に気付き、会場内の人々がそそくさに逃げ出す。
慌て叫ぶ声は抑揚と、しかしその中にはハイビスカスとツェルニーの声も混ざっていた。だが今のエーベンホルツにとって、これらはすべてただの騒音に過ぎない、今彼の脳裏にあるのはコンサート会場の外にある広場だけだ。

最初からこうするつもりだったのか?

まさか……

ただ、予感がしてたんだ。

予感だと!?だから今日の貴殿はやけに興奮していたのか!?

ううん、違うよ……興奮してたのは、君とツェルニーさんとで、一緒に演奏できるから、と思っただけだよ。

あんなに楽しかったのは、人生で初めてだったなぁ。

ならこんな馬鹿げたことをするな!

楽しいことなら、この先もっと――

でも、もしボクがしなかったら……君やツェルニーさんがそうしてたでしょ?

だからって貴殿がやる必要はないだろ!?

私はもう十分贅沢な暮らしをしてきた、だから今度は貴殿の番だ!貴殿はまったく一度もそんな暮らしを味わったことがないだろ!

ごめんね、エーベン。

謝るな……お前が謝るな!

今のボクは……きっと醜いんだろうなぁ……

君が買ってくれたお洋服も、きっと破けちゃったかな……あんな高い値段をした服だったのに……

もういい!そんなに好きなんだったら、いくらでも買ってやる!

ごめんね――

この……

この……嘘つきが……

こっちは今怒り心頭だぞ、クライデ……

本当だぞ!
あまりにも弱まってしまったせいで、クライデは頭を上げることすらできなかったが、ただエーベンホルツがすすり泣く声だけは聞こえていた。

なんだなんだ?何が起こったんだ?

さあね……でもツェルニーさんまでコンサートは中止だって言うし、ハイビスカスちゃんもなんだから急いで避難しろって言うしで……

でもまあ、平気よね、きっと大丈夫よ。

けど空が急に曇り出したぞ、まさか本当になんか不吉なことでも起こるんじゃ……

ほら、あれ予言があるじゃないか、合奏がなんとかって……

平気よ平気。だってあの予言、ハイビスカスちゃんを悪魔だって言ってたのよ?

おい、雨まで降り始めたぞ?

ただの雨でしょ、なにもないってば。

……着いたぞ。

……

少しはよくなったか?

ううん……

今もまだ……無理やりあの感覚を抑えてて……

私にできることがあれば、なんでも言うんだぞ――

じゃあ……ちょっと聞いてもいいかな。

なんだ?いくらでも答えるぞ!

エーベン、君は、自分の運命は悲惨なものだって思ってる?

私の運命が――悲惨?

ああ、かつてはそう思っていたさ。

だが貴殿と出会ってから、過去の私は駄々をこねていただけなんだと気付かされたよ。

君は何も悪くないよ。

彼らは君から自由を奪い、君の目を遮り、そして君の耳までをも塞いだんだ……だから君は何も悪くなんかないよ。

じゃあ、ボクの運命は悲惨なものだって思う?

初めて貴殿の暮らしぶりを見た時、確かに私は驚きはした。

だが少しずつ気が付いたんだ、貴殿の暮らしも悪くはない、むしろ……充実していると。

そっか……それはよかった。

うッ、がはッ……

クライデ……

もう……持ちこたえられそうにない、かな……でも、最後まで聞いてほしいんだ、エーベン。

メロディエンが連なった楽曲が今ボクの脳内でのたうち回ってる、巫王の残していった力がボクの体内で吼え、無惨な思念がボクの胸の中で暴れまわり、運命へひれ伏すようにボクに迫っている。

ボクたちの遭遇は苦痛そのものだと、再会は不幸なものだと、運命は悲惨なものなのだと、ボクに言わせようとしているんだ。

でもッ!

でもね、エーベン!

ボクは、抗うよ!

君なら分かるよね、エーベン?

確かに、メロディエンはボクたちに数えきれない苦しみをもたらしてきた、それは認める。

侮蔑と軽蔑を受け続けてきた伯爵の人生が不幸なものだってことも。

我が身が明日にどうなることすらも分からない流浪の暮らしが悲惨なものだってことも。

でもこれだけは……これだけは絶対に認めない……そんなことで、ボクの人生は定義しきれないって!

お爺ちゃんはこんなボクを連れて十何年もの流浪の旅を続けてきてくれた。この十数年、確かにボクの暮らしは貧しかったし、お爺ちゃん以外の誰ひとりとて仲良くできなかった。

でも、こっちが善意を示せば、向こうだって善意を返してくれるんだ。形として見えなくとも、ボクなら感じるよ。

それにボクは、ボクにチェロを教えてくれる先生と出会えたんだ。

そして何より――あれから十数年後、ボクはまた君と出会えた。

忘れないで、エーベン。ボクたちは、あの非人道的な実験の生存者、あれから生き残ったんだよ。

ボクたちが自分の運命を呪いそうになった時は、それを思い出して!

ボクらは再び出会い、再び友だちになり、そしてあの舞台で完璧な演奏をやり遂げたんだって!

そんなボクたちは、はたして不幸だなんて言えるのかな?

違うよね、もう十分幸せだよ……ボクよりも幸せな人なんていると思う?いないよ、後にも先にも!

……ああ、分かった……分かったよ、そうだよな……

ううん、君はまだ分かっちゃいない!
クライデの声に唸り声が帯びてきた、バケモノの如き唸り声が。
だがそれでも、相変わらずあの優しい声だったのだと、エーベンホルツにはそう聞こえていた。まるで遠出する兄が弟に言い聞かせているかのように。

本当に理解しているんだったら、そんな悲しい顔をしないでよ、エーベン……ボクの最愛の兄弟のエーベン。

ボクたちは元々ここで一緒に死ぬ運命だった、コンサート会場にいる全員を巻き込んで。

でも、ボクたちは抗った!

ほかの人からしたら、ボクたちの抗いは取るに足らないほんの僅かなものだったのかもしれない。でもボクたちからすれば、相手のためにすべてを差し出しても構わないと思えるぐらいの抗いだった。

相手のことを思い、そしてそうした、それだけでもう十分だ!

ほかの何者にでもない、お互いのためにすべてを捧げようと思えたんだ、これ以上のことなんてないよ!

ボクたちは運命に抗う道を歩み出したんだ、ツェルニーさんがボクたちのためにあの曲を書き記してくれたように――

だからね、エーベン……胸を張って。

君にはまだ最後にやるべきことがあるでしょ?ボクを――

君の全てを用いて、ボクを打ち勝つことだ。ここにある全てをボクに滅ばされないようにするんだよ、わかった?

……わかった。

ああ……いい目つきになったね。
クライデはふらふらと広場の中央へ向かっていく。
だが一歩進むごとに、源石結晶は彼の体内を突き破り、血肉をあらわにしていく。
奇妙な旋律もまた、広場を覆っていった。
たちまち結晶がクライデの全身を覆い尽くし、鎧、そして楽器へと変貌していく。
それを境に、クライデと呼ばれる者はこの世から消え去った。その代わりとして現れたのは、一匹のバケモノのみ。
そのバケモノは、誰の目から見てもあの二文字を思い起こすほどの存在であった――
巫王。

これより、いよいよフィナーレに差し掛かる。紳士淑女諸君、及び敬愛する感染者の諸君よ。

そして、エーベンホルツよ!

聞け、ボクの最後の楽曲を!

ボクのために消沈し、ボクのために悲嘆し、ボクのために哀号し、そしてボクのために哀歌を歌うがよい。

何故ならば今日、ボクは死に、そして君は――

生まれ変わるからだ!